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うららかな春のお昼前でした。
里の人に譲っていただいたおさがりのベビーカーにぼっちゃまを乗せ、大きな樫の木の門を抜けてわたしは里のほうへと小道を下りてゆきました。
踏み固めただけの舗装もなにもない道で両側には青々と緑のおいしげる田畑が折り重なるようにひろがっています。段々畑というやつです。山間の狭い土地では農地は貴重なのです。レンゲの紫とシロツメクサの白のコントラストが斜面をあざやかに染めあげていて、ひらひらと蝶の舞う風景はのどかな片田舎そのもの。この景色がバイパス工事のために消えてしまうなんてしんじられません。
「せっかくこの里にも慣れてきたところだったのに。なんだか寂しいですね……」
「あぅ?」
ちょうちょを追いかけるぼっちゃまのまなざしも心なしか寂しそうにみえます。
里の中央に出ると広場はおおさわぎでした。市場が立つので自然と人が集まる場所なのですが、今日はいつも以上にたくさんの人々が集まってきています。ごったがえす人混みに入っていいものか迷っていると横から声をかけられました。
「あら、ナニーちゃん。こんにちは。ぼっちゃまを連れて買い物かい」
顔なじみの肉屋のおばさんでした。里で手に入るものはできるだけ里で仕入れるようにとは旦那さまのお達しです。星間通販は届くまでにタイムラグが発生するというのもありますが、いちばんの理由は地元の人との交流を大切にするためだそうです。なので、ロボットたちではなくわたしが買い物に出ることも多いです。なにしろあのお屋敷にヒト型の生き物はわたしとぼっちゃまのふたりだけですから。
「こんにちは。今日はただの散歩……の、つもりだったんですけど。なにかあったんですか」
「おや、聞いてないのかい。バイパス工事のせいでこの里がなくなるって今朝からみんなおおさわぎだよ。そうだ、あんたもここに署名してくれないかい」
「署名……」
バイパス工事に反対する署名活動のようです。小さな里なのであたりまえですが、みればどれもこれも見知った名前ばかりです。人口は限られていますし、里の人の名前はみんなあるのではないでしょうか。名前がなければすぐにわかるということです。
なんだかなぁ……と思いながらもペンを受け取ってサインします。
同調圧力万歳。長いものには巻かれてしまうのがらくなのです。これを応用してぼっちゃまの周囲にたくさんの魔法を使わない赤ちゃんを遊ばせておくとぼっちゃまも魔法を使うことを自重して……くれないでしょうね。残念ながら。とてもじゃありませんが怖くて試してみるきにはなれないのでいまのところぼっちゃまのお友達はわたしとロボットたちだけです。したがっておもちゃをぶつけられて痛い思いをするのはわたしだけ。泣きそうです。……嘘です。いいかげん慣れてしまいましたから。
「おや、ナニーちゃん、こんにちは。ぼっちゃまを連れて買い物かい」
次に声をかけてきたのは雑貨屋のおじさんでした。手には一抱えほどもある箱を持っています。箱のうえにはちょうど紙幣が入るくらいの大きさの穴があけてありました。
「いえ、今日はただの散歩です」
「バイパス工事に反対する募金運動をしてるんだが……」
「ごめんなさい。お散歩のつもりでお財布を持ってこなかったんです」
おじさんはそうかそうか、とうなずいてあっさり去って行きました。これはしばらく買い物には来ないほうがよさそうです。それにしてもバイパス工事に反対する募金運動というのはいったいなんなのでしょう。お金で解決できる問題とは思えないのですが。募金運動とは得てしてそういうものですし、そこはつっこんではいけないブラックボックスなわけですが。
館に戻ってくると清掃ロボットたちが廊下で立ち往生していました。
「ただいま戻りました」
「おかえりなさいぼっちゃま」
「あ、ぼっちゃまだー」
「ぼっちゃまおかえりー」
「おかえりなさいですー」
「……どうしたんですか」
「あのー、おそうじしたいんですけど、このつみきのおしろはどちらにいどうさせたらよろしいでしょうー」
みれば臙脂色の絨毯のうえにはみごとなつみきのお城が建設されています。廊下を塞ぐようにめぐらされた外壁に整然と並ぶ尖塔、いちばん高い塔はわたしの胸のあたりまであります。モデルはノイシュヴァンシュタイン城でしょうか。まるでおとぎ話に出てきそうなくらい美しいこのお城は、絵画や音楽が好きなバイエルン王ルートヴィヒ2世が生涯かけて建築したものだそうです。
さすがはぼっちゃま。とても0歳児の作品とは思えません。
「いつのまにこんなものを」
鑑賞しながらだれにともなく尋ねます。腕のなかのぼっちゃまはあぅーあぅーと得意げな声をあげながら手足をばたばたさせるばかりで質問への回答はいただけそうもありません。
「おさんぽにでられるまえだとおもいます」
「あさみたときにはなかったよね」
「なかったなかった」
「おそうじしようとおもったらみつけた」
「おそうじしようとしたのにできなかったです」
「こまったです」
「片付けたらいいのでは」
ぼそっとつぶやくとロボットたちがいっせいに非難の目を向けました。
「ぼっちゃまのさくひんになんということを」
「なんということを」
「とんでもないことです。これはげいじゅつですよ」
「そうです。ぼっちゃまがつくられたげいじゅつさくひんなのですよ」
「いや、でも片付かないと困るでしょう。掃除もしないといけないし……」
なにより廊下が通れなければぼっちゃまをお部屋にお連れすることができません。7 kgって結構重いんですよ。しかも動くし。暴れるし。そろそろ腕が痛くなってきたんですが。
「あぅあぅ」
そんなつぶらな瞳でみつめないでください……。
「おそうじはちゃんとすんでおります」
「そうですそうです」
「なかにわからうかいしましたゆえ」
「このろうかいがいはちゃんとすみずみまですんでおりますです」
「そうですこのろうかがもんだいなのです」
「やっぱり問題なんじゃないですか……」
わたしはぼっちゃまを絨毯のうえにおろすとそばに置いてあったおもちゃ箱を手繰りよせてつみきをなかに放りこみはじめました。さようなら、ノイシュヴァンシュタイン城。ロボットたちは盛大に騒ぎだしましたが実際に止めに入ることはありません。だって掃除したかったんですものね。そうです。だれしも自分の手は汚したくないものなのです。
「あぅー……」
せつなげな声にふりかえると、寝返りから腕をついて頭を持ち上げたぼっちゃまがせいいっぱい首を伸ばして崩れ去っていくノイシュヴァンシュタイン城をみつめていました。両足をじたばたさせ、どうにかしてこっちへ来ようとがんばっています。あ、動いた。動きました。すごい。ずりばいできるようになってる。
感動したのもつかのま。
「うああぁぁん!」
ちょっとずつしか進まない体にじれたぼっちゃまは両手を前に伸ばして泣き出しました。そして、その泣き声を合図に残っていた城郭がガラガラガラガラと轟音を立てて倒壊します。絨毯に落ちて転がったつみきたちがいっせいにわたしめがけて飛んできました。
……うん、知ってた。
床に伏せて降りそそぐつみきから頭をかばいながら、わたしは本日何回目かの深いためいきをつきました。