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猫と河童と、あるいは毒蜘蛛中性子星  作者: 桜田駱砂 (さくらだらくさ)
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チャプター2 伏見園のナツ

「久郎ちゃん、ご飯、まだかいのぉ?」

「ええ? バァちゃん、さっき食べたじゃないか。」

「ほうじゃったかのぉ。ぶちお腹が空いとるんじゃけど。」

「お腹って、おかわりまでしたでしょ。」

「んー・・・。ああ、ほうじゃった。(さわら)。」

秋刀魚(さんま)だよ、バァちゃん。あれは秋刀魚。」

「秋刀魚・・? だったかのぉ? あれは鰆じゃったと思うがの。」

「まぁ、鰆でも秋刀魚でも、どっちでもいいけどさ。まだ掃除が残ってるんだから、邪魔しないで。ほら、もうちょっと寄って寄って。」

「はいはい。久郎ちゃんはほんに、せせこましーのー。」

「せせこましいったって、あと三十分で残りの部屋も全部やんなきゃいけないんだから。のんびりしてらんないよ。」

「ああ、ほうじゃ。久郎ちゃん、干し芋食べんさい。棚の中に入っとるけぇ。」

「後でもらうよ。」

「食いくさしじゃないけぇ、遠慮しなさんな。食べられるときに食べとかんと、後で悔いることになるけぇの。」

「戦争中じゃあるまいし、そんなことで後悔しないよ。」

「ええから、持って行きんさい。ほら。」

 なかば強引に、干し芋のパックを押し付けられる俺だった。

 世にアルバイト、というものがある。フルタイムで働く時間はないけれど、生活費のために、日々の小遣いの足しに、時間と時間の合間をぬって稼ぐアレだ。コンビニ、ファーストフード店員からビラ配り、ヒヨコ鑑定士の肩をもむとか、山に生えてる木の本数を数えてくるとか、種々様々な職種があって選ぶに(きゅう)することもなさそうなわけだが、残念なことに、俺は多くのバイトをその条件上、あきらめなければならなかった。

 つまり、同年代や、若い世代の女子女性と接する仕事は、いかんともしがたく失敗するのだ。ダイエットサプリのビラを男にばかり配ってたら二時間でクビ。ファーストフードで女性客の注文を十二人連続で間違え、明日から来なくていいよと言われもし。とにかく、若い女の子や女の人と関わることになるバイトで、軒並み失敗してきた高校生活なのだった。

 まぁ、よーく探せば、清掃アルバイトとかクリーニング屋など、異性と関わる必要のないバイトだってたくさんあるわけだけれど、そうした求人になぜか恵まれず、行き着いた先が伏見園(ここ)だったというわけだ。

 ここ、伏見園(ふしみえん)は健康型有料老人ホームのひとつで、基本的には介護の必要があまりない、自立した生活のできる高齢のおじいちゃん、おばあちゃんを受け入れている施設だ。ここで俺は掃除や食事の準備の手伝い、洗濯から買い出しまでやる、いわば雑用係みたいなバイトをしている。もちろんここにだって異性はいるわけだけれど、若い、という条件には当たらない人が多いわけで、俺は幸い、今に至るまでクビにならずに済んでいる。オーバー80の異性が相手ならば、異性として意識することは皆無だからだ。

 いや、クビにならずに済むどころか、どうにも、この場へ馴染みまくっている気すらする。自分の孫と同じくらいな年齢の俺がちょろちょろと立ち働いているわけで、久郎ちゃんとか、早乙女君とか、行く先々で呼び止められるのは嬉しい。話しかけられてばかりで、仕事がさっぱり進まないのはちょっと困るけれど。

 今の、干し芋をくれたバァちゃんは目処千(めどち)ナツ(88)。ホームの中でも特に俺をかわいがってくれている。一応、ここで働く俺からすれば、お客様ってことになるわけで、ちゃんと目処千さんとか、敬称つけて呼ばなきゃいけないわけだけれど、それじゃ堅苦しくて嫌だと、本人がそう言って聞かないものだから、結局、バァちゃん、久郎ちゃんと呼び合う仲となってしまった。本当のバァちゃんは俺が小学校三年のときに死んでしまったから、目処千のバァちゃんとは血がつながってるわけでも何でもない。

