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猫と河童と、あるいは毒蜘蛛中性子星  作者: 桜田駱砂 (さくらだらくさ)
3/11

チャプター3 Enigmatic Rover

「おはよう、早乙女!」

 廊下で足音もなく近づいてきた鬼庭、いきなりの挨拶に、俺は飛び上がるほど驚いた。

「お、鬼庭・・・!」

「何よ、そんな驚かなくてもいいじゃない。挨拶しただけでしょ。」

「いきなり後ろからぶったたかれて、かけられる大声に驚くなというのは無理がある。」

「ぶったたいてなんて、いないわよ、失礼ね。スキンシップじゃない、スキンシップ。」

「スキンシップと称して叩くのはやめろよ。」

「はいはい。そんで、何よ。今日はいつにも増して挙動不審じゃない。」

「いつにも増してって、俺はいつもから挙動不審なわけじゃない。」

「そう? 十分、不審オーラをかもしてるけどね。」

 そ、そうなのか?

 いや、普段俺が不審者オーラを発しているかどうかはさておき、不審に見えてしまう理由にはわけがあった。今日の俺の財布は常ならぬ重さなのだ。重量、ということじゃなく、金額的に、という意味で。俺にとって五万は大金だった。大金を持っていると意識すればするほど、挙動が不審になるのは無理もないと思ってほしい。

「放っといてくれよ。何でもない。」

「・・・んー? 何、早乙女。具合でも悪いの?」

「悪くない。」

 悪くなったのは学内での立場だ。

「だって、元気ないじゃない。いつもは、周りのことなんてまるで無関心、なんて顔して平然と歩いてるのに、今日は何だか、守りに入ってるっつーか、保身に走ってるというか。」

 鬼庭め・・・。こういうときに限って、鋭い。

 鬼庭はときどき、こんな風に異常な洞察力を発揮することがある。俺が地鏡の秘密を見てしまって、さらにバイト先を押さえられ、あまつさえカツアゲまでされている。そんなひどい状況にあることを、朝一で見た俺の態度、それだけで、見抜いているかのようだった。

 さすがに、事の仔細(しさい)を知っているわけではないのだろうけれど、少なくとも俺の様子が変だということを、完全に気づいている。

「男には守らなきゃならないものがあるんだよ。」

「はぁ? 何よ、守らなきゃいけないものって。再放送アニメの開始時間くらいでしょ、守るものっていったら。」

「ぬぐ・・。」

 そのとおりだった。

「それもあるけど、それだけじゃないんだよ。鬼庭には分からないさ。」

「分かるか分からないかなんて、言われてみなきゃ分かんないでしょ。何かあったんでしょ、やっぱり。」

「何もないって言ってるだろ。」

 俺は鬼庭を無視して、教室に向かおうとする。と、正面からやって来る。奴が。

「おはよう、早乙女君。」

 とんでもなく爽やかな、夏の早朝、草雫(くさしずく)みたいな笑顔でもって、地鏡が挨拶を打ってきた。

「・・・おはよう、地鏡。」

 地鏡はあくまでも笑みを崩さないが、その目が俺にメッセージを送ってきているのは明らかだった。約束を守れよ、と。この一連のカツアゲ、約束、というより単なる恫喝(どうかつ)にもとづいた要求にすぎないわけだが、あくまでも正当性は自分にあると、地鏡の自尊心がそう語っているようだった。

「あ、そうだ。ちょうどいいわ。はい、これ。」

 地鏡はそう言って、ノートを渡してくる。

「・・・・?」

「地理のノート。写させてほしいって、言っていたわよね。どうぞ。」

 俺はそんなお願い、した覚えはない。けれど地鏡は、そのノートを俺が受け取るまで、いつまでもそれを差し出したままでいるような気がして、俺はわけも分からず受け取らざるを得なかった。

「今日中に返してくれればいいから。じゃあ。」

 そう言って、地鏡は花のような残り()を置き、悠々と歩いて行ってしまう。

「ノート貸してもらうなんて、いつの間に地鏡ちゃんとそんな仲良くなったのよ。」

 鬼庭が眉間にしわを寄せた不審顔で言ってくるのを無視して、俺は嫌な予感を感じながらぱらぱらとノートをめくっていく。きれいな字で書かれた授業内容が半分くらいまで続いて、それから後ろはずっと余白だが・・・。

