チャプター5 ナツの時代
目の前の少女、エリのご主人となる人物は、年の頃、十七、八、といったところか。俺や鬼庭と同世代という感じなのだけれど、どうも、外見の印象と雰囲気が合わない。雰囲気だけに着目すれば、二十歳をとうに越えていると言われても納得してしまうような、大人びた雰囲気の垣間見える不思議な子だった。
不思議な子といえば、その格好もまた不可解だった。河童柄のプリントされた、パジャマの上下にサンダルという、ベッドからそのまま起き出してきたんじゃないかという格好で、つまり、神社の裏手でパジャマ美少女にいきなり手を握られるという、人生でもトップクラスの理解不能なシチュエーションに、俺は今、遭遇しているわけだった。
「久郎ちゃん・・・。」
涙にうるんだ瞳で俺を見つめ、握ってくるその子の両手はちょっと冷たいけれど、とても柔らかかった。
「だ、誰・・?」
「うちじゃけ。分からんかいの?」
「うち・・・?」
誰だ。こんなかわいい子が知り合いにいたら、忘れようとも忘れられないはず・・・。
どこかで、見た気がする。顔のパーツ、それぞれに見覚えはないんだけれど、トータルで見たその包み込むような笑顔。いったいどこで・・・?
「バ、バァちゃん? 目処千のバァちゃんか?」
思わず、口をついて出た言葉に、女の子は満面の笑みでうなずいた。
「覚えとってくれたんじゃの。ほうじゃ。ナツじゃ。」
「・・・ぇえ? いや・・・、ええっ? ちょ・・・、な、なんというか、無事で何より・・・じゃない。その・・若いっ!」
鬼庭は、驚く俺と目処千のバァちゃんを交互に見比べながら、ぽかん、と口を開けていた。
「バ、バァちゃん、どういうこと? というか、本当に、君、目処千ナツ?」
「ほうじゃ。」
「伏見園にいた?」
「ほうじゃと言うとるじゃろ。お前さんは早乙女久郎四郎、久郎ちゃんじゃろ。よく世話してくれた。」
「そ、そうだけど・・・。だって、バァちゃん。年が・・・。」
後ろから、事態をよく飲み込めない、いや、俺だって飲み込めてないけど、鬼庭がそでのあたりを、くい、くい、と引っ張りながら聞いてくる。
「ね、ねぇ、早乙女。何がどうなってるの? 探してたのって、その人? 老人ホームから消えちゃった、目処千の、おバァちゃん?」
「そういうこと、になるのか? でも、バァちゃんなんだよ、バァちゃん。88歳の。」
「88? って、全然そうは見えないけど。見えないというか、ありえない。」
「そう・・だよな。やっぱり、そうなるよな。アンチエイジングとか、そういうレベルじゃない。バァちゃんが、若返ったようにしか見えない。」
目処千のバァちゃん(若返りバージョン)は、ますます俺の手を強く握ってうなずいた。
「ほうなんよ。よく覚えとらんのじゃけど、園の廊下で気を失って、気のついたらここで倒れとってな。たまたま、お社の鏡で見えた自分の顔を、最初は誰か他人じゃと思ったくらいじゃもの。でも、違ったんじゃ。確かにうちの顔。どういうことか分からんがの、若返っとったんよ。」
「わ、若返ったって・・・。どうして。」
恐らく、バァちゃん自身にだって説明のつかない疑問を、俺はそれでもぶつけるしかなかった。
「分からんのよ。なぜこうなったか、思い当たるところがまったくないけぇ、うちも困っとったんじゃ。この姿じゃ園にも帰られんし・・・。帰ったところで、誰もうちと信じないじゃろうし。だから、久郎ちゃん、うちがうちだと分かってくれて、本当に嬉しかったんよ。」
うるみがちの瞳で俺を見るバァちゃん。いや、バァちゃんと呼ぶにはあまりにも若すぎる目処千ナツを前に、俺は自分の顔が赤くなって行くのを感じた。
