プロローグ
遠い遠い昔、この光の国がまだブリテンと呼ばれたあの日。あれから人々は妖精と交流を重ね、魔術力という魔法の力を手に入れた。人間が使える魔法の力を魔術力、妖精の使える魔法の力を魔力と呼ぶようになった。
そして今、この光の国は魔女に呪われている。魔女は童話病という奇病をばら撒いた。童話病とは童話にちなんだ精神病。今もっとも国を脅かす奇病である。
光の束を編み込んだような美しい金色を揺らす少女は貴族と言うにはいささか忙しない足音をたてて、とある扉の前に立つ。静まり返った廊下で静かに深呼吸をすると、ノックしようと右手を持ち上げた。
「入っていいですよ」
手が上がりきると同時に、見計らったように抑揚のない声が聞こえる。静けさを壊さないその落ち着いた声に眉を少しひそめながら少女は上げた手をおろしてドアノブを回した。
「せめてノックするまで待ってよ」
高めに結った金のツインテールを揺らし、少女はむくれながら扉を押して中へ入る。いつから待っていたというのか、先程の声の主がコーヒーの入ったマグカップを片手に出迎えるように扉の前で壁に寄りかかっていた。
「足音で分かりますよ」
そんなにわかりやすい足音をしていたのかと少女が相手を見つめる。相手は長いまつ毛を重たそうにしている瞼を閉じながらコーヒーを一口飲んでくるりと背を向け、部屋の奥へと歩いていく。作業をしていたのか、いつものシャツを腕まくりしていた。
「ランス」
少女が呼び止めるように名前を言うが、ランスは振り返ることなく部屋の奥、作業机にマグカップを置いた。窓から指す光でランスの黒髪に濃い紫が透ける。その色が大好きでついいつも見惚れてしまう少女にランスは振り返った。
「いかがなさいました?」
椅子に座りながらやりかけだった作業を確認するように散らばった部品をつまみ上げる。うつむいた拍子に、硬そうな髪がぱさりと流れた。
「申し訳ございませんが、今は注文を承っておりません」
知っているとも、今ランスはマリーの婚約者に依頼されて首飾りを作っているのだから、例外がない限り新しく別のものを作る予定を入れていない。マリーは首を振ってランスを見つめた。
「そっちの依頼じゃないのよ」
「……なんの依頼でしょう」
「アリス症候群よ」
聞いた途端、ランスはコーヒーを一気に飲むとマグカップを机へ置いて、捲っていた袖を戻した。蜂蜜が詰まったボトルをカバンへ放り込んで、机の横に立てかけていた剣を引っ掴む。
「場所は?」
散らばっていた部品を、自分のわかる程度に適当にしまいながらランスが聞くと、マリーは手紙を手渡した。
「アドラー卿は分かる?」
「ええ、卿のお嬢様が先日のマリー様のお茶会に来ていましたね」
「その子がなったの」
受け取った手紙の書き手はアドラー卿本人。娘が三日前から起きなくなってしまったらしい。医者に見せても恐らくアリス症候群だということと治療法が分からない。以前社交界でマリーが童話病の話をしていたことを思い出し、藁にもすがる思いで手紙書いたのだとか。
「馬車の用意はできているわ」
◆◆◆
ランスは不機嫌そうな顔をしながらパステルカラーのホイップたっぷりのケーキをフォークで串刺しにした。別のを食べようにもジャムに埋もれたクッキーや、砂糖漬けの果物しかない。
「あま…」
さすがに口に入れたものを吐き出すわけにもいかない。流し込もうとしても飲み物はミルクたっぷりのほぼ真っ白なカフェラテと、もはや砂糖の山に埋もれた紅茶のみ。
「騎士様、おいしい?」
ホイップクリームのように綺麗に飾りつけられたフリルを揺らしながらお茶会の主催者である彼女は笑う。ランスが怪訝な顔をしていても気にした様子ではなかった。
「イカれたお茶会にはふさわしいと思います」
隠しもしないランスの言葉に彼女は心底嬉しそうに笑っている。彼女はすすめるばかりでお菓子に一切手をつけようともしない。
