チャプター9 遡(さかのぼ)りの儀と白面水(はくめんすい)
坂延と宮下の奴、遅いな。
障子を開け放った縁側から見える庭石が、墨で塗りつぶしたみたいに黒々と落ち込んでいる。西の空は濃紺のグラデーションをかろうじて残すのみで、間もなく日が暮れようとしていた。
私は知れず、右手親指の腹を甘噛みしていることに気づくと、苦い笑みを漏らしながら口から離した。幼い頃からのこの癖だけは、どうしても治らない。自分の焦慮が行動として表に出ているも同然で、人から侮られそうなものだから、やめようと心がけているその努力のかたわら、指を噛んでいる自分がままならないのに腹が立つ。
こう考えながら、やっぱり私は親指を噛んでいる。
早乙女の野郎、老石に関する何か、実際に若返った人間かは分からないが、何かを確実に知っている。白を切ったつもりなのだろうが、窮して嘘をつく人間を数多く見てきた経験からすれば、あれは、私から事実を隠そうとしていた。そういう態度だった。
学校の屋上で鬼庭の包囲を解除し、老石の秘密を早乙女に守らせる、そう話をつけて去ったはいいものの、奴の隠した「何か」がどうにも引っ掛かった。
クラス委員長として、早乙女の忘れたノートを奴の家に届けてあげたい。そんな嘘を適当にでっちあげると、担任から奴の住所を聞き出すのは簡単だった。優等生という仮面をかぶり続けるのも正直面倒ではあるのだが、こういう時、信頼は常に役立つ。個人情報保護がどうとか、生徒の情報を引き出そうとすれば何かとうるさいにも関わらず、担任は私に嬉々として住所を教え、しきりと感心している様子ですらあった。わざわざそこまでクラスの連中のことを気にかけてくれるなんて、と。雑多な学校業務で忙しい教師からすれば、私のような世話焼きタイプの委員長を、重宝するんだろう。そこまで見越しての仮面なのだから、当然だ。私は坂延と宮下を、早乙女の家にやらせた。
電話で入った宮下からの一報、若い女が早乙女の家にいると言う。早乙女に兄妹はいない。少々強引だが、連れてくるよう二人に命じて、今がその待ち。
冷えてきた夕刻の空気が部屋の中に忍んでくるようで、障子を閉めたちょうどそのとき、
「何をするんじゃ! 離してぇ!」
若い女の悲鳴に似た声が、勝手口の方から聞こえてきた。
向かうと、目隠しをされた女が両脇を宮下達に抑えられ、逃げようと必死にもがいている。
「連れて来たか。」
「ああ、お嬢様。」宮下がうなずいた。
「この女、結構暴れるもんですから、手こずってしまいました。どうします?」
「とりあえず、座敷牢にでも入れておけ。」
座敷牢、と自分で口にして、その言葉の放つ古めかしい陰湿さに、私は思わず顔をしかめた。先代か、先々代か知らないが、窓のない畳敷きの部屋に太い格子で蓋をした、座敷牢を作った者が自分の家系にいるのだ。誰を閉じ込めるためだったかは知らないが、昔、悪さをしたとき一度だけ、入れられた記憶がある。屋敷の奥深い場所にあるものだから、静けさゆえに感じる孤独は半端じゃなかった。あまり好んで近づきたい場所じゃなかったが、こういう時にはうってつけだった。
屋敷の奥へ歩くにつれ、廊下の四隅に粘り着くような闇が溜まり始める。古びた錠前の鍵を開け、女を連れた宮下達と共に牢の中へ入ると、目隠しを取らせた。
天井からぶら下がった裸電球のスイッチを入れると、部屋はほの暗い闇の中からかろうじて浮かび上がった。
「あまり手荒なことはできねぇんだ。おとなしくしてくれよ。」と、坂延、目隠しを外しながら困ったように言う。
不安そうな顔で周囲を見回す女。女、というより、まだ少女と呼ぶべき年齢か。自分とさして変わりない。
