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猫と河童と、あるいは毒蜘蛛中性子星  作者: 桜田駱砂 (さくらだらくさ)
10/11

チャプター10 老いばやナッちゃん

 インターホンという利器(りき)のない時代、来訪したときその家の人間へ取り次いでくれる、そんな役割の人がいたはずだった。けれどここにそんな人の気配はまったくなく、大きな門扉(もんぴ)はさっきから沈黙を守ったままだ。

「インターホンがないって、珍しいおうちだよね。」と、鬼庭。

「ああ。郵便とか来たとき、どうすんだろ。呼んでみるか。」

「そうだね。おーい。すいませーん。どなたかいませんかー。」

 鬼庭の、張りのある声と意外に大きな音の響くノックでも、しかし、地鏡邸は静まり返っている。

 作戦は最初から、大きくつまづいてしまったみたいだ。地鏡の家に乗り込み、俺と鬼庭が正面から押して地鏡達の気を引く。その隙に、エリが忍び込んで目処千と老石を奪還、が段取りだったのに、そもそも、誰も出てくる気配がなかった。

「俺達が来ることを見越して、警戒してるのかな。エリの話じゃ、地鏡と他の二人以外、人の気配はなかったみたいだし。奴ら、目処千のそばから離れない、とか。」

「それも困るね。でも、ここで誰か出てくるのを待ち続けるわけにもいかないでしょ。」

「ああ。」

「だったら、入っちゃおうよ。」

「入るって、勝手にか?」

「ナッちゃんを誘拐したんだよ。断りがなきゃ入らないなんて理屈、おかしくない?」

「それは、そうだけど・・・。」

「早乙女、(かが)んで。」

「屈めって、どうするんだよ、鬼庭。」

「肩車。壁を乗り越えるから。」

「俺が下になるのか?」

「当たり前でしょ。私が下じゃ、絵的に変じゃない。」

「絵的にって、お前の方が力ありそうな気がするんだけど。」

「女の子に肩車してもらう恥ずかしさを考慮しなさいよ。」

「俺は別に恥ずかしくないんだけどな。」

「恥ずかしいと思うべきね。」

「そういう、男なら力強くあるべきだ、的な考え、時代に合ってないだろ。」

「時代に合っていなくとも、体格上、釣り合いってもんがあるでしょ。私の方が小さいんだから。」

「そういうもの、なのか?」

「そういうものよ。さぁ、早く。」

「分かったよ。まったく・・・。」

 俺は鬼庭に言われてしぶしぶ、その場に屈み込んだ。

「よっ、と。いいわよ、早乙女。」

「ふんっ!」

 鬼庭、小柄で華奢(きゃしゃ)なくせに筋肉はついているのか、みっちりとした重量感があった。

「鬼庭・・・。結構重いな。」

「重いとか言うな。標準体重よ。」

「そ、そうか。それと、あんまり強くはさまないでくれるか。く、苦しい。」

 鬼庭の色気のない太ももが、俺の頭を万力みたいにはさみ込んで息苦しい。肩に乗っているのが目処千だったら、という甘い妄想もしかし、この苦しさを紛らわせるには至らないのだった。

「あ、ごめん。早乙女、もっと前。壁に届かないよ。」

「分かってるって。」

 俺はふらつく足取りで、漆喰塗りの白壁に近づいた。

「よっ・・・と。」

 鬼庭は壁に取り付き、ほっ、という掛け声と共に壁上の瓦敷きへ器用に登る。

「早乙女、ちょっと待ってて。門を開けてくるから。」

 鬼庭が首尾よく門を開けて中に入れば、飛び石が長々と続く、広大な庭になっていた。

「でかいな・・。地鏡の奴、こんなとこに住んでるのか。」

「だね。お嬢様だし。」

「屋敷の方、行ってみよう。」

「うん。」

 飛び石伝いに屋敷の玄関へ近づくが、辺りはひっそりとして人の気配はなかった。暗がりに目をこらすと、庭の所々には雑草が生い茂って、手入れが追いついていない感じだ。敷地はとてつもなく広いのだけれど、どこか、荒廃、という二文字が雰囲気に見え隠れする。