「だって私がおもてなしする方ですもの」
だから口にしないのだと言われれば、なるほど一理あると頷くしかなかった。彼女は動かない時計の針を指さしながら首を傾げ、指先を左回りにクルクルと回す。
「また来て、ここでずっとお茶会してるから」
「でしたら次はおかしな帽子を被って来ます」
ランスが自分の頭をトントンと指さすと彼女は嬉しそうに笑って濃霧へ溶けていった。
◆◆◆
「どうでしたか?」
重たそうに瞼を開けたランスを、濃霧に溶けた少女の父親が心配そうに覗き込んでいた。少女のベッドの端に座っていたランスは一瞬だけ怪訝な顔して立ち上がり、彼から距離を置いて咳払いをする。
「重症です」
まだ夢で飲み込んだ甘いクリームが喉に張り付いているような感覚に喉をさすった。
「魔法で夢に入ったら、自分はアリスで、帽子屋のかわりにお茶会をしているそうです」
「ああそんな」
悲鳴のようなつぶやきと共に少女の母親はそのまま崩れるように椅子へ座り込んだ。余程心配なのだろう、目元の化粧が崩れてドレスには斑点のシミがついている。
「お聞きしたいことが」
それを横目で見ながらランスは呆然と立ち尽くしている父親に問いかけた。
「彼女、コンプレックスでもありますか?」
「とんでもない!可愛い娘は明るくて完璧な子です」
叫ぶような父親の返答に、ランスは眉間に皺を寄せた。確かにベットで眠っている少女は人形のように愛らしい。愛されているのだろう、部屋の内装だって絵本のお姫様のようだ。
「アリス症候群になったのはいつから?」
冷静なマリーの声にハッとして、やや落ち着きを取り戻したのか父親は咳払いをした。母親は思い出そうと目元をおさえながら、ゆるゆると頭を上げる。
「初期症状は半年ほど、前かと…」
「半年前に何かありました?」
「私の妹の、この子の叔母の葬儀がありました…航海士だったんです…嵐で…そのまま…」
思い出したのか母親は、はらはらと散る花びらのように涙をこぼす。それだけで姉妹は仲が良かったのだろうと伺えた。
「彼女とは仲がよかったですか?」
「とても、懐いていました…一緒にお茶を飲んで…ただ…」
「ただ?」
「妹は、その、変わっていまして、物珍しかったのかと…」
「例えば?」
「グレーテルアレルギーだったんです」
その言葉にランスはぴくりと瞼を震わせる。先程のお茶会を少し思い出すように自分の喉を撫でながら母親に問いかけた。
「甘いものが食べれなかったんですね?」
「ええ、よくご存知で…」
「自分もなんです」
すると驚いたように母親は目を見開いたが、気にしないようにランスははにかんで質問を続ける。
「お茶会をしていたと言ってましたが、グレーテルアレルギーは重症だと紅茶も苦手かと」
「ええ、なので妹はコーヒーとサンドイッチでした」
「なるほど」
ふむ、とランスが考え込むと少女に視線をやり、目を細めた。何か思い当たることでもあったのか、父親と母親を交互に見る。
「童話病は新しい精神病の総称です。それはご存知ですね?」
「……?童話病は絵本の魔女の呪いでは」
「いいえ、絵本作家の娘、アリスは関係ないのです」
ゆるく、ランスが首を振るとゆっくりと少女の両親を見つめる。
「娘さん、甘いものや可愛いもの、本当に好きでしたか?」
「どういう、ことですか…?」
質問の意図が分からず困惑げに少女の両親の視線が揺らいだ。ランスは小首をかしげながら目を細める。
「嫌い…もしくはあまり好きではなかったのでは?」
「ふざけるな!!馬鹿にしているのか?!娘は!我が家の娘は!!」
少女の父親はとうとう大声を上げて、ランスの胸ぐらに掴みかかった。ランスは眉をひそめてため息をつき、父親の手首を掴む。骨が軋む音を鈍くたてながら、ランスは冷たい目で父親を見上げた。
「貴族様の完璧で可愛い一人娘、というのがコンプレックスでは?」
