結婚なんてしなきゃよかったな
掃除機の音がうるさくて、寝そべっていた体を起こし、リモコンに手を伸ばしてテレビの音量を上げた。最近ひいきしている天然キャラの女性タレントがワイドショーのコメンテーターとして出演している。最初はこんな天然キャラがまともなコメントなんて出来るのかと思っていたが、意外と的を得た忖度のないコメントをするので、にわかファンが増えているようだ。
「あなた、ゴロゴロしてないで手伝ってよ」
妻の美和子は掃除機を止めてから、女性タレントの映るテレビ画面の前で仁王立ちした。
女性タレントの顔が見えない。
「あ、ああ、今ちょっといいとこだから」
私は美和子の後ろに映るテレビ画面を顔をずらして覗きながら言うと、美和子は舌打ちして掃除機をオンにした。気のせいか、掃除機から出る音がさっきより大きくなった気がした。
結局、女性タレントのコメントは聞こえなかった。
今度は「チェッ」とこっちが舌打ちをした。
その舌打ちが美和子に聞こえたのか、掃除機をかけながらきつい視線を私に向けてきた。
娘の彩加は朝から出かけて家にいない。今日は帰るのも遅くなるらしいと美和子が言っていた。
休日に彩加が家にいても私と会話することも少なくなったが、私と美和子の険悪な雰囲気のクッション役にはなってくれることがある。今日はいてほしかったなと思った。
「フゥー」と息を吐いて、トイレに逃げ込んだ。
トイレを汚さないよう神経を集中させ小便をした。自宅にいるのが一番息苦しく感じるようになったのはいつ頃からだろうか。
結婚なんてしなきゃよかったな。
そう思うことが増えてきた。かと言って離婚する気はない。
小便をしながら、今から出かけようと決めた。私と美和子のお互いの精神を安定させるためには、それが一番いい。
トイレから出て、財布とタバコ、スマホをカバンに放り込んで玄関へと向かった。
「今から出かけてくる」
美和子の顔も見ずに宙に向かって言った。
「どこ行くのよ」
背中に美和子の声が突き刺さったが、それを無視して、靴箱から靴を出した。
美和子もそれ以上何も言わなかった。「フン」と鼻を鳴らす音がした。小さな音だったが私の耳朶にべったりと残った。それを振り払い玄関を出た。
八月も後半になったが、青い空に入道雲が浮かび日差しはそこそこ強い。盆休みももう終わりだ。
家は出たものの、これからどうするか歩きながら考えた。久しぶりにパチンコにでも行こうかと思い、立ち止まり財布の中を覗いた。軍資金が乏しすぎるな。下手したら三十分でスッカラカンになる。もしそうなっても、美和子から追加の小遣いを要求する勇気などない。パチンコは諦めよう。自分が働いて稼いだ金なのに自由につかえないのかと思うと情けなくなる。
結婚なんてしなきゃよかったな。
またそう思った。
額の汗を手でぬぐいながら、適当に歩いていると駅に到着した。行く当てもないが電車に乗ることにした。定期の使える区間なら金はかからない。車内はエアコンも効いているだろうし、普通電車なら今日のこの時間ならガラガラで座れるだろう。
ホームに立つとタイミングよく普通電車が入ってきた。車内を覗くと思った通りガラガラだ。
車内に乗り込むと、乗客は車両に十名程度だ。入ってすぐ左の四人掛けの座席を一人占めして座った。冷えた空気のおかげで汗がスーッと引いていく。誰にも邪魔されないし極楽だ。体をシートに預けて目を閉じると、意識が遠くなっていくのが心地よかった。
「あんた、辛そうじゃな」
しゃがれた声が聞こえた。その声で目を覚ました。私の目の前にはしわくちゃの白い顔があった。
ビックリして、「ウワッ」と声を上げ体を反らした。
何者かと恐る恐る見ると、どこにでもいそうな老人だった。頭は頭髪が無くピカピカに光っている。顎には白くなった無精髭が目立つ。しわくちゃの顔は笑っていた。その笑う顔は少し不気味だった。
車内を見渡すと、この車両に乗り込んだ時にいた乗客の姿はなかった。今この車両にはこの老人と私だけになっていた。他の座席が空いているのに、なぜわざわざここに座るのかと思った。