「ここは、どこじゃ・・・。」
「牢の中、とだけ言っておこう。」私は答えた。
「牢・・? どうしてうちを・・・?」
「お前、早乙女久郎の何だ?」
「え?」
「早乙女に兄妹はいない。まさか、母親とは言わないだろうな。」
「母親じゃないけぇ・・・。」
「じゃあ、いったい何だ? なぜ早乙女の家にいる?」
「それは・・・。」
少女はうつむいた。閉ざしかけた心を強引に開くのはこのタイミングだ。あきらめと恐怖、主と従の関係を擦り込むべきもっとも効果的な瞬間が、今だ。私は私の経験が囁くままに、右手を上げた。
少女の頬を張り倒そうと振った手はしかし、最後まで振り切られることはなかった。
「お嬢様。ここで暴力というのも大人げないでしょう。」
宮下につかまれた手首は、びくともしない。
「宮下。その手を離せ。力づく、という手段には、最も効果を発揮する時期がある。それが今なんだ。」
私がそう言ってにらむのに対し、横から坂延も加わる。
「そうは言いますがね、お嬢。無理矢理連れてきたあげく、頬をはたいて言うこと聞かせるってのは、ちょっと雑すぎる気がしますぜ。」
宮下は、
「そうそう。結構可愛らしい子なわけですし、言うこと聞かせる方法なんて、いくらでもあるわけですよ。身体に聞くとかね。」
と、張り付いた笑みのまま言うのだった。
宮下の言葉を聞いた少女が、座り込んだ格好のまま、おびえた表情で後ずさる。
「ちっ。だったら好きにしろ。」私は宮下の手を振りほどいた。
「ええ。そうさせてもらいます。」
宮下は坂延と目配せすると、少女を囲むようにして近づく。
「やっぱり、同時がいいかな、坂延。」
「ああ。その方が手っ取り早いだろ。」
二人の会話に、少女は涙を浮かべながら、消え入りそうな声でつぶやいた。
「な、何するん? やめて・・・。」
おびえきった少女の顔に、同情しないでもなかったが、まぁ、言葉で説得するより確実だ。私は奴らの背後から仁王立ちのまま、その行為に及ぶのを見つめた。
「や、やめ・・! きゃあ! やぁ!」
「ほらほらほらぁ!」
「ここか、ここがいいんだな?」
宮下達の責めが始まった。
「まったく、何が楽しいんだか。」坂延と宮下、二人の趣味にはさっぱりついていけない。いや、ついて行きたくもないわけだが。
少女の両側にかがみこんだ二人は、その脇をくすぐり始めたのだ。
「あはっ、あはははっ、や、やめてぇ!」
アホらしい責めではあったが、この少女もかなりの笑い上戸らしい。宮下達の執拗な責めに激しく身悶えつつ、息も切れ切れ抵抗しようとするあたり、相当効いている。
「あははははっ!」
「もう一息か・・! お嬢! 寛次郎を!」坂延が私に催促する。
「分かった、分かった。おいっ! 寛次郎! いるか!」
私が大声で呼べば、ととっ、ととっ、リズミカルな足音を響かせ、柴犬の寛次郎が、わわぅ、と嬉しそうに牢へ飛び込んで来た。
宮下が少女の靴下を引っ張って、強引に脱がす。
「はぁ、はぁ・・。な、何を・・?」
上気した顔で尋ねる少女へ、さらなる責めが加わる。宮下の命じるところ、
「舐めるんだ、寛次郎!」
号令一下、寛次郎は少女の足裏をベロベロと舐め繰り回し始めた。
「きゃーっ! あはははっっはぁぁ!」
両脇を宮下達、足の裏を寛次郎に責め立てられ、少女は悶絶寸前だ。
「わ、分かったから・・! もう、やめてぇ!」
息も耐えそうな少女を見下ろしながら、私は宮下と坂延に命じた。
「やめろ。」
楽し気に足の裏を舐め続ける寛次郎、やめろと言っても聞きそうにないので、首輪をつかむと強引に引きはがす。