なにを言っているんだ。それが少女の父親の顔だった。呆けて緩んだ父親の手を自分の胸ぐらから外させる。襟元を直しながらランスはため息と共に嫌味を吐く。
「マリー様の護衛騎士風情が学もないくせにって顔ですね」
「それ、は」
「残念ながら、他の医者ではダメだったのでしょう?」
だからマリーに縋ったはずだ。怒りに震える父親を無視してランスはマリーに向き直った。
「マリー様、彼女はお茶会の時どうでしたか?」
「貴方もいたでしょう?」
「ジンジャークッキーと紅茶を少しだけ口にして、大人しい方だったと思いますが…いかがでしょう?」
「ええ、あまり話題に入ってこないの」
「奥様、貴女の妹さんはどちらかと言えば冒険譚をお話される方だったのでは?」
「え?ええ…いつも違う帽子を被って航海日誌を持ってきてました」
急に話題を振られた母親は目元を抑えながら話す横で、父親が険しい顔をする。どうやら父親とその航海士の叔母とは仲が良くなかったようだ。ランスは合点がいったように笑って少女のベットに座った。
「もう一度、夢に入ります。恐らく起きるとは思いますが…」
流れるような動作で横たわる少女のベッドに片手を置いて重心をかけると、キシ…と軽い音をたて、もう片方で少女の前髪に触れた。
「ご両親の対応次第では再発するのでご注意を」
抑揚のない静かな、有無を言わせぬ声。ランスはゆっくりと屈んで少女の額にキスをした。あまりの突然の不逞に思わず父親が顔を真っ赤にしてやめさせようとしたが、マリーが片手で制するような動作をして踏みとどまらせた。
◆◆◆
気がつくとまた見るだけで胸焼けを起こしそうな甘い匂いを充満させたお茶会の席に座っていた。
「あら、お帽子は被ってこなかったのね」
いつの間にか隣に座っていた少女が、残念そうな声で首を傾げた。両肘をテーブルについて、手のひらに頭を乗せながら膨れる少女は愛らしい。
「失礼、良い物が見つからなくて」
「あらあら」
くすくすと彼女は笑って、切り分けられたカラフルなケーキを差し出した。見定めるように笑って首を傾げる。
「お口に合うかしら」
「申し訳ない、レディ…本日は私がご用意したものをお出ししても?」
少し大袈裟なくらいの動作でランスが立ち上がってお辞儀をすると、少女は数回瞳を瞬かせて口元だけ笑った。
「あら、何をご用意してくださるのかしら?」
猫のように高い声が、耳を撫でつけてくる。ランスはニコリと笑って手品のようにポンと手元にドームカバーを出現させ、先程差し出されたケーキと、近くに会った砂糖に埋もれた紅茶を覆った。
「お口に合うといいのですが」
そうしてドームカバーを外すと、中からハムとレタスのサンドイッチとブラックコーヒーに変化していた。パステルカラーだらけのテーブルにはあまりにも鮮やかで、砂糖まみれのお茶会にはあまりにも強い香りに少女は目を見張る。
「あ…」
「レディ、本日私しかこのお茶会にはいませんよ?」
先程の優雅な少女はどこへやら、みるみる彼女は幼げな表情でランスとコーヒーを交互に見やり、戸惑いを見せた。
「レディスカーレット」
ランスが彼女の本当の名を呼ぶ。その声は相変わらず淡々とはしていたが、優しさのようなものも含まれていた。
「ご両親のことは気にせずに、貴女の心躍るお茶会を」
言われるままにスカーレットはマグカップの取っ手に触れて、引き寄せる。今度は両手で包むようにマグカップの温かさに触れると、気を張っていたのか目元を綻ばせた。香りに鼻先がくすぐられ、惹きつけられるように口元へ一口運んでいく。
「おいしい」
嬉しそうに口元を綻ばせ、スカーレットは瞼をゆっくりと閉じた。
◆◆◆
ランスがスカーレットから離れる。スカーレットは重たげに瞼を震わせて持ち上げると、右手で体を支えながら起き上がる。あまりに右手が重たくて、雲のように軽いベッドに沈み込みそうになったところをランスが背を支えた。