 あった。

 余白部分の半ばくらい、ページの右上端に小さく、ひとこと書かれている。

「はさめ」

 と。鬼庭は地鏡のノートに興味があるらしく、のぞこうとしてくるものだから、慌てて開いていたページを閉じる。

「隠すことないじゃない。私も地鏡ちゃんのノート、見たい。」

「だめだよ。見せられない・・・。」

 俺は力なく断ると、鬼庭を置いて教室に向かう。

「何よ、ケチ。」

 はさめ、というのは、他でもない、札をはさんでノートを返せと、そういう意味だ。今日中に返してくれればいいから、というのは、換言(かんげん)すれば、今日中に出すもん出せよ、ということだった。

 学校で生徒同士が大金をやり取りしていれば、明らかに目立つ。しかし、これなら誰かに見られる心配はないわけで、クラスの圏外男子がたまたま、お情けで女子優等生のノートを貸してもらった、そんな図式が成り立つのを見越しての、地鏡の行動だった。

 ノートを貸してもらって「落ち込む」俺を見ながら、鬼庭は首をかしげるばかりだった。


 学校が終わって園でのバイト。掃除や食事準備の手伝い、洗濯など、いつものルーチンワークだからこそ、上の空でもどうにかこなせていたけれど、坂井さんがふってくる難しい国外情勢の話題に乗るとか、そういう込み入ったことは絶対、できそうになかった。

「ああ、早乙女君。ちょっと。」

「何です、明里さん。」

 エプロン姿の明里さんが厨房から出てきた。この人は園のみんなが食べる食事も作っている。みんなと言っても、それほど人数が多いわけじゃないから、専門の調理師さんを雇わなくても済んでいるのだった。明里さん、これでなかなか料理はうまい。なんで結婚できないんだろう、と口を滑らせでもしたら、エラいことになるわけだけれど。

「お醤油切らしちゃってたから、買ってくる。」

「醤油ですか? だったら、俺が買ってきますよ。」

「醤油のついでに、大根も買ってきたいのよ。私が行ってくるわ。」

「大根って、俺だって大根くらい買えますよ。」

「だめよ。毎回、君が買ってくると、スが入ってるんだもの。」

「え?」

「選び方が悪いのよ。私が行ってくるわ。十分くらいで戻るから。」

「・・・分かりました。早めに戻ってくださいね。」

 明里さんはエプロンを外し、ととと、と小走りに出て行った。

「酢が入ってる・・? 大根がすっぱいってこと、なのか・・・?」

 明里さんが買い物に行ってしまって、園の中は不意に静寂が押し包んだ。

 ジィちゃん、バァちゃん達も集まればにぎやかに会話するのだけれど、皆、部屋に引っ込んでいるときは、この建物内に誰もいないんじゃないかってくらい、静かになる。人間、老境に入ると森の大樹のようにひっそりとした気配を、身にまとうんじゃないか。夜勤の人はまだ来ていないから、余計静かに感じるのだった。

「あ。そうだ、洗濯物取り込まないと。」

 廊下では西日のつくる影が深くなっている。足早に庭へ向かっているところ、俺はその光景を見て、全身から血の気が引いた。

「バ、バァちゃん! どうしたんだよ。」

 目処千のバァちゃんが、階段の下で倒れている。俺は慌てて駆け寄り、その肩に触れて呼びかけるが、反応はない。スリッパが少し離れた場所に落ちているところからして、その場で倒れ込んだわけではなさそうだ。階段から足を滑らして落ちた・・?

「バァちゃん! バァちゃん!」

 ど、どうしよう。大声で呼びかけても、バァちゃんはエリベルを懐に抱えたまま、ぴくりとも動かなかった。

「あ、明里さんに・・・。いや、きゅ、救急車が先か・・!」

 俺はポケットから携帯を取り出して番号をプッシュする。117、じゃない、110、違う。119・・・! 指が震えてうまく押せない。

 ようやく番号を押しきると、すぐにつながった。

「消防署。火事ですか? 救急ですか?」

「きゅ、救急です。」

「何市、何町、何丁目、何番、何号ですか?」

 俺は園の住所を答える。

「どうしましたか?」

「園にいるおばぁさんが、廊下で、た、倒れていまして。呼びかけにも応えなくて、意識がありません。」

「よろしければ、あなたの名前と電話番号を教えてください。」

 名前と電話番号を告げ、

「はい、分かりました。すぐに救急車を向かわせます。」

 きびきびとした相手の声が、ぷつりと途絶えた。再びの静寂。俺は次にどうすればいいのか、まったく思い浮かばないまま、それでもバァちゃんに呼びかける。

「バァちゃん! 救急車呼んだから、しっかりしなよ。」

 俺は自分の心臓が16ビート並で鼓動しているのに気がついた。どくどくと鳴る心臓。心臓・・!