「ああ、もう。ありがと。後で食べる。」

 俺はもどかしい思いで干し芋をポケットにつっこむ。

「ところでの、久郎ちゃん。」

「何?」

 俺はベッドの下をほうきで掃きながら、ぶっきらぼうに返した。

「学校で、何かあったん?」

「別に。何もないよ。」

「ほうかいの。なんな、沈んだ表情しとったから、嫌なことでもあったんかと思ったわ。」

「何もないったら。」

 嘘だった。

 例の地鏡、倉田の一件を地理準備室で見てしまったのが今日の昼。あの後、地鏡は何事もなかったかのように教室ですごし、それだけじゃない。あろうことか、笑顔で倉田に話しかけるのだ。倉田の引きつった笑みには、正直、ちょっと同情した。結局、あの後、俺には目もくれなかった地鏡だけれど、その影響力の下、俺も片足からめ取られているような気がして、気分は晴れなかった。

「うちに何かできるとも思えんけど、相談くらいにはのるけぇ、いつでも言いんさいよ。」

「うん・・・。」

 バァちゃんの優しさに、思わず相談してみようかと心が揺らいだが、やめた。実際、目処千のバァちゃんにどうこうできる話じゃないし、それに。学校で自分が真空地帯だなどと呼んで悦に入ってる立ち位置を、バァちゃんに知られたくはなかったからだ。地鏡の話を出せば、そこら辺にも話題が及びそうで、俺は妙に卑屈な態度を取ってしまう。

「それか、学校の友達に相談でもしたらええんじゃ。」

「友達に・・。」

 友達といわれて、せいぜいが鬼庭くらいの顔を思い浮かべる。鬼庭に相談をもちかけるとしても、何だか自分の弱みをわざわざ売りにいくようなもので気が引ける。

「いや、何もないんだってバァちゃん。バァちゃんが心配するようなことじゃないし。」

「ふぅん。ほんならええけど、一人で溜め込んどったらよくないけぇ、どっかで発散するようにしときんさいよ。」

「分かってる。」

「ほうじゃ。バァちゃんが学校に行って、久郎ちゃんの悩みを解決したらぁ。」

「ええ? いやいやいや、いいって。何言い出すんだよ、急に。そんなことしなくっていいから。」

 俺は必死になってバァちゃんのとんでも発想を止めにかかる。過保護な親じゃあるまいし、ましてホームのバァちゃんに学校へ押し掛けられでもしたら、話はこじれる一方だ。

 ちなみに、伏見園(ここ)で俺がバイトしていることを、学校の連中には内緒にしている。老人ホームでバイトしてるとか、知られたくないからだ。普段の生活、同世代の生徒達といる中で、年上といってもせいぜい親と同世代くらいの先生がいる程度。「老い」ってやつとはおよそかけ離れた日常を送っている生徒の中で、ホームでのバイトをしている俺は明らかに異質。誰にも関心を持たれないという条件が必須の真空地帯が、おびやかされかねない。手短にいって、このバイトがきっかけでいじめられかねなかった。

 バァちゃんに押し掛けられたら、今まで秘密にしてきた努力も無駄になる。それだけは何としても避けたかった。

「バァちゃんが来たら、よけいに話がややこしくなるし。自分で解決するから、口出さないでよ。」

「ほうかの・・。ほんなら、エリベルに話してもええんのと違う?」

「エリベルにって、バァちゃん・・。それは絵的にどうかと思うよ。」

 俺の返事を聞いているのかいないのか、バァちゃんはベッドの掛け布団をめくったり、戸棚を開けたりと落ち着かない。

「絵的にって、何が絵的なん。人型の()(しろ)には魂が宿る言うてな、やなこと喋ると聞いてくれるけぇの。ほんなんも、ひとつの解決方法じゃけぇ。おかしいなぁ。どこにいったんじゃろ、エリベル。」

 バァちゃんがエリベルと呼んでいるのは、お気に入りのフランス人形だ。目処千のバァちゃん、その人形を大事にしてるわりに、よくなくす。

 足が悪いのにうろうろと探しまわるバァちゃんを放っておいて、他の部屋に行くわけにもいかず、掃除をしながら探すのを手伝っていると、あった。

「あったよ、バァちゃん。なんでこんなとこに。」

 部屋に置いてあった鍋の中にぴったりと収まっているエリベルだ。青を基調としたワンピース姿で、ピンクのチェック入りリボンをあしらったフリルが帯状になって身体の前面をしめている。赤毛のロングヘアと鳶色(とびいろ)の眼が愛くるしいと思えなくもない。が、無機質な表情を浮かべる人形が、俺はどうも苦手だった。