「スカーレット!」
父親よりも先に母親が飛び出して娘に駆け寄ろうとしたがランスが片手で止まるようにジェスチャーする。
「おかあ、さま…?」
ボヤけた思考でスカーレットが頭を傾げると、背を支えていたランスがトントンとさする。ゆるりと彼女は頭を動かしてランスを見る。ランスは声に出さず「大丈夫」と口を動かした。
「お母様、お父様…あの…」
「どうしたの?」
声を震わせながら視線をさ迷わせるスカーレットに母親は優しく問いかける。本当は今すぐにでも抱きしめたい気持ちを抑えているのだろう、必死に娘の声を聞こうと少し前のめり気味だった。
「あの、私、口にしたいものがあるんです」
「そんなこと…!何が食べたいの?ケーキ?チョコレート?キャンディー?」
「……サンドイッチ」
「分かったわ、あなたの大好きなフルーツサンドを今すぐ持ってくるようにするわ」
「違うの」
「?」
両親共に首を傾げる。スカーレットは思わず呼び止めたことに肩を少し震わせたが、ランスが優しく背をたたいて見守っているのを横目で見て、両親に視線を戻した。
「叔母様がよく食べてたサンドイッチがいいの、あと、その…コーヒーが飲みたい…です…」
「コーヒーだと!スカーレット、お前まさかグレーテルアレルギーに…!」
「違うの!あの、甘いものは食べれるの、でもその…」
今度は父親が詰め寄ってきたが、ランスが睨みつけて踏みとどまらせる。スカーレットは口を開いては閉じて言葉を慎重に選んでいるようだった。
「甘いお菓子や紅茶より、サンドイッチやコーヒーの方が好きなの」
「でもあなた、コーヒーなんて飲んだこと…」
「叔母様から貰ってたの」
「あの女…!やはりスカーレットに悪影響を…!!」
「やめて!!!」
父親が悪態をついて、スカーレットは一番大きな声を出した。両手を握りしめて肩を震わせて目を潤ませている。
「叔母様を悪く言わないで!お父様が悪く言うと思って我慢してたの」
おそらく娘に否定などされたことなどないのだろう父親は固まった。母親は一歩娘に近づいてランスを見る。ランスはスカーレットと母親を交互に見て、今度は止めようとはしなかった。
「ローズが悪く言われないために我慢してたのね?」
「お父様にも、嫌な思いさせたくなかったの」
「そう」
スカーレットの頬に雫が伝う。母親は人差し指でゆっくりと拭うと、両手で頬を包む。
「なんて優しい子なの、スカーレット」
移ったように母親の頬に雫が伝った。その声は震え、確かに愛情に満ちていた。ランスはそっとスカーレットから離れていく。
「ごめんなさいね、気づいてあげられなくて」
「おい…」
すっかり蚊帳の外に追いやられてしまった父親が声を出すと、母親が振り返った。
「私達はこの子に辛い思いをさせたわ」
その声の強さに父親は少したじろいで口をつぐむと娘を見る。
「……コーヒーとサンドイッチを持ってこよう、待ってなさい」
声は少し不服そうではあったが、父親はそう言い残して部屋を出ていった。
「ありがとう、お母様…んっ、げほっげほっ」
「スカーレット?!」
突然スカーレットが胸元をおさえて咳き込みはじめる。背を丸めて口元をおさえるスカーレットに母親は慌てた。咳がとまると、スカーレットの両手に紅茶のような色をした宝石が輝いていた。
「これは…?」
「胸のつかえがとれたんですよ」
戸惑う二人に離れていたランスがニコリと笑った。ゆっくりと手袋をはめて近づくとその宝石に触れる。
「童話病は、精神病の一つとご説明しましたね?」
「ええ」
「その精神が本人の固有の魔術力と反応し鉱石化するのが特徴です。それを胸のつかえといいます」
「それが、この宝石?」
「ええ、どんな心にしたってそれは美しいということです」
そっとランスは宝石を手に取って光にかざし、スカーレットに笑いかけた。