いつの間に他の乗客はいなくなってしまったのだろうか。私が寝ている間に一体どれだけ遠くの駅まで来てしまったのだろうか。
「なに、不安そうな顔をしとるんじゃ」
老人はなおも話しかけてくる。面倒臭そうだから次の駅で降りることにしよう。それまでは老人を無視しておくことにしたが、少し気にはなった。
この老人はなぜ、私が辛そうだと思ったのだろうか。苦しそうな顔をして眠っていたのだろうか。変な寝言でも言ったのだろうか。訊いてみたい気もするが、取り敢えず愛想笑いだけ浮かべて下を向いて過ごすことにした。
「生きておればいろんなことがあるもんじゃよ」
老人はそう言って、席を私の横に移動してきた。私は老人を避けるようにして体を窓側にピタリと寄せて視線は窓の外に向けた。見覚えのない景色が流れていた。一体どこなんだ。どれくらい長い時間眠ってしまったのだろう。
「そんなに怖がらなくてもいい。わしはあんたの味方なんじゃから。あんたを助けてやろうと思ってるんじゃ」
老人は私の耳元に顔を近づけてそう囁いた。気持ち悪くて悪寒が走った。
「助けてもらわなくて大丈夫です。別に辛いことなんてありませんから」
私は体を硬直させ窓の外に顔を向けたまま言った。
「嘘を言うな。奥さんとうまくいってないんじゃろ。結婚なんてしなきゃよかったと思ってるんじゃろ」
老人はまた耳元で囁いた。
なぜ、わかっているのかと、老人の方に顔を向けた。老人はニヤニヤしながら、「図星じゃな」と言って私の膝に手を載せた。
私は慌てて老人の手を払った。
「やめて下さい」
「怖がらなくていいと言ってるじゃろ。わしはあんたを助けにきたんじゃから」
「助けてもらわなくても大丈夫です。そんなに困っていませんから」
「嘘をつけ」
「嘘じゃありません」
「あんた、今日が何の日か覚えてるかい?」
老人が急にわけのわからないことを訊いてきた。何の日と言われて思い浮かんだのは、京都の五山送り火ということくらいだった。
「今日は京都の五山送り火ですね」
私が答えると、老人は「やっぱり忘れとるんじゃな」と言って私の目をじっと見た。
掃除を終わらせてから「ハァー」とため息を吐い。
「あーあ、出ていっちゃった。なんでいつもこうなっちゃうんだろ」と玄関の方を見て呟いた。
テーブルの上でスマホが鳴りだした。画面を見ると娘の彩加からだった。いい報告が出来ないなと思いながら通話ボタンを押した。
「もしもし」
「お母さん、お父さんとのデート決まった?」
彩加が耳に突き刺ささるくらいの高い声で楽しそうに訊いてきた。
一ヶ月くらい前に今日がお父さんとお母さんの記念日だという話を彩加にしたら、じゃあ、その日は夫婦水入らずで思い出の場所で食事でもしてきたらと言って一万円をカンパしてくれた。
最近私たち夫婦がギクシャクしていることを娘として気にしているようだった。彩加自身、そろそろ結婚を考えているからそういうことに敏感になっているのだろう。今日の記念日を仲直りのきっかけにしてほしいと思ったようだ。
彩加の言うように、わたしも今日の記念日をきっかけに昔のように主人と仲良くなりたいと思っていた。
しかし、なぜか、主人の顔を見るとつんけんしてしまい、うまく誘えなかった。つい苛立って口調がきつくなってしまう。
「お父さん、一人でどこかに出掛けちゃったわ」
わたしは気落ちしていることを彩加に悟られないように明るい口調で言った。
「うっそー。お母さん、お父さん誘わなかったの」
「そのつもりだったんだけどね。誘う前に揉めちゃってね。それで言い出せなかったわ」
「そうなんだ。せっかくの記念日なのに」
彩加がわたしを非難しているように聞こえた。
「ごめんなさいね。せっかく彩加が提案してくれてカンパまでしてくれたのに」
「なんでよ。なんで誘わなかったのよ」
「なんか照れ臭くて、最後はいつも通り喧嘩みたいになっちゃったわ」