「名前は。」私は少女に聞きただす。
服は乱れ、艶かしさすらある息をつきながら、
「目処千・・・、ナツ・・。」
つぶやくように言った。
メドチ・・。ここらでは聞いたことのない名だ。
「目処がつくの目処に、千。伏見園にいたんよ・・。」
「フシミ園?」
首をかしげて聞き返す私より、宮下が反応した。
「伏見園ですって?」
「知ってるのか、宮下。」
「ええ。老人ホームですよ。」
「老人・・。お前、目処千、と言ったな。いったい何歳だ?」
「・・・・。」
目処千の襟をつかんで引き寄せる。
「何歳だ、と聞いてるんだ。」
「・・・八十八。」
「八十八、だと・・?」坂延が信じられないといった風におうむ返した。
八十八・・・。どう見ても。どう見てもこの目処千、外見は十八くらいにしか見えない。外見の年齢に見合わない、妙な落ち着きを感じるのもその歳故か。目処千の言うことが本当なら、七十年若返った。そういうことになる。
「ふ、ふふふ・・。」
こらえきれない笑みが私の口から漏れる。
「はははっ! やったぞ、宮下、坂延! 儀式は成功していたんだ。作用する場所に問題があっただけで、若返りは発動したんだ。」
坂延も興奮した様子で、
「やりましたね、お嬢! これでようやく。」
「ああ。白面水の実現に一歩近づいた。」
「ハクメン水?」今度は、目処千が私に聞いた。
「若返りの水だよ。国境によらず、世界の万人が、喉から手が出るほど欲しがるものだ。」
「そんなものを作って、どうするつもりなん?」
「どうするつもり、だって? 売るに決まっているだろう。富だ! 巨万の富を得ることができる。これでようやく、傾いた地鏡家を再興することができる。」
「再興? こんな大きなお屋敷を持っているのに?」
「・・・ああ?」
上機嫌に水をさすようなことを言う目処千を、私は思わずにらみつけた。
はっ、と、息を吞む宮下、坂延が緊張するのを感じる。
「そうだよ。再興だ。私の目的はあんたにとって関係がない。しばらく、牢でおとなしくしていろ。」
「・・・・。」
「行くぞ、宮下、坂延。」
「はい、お嬢。」
「寛次郎も、来い。」
私は乱暴に錠前の鍵を掛けると、座敷牢を後にした。
廊下を歩きながら、宮下、
「しかし、お嬢様、あの目処千、とかいう娘、さらってきたはいいですけど、どうします?」
と、従前からあったのであろう疑問を口にした。
坂延は不思議そうな顔をして、
「どうするって、宮下。いろいろ調べて、若返った原因を探るんだろう。若返りの作用が、水じゃなくてあの子に出た原因てやつだ。」
と、宮下に返す。
「何を、どう調べるんだ。若返りの作用、なんておよそ常識では説明のつかないことが起こってるんだぞ。あの娘を裸に剥いたところで、何が分かるもんでもない。細胞レベルで調べれば、体組織が若いですね、くらいのことは分かるんだろうが、なぜ、という部分を汲み取れるかとは、別の問題だ。」
そこについては、私も宮下と同意見だった。若返りの証左が欲しいばかりに目処千を連れて来させた挙げ句、部屋に閉じ込めたはいいが、ここから先の案に乏しい。焦りが迂闊な行動を呼び込んだような気もしてしゃくだったが、とにかく、サンプルとしての価値は、十分な目処千だ。
私は、後ろを歩く宮下へ振り向かないまま言った。
「とりあえず、若返ったときの状況を聞き出す。張った結界の作用する場所に問題のあった可能性が、一番高いと踏んでいる。儀式を行う場を変えてみる。」