あまりに説明のつかない現実をつきつけられると、人っていうのは何も考えられなくなるらしい。次に何をすべきか、俺の頭はまったくの空白状態で、バァちゃんとただ、見つめ合う形になってしまった。バァちゃん、若い頃はかなりの美人だったんだろうと、園にいた頃よく思ったわけだけれど、やっぱり本当だった。愁いを帯びた瞳と整った目鼻立ち、しわの一本もなくなったつやのある白肌は、すれ違えば振り返られるほどの容姿だった。
「早乙女。早乙女っ。」
「あ? うん? 何だよ、鬼庭。」
「見つめすぎ。ナツさんに失礼だよ。」
「あ、ああ・・。」
「うちは別にええんよ。」
にっこりと微笑む目処千ナツに、再び見蕩れそうになるのを鬼庭はさえぎるように言った。
「あの、ナツさん。ところで、なんでパジャマ姿なんですか。園からいなくなったときも、その格好だったの?」
「違うんじゃ。園で倒れたときは、普通の格好だったんじゃが、ここで気づいた時、パンツの中まで泥まみれのびちょびちょでの。エリに服を買ってきてもらったんじゃが・・・。」
目処千ナツは、ちら、とエリの方を見た。
「似合っとろ? ナツにはベストチョイスぞな。」
どや顔で親指を立てるエリだ。これはエリの趣味だったのか・・・。
「でも、パジャマはないじゃろ。」
ちょっと困ったように言うナツを、エリは不思議そうに見返した。
「なにゆえ? パジャマで出歩くのが、都心に住む者のステータスシンボルと聞いた覚えがあるに。よかろ?」
「そういう場所もあるかも知れんけど、さすがにこれは恥ずかしいわ。おまけに、下着なしのパジャマだけ買うてきて。」
「パジャマだけ!?」
今、さらっとすごいこと言った。すごいこと言ったよね、ナツさん。下着なし・・・だって? つまり、目処千ナツ(88)、い、いや、見た目的には18くらいだけど、この娘、パジャマ「しか」着ていない、そういうことになる、のか。
何が見えたというわけじゃあない。パジャマという布地の下の「状態」が分かっただけだというのに、こ、これほどエロスが増すなんて・・・。俺は頭がくらくらしてきた。
俺のオーバーリアクションをしかし、ナツは自覚があるのかないのか、さらっと流した。
「ほうなんよ。すーすーして肌寒いけぇ、困るんよ。」
「す、すーすー?」
そ、それは確かに、すーすーするでしょーよ。
頭の先から足の指先まで、思わずナツを見渡してしまう俺の脇腹を、鬼庭がひじでど突く。
エリはどこにその根拠があるんだか、勝ち誇ったように続けた。
「目立っていいじゃにゃーか、ナツ。」
「目立ちすぎなんよ。パジャマで商店街とか、歩けんもん。もうちょっと、地味というか、普通というか、そんなんを買うてきてもらいたかったんじゃがの。」
「ナツはもう少し、着飾ってもいいと思うに。昔っから、何だかもさもさした服ばっかり選んで、何だかもったいにゃーが。」
「昔は、選択肢なんてなかった時代じゃし。派手に着飾ってもええことないし。」
「いいことないわけないに。人生、イージーモードが、ヴェリィイージーになる。」
「なんじゃそれ。そもそも、うち、普通の服って念を押したじゃろ。」
「だから、普通の服。毎日着る。」
「毎日は着るけど、それは夜の話じゃ。日中ずっとパジャマ着とるのは、病気のときくらいじゃ。」
「そんなこと言われても、あてはテレパシーなんぞ使えん。普通の服、なんてぼんやりとした注文じゃ、何買われても文句は言えにゃーが。わがままナツ。」
「わがままなんて言っとらんけぇ。わからず屋じゃの、エリは。」
エリとナツ、なんだか喧嘩が始まってしまったが・・・。俺は割って入りながら言った。
「あ、あのさ、バァちゃん。いや、この期に及んでバァちゃんというのも変だな。目処千、だと呼び捨てか。」
「呼び捨てでええよ。学生の頃もそうじゃったし。」