 この人形エリベルに、悩みを話せとバァちゃんは言うのだ。それはやっぱり絵的にアレだ。高校男児が人形相手に、今日、学校でさぁ、お嬢様キャラで通ってるちょっとかわいい子の本性見ちゃってさぁ、へこんでるんだよね、とか、ない。それはない。ひそひそと交わされる囁きと周囲の冷たい目線が、想像上とはいえ、身体に突き刺さる思いがした。

 俺はエリベルを発見したその鍋ごと、目処千のバァちゃんに渡す。

 バァちゃん曰く、

「勝手にそんなとこ入っちゃいかんて、いっつも言うとるじゃろ。」

 って、いやいや。

「勝手に入ったんじゃなくて、バァちゃんがしまったんだろ、そこに。」

「何で鍋に入れるん? 久郎ちゃんもおかしなこと言うなぁ。」

「俺が言ってるのはさあ。・・・まあ、いいや。見つかってよかったね。じゃ、俺、行くよ。」

「もう行ってしまうんかいの。ほうじゃ、今度、エリベルとの茶会に参加すりゃええわ。」

「・・・誰が?」

「久郎ちゃん。」

「参加するの?」

「ほうじゃ。」

「エリベルとバァちゃんの茶会に?」

「ほうじゃと言っとるじゃろ。」

「・・・いや、遠慮しとく。」

「席用意して、待っとるからの。遠慮せんと、来んさいや。」

 バァちゃんはそう言って、エリベルの右手を取り、ひこひこと振っている。

 このままじゃ、今度と言わず今にもその茶会とやらが始まってしまいそうな気配がしたものだから、俺は早々にバァちゃんの部屋を退散したのだった。

 ちょっとぼけてるっちゃ、ぼけてるバァちゃんだけれど、まぁそこも愛嬌でかわいいものだった。死んだバァちゃんを何となく思い出すわけだけれど、悪い気はしない。

 ほうきとバケツ、雑巾を抱えて部屋から部屋へ、冬ごもりの支度をするリスみたいにめまぐるしく掃除をして、どうにか時間内に終えたら事務室へ。

「掃除、終わりました〜。」

 片して後は帰るだけだ。そう思って一息ついたところへ、容赦のない指示が飛ぶ。

「あ、お疲れ。悪いんだけど、一階の掛け布団さ、坂井さんのとこに持ってってくれる?」

「ええ? 俺、もう終わりですけど、明里(あかり)さん。」

 今出ないと、六時からの再放送アニメに間に合わない。DVDにすらなってないマイナーな宇宙SFモノだから、見逃すと次はない。ちなみに、我が家はきょうび、録画デバイスがなにひとつないという奇特な家庭で、オンタイム至上主義ともいうべきイデオロギーに染まっていた。いや、たんに親父が録画デッキの購入をけちっただけともいうのだが。

 事務机から顔を上げないまま言うのは、新稲明里(にいなあかり)、伏見園の先輩職員だ。ジィちゃん、バァちゃん達の情報網からすると、二十九歳独身、彼氏なし、結構必死な自称乙女らしいけれど、それを口にしたら俺の仕事が倍増しそうなので言わない。

 明里さんは園の日誌でも書いているんだろう、ボールペンを走らせながら、目も上げずに続ける。

「今日はそれで最後にしていいから。まさか、か弱い女子に、重い布団を運ばせる気? 君はそういう仕事をするために、ここにいるんでしょ。」

 か弱い女子って。

「いや、それは明里さんも同じじゃ・・・。仕事するために、ここにいるのは。」

 ペンが止まる。ゆっくりと、スローモーションみたいな動きで、明里さんは顔を上げた。艶のある黒髪と、ひとえのまぶたからのぞく細い目、整った顔立ちは、和服がよく似合いそうで、彼氏がいないという情報の信憑性(しんぴょうせい)を疑うのだけれど騙されてはいけない。