「そ、そうだ。事務所にAEDがあったはず・・!」

 俺は途中、つんのめりそうになりながら事務所に走ると、AED(自動体外式除細動器)の入った備え付けの箱を取り出しにかかる。足や指先まで震えて、なかなか開けることができない。ようやく開いた箱から装置一式をひったくるように取り出した。バァちゃんのところへ駆け戻り、AEDを開いてみる。

 お、俺にできるだろうか。とっさに持ってきたはいいけれど、ごくりと唾を飲み込んだ。一度だけ、講習でその使い方を教わったけれど、実際、人に対してこれを使うのは初めてだった。いや、バァちゃんが助かるかどうかの瀬戸際。躊躇(ちゅうちょ)している暇はない。

 本体に張り付けられた、絵付きの説明書を読みながら、スイッチを入れようとしたときだ。遠くの方から、救急車のサイレンが聞こえてくる。

「来た・・・!」

 思ったより早い。ここでもたもたAEDの使用に手間取っているより、救急隊の人をここまで案内する方が先じゃないか。俺は一瞬迷ったけれど、意を決すると玄関口の方へ走った。

 西日の逆行で見えにくいその先から、救急車の赤色灯が近づいてくる。今程、救急車のシルエットを頼もしいと思ったことはなかった。俺は手を振って合図をした。

「患者さんはどこです?」

 浅黒く、がっちりとした体格の隊員が救急車から飛び降りる。

「こ、こっちです。廊下で倒れてて、頭とかを打ったのかも知れません。」

 もう一人の隊員と二人でキャスター付きの担架を運ぶ彼らを、バァちゃんが倒れている場所まで案内した。救急車が建物のすぐ前に止まったものだから、部屋にいた他のみんなも顔をのぞかせている。

「あそこです。そこに・・・。あれっ?」

 まさに、あれっ、としか言いようがなかった。俺は何が起こっているのか、そのときまったく理解ができずにいた。

 ほんの少し前まで、廊下に倒れていたバァちゃんの姿がない。影も形もなくなっていた。

「こ、ここに倒れてたんですけど・・・。」

 中身の開かれたAEDの箱だけが、緊迫感の残滓(ざんし)がごとく床に転がっているだけだった。

「気がついたのかな・・?」

 俺は廊下や階段の方を見回すけれど、バァちゃんはどこにもいない。どこかへ行くにしたって、俺がこの場を離れた時間は一分もない。その間にいなくなったっていうのか? それとも誰かが運んだ・・?

 救急隊員の二人はお互いに顔を見合わせ、それから、大柄な隊員が俺に言った。

「ここに倒れていたのかい、そのおばぁさん。」

「はい。何度呼びかけても反応しなかったですし、寝ているとか、そんなんじゃなかったです。」

「けれど、現にいないよね。」

「だ、誰かが運んだのかも・・。」

 自分でそう言いながら、それもおかしな話だと思わざるを得ない。救急車が来て、この騒ぎだ。部屋にいたみんなも集まってきている。倒れた目処千のバァちゃんを、いったんどこかのベッドに運んだのだとしても、それを伝えにこないはずはなかった。

「み、みなさん、目処千さん、見かけませんでしたか?」

 俺はすがるように園の人たちへ言うのだけれど、皆一様に首をかしげた。

 隊員の顔には、明らかに困惑の色が浮かび上がっている。

「君さ。いたずらとかじゃ、ないよね。」

「い、いたずら? そんなことするわけないじゃないですか。」

 救急車を、いたずらで呼んだと思われている。俺がまだ高校生で、子供だからか知らないけれど、そんな疑いを持たれたことがショックだった。けれど、意識を失って倒れている当人がわずかな間にいなくなってしまった以上、そうした疑念が浮かぶのも仕方のないことかも知れない。

「いたずらじゃないですよ。その子はいたずらで救急車を呼ぶようなことはしない。」

 集まった園の人達の中から声を上げるのは、坂井さんだ。白髪がわずかに残る頭が西日を受けてきらりと光った。90に近い高齢のじぃさんだけれど、背筋は伸び、眼鏡の奥からのぞく目は、鷲のように鋭い。