「え、ええと、じゃあ、目処千さ。エリちゃんとは知り合い、だったのか?」
「え?」
エリとの関係を聞かれ、目処千は急に動揺し始めた。
「あ、あんな、エリとは、そうじゃの、あれじゃ。あの・・、友達! 友達だったんじゃ。近所の子での。」
鬼庭が首をかしげる。
「友達・・・? エリちゃんはナツさん・・・、ナっちゃんのことご主人って呼んでたよ。」
「ええ? ああ、それは、エリ、ちょっと変わった子じゃけぇ、そんなん言うたんじゃろ。」
あわあわしている目処千を前に、エリは鬼庭よりも、もっと深く首をかしげながら、
「なにゆえ隠し立てる、ナツ。ナツはあてのご主人であって、友達とは言わにゃーが、この関係を。」
と、不思議がるのだった。
「この関係って、どんな関係なんだよ、エリ。」
俺の問いに、エリは意外な、まったく想定外の答えを返してきた。
「使役する者とされる者。あては式神だによって、ナツは自然、ご主人という立場になる。」
「へぇ。エリは式神なんだ。ふぅん。なるほど・・・・。何だって?」
「聞こえなかったか、早乙女殿。しーきーがーみー、ぞな。」
「式神・・・・。」
俺は思わず、鬼庭と顔を見合わせてしまった。鬼庭も俺とまったく同じことを考えているようで、つまり、いきなり私、式神なの、って言われたとき、どんなリアクションをとればいいのかさっぱり分からない、そういうことだった。
俺は正しい解釈の仕方を求めて、目処千を見た。
「し、式神って、ほんと?」
「ほんとじゃ。」なぜか、顔を赤らめる目処千、消え入るように答えるのだった。
目処千に替わって、エリが続けた。
「早乙女殿。ほら、覚えておるか? ナツが大事にしていた人形があったぞな。」
「あ、ああ。エリベル人形・・・。ってもしかして・・・。」
「そう。あれがあての依り代。正式名称はエリベルシカ・フラグスカヤ。ナツの使う、式神ぞ。」
目を皿のように丸くしながら、鬼庭がエリに近寄る。
「へぇー。へぇー。式神。神様なの?」
「崇め奉る方の神とはまた、ちょっと違うが、八百万の神々、物にも宿るというであろ。その一形態に近い。」
「ふーん。じゃあ、元はお人形ってこと?」
鬼庭は、エリの柔らかそうなほっぺたを、ぷにぷにともてあそび始めた。
「そうなるぞな。」
エリのほっぺたいじりじゃ飽き足らず、鬼庭、今度はエリを抱え上げて、裏返したり、くんくんと匂いをかいだりしているうらやましい。
「お、おい、鬼庭。」
「ああ、ごめんごめん。式神なんて初めて見たから、つい。」
「いや、そうじゃなくて。俺にも貸して、エリちゃん。」
「え、何で?」
「俺もぷにぷにしたり、くんくんやったりしたい。」
「だめよ、変態魔人。」
「いいだろ、鬼庭のケチ。」
「ケチってるわけじゃないよ。エリちゃんはあんたのおもちゃじゃないって言ってるの。」
「幼女と書いて、おもちゃと読むと、何だかどきどきするな、いろんな意味で。」
「そんなどきどき求めないでよ。あんたとつるむ私の存在を否定したくなるから。」
「でもさ。」
俺はさっきから、妙に恥じらい続ける目処千に言った。
「園にいた頃は、こんな、式神? が使えるなんて、全然そういう風には見えなかったけど、隠してたのか?」
「か、隠していたわけじゃないけぇ・・。ただ・・・、その、使えない理由があったんよ。」
「理由?」
「そ、それは絶対に秘密なんよ。絶対。」
鬼庭にだっこされたままの格好で、エリは目処千の恥じらいなどまったく眼中にないといった感じで言った。
「なにゆえ、秘密にする、ナツ。式神を使う条件は、白歯であることぞな。」
「しらは・・・? って何だ?」
「わぁ! エリ、言うちゃあかんじゃろ! 何でもないんじゃ、何でも。」