「ああ、その線ですか。それは確かにあるかも知れません。少なくとも、若返った人間が実際にいた、というのは大きな前進でしょう。あの石、苦労して作った甲斐がありましたね。胡散臭いとしか思えませんでしたが。」
「宮下、お前、そんな風に考えていたのか?」
「おっと。失礼しました、お嬢様。つい本音が。」
つい、じゃないだろう。絶対に、わざと言っているのだ、この男は。
「ふん。実現できなきゃ眉唾だったのは、否定しない。実績なんて、文献の向こう側ででっち上げられた、作り話の可能性だってあったわけだしな。」
老石。
あの不思議な石を知る、そもそものきっかけとなったのが、蔵の中にあった古い文献だった。うちの先祖が書いたものらしいが、若返りの薬効があるとされた白面水なるものを作って、それが大いに売れた。地鏡の礎となった江戸の先祖、地鏡弥平、その人が、白面水の作り方を書き残していたのだ。
書き残したといっても、メモ書き程度の乱雑なものだし、文脈も激しく前後し読みにくいことこの上なかったが、ようやく割り出したのが、老石、と弥平が呼ばわった石の存在だ。カオリン粘土に、レアプラントとなる甘草を大量に練り込み焼き上げた石、とされるが、詳しい製法は分かっていない。ただ、蔵に残されていた唯一その石を使って、柊で張った結界の中、十九未満の人間の涙により若返りの水ができると。
こんな話、宮下でなくとも胡散臭く思って当然なわけだが、弥平の代から地鏡の名が上がったのは、どうやら確からしい。
目処千の存在が裏付けとなり、白面水実現に向けて、大きく前進したのは間違いなかった。
興奮が少し収まると、今まで気づかなかった空腹であることを思い出す。
「坂延、飯。」
「分かりました、お嬢。今準備しますんで、少しお待ちを。」
坂延はうなずくと、重機みたいな足音を立てて、台所へと駆け去る。
背後に向かって私は付け加えた。
「目処千の分も忘れるな。」
「分かってますって。」
あの男、ごついなりをして料理はうまいのだった。
焼き鮭に白米、ナメコの味噌汁、ほうれん草のおひたしというこざっぱりした夕飯ができると、膳を持った宮下が私に言うところ、
「お嬢様。あの娘に食事を持って行きますね。」
それを私は差し止めた。
「いや、私が持って行く。」
「いえ、わざわざお嬢様に行っていただくことでは。」
「いいんだ。話もある。二人分、膳に載せろ。」
「・・・分かりました。」
宮下の奴、目処千のことをその名で呼ばなかったり、食事を持って行きたがったり、あいつにしては珍しく、分かりやすい行動を取る。なんのことはない、目処千をさらったことに対して、良心がとがめているのだ。だから、距離を取って相手を人格と認めようとせず、飯を与える行為によってささやかながら、罪の償いにあてがおうとしている。
こうして、食事を与える役割を宮下から替わった私自身、償いという行動を無意識の内に取ろうとしている、そんな考えが頭をよぎった。少なくとも坂延と宮下、二人に対して無茶をさせたのは認めざるをえないところだった。
座敷牢まで戻ると、
「あ。もしかして、ご飯? 食べさせてくれるん?」
笑い過ぎてふっきれたのか知らないが、閉じ込められているという自覚があるのかないのか、明るい顔をしてそんなことを言う目処千だ。
「そうだよ。空腹で倒れられても困る。」
鍵を開けて中に入り、膳をはさんで目処千の対面に座った。
「あ〜、お腹空いとったけぇ、嬉しいのぉ。食べてもええかな?」
あごだけ差し向けて、いい、と合図をした。
「じゃあ、いただきます。地鏡さんも食べんさい。」
「気安く名前を・・・。」
呼ぶな、と言いかけて、やめた。八十八という実年齢のせいか知らないが、目処千の態度には有無を言わさぬ落ち着きがある。