 彼女はひどい面食いで、顔8、性格1、収入1、が異性に求める条件、らしいのだ。イケメンを眺めるだけでご飯三杯はいけるとか、まぁ、そんなわけで、よさそうな相手がいても自らふってしまったり、顔だけの相手に対して築いた幻想に裏切られ自滅とか、男運がないというよりも、狭過ぎるストライクゾーンでフォアボールを連発している人なのだった。しかも、自分より年下は問題外とかで、当然、俺も明里さんのストライクゾーンに入ることは、永遠になかった。

 俺もこのバイトを始めた初日から子供扱いされてきたわけで、子供というより、扱いやすいパシリの一歩手前くらいという、ぞんざいな使われ方をされている。

 俺からしても、何と言うか、明里さんを若い異性と認識できなくて、この人相手に緊張せずにすむというのが、せめてもの救いだった。極度の面食いで、人使いが荒いところを除けば、それなりに良い人ではあるのだけれど、果たして、人使いの荒い人間を良い人と呼ぶべきか、意見の別れそうな気もする。深くは考えない。

 明里さんは切れ長の目で俺を見つめながら言うのだった。

「重いものを運んで、私が怪我をしたらどうするの?」

「どうするたって、知りませんよ。それに掛け布団ですよ。怪我をするほどの重さとも思えませんけど。」

「それは主観の問題よ。重いか重くないか、早乙女君が決めることじゃないわ。」

「はぁ。」

「役割の分担ってものがあるわけで、雑事(ざつじ)は早乙女君、考えるのは私と、そう決まっているじゃない。」

 決まってるんだ。

「いや、ちょっと俺、急いでるんで。」

「どうせ、再放送のアニメでも見るんでしょ。」

「え? あ、いや・・。」

 なぜ知ってる。

「目処千さんに聞いたわよ。」

 出所はバァちゃんか。そういえば、うっかり喋ってしまった気が・・・。

「いい年してアニメなんて、子供ねぇ。」

「いや、明里さん。別に高校生だからアニメを見ないというわけでもないと思いますけど・・。大人だって見る人は見るわけだし。」

「文句があるっていうの?」

「ありますよ。十把一絡(じっぱひとから)げにアニメ=子供っぽいって考え、古いと思いますよ。」

 言ってしまってから俺は、しまった、と思った。

「古い・・?」

 ぴく、と明里さんのきれいな眉が吊り上がる。

「どう古いっていうのかしら。それはつまり、子供っぽくないと思えば、古くないということ?」

「その論法もおかしな気がしますけど・・。甘い物が好きな人は辛い物が嫌いだ、と言ってるみたいで。」

「甘い、辛いは関係ないのよ。どこがどう古いのかって話をしてるの。」

 まずい流れだ。

「古いっていうのは、考え方のほうですよ、あくまでも。人間関係への深い洞察や内面の変化、感情の機微(きび)をたくみに描いたものだってあるわけですよ、アニメには。子供っぽいのひとことで片付けるほど、浅いものじゃないんです。古いというより、浅いという話です。」

 よし。「古い」というNGワードを回避する流れができた!

「ふーん。考えが古いのなら、あらためようと思っただけ。君のアニメ論を拝聴(はいちょう)する気なんて、さらさらないけど。」

 明里さんの声が、ちょっとトーンダウンした。いつもの、少し低めの声に戻る。

「分かってもらえましたね。じゃ、俺はこれで。」

「待ちなさい。」

 バイト中につけてるエプロンを外して、その流れですばやく事務所を出ようとした俺を明里さんはさらに呼び止める。

「布団運びは、やってもらうわ。」

 有無を言わさない。明里さんは日誌の続きに戻りながら言った。

「坂井さん寒がりだから、夜中冷えて、目が覚めちゃうんだって。じきにあったかくなるでしょうけど、それまで我慢してもらうのもかわいそうじゃない。」

 うぅ。坂井さんが寒がりなのと、明里さんが自分で掛け布団を運ばないことには何のつながりもないのに、そういう言い方をされたら、断った俺が悪者(わるもの)みたいになるじゃないか。