「今のお父さんとお母さん見てると、あたし結婚やめようかなと思っちゃうよ」
「それはダメよ。悟さんはお父さんと違って家庭を大切にしてくれるから大丈夫よ」
「どうかな。お母さんだって二十五年前は、そう思ってお父さんと結婚したんでしょ」
「まあ、そうだけど」
「二十五年前みたいにアツアツに戻ってよ。そしたらあたしも結婚したくなるからさ。お母さんから二十五年前の今日の話聞いた時、あたしすごく嬉しかったんだからね。だから、今日二人で思い出の場所でデートしてほしいから一万円カンパしたんだからね」
「わかってるけど、結局その一万円、あなたに返すことになっちゃうかもね」
「なに、弱気なこと言ってるの。今日がダメでも、明日でも明後日でもいいじゃない」
「うん、でも、やっぱり今日がいいわ。今日が記念日だから」
「じゃあ、今からお父さんに電話してみたら」
「わかった。この後、電話してみるわ。じゃあね」
まだ何か言いたそうな彩加だったが、わたしはそのまま通話を終わらせた。
彩加との電話を終えて、彩加の言う通り主人に電話しようと思ったが、なかなか勇気が出せなかった。
「やっぱり、もういいかな」
そう思った時、またスマホが鳴り出した。彩加ぎまだ何か言いたかったのかもと、スマホを見たら、主人からだった。
わたしは、彩加の忠告通り、ここで誘わなければと深く息を吸ってからスマホの通話ボタンを押した。
「忘れてる、ですか?」
私は老人に向かって言った。
「そう、忘れとるんじゃ。あんたたち夫婦はそれだけ気持ちが冷めてしまっているということじゃな」
「そうですかね」
「あんた、結婚したことを後悔してるんじゃろ」
「うーん、まあそうですかね」
確かに今は結婚なんてしなきゃよかったと思ってはいるが、他人にとやかく言われたくはなかった。
「今からあんたに結婚したことを取り止めにする方法を教えてやろうと思う。そうすれば、あんたは幸せになれるじゃろ」
老人は私の肩に手を回し顔を近づけてきた。
「そんなこと出来るわけないですよ」
「それが、わしになら出来るんじゃ。もし、今、あんたが独身に戻れたら毎日が自由じゃ。好きなテレビは心置きなく観ることができるし、自分の稼いだ金は全て自分のものじゃ。自由で遊び放題じゃぞ。あんたはそんな生活がしたいんじゃろ」
「ええ、まあ、そうですね」
老人の言うことに頷いた。確かに最近は独身なら自由なのになと、そんなことばかりを考えていた。
「じゃあ、結婚をなかったことにしてやろう」
老人がわけのわからないことを言ってきた。あまり相手にしない方がよさそうだ。
「そんなことできるわけないですよ。疲れてるので、少し眠りたいんです。あまり話しかけないでもらえますか」
「あんたが独身になって、自由な生活を送る方法をわしは知っとるぞ」
「そんなこと絶対にできません。ほんと静かにしてください」
私は苛立ってきた。
「あんたは今からわしのある力で二十五年前に戻るんじゃ。タイムスリップするんじゃ。そして、あんた自身が二十五年前の今日の出来事を変えてしまうんじゃ」
「はあ?」
私は老人の顔をじっと見た。冗談を言ってるのか、バカにしているのかと思ったが、老人の目は真剣だった。
「あんた、二十五年前の今日が何の日か覚えてないのかい」
老人に訊かれたがわからない。結婚記念日でもなければ、美和子の誕生日でもない。もちろん私の誕生日でもない。
「いやー、覚えていません」
首を傾げるしかなかった。
「二十五年前の今日を変えれば、あんたの人生は変わるんじゃ。五山送り火で思い出すことはないのか」
「五山送り火で思い出すことですか?」
二十五年前の私は二十五歳だ。まだ独身だったが美和子と付き合ってはいた。
「二十五年前、あんたは五山送り火を見ながら何をした?」
そこで思い出した。そうだ、二十五年前の今日、私は京都まで行ってレストランで食事をした後、五山送り火を見ながら美和子にプロポーズをしたのだった。
『これから先、一生、君と五山送り火を見て過ごしたい』
