チャプター8 老石
「何のつもりだ、こんなところに呼び出して。」
地鏡の目が細く光る。放課後の屋上に俺と地鏡、それ以外にひとけはなかった。
「話があるんだ。」
俺は地鏡の視線に気押されそうになりながら、必死でその圧力にあらがった。そうでもしないと、心がしぼんでなくなりそうだ。
「当然だろうが。用もなく私を呼び出してみろ。確実に病院送りだぞ、早乙女。」
「涙を、集めてるらしいな。」
「・・・何?」
「十分な量は集まったのか?」
「・・・早乙女。そのこと、どこで・・・? ・・倉田か。」
「ああ。地理準備室で、倉田の涙を回収しただろ。あれを見てたんだ。」
「だからどうした。」
地鏡の表情から、動揺の色は見えない。
「お前には関係のない話だ。」
「関係はない、か。地鏡から見たら、そうなのかも知れないけど、俺には関係があるんだ。」
「・・・・。」
「その涙の使い道を、俺が知っていると言ったら。」
「早乙女・・。面白いことを言い出すな。言ってみろよ、その使い道。」
「若返り。」
そのひとことで初めて、地鏡の目が一瞬揺らいだ。
「人を若返らせようとしてるらしいじゃないか。」
「・・・・。誰からだ?」
「?」
「誰にその話を・・・、いや、屋敷に忍び込んだあのガキか。お前とつながりがあるんだな、早乙女。」
「そうだよ。エリベルは俺の・・、まぁ妹みたいなもんだ。」
と、あえて虚飾を織り交ぜる。
「妹みたいなもの? ふん。それで、そのエリベルとやらに忍ばせて、いったい何をたくらんでいる。」
「それはこっちのセリフだ、地鏡。若返りの薬でも作って、金儲けでもしようっていうのか。」
「ああ、そのとおりだよ。金儲けだ。若返りの薬。巨万の富を得るのも容易だろう。」
「何のために?」
「何のために、だと? 生きるためだよ。決まってんだろうが。行動原理に金をすえて、何か問題でもあるか。人間を見ろ。食い物を喰い、生きて呼吸するそのためだけに金がいるんだ。この社会においてはな。金を稼ぐってことは、生きるってことそのものなんだよ。早乙女、何のために、と言ったな。その問いが意味するのは、何のために生きてるんだと、そういう疑問に等しい。私にそんな愚問を向けんな。反吐が出る。」
何だか、地鏡は妙にイラついてるようだった。聞かれたくない質問を、怒りに任せてごまかしている。そんな風にすら見えるのは、俺の気のせいか。
地鏡は続けた。
「それで、お前は何だ、早乙女。なぜ、こんな話を持ち出す。自分にもその分け前をよこせと言うつもりか。」
「いや、違う。分け前なんか別に欲しくない。」
「じゃあ、何だ。鬼庭の件か。」
「・・ああ、そうだ。鬼庭を無視させるの、やめてくれ。」
「ふん。嫌だね。私がお前の言うことを聞いて、何の特になる。」
「老石のこと、黙っててやる。世間に漏れれば必ず食い物にされる話だ。ばらされたら困るだろう。」
「・・・・いい度胸だな、早乙女ぇ。私を。」
吐息がかかりそうなほど、地鏡が距離を縮めてにらみつけてきた。
「脅すつもりか。」
「お、脅してなんかいない。条件を交換してるだけだ。」
「・・・・いいだろう。」
地鏡はうなずいて、携帯を取り出しすばやく何かを入力した。
いきなり、何をし始めるのかと俺が見る前で、地鏡は信じられないことを言った。
「やめさせた。」
「え?」
「鬼庭の無視を解除した。」
「解除って、そんな簡単に? 本当か?」
「私を疑おうとお前の勝手だが、こちらの条件は果たした。あとはお前が黙っていさえすればいい。」
「・・・・。」
「ただし。もしお前がこの交換条件、破るようなことにでもなれば、早乙女。お前、この学校にいられなくなるからな。そのつもりでいろ。」
地鏡がそう言って立ち去ろうとする。本当かどうか、真偽はさだかじゃないけれど、とにかく、鬼庭への、存在を無視させるという攻撃はいったん止んだはずだ。ただ、これだけじゃ足りない。
欲しいのはもうひとつ。目処千から奪った時間だ。
「地鏡。」