「分かりましたよ。やればいいんでしょ、やれば。明里さんは人使いが荒いよ。」

「何か言った?」

「いえ、何も!」

 俺は明里さんの指令に反対するのをあきらめて、坂井さんとこに大急ぎで掛け布団を運んだ。危うく、坂井さんが駆逐艦乗りだった時代の、海軍武勇伝が始まりそうになるところをどうにかふり切ると、俺はあてつけまじりに大きな声で事務所に向かって、

「お疲れさまでした!」

 言いながら出口に向かう。

 明里さんが、ひらひらと手だけ振って返すのを視界の端にとらえながら、玄関口を出た途端、

「うっ!」

 と、思わず俺はうめいた。

 地鏡。

 地鏡魔樹が園のすぐ前にある橋の上から、一直線に俺を見ている。他人のふりをする余裕なんてなかった。目と目が完全に合ってしまって、遠い西日のさす中、うっすらと浮かぶ地鏡の不敵な笑みまで見える距離だ。

 俺はあたかも、蛇ににらまられた早乙女蛙よろしく硬直していた。よりによって、最悪の相手に見られたのだ。

 地鏡はゆっくりと俺の方へ歩いてくると、

「たまには。」

 そう言ってから続けた。

「別のルートで帰ってみようと思ったのが、功を奏したみたいね。意外な人と会ってしまったわ、早乙女君。」

「いや・・・。」

 何が、いや、なんだ。人違い、でとおるわけがない。それでも俺は、最後の抵抗を試みた。

「ち、違うんだ。うちの、そう、うちのバァちゃんがこの老人ホームに入ってて、それで、学校の帰りに会いに来て・・・。」

「お婆さんへ会いに? 早乙女君。お疲れさまでしたって、言ってたわよね。お婆さんに会った後、ホームを出るときお疲れさま、なんて、言うかしら。しかも、過去形で。」

 だ、だめだ。地鏡の圧力微笑は、俺の言うことなんて(はな)から信じていないことを物語ってる。

「言わないわよね、普通。お世話になってますとか、あるとしても、お疲れさまです、とか。お疲れさまでした、とは言わないわ。自分がここで働いていない限りは。」

「うぅ。」

「早乙女君、ここでバイトしてるんだ。知らなかった。クラスのみんなにも、言っていないの?」

 ああ、言ってないさ。

「どうして? 言ったら何か困ることでも? 恥ずかしいことじゃないでしょう。」

 困ることがあるから言わないんだろ。

「あ、もし言ってほしくないというなら、私、言わないでおくわ。」

 黙っててやる、と。

 くっ。地鏡がひとこと言うごとに、この女の身長がひとまわりずつ高くなっていくような、そんな幻惑に俺はとらわれる。

 このままじゃ、地鏡にやられっぱなしだ。こうなったら、島津の退()き口、中央突破しかない。俺はいちかばちか、引く替わりに前へ出た。

「いや、いい。」

「?」

 勝ち誇った顔で俺を見ていた地鏡の顔が、一瞬、曇る。

「黙ってなくていい。言いたければ、言え。」

「へぇ・・・。いいんだ、言っても。」

「ああ、好きにしろよ。別に、このバイトがばれたって気にしないし。」

「どうしようかしら。」

 俺はこのとき、地鏡が女子ということをすら忘れていた。意識せずに話してる。目の前の相手と戦うことに必死で、周りが見えてない小型犬みたいだ、俺。

 笑みを崩さない地鏡は、少し考えた後に言った。

「・・どれくらいなの?」

「え?」

「そこのバイト。いつ頃から始めたのかしら。」

「何でだよ。別に、地鏡には関係ないだろ。」

「でも、今、早乙女君、好きにしてくれ、って言ったわよね。言うも言わないも、好きにしろって。ということは、何も秘密にするつもりはないってことでしょう。だとしたら、私の質問に対して、答えない理由がないわ。」