確か、美和子に向かってそんなことを言ったはずだ。
その時、美和子は涙を流しながら『嬉しい』とだけ言って、私の胸に顔をうずめた。
「思い出しました。二十五年前の今日、私は今の妻美和子にプロポーズしたんです」
老人に体を向けた。
「そういうことじゃ」
老人はニヤリと笑った。
なぜ、この老人がそんな私の過去を知っているのだろうと不思議に思い老人の顔を見つめた。
「それで、どうするんですか?」
「簡単じゃ。これからわしがあんたを二十五年前に送ってやる。二十五年前の今日ではなく昨日に、だ」
「私を二十五年前の昨日に送るんですか?」
いまいちピンと来なかった。
「あんたは今からタイムスリップして二十五年前の昨日に行く。そして二十五歳のあんたに明日のプロポーズをやめるように言うんじゃ。今のあんたがバカな女の美和子と結婚したおかげで、どれだけ辛い思いをしているかわからせてやればいい。そうしたら二十五歳のあんたも熱が冷めて美和子がどれほどバカな女なのかに気付いて、プロポーズを取り止めるはずじゃ」
老人には一応「なるほど」とは言ったものの、美和子のことをバカな女と言ったのは気にくわない。つい老人を睨みつけた。それにタイムスリップなんて本当にできるのかも疑問だ。この老人は頭がいかれてるのではないかと思った。
老人は私の態度を気にする様子もなく、私の頭に手を置いた。
「さあ、行ってこい。プロポーズをやめさせてこい。これであんたの人生は幸せなものに変わる」
老人はそう言って、私の頭を力いっぱいギュッとおさえつけた。
「ちょっと、待ってくだ……」
私は老人に言いかけたが、それは届かなかった。
一瞬目の前が真っ白になった。それからすぐに真っ白だった視界に少しずつ色がついていった。
「俺はお前を一生幸せにする」
視界が開けていくのと同時にそんな声が聞こえてきた。
ボンヤリしていた視界が完全に開けて、見えてきたのは見覚えのあるものばかりだった。実家にあった古いテレビと冷蔵庫、金もないのに無理して買ったラジカセ、部屋を片付けるために美和子といっしょにホームセンターで買った三段のボックスや小さな食器棚。ここは二十五年前に私が住んでいたワンルームマンションに違いない。
そして、私に背中を向けて立っている若者がいた。若者はベランダに向かって何やら呟いていた。
「俺は、お前のことを愛している。いやー、違うな。美和子、この五山送り火を一生君と見続けたい。こんな感じの方がいいかなー」
私に気付く様子もなく一人窓から空を見上げながら呟いていた。そうだ思い出した。二十五年前、私は明日のプロポーズのセリフを必死で練習をしていたのだ。これが不幸の始まりだとは、この時は思わなかった。
これから、こいつに明日のプロポーズが不幸の始まりになることを教えてやらなければならない。
「おい」
こっちに背を向けてベランダに向かって立っている能天気な二十五歳の私に声をかけた。
若い私は体をビクッと反応させて振り向いた。私と目があってしばらく私の顔を見つめたまま動かなかった。ビックリして体がかたまってしまったようだ。
しばらくして、若い私は「ウワッ」と声を上げた。そして逃げるようにベランダに飛び出て行った。
急に『おい』なんて声をかけられると確かに驚くな。優しく声をかけてやるべきだったなと反省した。
「驚かせて申し訳ないです。怪しいものではありません」
ベランダに飛び出した若い自分に向かって丁寧な言葉を心掛け笑みを見せた。
「な、何が怪しいものではないだ。ひ、ひとの部屋に勝手に入ってきて、あ、怪しくないわけ、な、ないだろ」
若い私はだいぶ驚いて興奮しているようだった。瞬きが激しくなり足が震えている。もともと私は気の弱い男だ。急に自分の部屋に知らない人間が現れたら慌ててもやむを得ない。なんとか、私のことをわかってもらうしかない。
「私だよ、私。よーく私の顔を見てくれ。そしたら私が誰だかわかるから」
そう言って私は若い自分自身に一歩近づいた。