「ああ? 何だ。まだ何かあるのか?」
「その、老石ってやつ、うまく動いていないらしいな。」
「だからどうした。お前がどうにかできる話じゃない。」
「俺がどうにかはできないけれど・・・。」
「・・・・?」
「なぁ、地鏡。若返りの仕掛けが何なのかなんて俺には分からないけれど、もし、もしも本当に若返ったとして、その後はどうなる?」
「その後? 決まってる。若返った肉体で第二の人生を謳歌するんだろう。できなかったこと。やろうとしかけて失敗したこと。後悔。そんなものを全部リセットして、やり直すんだ。強くてニューゲームだ。経験がある分、うまくいくだろう。何より、失ったものを取り戻したいという願望は根強い。若返ったという、ただそれだけで満足する奴もいるだろうな。」
「もしも、その若返りが不本意なものだとしたら。」
「あ?」
「つまり、やっぱり元に戻りたいと思った人間がいた場合、元に戻れるんだろうか。」
「そんな奴がいるとは思えないが、もし、仮にいたとして、それは可能だ。」
きた。
「可能なんだな。」
「ああ、簡単だ。老石を割れば─。」
地鏡はそこまで言って、口をつぐみ、俺を見つめた。
「まさか、早乙女、その言い方。「いる」のか? 本当に若返った奴が。」
「それは・・・。いや、もしもの話だ。」
「私に隠し立てして、ろくなことにはならないぞ。」
俺の襟をゆっくりとつかみながら、目の前で地鏡の眼鏡が光る。
「・・・・・。」
俺は地鏡の凝視に耐えかねて、目を逸らした。それでも地鏡は、間近に顔を寄せて俺を見つめ続ける。空気が、俺達のいるこの屋上の空気が凍ってしまったような錯覚を、俺は感じていた。
「・・・ふん。あくまでも白を切るか。いいだろう。それもお前の選択だ、早乙女。せいぜい、後悔だけはするなよ。」
「後悔・・・。」
地鏡は襟から手を離すと俺の肩に手を置いて、それから校舎内へと姿を消した。地鏡の手から伝わる不屈の意志が不気味だった。目処千のことを黙っていたのは失敗だったか・・? それでも、目処千を元に戻す方法が分かったのは大きい。
老石を割る。
いたって単純かつ乱暴なやり方だが、それで、目処千の願いを叶えることができる。俺はいっそ、嫌な予感を屋上に残して帰りたいと考えながら、その場を後にした。
家路、長く伸びた西日の作る影を追いかけるようにして歩いていると、後ろから乱暴に背中を叩く奴がいる。
「早乙女っ!」
「いてっ! 鬼庭か。いちいち背中を叩くなよ。」
「校舎から出てくの見かけたから、追いかけてきた。いいじゃん。減るもんじゃないし。」
「減らないものだったらやってもいいって理屈、通るほど世の中甘くないんだよ。そのセリフに、何度期待を寄せて裏切られたことか。」
「期待を? 何に?」
「減るもんじゃないから、胸を触らせてというコンテキストに、だよ。」
「そんなん無理に決まってるじゃん。それでオッケーする人がいたら、痴女だよ痴女。だいたい、減るもんじゃないって言うけど、確実に減ると思うよ。」
「何がだよ。」
「乙女度。」
「減るものなのか。」
「そりゃそーよ。ほいほい胸を触らせる女の子に、純真可憐な乙女のイメージを重ねることができる?」
「・・・・無理だな。」
「そうでしょ。だから、減るものがないって発想自体、間違ってると思うのよ。」
「まぁ、減るも何も、始めから触るものがないって奴もいるけどな。」
俺は鬼庭のまな板に視線をやりつつ言うのだった。
「ああ、いるいる、って、それはつまり、私のような板女ってこと?」
「自覚はしてるんだな。」
「早乙女。それは言い過ぎってもんよ。だいたい、私は着痩せするタイプなの。脱いだらすごいことになってるの。」
「妖怪でも入ってるって、言うんだろ。」
「妖怪?」
「ああ。確か、ぬ・・、ぬ・・・。」
「ヌリカベ。」
「そう、それ。」
「ヌリカベなんて入ってない! そんなに言うなら、確かめ・・・!」
「確かめる? どうやって?」
鬼庭、自爆。自分で言いかけて、顔を赤くし黙り込むから苦労はない。