「・・・半年。」

「意外と長いのね。それで、半年もの間、学校の皆にはそのことを黙っていた、と。」

「言う機会がなかっただけだよ。」

「そうね。一週間かそこらなら、機会がないかも知れないわ。でも、半年よ。言う機会がなかった、というより、言わざるをえない機会を避けていた、とも考えられるわ。」

「だ、だから何だよ。」

「つまり。」

 地鏡のプレッシャーが高まる。だけじゃなく、実際、地鏡は俺との距離をじりじりとせばめていた。

「早乙女君は、ここでアルバイトをしていることを隠したかった。そういうことじゃない?」

 地鏡の胸が俺の制服と触れそうになるくらい、もはや吐息のかかりそうなところまで接近され、俺は橋の欄干(らんかん)にまで追い詰められていた。

「ち、違う。」

 言いながら、俺はとうとう地鏡の視線から目を逸らしてしまった。見る間に地鏡の目が据わる。声のトーンが一段と低くなって、口調ががらりと変わった。

「いいや、違わない。早乙女ぇ。今日の昼の件。私の秘密を握ったとでも思ったんだろうが。」

 そ、そうか。そういう解釈も成り立つ。

「そもそも、お前の話を信じる奴なんて、学校にはいない。私と、お前だ。私がそんな事実はないと言えば、それでとおる。だが、万が一ということもある。私は今日、お前の秘密を知った。これがどういうことか、分かるよな。私が優位に立っている。そういうことだ。もしも、お前がおかしな動きを取れば、バイト先のことを信憑性の高い噂としてばらまく。」

「くっ・・・。」

「それじゃあ、困るよな。困るんだろ。だから、やることはひとつ。お前はこれまでどおり、静かに真空地帯へ収まっていればいい。簡単だろ。何も難しいことは要求していない。今日、見たことは忘れろ。私の言うことにおとなしく従っておけば、困ることはなにひとつない。」

 糸にからみつかれるような感覚。意地を張って、バイトのことをばらせばいい、なんて言い放った気勢がなえて行くのを俺はただ、黙って感じているしかなかった。

 俺の心が勢いを失ったのを見透かしたかのように、地鏡は付け加えた。

「ああ。お前のやること、もうひとつあった。」

「も、もうひとつ・・?」

「五万だ。明日までに用意しろ。」

「え・・・。」

「私への恭順(きょうじゅん)の証だ。」

「・・・・・。」

 俺は地鏡の意外な要求に、言葉が出なかった。おかしい。良家のお嬢である地鏡が、金を要求するなんて、どういうことだろう。当人が楽しい高校ライフを送るにあたって、その活動資金に困っているとはとても思えない。これはある種の見せしめというか、俺の心を折って従わせるための(しるし)として要求していると、恭順の証という言葉どおりなのか。

「わ、分かった・・。」

 痛い。新しい自転車を買おうと、明里さんにこき使われながら必死でためた貯金なのに。

 拒絶したいができないこの状況、俺は悔しくて悔しくて、涙が出そうになる情けなさに、ますます悔しさがつのった。

 そのとき、地鏡の目が異様な輝きをもって俺の表情を見ていることに気づいた。

「一生懸命バイトして稼いだ金なのに、残念だよなぁ、こんな形で人に取られるなんて。」

「うぅ。」

「いいか。もし足りなければ、借りるでもして用意しろ。用意できないときは、倍に増す。」

「ば、倍に・・?」

「お前に選択肢はないんだよ。私に隷属(れいぞく)するしかないんだ。あの場に居合わせた自分の不運を呪うんだな。」

 絶望の二文字が、頭の上から石の塊みたいに降ってきた。俺はこれからの学校生活、地鏡の言うなりにならなくちゃいけないのか。敗北感に、涙が・・・。

「・・・・。」

 涙が出そうになったが、俺は地鏡の、何かを期待するような顔への興味に、泣くタイミングを失った。

 そういえば、地鏡は倉田におかしなことをしていた。こぼした涙を集めるという、理解に苦しむ行為。地鏡は俺を泣かせようとしているんじゃないか。

 泣け、泣け、という地鏡の心の声が、伝わってくるみたいだ。

 いつまでたっても泣かない俺を見つめていた地鏡は、ちっ、と舌打ちをしてから、いつもの、教室で見せる雰囲気に戻っていた。気配りのできて、頭がよく、優しい余裕を秘めた優等生のそれ。

「約束よ。忘れないでね。じゃあ、私、帰るから。」

 この変わり様は何回みても不気味だった。

 ちょっと歩き始めてから、地鏡は立ち止まって振り向き言い足した。

「これからも、よろしく、早乙女君。」

 夕闇に映える地鏡の笑顔。よろしく、とはつまり、お前は私の手駒だと。そう宣言されたに他ならなかった。

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