「近づくな。それ以上近づくと」
若い私はそう言いながら後退りしベランダにあった物干し竿を手にした。ゴクリと彼の唾をのむ音がした。
そして物干し竿の先を私に向けて「ケガするぞ」と続けた。
物干し竿の先を私の目の前にに向いてきた。その先はブルブルと震えてるのがわかった。これ以上こいつを興奮させると、何をされるかわからない。
若い頃の自分に物干し竿で殴り殺されたなんてことになればたまったもんじゃない。加害者と被害者が同一人物ということになるわけだ。
「君に危害を加えるつもりはない。落ち着いてくれ。そして私の顔をしっかりと見てくれ。この顔に見覚えはないか」
私は両手を上げて後退りしながら笑みを浮かべた。
少し落ち着いたのか、彼はベランダから部屋に入ってきて、私の顔を覗きこんだ。
「お前みたいなハゲ親父に見覚えはない」
ハゲ親父と言われたことに幾分ショックを受けた。
「私が誰かわからないのか?」
「お前なんて知らない。一体誰なんだ」
「信じてもらえないかもしれないが、私は君自身だ。二十五年後の五十歳になった君なんだよ」
「おっさん、なに訳のわからないことを言ってるんだ」
「信じてくれ。私の顔を見れば君自身だとわかるだろ」
「俺はお前みたいに頭は禿げてないし、シミとシワだらけの顔じゃない」
今の言葉に歳をとるというのは辛いことだなと思った。
「二十五年も経つと、こうなっちまうんだよ」
情けない声を出した。
「ハハハ」
若い私が笑った。少し余裕が出たようだ。
「ハハハ、歳をとるって辛いよな」
私も笑ってみせた。
「本当なのか?」
彼は厳しい表情に戻り、物干し竿の先を一段と私の顔に近づけてきた。
「本当だ」
「証拠は?」
「私の誕生日は五月二十六日だ」
「それくらい前もって調べること出来るだろ」
「初恋は小学校三年の時のクラスメートの稲本順子だ」
「確かにそうだ」
「へその横にデカイ黒子がある」
「ああ」
「中学の時に高橋朋子に告白して木っ端みじんになった」
「ハハハ、そんなことあったな」
「信じてくれるか?」
私が言うと、彼は私の顔をじっと見た。
「今言ったことは合ってるし、確かに俺に似てるな。けど二十五年も経つと、こんなに腹が出て、頭は禿げてしまうのかよ。ただのシジイしゃねえか」
目の前に向けられていたの物干し竿の先が遠ざかり床にコツンとついた。
ただのシジイって、私も若い頃は口が悪かったな。自分自信に言われてるとわかっていても腹が立つ。しかし、今はそんなことどうでもいい。
「ジジイになってしまったが、間違いなく私は二十五年後の君なんだ。こんなジジイにならないために今のうちに不摂生な生活は改めておいた方がいいぞ。特に食生活に気をつけることと毎日の適度な運動を心掛けることだ」
「わかったよ。でも、二十五年後の俺が、何でここにいるんだ。二十五年後にはタイムマシンでも出来ているのかよ」
「いや、タイムマシンは出来てないが、不思議な老人が現れて私をタイムスリップさせてくれたんだ」
「不思議な老人が? それ誰?」
「私も知らない老人だ。私の前に急に現れたんだ」
「何のために、その老人はあんたをタイムスリップさせたんだよ」
「ここからが本題だ。私がここに来た理由を今から話すから聞いてくれるか」
「もちろんだ」
「実は今の私は残念ながら不幸な人生になってしまっている」
「あんた見てると、そんな感じだな。幸せそうには見えない」
彼は私の頭のてっぺんから爪先まで視線を這わせた。
「やっぱり、そんな風に見えるか」
私は首を折った。
「なんか辛気臭い。今の俺は幸せだけど、二十五年後にこうなると思うと、俺もショックだわ」
「そうだろ。それで、こうならないために君にお願いにきたんだ」
「なるほど、俺に出来ることなら、もちろん協力するよ。未来の自分の為だからな」
「頼むよ、君にしか出来ないことなんだ」
私は手を合わせた。
「俺に何してほしいんだ。さっき言ってた食生活の改善と毎日の適度な運動か?」