「むぅ・・・。確かめ・・、はできないけど、とにかく、壁じゃないのは確かなのよ。」
「壁ではないんだろうけど、限りなく壁に近いってことに変わりはない。」
「ゼロじゃないぶん、可能性があるってことよ。いいのよ。これからどんどん成長するんだから。」
成長の伸びシロはすでに半ばまで使い果たしたんじゃないかとも思うのだが、それ以上言うのはやめたげた。
「ところで、早乙女。学校出るの遅かったみたいだけど、何かやってたの?」
「ああ。地鏡に話を聞いてた。」
「地鏡ちゃんに? 大丈夫? 何もされなかった?」
「まぁ、見てのとおり、殴られはしなかった。襟首はつかまれたけど。」
「地鏡ちゃんに会うつもりなんだったら、私にも言ってよ。一人じゃ危ないよ。」
「危ないのは分かってたけど、いろいろ、サシで話すこともあったからな。」
鬼庭の件とか。
「それで、何か聞き出せた?」
「ああ。目処千が元に戻る方法、案外簡単かも知れない。」
「ホント? どうするの?」
「エリが言ってた、例の老石。あれを割ればいいらしい。」
「老石を割る・・・。それだけ?」
「そう。それだけ。」
「・・・・・。」
「何だよ。簡単だろ。」
「やる内容自体は簡単かも知れないけど、実際、やるのは難しいんじゃない?」
「難しい?」
「だって、その石、地鏡ちゃんにとってもすごく大事なわけじゃない。それを割るって。こっそり忍び込んで手に入れるでもしない限り、私達に触らせもしないでしょ。」
「あ・・。確かにそうだな。実際、どうやって割るに至るかまでは、考えてなかった。」
「見せて、って地鏡ちゃんにお願いしても・・・。」
「ダメだろうな、絶対。」
「いっそ、無理矢理奪うって方法も考えなきゃだけど。」
「地鏡から無理矢理、か・・・。」
俺は地鏡から無理矢理、老石を奪う光景を想像してみた。
・・・・・。
だめだ。どう考えても血みどろの修羅場にしかならない。地鏡相手じゃ、地獄の果てでも石を離しそうにない。
「無理矢理ってのは、厳しいかも知れないな。あとは、こっそり忍び込んで手に入れる、とか。」
「うーん。それって、盗み出すってことでしょ。」
地鏡が渋い顔をした。その表情の示すところには、俺も同感だった。いくら相手が地鏡とはいえ、他人のものを盗んで壊す、というのも後味が悪い。
けれど、
「盗むっていうのも聞こえが悪いけどさ、そもそも、目処千の年齢を盗んだのは地鏡達ってことでもあるからなぁ。意図して目処千をターゲットにしたわけじゃないだろうけど、盗られたものを取り返す、って倫理的な言い訳は成り立つよな。」
俺はどうにかして、自分を正当化させる理屈をひねり出してみた。
「取り返す・・。そうね。そうだよね。盗むんじゃなくて、取り返す。だったら、いいのか。でも、具体的にどうするの?」
「そうなぁ。もう一度、エリに頼んで地鏡の屋敷に潜り込んでもらうか・・。」
「でも、エリちゃん、一度忍び込んでるんだよね。地鏡ちゃん達、ものすごく警戒してそう。簡単に入れるものかな?」
「そこだな。二度目もすんなり入れるとは思えないし、陽動作戦でも立てないといけないだろうな。」
「よーどー?」
「何か別の出来事に気を取らせるってことだよ。俺や鬼庭が正面から押し掛けるとかしてな。」
「そっか。じゃあ、それでいこうよ。」
「でも、そんな単純な手に引っ掛かるかな、あの地鏡が。」
「作戦なんて、案外単純な方がうまくいくもんだよ。空手だってそうだし。理屈をこねまわすより、相手ガードの苦手な場所をひたすら狙うとか、そんなんが効果的なものよ。」
「・・よし。じゃあ、俺と鬼庭で正面から、エリと、それから目処千にも手伝ってもらって、地鏡達の隙に乗じる、ってとこだな。早い方がいい。今夜さっそく、やってみよう。」
「おー!」
「あ、そうだ。」
「なになに? まだ他にも作戦があるの?」
「いや、作戦じゃなくてな。鬼庭が、みんなに無視されてる今の状況。」
「あ・・・、うん。」