エリは構わず続けた。
「白歯、つまり、お歯黒をつけてない女のことぞ。処女ってことさの。」
「しょ・・・!」
そういうことなら、納得もいく。目処千のバァちゃんは結婚してたわけで、それが若返って、その、しょ、処女に戻った・・・。式神を使える条件を取り戻した、というところか。
「エリ! 言うたらあかんて言うとったのに、何で言ってしまうの!」
「秘密にしておく意味が分からん。事実は事実として、公にすべきだと思うに。」
「そんな事実、公にせんでええ。」
顔を真っ赤にしてうつむく目処千。恥じらい方が・・・、いい。
「ま、まぁ、とにかく、こうしてエリの協力で俺と目処千が会うこともできたわけだし、その・・・、悪いことじゃないよな。」
「あ、ということはさ。」鬼庭が言った。
「その条件さえ満たせば、式神を使えるってこと? 私でもいける?」
「私でもいけるかって・・・。そ、それはつまり、鬼庭。お前も、その・・・。認めてしまうのか。」俺はさすがに動揺する。
「へ?」鬼庭、自分が何を言ったのか、まったく理解してない様子で首をかしげた。
抱っこされたままのエリが、鬼庭を見上げるようにして言った。
「鬼庭殿も処女ってことじゃあにゃーか。」
自分の発言の意味に、ようやく気づいた鬼庭だ。
「え、やや、ち、違うのよ! そういう意味じゃなくって、私もエリちゃんみたいな式神を呼べたらって思っただけで、そのべ、べべ別に初めてとか、そんなことを言うつもりは・・。」
「鬼庭殿も、なにゆえ恥じらうのか、意味が分からんぞな。恥など捨てて、オールオープンの方が人生楽しい気がするにの。」
「エリは恥じらわなすぎなんじゃ。」まったく表情を変えないエリを相手に、目処千は言うのだった。
「ふぅん・・・。長いこと付き合ってきたが、いまだ、人というものはよく分からんぞな。で、鬼庭殿、先ほどの疑問だが、どーかのぉ。こればかりは、適、不適があるからの。」
「え、どういうこと?」
「これはまぁ、才能というかセンスというか、生まれ持った特性に依存して、呼べる、呼べないが決まるに。ナツの母親も式を呼ぶことができたが、それでも、ナツの兄妹はだめじゃった。スポーツで誰もがトップになれるわけじゃないのと同じく、天性の素質や勘が必要な分野ぞな。」
「ああ、そうなんだ。えー、私も呼んでみたいなぁ、式神。」
「まったく、同感だ。俺も呼んでみたい。」俺は激しくうなずいた。
「ちょっと。早乙女は呼べなくていいのよ。どうせ、かわいい式神を召喚してから、一番最初に出す命令は、自分をお兄ちゃんと呼べ、とか、そんなんでしょ。」
「お、鬼庭、お前はエスパーか・・? ど、どうして俺の心の内が分かった。」
「どうして分かった、じゃないわよ。お見通しなのよ、早乙女の考えなんか。」
なぜか得意気な顔をする鬼庭だった。
そんなことを言っている間に夜の帳もすっかり落ちて、街灯のない境内へ、墨のように濃い暗闇が這い出している。
「そろそろ帰らないとな。というか、目処千。」
「何じゃ?」
「この数日、どうしてたんだ? 園からいなくなって何日かたつけど、まさか、その間、ずっとこの境内に?」
「ほうじゃ。」
「こんなところに?」
「うん。屋根さえあれば、どうにかなるもんじゃろ。」
「どうにかって・・。さすが戦前生まれ。動じなさが半端じゃないな・・。」
鬼庭は、
「でも、このままここで過ごすってわけにもいかないでしょ。こんな暗くてひとけのない場所、エリちゃんと女の子二人じゃさ。」
ちょっと心配そうな顔で言う。そのとおりだった。
俺はエリと目処千、二人に向かって言った。
「とりあえずさ、うちに来ればいいよ。」
「ちょ、早乙女、何言ってんのよ。早乙女のとこに行く方が、むしろここより危険だわ。」
