プロローグ
五歳になった時、金がないのに酒を持って来いと言われたから酒を盗んだ。初めて人を殺したのは七歳の時、働きもせず酒を呑むしか能がない父親に嫌気がさしてこの二年間で手に入れた盗みの技で短剣を盗み、それで殺した。
父親を殺した時、少女は思った。
――どうして私は、ここに生まれたんだろう。
掃き溜めの街、太陽が昇っても一向に誰も上を向くものはいない。路地裏を覗けば血と臓物がまき散らされている。地面の更に下を覗いて見れば死体がバックに入るように細切れにされている。
人殺しは日常で、親殺しは常例。
盗んで、殺して、壊して、この街にいる奴らは全員小さな子供の頃に体験する。
失敗すれば当然殺される。頭を打ちぬかれて味噌を地面にぶちまけるはめになる。女なら散々犯されてから殺される。
世界中の荒くれ者や悪党達が集うこの街に、もしもいい子ちゃんぶった奴らが来たのなら、ついた途端にまず財布を盗まれる。次に捕まって、拷問して銀行の預金を全て奪われて、最後には証拠隠滅にと掃除屋によってゴミ箱の中に捨てられてお終い。
ヘマをやらかしたらあらん限りの苦痛を味わった後にチェーンソーでバラされて二度とお天道様を見れない場所で魚達と白骨ダンスを踊ることになる。
血の気の多い荒くれどもの住処、朝だろうがお構いなしにあちこちで人の罵声と怒号が飛び交い、血飛沫が舞う。夜になれば売春をする卑猥な女達が町のあちこちに蔓延り男を誘惑し、金をもぎ取ろうとする。
世界中の穢れを集めた街と評されるこの場所にいる一人の少女メフィ。本名メイファ・リーも例に漏れることなく犯罪をいくつも犯した。
彼女は人を殺す依頼を受けたり、盗みの手伝いをしたり、護衛のまねごとをして金銭をぼったくったるなどをして日々を過ごしていた。
依頼の途中で仲間に裏切られたり、逆にこちらが裏切ったりなどを繰り返していたが、それはここでは何の問題もない。騙される方が悪いのだ。そうして彼女は成人となった。
そんな彼女だが一度だけ、この街を出たいと思って彼女はその街から姿を消した。
だが、すぐにまたこの血だまりの匂いのするこの場所に戻ってきた。
――なんだ、あの人を見下したような目はッ!
周りの視線に、耐えられなかったから彼女は帰ってきた。
自分を守る術がなく人を殴ればそれだけで捕まってしまう。学校を出た経歴もなく、ろくな教養もなく育った彼女にとって力こそがすべて。
その力を振るう事ができない彼女は無力だった。
平和な社会に適応することができなかった。優しい人達を信用することができなかった。常に人を疑い、信頼できる者を作ることを理性と本能が拒絶した。
その報いが来たのだろうか、彼女の最後は呆気なく、道端に転がっている石のようにありふれた幕引きだった。
「……」
雨が降る。冷たい雨がメフィの体を冷やしていく。
――冷たい、寒い、このままだと、凍えちまう……
胸に二個、腹に三個の穴を空けて、血が雨に混ざって流れ出ていくのを感じながら、彼女はそれでも混濁した意識の中、灰かぶりの空を見続ける。
「死ぬのか……私は……」
人間の屑とまで言われるような者達が集まる街にお似合いな空を眺めながら、彼女は死を実感する。
汚水を啜って喉を潤し、暗渠に住み着いてネズミに齧られた。盗みに失敗して骨を何本か折られた。それでも尚生きのびた。
――屑達が終わる場所で私も死ぬ。所詮、私もその屑ってわけだ。
自虐的な笑みを浮かべたせいで口の中に入ってしまった雨は鉄の味がした。
「……あぁ、死ぬ。おめぇは助からねぇ。手の施しようがねぇからな」
褐色の肌を持った男は、彼女を隣で見下ろしながら煙草に火をつけた。
だが、男は煙草の味を味わうこともなく、雨音にかき消されてしまいそうな声音で淡々と答える。
彼女の意識は薄れているため隠す必要はないと分かっていても、男は表情をサングラスで隠す。何時もの凛々しい姿を相棒に見せつけるために。
「……そうか……なら、最後に、いいか?」