明るかった鬼庭の表情が、急に曇った。元気そうに振る舞っていても、やっぱり、精神的にかなりこたえているんだろう。それはそうだ。学校で友達から無視されるなんて、針のムシロ、辛いものを食べ過ぎた翌朝のお腹みたいに、心がちくちく痛んでしょうがないんだろう。
「地鏡に話したんだよ。」
「地鏡ちゃんに?」
「ああ。やめさせた。」
「え? やめさせた、って・・・。」
「交換条件だよ。老石のことを黙ってるかわりに、鬼庭を無視させるの、やめてくれって。」
「ほんとに・・? 地鏡ちゃんは、なんて?」
「条件を吞んだ。すでに鬼庭の包囲は、解除されたはずだよ。たぶん、無視もなくなるんじゃないか。実際のところ、明日にならないと分からないけどな。」
「・・・・・。」
「って、おい、鬼庭・・・。」
俺は焦った。鬼庭、喜ぶのを通り越して、泣き出してしまったのだ。
「あの、あのね、早乙女。」と、鬼庭涙声で言う。
「・・・ありがと。」
鼻水を垂らしながらの鬼庭を見て、俺は、地鏡と話をつけられてよかった、心底そう思うのだった。能天気な鬼庭といえど、地鏡のやり口はかなりこたえていたんだ。
「いいよ、別に。目処千を元に戻すついでだから。」
「うん・・・。」
ぐい、と勢いよく、袖で涙を鼻水ごと拭い取ると、鬼庭は、へへ、と笑った。久々に見る、ミカンみたいに爽やかな、鬼庭の笑う顔だった。
鬼庭と一緒に、家へ帰ってドアを開けた途端、飛び出してくるのはエリだ。勢い余って俺とぶつかる。
「お、おい、エリ。どうしたんだよ。」
「ぬぁ! 早乙女殿か。大変ぞな!」
「何がたいへんなんだ。」
「ナツがおらん!」
「ええ?」
「お使いから帰ったら、どこにもおらんに。」
「どっか出かけたとか・・・。」
「窓を開けっ放しの、洗濯物を取り込んでる途中でか?」
「え?」
俺と鬼庭は騒ぐエリを先頭にして、庭と出入りできる窓のところまで走った。レースのカーテンが風に揺れ、取り残された幽霊みたいにもの寂しい。リビングの窓は大きく開け放たれたままだった。洗濯後の渇いたシャツが数枚、床に置いてある。エリの言うとおりだ。
「どういうことだ・・・?」
つぶやくように言う俺へ、エリが返す。
「状況から察するに。」エリはそのまま庭へ降りて、かがみこむと地面を凝視する。
「誰かにさらわれた可能性があるに。」
「さらわれたって、いったい、誰に?」と、鬼庭が心配そうな顔で言った。
「・・・・。」
この状況、目処千をさらう可能性なんて・・・。
「地鏡。」
「地鏡ちゃん。」
俺と鬼庭は同時に言った。けれど。
「地鏡が目処千をさらった・・? いや、例の坂延、宮下って二人にやらせたのか。それにしても、動きが早すぎる。屋上で地鏡と話をしてから、まだ三十分もたってないのに。」
俺は地鏡の圧倒的な行動力に、冷や汗が出た。
老石によって、若返った人間がいる。そうほのめかしたのは確かだけれど、まさかあの会話だけでここまで現実的な行動に出るなんて。地鏡の執念じみた意志が、目処千の誘拐というかたちで結実したというべきか。夕闇に揺れる洗濯物が、俺達を嘲笑うみたいに揺れた。
「行こう、地鏡のところへ。」俺はエリと鬼庭に言った。
「賛成ぞ。カチコミをかけるに。」エリが勢い込んで言った。
「俺と鬼庭で陽動をかけよう。その隙に、エリは裏から忍び込んで、目処千と老石を手に入れてほしいんだ。」
「老石を? そうすると、やはりあれが、目処千を元に戻すキーとなる?」
「ああ。あの石を割れば、目処千は元に戻ることができる。地鏡から聞き出したんだ。」
「分かったに。ふふ。燃えてきたぞな。こういう作戦ぽいの、好きでたまらんが。ナツの奪還作戦、仔細練ろうぞ。」
俺と鬼庭、エリの三人は頭を突き合わせると、どうやって目処千を取り戻し、さらに老石を手に入れるか話し合った。
暗くなりつつある夕暮れから急かされる。目処千は地鏡にとっても重要な存在だ。滅多なことはしないだろうけれど、無理矢理さらうという強引さ、そこに俺は一抹の不安を覚えた。