「いや。いやいやいや、何言ってるんだ、鬼庭。別に俺は、やましい動機があって言ってるわけじゃなくてさ。本当に、二人を心配して言ってるんだ。このまま、ここに放っておくわけにはいかないだろ。」
「で、でもさ・・。」
「だったら、鬼庭のとこへ連れてくか?」
「う、そ、それは・・。お父さんもお母さんも、絶対、早く家に帰りなさいって、ナッちゃん達に言うと思う。」
「だろ。親父は出張でしばらくいないから、うちが一番都合がいいんだよ。」
「ええ? うーん、でも・・・。」
納得しかねる顔をした鬼庭へ、目処千が言った。
「うちは久郎ちゃんのところで平気じゃけぇ。むしろ、久郎ちゃんのところがええ。」
最後の方はつぶやきに近かったのだけれど、鬼庭はますます渋い顔をしながら、
「ぬぬ・・・。今のところは、そうするしかないんだろうけど・・・。じゃあ、私も行く。」
そう宣言する。
「鬼庭も? いや、いいよ。」
あからさまに迷惑そうな俺の顔が気にさわったのか、鬼庭はムキになって言い張った。
「早乙女とナッちゃん達だけじゃ、心配でしょーが。」
「どちらぞ?」エリが鬼庭に向けて、にやりと笑った。
「え? 何が、エリちゃん。」
突然ふられた質問に、鬼庭はきょとんとした顔で聞き返した。
「ナツと早乙女殿、どちらが心配ぞな?」
「どっちがって、ナッちゃんに決まってるわ。」
「ふーん。そういうものぞ? へぇ。」
「・・・?」
目処千は慌てて言った。
「と、とにかく、えーと。」
「あ、自己紹介まだだった。美弥子よ。鬼庭美弥子。早乙女と一緒のクラスの。」
「美弥子ちゃん。よろしくの。」
「みやこ」と発音はするのだけれど、音としてはどうしても、「ミャー子」になるのは、クラスの連中と目処千、どちらも同じだった。
「美弥子ちゃんも来てくれると心強いけぇ、一緒に、な? ええじゃろ、久郎ちゃん。」
「うん。まぁ、目処千がそう言うなら、別にいいけど・・・。鬼庭、家に電話しとけよ。」
「分かってる。友達のところで勉強会って言っとく。」
俺達は、荒れ果てた境内を後にした。
うちの親父は、貿易関連の仕事とかでしょっちゅう家を留守にしていた。母親は早くに死んでしまい、バァちゃんが亡くなってからというもの、親父と俺、いわゆる父子家庭となっている。
別に仲違いしているわけではないけれど、そもそも接する時間が短すぎるというか、年の近い兄弟みたいに、お互い不干渉なところがあった。一ヶ月分の生活費を渡され、ちゃんと食べろよ、そう言い残して家を出るのが、出張するときの親父、毎度のことだった。
鍵を開けて入る真っ暗な玄関に、いつも物寂しさを感じないではなかったけれど、今日は勝手が違う。
「お邪魔しまーす。へぇー、ここが早乙女の家。結構広いね。」
「ふむぅ。早乙女家の匂いがするに。」
「久郎ちゃん、今ここに、一人なんかの。」
どやどやと入ってくる鬼庭達三人が、家の中に溜まった粘つく静けさを、吹き飛ばしてしまうのだった。
俺は三人をリビングに通すと、
「とりあえず、ゆっくりしてくれよ。カレー食べる? 昨日作ったのがいっぱい残ってるんだ。」
そう言ってキッチンに入った。
「食べる!」
鬼庭、びしっ、と手を上げてから、ついて来る。
「何よ、早乙女。料理なんてするの?」
「料理っていうか、まぁ、簡単なやつなら。」
「へぇー、意外。家で一人じゃ、てっきり、毎日カップラーメンでも食べてるのかと思った。」
「それだけじゃ、もたないだろ。」
「久郎ちゃん。」
目処千が食器棚を開けている。
「カレーのお皿、これでええん?」
「ああ、それでいいよ。目処千、手伝ってくれるのか?」
「うん。泊めてもらえるんじゃけぇ、うちも何かせんと。」