「それもそうなんだが、もっと大切なことがある」
「他に何してほしいんだ?」
「してほしい、というよりやめてほしいんことがあるんだ」
「やめてほしい?」
若い頃の私は眉間に皺を作り首を傾げながら、私の顔をじっと見てきた。
「そう、やめてほしいことがあるんだ」
「タバコや酒かな、パチンコは最近は勝てないからやってないしな」
「確かにそれもやめた方がいいかもしれないな」
「あんたは酒もタバコもパチンコもやってないのか」
「それは今の私の方が君よりよくやっていると思う。家に帰りたくないから、毎日のように飲みに行ったりパチンコに行ったりしているから。ただ金が無いから最近はやってないがな」
「そりゃ、ダメだよ。体にも良くないし、金の無駄遣いだ。早く帰って家族を大切にした方がいい。そうだ、家族で思い出した。俺は美和子と結婚したのか」
嫌な質問だ。
「そ、そうだな」
私は俯いてしまい声が小さくなった。
「そうか、俺は美和子と結婚出来たんだ。よーし」
若い私は持っていた物干し竿で床をトントンと叩いて喜んだ。
「嬉しそうだな」
「当たり前だろ。それより俺が酒やタバコ、パチンコ以外にやめないといけない事なんてあるのか? 美和子と結婚出来るとわかったから、あんたの願い事、何でもきいてやる気になったわ」
若い私の表情には満面の笑みが広がっていた。すごく言いにくい状況になった。しかし、明日のプロポーズをやめさせないことには、私は不幸になるんだ。
「実はな」
大きく息を吸ってから、若い私の顔を見た。まだ嬉しそうな表情だ。今から言う私の話を聞いて、彼はどんな表情に変わるのだろう。ショックを受けることは間違いないだろう。
「なんだい?」
「明日、君は美和子にプロポーズするつもりだろ」
「あー、そうだ、今は胸がワクワクのドキドキだ。けど、あんたが美和子と結婚してると聞いて、気が楽になったよ。明日のプロポーズがうまくいくってことだろ?」
「そ、そうか、それなんだけど、えーと……」
「なに? 言いにくそうだけど、まさか明日のプロポーズはうまくいかないのか?」
若い私の表情が険しくなった。
「いや、う、うまくいくよ」
「やっぱり、そうか」
若い私の表情がまたパッと明るくなった。
「うまくいくんだけど、実は、やめてほしいのは、そのプロポーズなんだ」
「えーっ、何言ってんだ、あんた頭おかしいんじゃねえか。うまくいくとわかってて、なんでプロポーズをやめなきゃならないんだよ。それは絶対ダメだ」
持っていた物干し竿で床をドンと強く叩いた。
「頼む、明日のプロポーズはうまくいくが、それが私の不幸の始まりだったんだ」
私はその場で土下座をし床に額をこすりつけた。彼にわかってもらうためにはこれくらいしないとダメだ。
「ふん、明日のプロポーズが不幸の始まりだって、そんなはずない」
顔を上げると彼は備え付けのベッドに腰を下ろして私を見下ろしていた。
「今の私は、不幸なんだ。それは美和子と結婚したからなんだ。私は美和子と結婚さえしなければ、今頃は自由で幸せだったはずなんだ」
「何、言ってんだ。俺は美和子を愛してるんだぞ。美和子と結婚して不幸になるわけないだろ。いいかげんな事言うな」
「二十五年後の私が言ってるんだから間違いない。今の君には、それがわからないだけなんだ。だから頼む、明日のプロポーズは中止してくれ」
「うるさい、人生の大事な時に俺の邪魔するな」
「人生の大事な時だから、こうして頼みに来たんだ。わかってくれよ」
「わかるわけない。お前の言うことは絶対に信じない。俺は美和子を幸せにすると決めたんだ」
「君は、恋しているから冷静でなくなっているんだ。二十五年後の美和子は、私に対して、給料が安いだの、パチンコばかりしてるだの、少しくらい家事を手伝えだの、そんな事しか言わないんだ。私が仕事で疲れていることなんてお構い無しだ」
「違う、美和子は、そんな女性じゃない」
「美和子は変わってしまうんだよ。今の私は美和子と一緒にいるだけでも苦痛なんだよ」