「おや、美味しい。いい塩梅じゃのぉ。地鏡さんが作ったん?」
「坂延だよ、作ったのは。」
「坂延って、あのおっきい方の。」
「ああ。」
「ほうか。人は見かけによらんものよのー。ああ、ほいでな、地鏡さん。さっきまで、あの犬、寛次郎君と言ったか、あの子がここにおったんよ。」
「何?」
「見張りのつもりかのぉ? 撫でたら、えらく喜んでたんよ。」
「あの馬鹿犬・・・。」
見張りなどと殊勝なことをする奴じゃない。もの珍しい客の来訪だと、遊びに来ただけの話だ。
「結構よぼよぼしとったし、おじいさん犬じゃの。」
「犬のことはいい、目処千。それより、お前、若返ったとき、どこにいた。」
「ああ。一度な、うち、気を失ったんよ、園の中で。それから気のついたら神社の境内に倒れてたんじゃ。」
「神社?」
「そう。西の町外れにあるじゃろ。もう荒れ果てて、人も寄りつかん場所じゃがの。そこで目を覚ましたら、若返っていたんじゃ。」
気がついたら若返っていた、というのもずいぶん非現実的な響きをもつ物言いだが、ここで嘘をつくメリットは目処千にない。
それが事実だとして、神社は結界の外側に位置する。何か、気脈の抜け道のようなものがそこへ繋がっているのか。盲点だった。
「地鏡さん。」食べる箸を止めて、考え事をする私に目処千が言った。
「何だ。」
「ひとつ、聞いてもええ?」
「言ってみろ。」
「さっきの話の続きじゃけど、こんな大きなお屋敷に住んでるのに、どうしてその、ハクメン水? というのを作るつもりなんじゃ?」
「その話か。お前には関係ない。」
そう言いながら、なぜか、見つめる目処千の瞳に私は抗えない気がした。
「・・・空なんだよ、この屋敷は。家具も、財も、人も入っていない、空っぽの抜け殻だ。クソの役にも立たない形が残っているだけだ。」
「空っぽって、それでも、家族はおるんじゃろ。」
どうもやりにくい。見た目の年齢は私とたいして変わらないにも関わらず、一歩も退かない圧力で、ぐいぐいと押してくるような。
「家族なんて、とっくの昔にばらばらだ。親父は先細りする家の財力も気に留めず、児童養護の慈善事業とやらに現をぬかして借金作った挙げ句、病気であっさり死んだ。母親は弟だけ引き取って、さっさと実家に帰りやがった。屋敷の名義は、会ったこともない叔父のものになっている。」
話すつもりもない話を、べらべらと続ける自分に腹が立ちながら、私はそれでも、言葉を止めることができなかった。
「弟だけって・・。」
「気に入らなかったんだろ、私のことが。表面だけ良い子の振りして、中身はこれだからな。本質的にかわい気のない娘は、手に余るとでも考えたんだ。」
「そうなん・・・。たいへんじゃったな。」
薄っぺらな同情なんていらない。反発しようとして、私は口をつぐんだ。目処千は心底、たいへんだったと、そう言っているようにしか見えない。考えてみれば八十八という年齢、目処千もまた、様々な辛苦を乗り越えてきたことに違いはなかった。どんなに平凡な人間でも、それなりの山や谷は必ずあるのだから。
「家財、骨董の類い、売れるものはすべて売って、ようやく借金だけは返したがな。ここはもう、ひからびた茄子も同然、何も残っちゃいないんだ。」
「それをお金で埋めよるん?」
「・・え?」
埋める、という目処千の表現に、私は思わず間の抜けた返事をしてしまった。何を埋めるといんだ。
「空っぽになっちゃったんじゃろ。家も、地鏡さんも。だからそれを、富で埋めるんかってことじゃ。」
「それは・・・。」
そう、なのか?