ものすごく自然に、そうすることが当たり前のように手伝ってくれる目処千を見て、鬼庭も焦ったのか、
「わ、私も手伝うよ。」
慌てて言うのだった。
「そっか。じゃあ、サラダを作ろう。キュウリと、トマト、キャベツがある。」
エリはリビングのソファーに陣取ってテレビをつけ、夕方のニュースを食い入るように見ている。
何だか、バイト先の園以外で、こういう賑やかな雰囲気は久々だった。
温め直した昨日のカレーという絶品にサラダをつけて、テーブルにつく俺達四人。サラダの野菜の大きさがひどく不揃いなのは、鬼庭の包丁さばきによるものだった。
「ぉお、カレーライスじゃにゃーか!」
カレーを見た途端、エリのテンションが上がる。
「カレーじゃって、久郎ちゃん言ったじゃろ。」
「そうだったか?」
スプーンを取って、いきなり食べ出そうとするエリに、目処千が鋭く言った。
「エリ。いただきますを言ってからじゃ。」
「おっと、そうだったぞな。失念、失念。」
いただきます。声を合わせて言ってから、食べ始める。
「美味しいよ、これ! 早乙女、料理うまかったのね。ますます意外。」
制服にカレーをこぼしかねない勢いで、鬼庭はぱくついている。
「うまいっていうか、一夜漬けの結果だろ。カレーは作った翌日の方がうまいんだ。」
「ああ、ほうかも知れんの。」目処千がうなずいた。
「今度はうちが作ってあげるけぇ。久郎ちゃん、何がええ?」
「え、目処千の手作り・・?」
「ほうじゃ。」
にっこり笑う目処千が、ま、まぶしい。
「な、何でもいいよ。」
「じゃあ、魚でも焼こうかの。お味噌汁をつけて。」
鬼庭、
「わ、私も作るよ。」
と、後だしじゃんけんみたいに付け加えるのを、俺は渋顔で断るのだった。
「鬼庭はいいよ。何か、ものすごくしょっぱい味噌汁とか作りそうだし。」
「決めつけないでよね、早乙女。私だってやればできるはずなんだから。」
「やってもできなかったのは、学校の授業で証明済みだろ。」
「う・・。あ、あれは、ちょっと間違えただけ。失敗は成功の母っていうでしょ。」
「失敗の影に犠牲者がいることも忘れないでほしいんだけど。」
「犠牲者とか言わないでよ。そ、そもそも、女子高生の手料理よ、女子高生の。ありがたく食べなさいよ。」
「いや、作り手によると思う。」
「なんですって!」
にらみあう俺と鬼庭を、エリは満足げな顔で止めにかかる。
「まぁまぁ、お二方。そう熱くならずに。早乙女殿、作ってくれるというのだから、ありがたく頂戴しておけばいいぞな。食べるものがあるというのは、すべての安心のもとだによって。」
「そんなこと言われてもなぁ。エリは鬼庭の調理レベルを知らないからそんなことを、って、早いな。もう食べちゃったのか?」
見れば、エリの皿に盛られたカレーライスが、きれいになくなっている。皿まで洗ったようにぴかぴかなのは、ルーを舐めでもしたんだろうか。
「うむ。早乙女殿、おかわり。」
「あ、ああ。ちょっと待ってろ。」
二皿目を盛ってエリに出しながら、俺はあらためて、目の前の二人、目処千とエリを見ていた。目処千のバァちゃんがこんな形で見つかるなんて、昨日までは思いもよらなかった。下手をすれば、もう見つからないじゃないか、そんな予感さえしていたのにだ。
「あのさ、目処千。」
「何じゃ?」
「ほんと、無事でよかったよ。もう見つからないんじゃないかって、思ってた。」
「心配かけたみたいじゃの。」
「当たり前だろ。いきなりあんな風にいなくなったら、心配するに決まってる。」
「・・・ありがとう、久郎ちゃん。心配してくれて。」
目処千はそのとき本当に、嬉しそうな顔をしていた。自分を心配してくれる人がいる。その事実を目の当たりにすると、人ってこんな顔になるんだ、と俺はつくづく思った。