「だまれ。悪いのは美和子じゃない。お前が悪いに決まっている。お前が美和子を幸せに出来なかっただけなんだ。俺は絶対にそうならない。美和子を絶対に幸せにする」
若い私の目から涙がこぼれていた。
「ダメなのか?」
「当たり前だ。俺の夢を奪うな」
若い私は声を震わせて拳を握った。
私は彼のその姿を見て何も言えなくなった。二十五年前の自分の気持ちを思い返してみた。
あの時、美和子にプロポーズしてオーケーしてもらえるのか不安だった。けど、絶対に幸せにする自信はあった。だから、もし断られても諦めないつもりだった。美和子からの答えはオーケーだった。五山送り火を見ながら、声を上げて飛び上がった。
その時、美和子を絶対に幸せにすると誓ったはずだ。
「そうだな。君の言う通りだ。私が間違ってた」
勝手に涙が溢れてきて、目の前が霞んできた。そのまま目の前が真っ暗になり意識が遠くなっていった。
肩を揺すられて意識が戻った。見ると老人が私の肩に手を載せていた。
「どうじゃ、うまくいったかい。二十五年前のあんたにプロポーズをやめさせられたのかい?」
老人は笑みを浮かべていた。
「いや、二十五年前の私にプロポーズをやめさせることは出来ませんでした」
「ありゃー、ダメだったかい。そりゃ残念じゃったな」
「ええ、まあ仕方ないです」
私はじっと見つめてくる老人から目をそらした。
「では、もう一度、説得に行きますかな。今度はプロポーズの当日行くかな。二十五年前の今日に行って、力ずくでプロポーズの邪魔しましょうかな。面白そうじゃから、わしも一緒に行って助太刀するかな」
老人が私の肩をトントンと叩いて笑った。
「いえ、もうやめておきます。そんなことしたら二十五年前の私が、きっと不幸になります」
私は涙がこぼれそうになり上を向いた。
「何を言っとる。このままだと、あんたの人生は辛いままじゃぞ」
老人が眉間に皺を寄せた。
「いえ、私が間違ってました。今、私が辛いと思っているのは誰のせいでもありません。私自身のせいなんです。だから私が変わることが大切だったんです」
「あんたが変わることか?」
「そうです、私がもう一度、二十五年前のあの頃の気持ちを取り戻すこと、そう、私が変わることでしか、私は幸せにはなれません」
「そうかい、それならわしは必要ないな。邪魔したな」
老人はそう言うのと同時に私はまた気を失った。
次に目を覚ました時、老人の姿はなかった。車内を見渡すと、いなかったはずの乗客がいた。
さっきまでの出来事は夢だったのだろうか。そうかもしれないが、二十五年前の今日、私は美和子を幸せにすると心に誓いプロポーズしたことは変わらない事実だ。
そして今日は五山送り火だ。今から美和子を誘って二十五年前に行ったレストランで食事をして、五山送り火を見に行こうと思った。それが、この先私が幸せになるためにやるべきことだ。
早くしないと間に合わない、そう思いスマホで時間を確認した。不思議なことに老人に会う前の時間から進んでいなかった。この車両にいる乗客も乗り込んだ時と変わっていない。
取り敢えず次の駅で降りて、美和子に電話して、食事と五山送り火に誘ってみよう。
次の駅に着いた。すごく遠くまで来てしまったと思っていたが、乗った駅から一駅しか進んでいなかった。
ホームに降りてポケットからスマホを取り出し、美和子に電話をした。美和子が電話に出た。
「もしもし、美和子。今日は彩加もいないことだし、二人で食事でもどうだ」
「えっ」と言う驚くような声が聞こえた。
スマホを耳に当て、続く美和子の返事を待った。胸の鼓動がドキドキと激しくなった。二十五年前のあの時に近い気持ちだ。
二十五年前の私は今頃、ワクワク、ドキドキしながら美和子と京都に向かっていることだろう。
二十五年前、美和子にプロポーズすると決めた彼の勇気をこの先絶対に無駄にしてはならない。
あの日、あの時、あの場所で美和子にプロポーズしてよかったなと一生思い続けるようにしよう。