視線の端で見た灰色の雲に向かって伸びる白い煙を相棒に要求する。
「……駄目だ。これは俺の煙草だ。これから死んでいくやつにやるにゃぁ勿体ねぇ」
「ふっ……相変わらずだなぁ、ちきしょう」
彼女の相棒はいつだって自分の煙草は他人に渡すような真似はしない。いつもいつも勿体ねぇ勿体ねぇと言って絶対に渡さない。それがたとえ仲間でも、これから死んでいくやつでも。
「あぁ~あ、最後に吸ってみたかったなぁ、あんたのお気に入りを」
「残念だが、こいつは高級品なんだ。こいつを味わいたきゃ百万よこしな」
「嘘つけ、ホントに百万もってっても、どうせ渡さねぇんだろ?」
「ふっ、ばれたか……」
「当たり前だ……いったい何年、あんたと一緒だと思ってんだよ」
「……だな」
例え煙草を渡せば絶体絶命のピンチを覆せると言われても、彼はきっと渡さない。彼はそういう男だ。
女のメフィには分からないことだが、それが男のプライドというものなのだ。
「……特別サービスだ」
「あぁん?」
男は地面に落ちていた血に濡れた一丁の拳銃を投げ渡した。
空中で掴む力がなかったメフィはそのまま拳銃が落下するのを呆然と眺める。そして、落ちた先には、丁度彼女の手があった。
「俺を倒せ。そうすれば、煙草の一本ぐらいは、くれてやる」
至極真面目そうに言う彼に死ぬ寸前の彼女はついつい笑ってしまった。
「……ぷっ、本気で渡す気はあるとは思えない提案だねぇ……こんな死にぞこないと万全の状態のあんた、勝ち目はねぇよ」
「そうでもねぇぜ」
「はぁ?」
どこかで頭でも打ったのかとメフィは本気でそう思った。
血を流し雨で体温を徐々に奪われていっているというのにこの男はそんな奴でも勝てる見込みがあると言う。
なぜいきなりそんなとち狂ったような言葉を発したのかは、すぐにわかった。
「ふぅ~……俺は雨が嫌いでねぇ。アレルギーなんだ。雨に濡れると、視界がぼやける」
「……」
「嫌だねぇアレルギー持ちは、早く医者いって治してもらわねぇと」
一瞬だけ、かけているサングラスを取ればいいのではと思ったが、そうではなかった。
雨と混じって、別のものが彼の頬を伝って地面へ落ちていく。
その事に気づいても、彼女は何も言わなかった。彼と長い間相棒として組んできたため彼の性格はよく把握している。
――相変わらず、バカだな……
「は、だっせぇな」
だから、彼女はいつも通り罵倒を飛ばす。
「ふん、言ってろ。オメェにこの苦しみは分かるめぇよ」
だから彼も突き放すように鼻で笑う。
「……あんがとよ」
だから、ただ一言だけ……私は小さくお礼を言う。
不器用で片言だけど、しっかりとした感謝の気持ち。言い慣れていないけれど、それでも確かに口にした相棒に向けた、らしくない言葉を。
「うっ……くぅ……」
人殺しの道具を手に取って、節々が痛むのを無視して気力だけで立ち上がる。
左手をだらりと垂らし、利き手の右手で銃を握り、肩にトンッと乗せる。ただのカッコつけ、だけど人生で最後の格好の良い立ち姿。
「さぁってと、やろうよ、相棒」
「あぁ、やろうか、相棒」
渋い声音で頷くと彼と彼女は動かなくなった。
まるで、二人だけが時間という枠組みから外れてしまったかのように微動だに動かない。
聞こえるのは雨音、聞こえなくなるのは全ての雑音。
今、彼らは走馬灯のように周囲がゆっくりと、それも落ちてくる雨水が見えるほどにその視力は磨かれていた。
精巧に作られたガラス玉のような水滴に、お互いの姿が逆さまに映る。
人を殺すことで生きてきた者にふさわしい、酷く濁った汚水のような瞳。赤く腫れたその目には、もうほとんど見えていないであろうその目には、得物を前にした狂犬のような意思が宿っていた。
そして遂に、その時は来た。
「……ッ!」
「……ッ!」
雨水が一滴、地面につくと同時にその掃き溜めの街に二つの銃声が鳴り響いた。そして……虚しくも、その音はいつもの日常の一幕へと忘却されていった。