「それでさ。これからのことなんだけど、どうする? どうする、というより、どうすればいいんだろう。」
鬼庭も、うんうんとうなずいた。
「そうよね。とりあえず寝る場所とご飯は確保できたとしても、このままずっとここに住み続けるわけにもいかないだろうし・・・。」
「ほうじゃの・・・。」
目処千は食べる手を休めた。すでに二皿目を食べ終えようとしているエリが、まるで他人事のように言った。
「ナツの取りうる選択肢はおおまかに言って二つしかにゃーが。」
「二つって?」鬼庭が訊いた。
「そのまま、若いままでいるか、元に戻るか。」
「元に戻るって、そんな方法があるのか?」
俺の疑問に、エリはすげなく応える。
「あてだって知らん、そんなこと。ただ、どちらの方向性で動くかを、決めることはできるという話ぞな。」
「方向性・・・。」
「ナツが元に戻る方法があるのかないのか、そもそもなぜこのように奇怪な事象が発生したのか、それすらも今は分からんが、明確な目的があれば、それらの疑問の答えをたぐる努力はできようもの。話はそれからぞ。」
「そうか・・。どう思う、目処千は。」
目処千の答えは、俺にとってちょっと、というより、かなり、意外なものだった。
「うちは・・・、元に戻りたいんよ。」
俺よりもむしろ、同性たる鬼庭の方が、目処千の答えに対して敏感に反応した。
「え? ど、どうして? せっかく若返ったのに。第二の人生ってやつを謳歌する絶好のチャンスじゃない。」
「美弥子ちゃんの言うこと、うちもよく分かるんよ。分かるんじゃけど、やっぱり、うちは自分を否定できんのじゃ。」
「否定って・・?」
「何か理由もよく分からず、自分の意志とまったく無関係にこうなってしまったわけじゃけぇ、納得できんというのもあるし・・。このままじゃと、これまで大事にとってきた歳を、全部奪われてしまったような、そんな気持ちになるんよ。いろいろ辛いこともあったけど、悔いはないけぇの。なかったことになんて、できんのよ、うちの人生を。」
大事にとってきた歳・・・。その言葉には重みがあって、俺や鬼庭が使うときより何倍も、いろんな感慨や経験が詰まっている、そんな気がした。
「そうか・・・。分かった。俺も手伝うよ。」
「私も。」と、鬼庭もうなずく。
エリは、
「ナツは元に戻りたいぞな。・・・うん。いいんじゃにゃーか。ナツの人生。戻りたいというなら戻れば。・・・あても賛成するに。」
と、口では賛成しながら、なぜか、ほんの少し寂し気な陰を顔に浮かべたのだけれど、それもわずかな間だけだった。
「・・・? とはいったものの。」
俺は腕組みをして考えてしまう。
「手掛かりらしい手掛かりなんて、まるでないしなぁ。どっから手をつけたらいいんだ。」
エリは、そのまま食器棚にしまえるんじゃないかというくらい、皿がぴかぴかになるまで舐め回しながら言った。
「ナツが元に戻りたいというなら、話は単純ぞな。原因を突き止めるか、原因は分からないまでも、元に戻る方法を探す。それしかないぞな。」
「でも、どうやって?」
「足を使って探るしかにゃーが。まさか、G○○gle先生に訊いて答えが分かる類いの問題とも思えんし。ナツが倒れてから、気がついた神社までの近辺を調査するに。特異な人物、物、匂い、イベント、あらゆる可能性を探るでな。当面、暇のあるあてとナツが中心になって動く。早乙女殿と鬼庭殿は、学業優先でしっかり学ばれよ。」
きびきびとやるべきことを決めるエリに、鬼庭はひどく感心したみたいだ。
「はぇー。エリちゃん、何だか頭いいのね。」
目処千も認めて言った。
「ほうなんよ。自分の興味が向くと、頼りになるんじゃけど。そこ以外の部分で抜けてるとこが、玉に傷じゃな。」