傾いた家を再興する。それを自分の目標とすることで、私はひどく落ち着いた気分になる。再興さえ為せば、再び興せば、すべてが元通りになると、そう信じてきたからだ。
だから金がいる。金がいると、そこまでははっきりしているのだが、空っぽになった私の人生を、富で穴埋めしようとしているんじゃないかという疑念、それはひどくあやふやで、私の存在をおびやかすような不明瞭さを帯びている。このはっきりしない部分を、私は否定しきることができなかったがまた、認めることもできなかった。目処千の疑問は、私自身の行動に説明をつけなければならない、切実で愚直にして、非情な切迫感を眼前につきつけるのだった。
急にゆらゆらと足下が揺らぎ出したような気がして、私は思わず箸を置いた。
「・・・・。」
「でも、地鏡さん。坂延さんと宮下さんて、あの二人がおるんじゃろ。ご飯も作ってくれる、優しい人達じゃろ。昔から、何か縁があったん?」
「縁なんてない。大学で暇そうにしていた二人を、はした金で雇っただけだ。給料を払えなければ、出て行く奴らだ。」
「ほうかの。あの人達、結構地鏡さんのことを心配してるようじゃったけぇ、てっきり、昔からの付き合いかと思った。」
「心配してる、だと?」
宮下達に心配されているつもりなんてこれっぽっちもなかったし、そもそも、心配などされたくもない。目処千の目に何が映ったか知らないが、迷惑な勘違いだった。
「心配なんてされてるつもりはない。」
「ほうじゃったかの。お兄さんみたいな感じじゃったけど。」
「冗談じゃない。あの二人に兄貴面されるくらいなら、とっくに追い出してる。」
「ふぅん。」
ずず、と味噌汁をすすりながら、目処千は上目で私を見た。
「地鏡さん、無理とかしとらんかの?」
「なぜ私が・・。そう見えるのか。」
「うん。」
「目処千。勘違いもいい加減にしろ。さっきからお前が言ってることは、ことごとく事実に反してる。」
「本人の気づいていない事実も、色々あると思うんじゃがの。」
「気づいてないわけない。適当なことを言うな。」
「適当なことは言っとらんけぇ。うちが思ったことをそのとおりに言ってるだけじゃ。」
「・・・・。」
目処千のリズムに呑み込まれるのが嫌で、私はむきになって言い返した。
「この状況、理解してるのか。無理矢理さらわれて、閉じ込められて。」
「だから、しょげかえっていろとでも?」
「む・・。そ、そうだ。」
「でも、地鏡さんも宮下さん達も、ラインは越えんじゃろ。」
「何の?」
「人としての。」
私は乱暴に、目処千の襟首を片手でつかんだ。
「越えない保証なんて、どこにもないんだぞ。」
「・・・やれるん?」
真っ正面から見返す目処千の瞳は、まるで揺らぎない岩盤みたいだった。
「・・ちっ。」
つかんだ手を私は離した。どうあってもひるまない核心、目処千にはそれがあった。この手の輩は暴力、脅しには容易に屈しない。あるいは、目処千の経験してきた修羅場ゆえ、なのかも知れない。
「ああ、そうじゃ、地鏡さん。」
目処千は何かを思い出しように、唐突に言った。
「何だ?」
「畳に座る時、あぐらはかかん方がええよ。女の子じゃけぇ。」
まったく、目処千相手では調子が狂う。
「家でどんな座り方しようと、私の勝手だ。」
「だめじゃ。こういうのは心がけの問題じゃけ、普段からきちんとせんといけんのよ。ほら。」
「うるさいなぁ。」
私はしぶしぶ、あぐらを解いて正座した。誘拐した相手に座り方を注意されるとは思いもよらなかったが、目処千の態度はどこか、有無を言わさないものがあった。
「うん。きれいになった。」
「はぁ? 私の座り方なんていいから、食べてしまえって。」
「はい、はい。今食べるけぇ、ちょっと待って。」
目処千と私の不可思議な夕餉の席は、こうして束の間続くのだった。