「坂井さん・・・。」

 園の他の人たちも、坂井さんに同調してうなずく。

「目処千さん本人が気づいたのか、誰かが運んだのかは知りませんが、少なくとも早乙女君はいたずらでこんなことはしません。AEDまで出しているじゃないですか。彼は本気で目処千さんを助けようとしたんですよ。」

 厳しい口調で言う坂井さんの迫力に、隊員もちょっとたじろいだみたいだった。

「まぁ、ここに倒れていた当人がいないのは確かですし、いつまでもあなた方を引き止めるわけにもいかない。いったんお引き取りいただいて、もしまた救急車が必要になれば、そのときお呼びします。ご足労かけたところ申し訳ないが、それで。早乙女君も、いいな。」

 的確な指示に、俺は素直にうなずいた。もっと早くに、坂井さんを呼んでおくべきだったんだ。そんなことも思い浮かばないほど、俺は動揺していたんだろう。

 園の前に止まる救急車を見たのか、明里さんが血相を変えて戻ってきた。

「ちょっと、早乙女君! 何かあったの?」

「あ、明里さん・・。実は・・・。」

 さすがに、こんなときだ。明里さんの顔を見て、ひどくほっとする俺がいた。

 起こったことを明里さんへ手短かに話し、救急隊員の人たちには帰ってもらった。けれど、事態はこれで解決したわけじゃない。

 明里さんは沈痛な面持ちで僕に謝った。

「ごめんね、早乙女君。一人で留守番なんてさせて。」

「え? いえ、それは別に、いいんですけど・・・。」

 素直に謝られたのが、俺にはちょっと意外だった。

「でも、目処千のバァちゃんが。」

「そうね。暗くなる前に探した方がいいわ。早乙女君。悪いんだけれど、近所をちょっと見てきてくれない。私は園の中を探してみるから。」

「分かりました。」

「ああ、自転車使っていいから。」

 俺は明里さんから鍵を受け取るなり、園を飛び出した。バァちゃんは多少とぼけたところがあるにしろ、むしろわざとそういう言動を取っているようなところもあって、少なくとも、勝手にどこかへ行って行方が分からなくなったり、帰れなくなったりということは、今まで一度もなかった。

 バァちゃんが行きそうな場所、近所の和菓子屋、スーパー、河川敷あたり、思いつくところすべてを回ってみたけれど、その姿はどこにもなかった。

 俺がバァちゃんのところを離れて、救急隊の人を連れて戻るまでほんの数分しかなかった。足の悪いバァちゃんが自分でどこかへ行ったのだとしても、短時間にこんな遠くまで来ることはできない。やっぱり、園の中にいるんじゃ・・・。明里さんが見つけ出してくれていることを祈りながら、俺は夕闇の濃くなる道を引き返した。

 園に戻ると、明里さんや坂井さん、夜勤の人達数人が、玄関ホールに集まって何か相談している。戻った俺に期待のこもった視線が集まるのは、彼らもバァちゃんを見つけられていない証拠だった。

「どうだった?」

 明里さんの問いに、俺は首を振って応えた。

「そう・・・。園の中もくまなく探してみたんだけれど、いなかったわ。ねぇ、早乙女君。君が目処千さんに気づいたとき、確かに意識はなかったのよね。」

「ええ。何度も呼びかけたり、肩をつかんだりしてみたんですけど、起きませんでした・・。」

「そんな状態だったのに、いなくなったってことは、やっぱり誰かに連れて行かれたのかしら・・・?」

「連れて行かれるって、誰にですか?」

「それは分からないけれど・・・。」

 連れて行った? 誰が? 何のために?

「とにかく。あとは私達でもう一度探してみるから。早乙女君はもう帰りなさい。」

「俺も探します。」

「だめよ。」

 明里さんは険しい表情で言った。

「未成年の君をこれ以上巻き込めないし、それに・・。君を一人で留守番させてしまったのは、私の責任よ。目処千さんが倒れて、それからいなくなってしまったこの件、責を負うのは私だわ。」

「え、でも・・・。」

「目処千さんが心配なのも分かるけれど、今日はもう帰って。お願い。」

 苦し気な明里さんの顔を見ていたら、俺はそれ以上、何も言えなくなってしまった。バァちゃんのことはもちろん心配だったけれど、少しの間だからと留守にしたその間に、こんなことが起こってしまった明里さんは、きっと深く後悔して自分を責めているんだろう。俺がここに残っていること、それ自体が、明里さんを苦しめている。

「・・・分かりました。」

 俺は園を後にするしかなかった。

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