「どこが抜けてるというに。」
「普段着と言われてパジャマを買ってくるとこがじゃ。」
「それをむし返すか? 完璧美女のあてに、嫉妬するんでない、ナツ。」
美女っていうか、どちらかといって幼女なんだけどな。
「嫉妬なんかしとらん。ちゃんと仕事をしてほしいと、言うとるだけじゃ。」
「仕事の頼み方に問題があるんじゃにゃーか。ナツの怒りん坊。」
「別に怒っとらん。エリの分からず屋。」
と、なんだか、年の近い姉妹みたいな二人だ。仲が良くて、よく喧嘩する。
「まぁまぁ、二人とも。」と、鬼庭が間に入る。
「目指す方向は決まったんだしさ。みんなで頑張ろうよ。ね。」
鬼庭の言葉に肩の力が抜けたのか、
「うん・・・。そうじゃの、美弥子ちゃん。」と、目処千も笑った。
「あ、そだ。後でさ、みんなでお風呂入ろうよ。ナッちゃんもしばらく入れなかったんでしょ。」
「そういえば、そうじゃの。汗はかいとらんから、そんなににおわんと思うけど。」
「どれどれ?」と、俺は目処千に鼻を近づけて、くんくんと嗅いでみる。
「ちょ、早乙女! 何、匂いとか嗅いでるのよ! やめなさいよ!」
「うちは別にええけど・・・。」
ちょっと顔を赤らめる目処千からは、なんというか、いい匂いしかしなかった。
「お風呂に入ってない女の子の匂いを嗅ぐなんて、サイテー男ね。」
ふくれっ面の鬼庭へ、俺は率直な感想をもらした。
「夏の若葉と太陽の匂いがする・・・。」
「ほほぅ?」
と、エリも嗅ぎ出すものだから、俺とエリ、二人にくんかくんかされる目処千はますます顔を赤らめた。
「ぉお。確かに、確かに。葉っぱと太陽の匂いぞな。よかったな、ナツ。猫の肉球みたいな匂いがしなくて。」
「猫の肉球って、どんな匂いなんだよ。」
俺が訊くのに、エリが答えた。
「空豆。奴らの肉球は空豆スメルがすると、確認済みだなも。」
嫌がる猫の前足をとらえて、肉球の匂いを嗅いでいるエリの姿を想像するのは、至って容易なことだった。
鬼庭が俺をにらみながら言った。
「葉っぱとか空豆とか、失礼でしょ。」
「分かった、分かった。もう嗅がないったら。でも、みんなでお風呂ってのはいい考えだな。うん。」
「あのさ、早乙女。念のために言っとくけど、「みんな」の中に早乙女は入っていないからね。」
「なん・・・だって?」
「当たり前でしょ! そんな、真夏の自販機で熱々のお汁粉が出てきちゃったみたいな、意外な顔しないでよ。」
エリが俺の隣にやってきて囁くところ、
「早乙女殿。残念だったに。け、れ、ど、条件次第ではのぞく隙を作ってやってもいいぞな。」
甘い誘惑、俺はエリに囁き返した。
「エ、エリ・・! その条件って、何だ。」
「これよ、これ。」
エリは人差し指と親指で、丸の字を作ってちらつかせる。
「金、か。い、いくらだ。」
俺が自分の財布と相談し始めたところへ、目処千がこの商機を差し止めるのだった。
「エリ。また悪いことたくらんどるのじゃろ。」
「悪いことじゃないが、ナツ。需要と供給、欲する人間に欲するところのものを提供する、社会における健全な経済活動の一環よの。」
「提供するものが不健全な場合もあるわけだけど。」と、鬼庭。
ジト目で鬼庭、目処千からにらまれたエリは、
「ちっ。」
と、舌打ちしてから、俺にそっと耳打ちした。
「次の機会を待つしかにゃーが。何なら、あてと二人で入ってもええぞな。」
「是非。」
どシリアスな顔でうなずく俺に、
「早乙女っ!」
鬼庭が釘を刺すのだった。
結局、彼女らがお風呂できゃーきゃー言うのを聞きながら悶々(もんもん)とすごすという、新手の拷問みたいな時間を耐えるしかない俺であり、そして夜もまたふけるのだった。