 地鏡の教室で見せる優等生的な顔が結局「表現」の一つにすぎず、陰にひそむ彼女のささくれ立った本質がこの屋敷に庭に現れているような、そんな気がしてならない。

 外から見て、屋敷のどの部屋にも明かりがついている様子はない。

「なんか、誰もいないみたいね。」

「ああ・・・。」

 玄関まで来て木製の重厚な引き戸に手をかけると、

「鍵がかかってない。」

 そのまま引き開け中をのぞく。しん、と静まり返った屋内の闇溜(やみだ)まりは想像以上に色濃くて、玄関から続く廊下の奥行きはまるで果てしがない。

「・・・暗いね。」鬼庭が恐る恐るといった風に中をのぞき込みながら言って、

「え? 早乙女、ちょっと、中に入るの?」

 と、慌てた。

「入らないと、目処千を見つけられないだろ。勝手に入ろうって言い出したのは鬼庭じゃないか。今さら、屋内に入っちゃいけないとでも言うつもりか?」

「そ、そうじゃないけど、なんか暗いし・・。」

「もしかして鬼庭、怖いのか?」

「こ、怖くなんてないよ。全然。まったく。平気だから!」

「そうか。なら行こうぜ。」

 俺は言って、ちょっと考えてから靴を脱ぐと、それを持って上がった。逃げるときのことを考えたら土足のままが一番いいのだろうけれど、いくら地鏡の家とはいいながら、習慣上、靴のまま踏み込むのは抵抗があったからだ。

「ま、待ってよ、早乙女。待ってってば。」

 鬼庭、一人でその場に残される方がもっと怖いと考えたのだろう、転げるようにして追いついてくる。

 普通、暗がりでも電気をつけられるよう、そのスイッチは目立つところにあるものだけれど、この屋敷には、そうしたスイッチの類いがまったく見当たらない。壁に手をやりながら歩くにつれ、板敷きの廊下がみしと音を立てた。

「相当、古い建物みたいだな。」

「うん・・・。」

「あのさ、鬼庭。」

「な、何よ。」

「さっきから歩きにくいんだけど。」

 鬼庭はくっついて離れないスーパーのビニール袋口みたいに、俺の背後に張り付いているのだ。

「気のせいでしょ。」

「いや、歩きにくいから歩きにくいと言ってるのであって、気のせいとかそういう話じゃない。」

「暗いからよ。暗いから、はぐれると面倒でしょ。だから。」

「いや、だからって、海苔弁当の海苔とご飯みたいにくっつかれても。」

「じゃあ、どうしろって言うのよ。」

「もうちょっと離れてくれ。」

「むぅぅ。じゃあ、こうする。」

 そう言って、鬼庭は俺のズボンのベルトをつかむのだった。

 歩きにくいことに変わりはないのだけれど、息のかかるほどくっつかれるよりはいくぶんましで、俺は再び廊下を進み始めた。

 片側は板戸になっていて、開ければ庭に面するのだろう。しばらく行くと、廊下が左へ直角に折れている。曲がろうとして俺は立ち止まった。

「あたっ! 急に止まんないでよ、早乙女。」

「・・・・。」

「どうしたの?」

「何かいる。」

「・・・え?」

 再び鬼庭が背中にくっついてきて、俺の腕をつかんだ。

「な、何かって?」

「分からないけど、角の向こう側。」

「だ、誰? ナッちゃん? それとも、地鏡ちゃん?」

 俺は曲がり角から顔だけ出す格好で、奥の方をのぞいてみた。廊下の先は闇が深くて、何も見えない。

「誰なの・・?」囁く鬼庭へ、

「しっ。地鏡達かも知れない。」

 と、俺も囁き返す。

 ぎし、と廊下が鳴った。やっぱり、誰かいる。それにしても。足音にしては、その間隔が長過ぎる。一歩踏み出してはしばらく止まり、また一歩、という感じで、普通に歩いている音には聞こえなかった。

 廊下の鳴る音は五、六メートル先で止まって、それでも音の主は見えなかった。

「・・・・・。」

 俺と鬼庭は吐息一つで自分達の存在がばれるんじゃないかと、息苦しささえ感じるほど息を殺した。鬼庭の手が、ますます強く俺の腕をつかむ。

「何をしてるぞな? 貴殿ら。」

「うわぁ!」

「ぎゃぁ!」

 俺と鬼庭は同時に叫んだ。突然思わぬ方向、背後から声を掛けられ振り向けば宙空(ちゅうくう)に、エリの顔だけが浮かんでいる。

「エ、エリ・・・!」

 しまった。思わず叫び声をあげてしまったけれど、今ので足音の主には完全にばれた。逃げるしかない。

「エリ、鬼庭! に、逃げるぞ!」

 俺の慌てようとは対照的に、エリは落ち着き払ったまま、

「誰から逃げると言うに、早乙女殿。」

 と、のたまう。

「だ、誰って、廊下の向こう側の・・!」

「ああ、それはあてだに。」

「あ、え・・・?」

「足音を餌に、誰ぞおびき出されるかと思って歩いておったが、お二人が顔だけ出してあてを見つめるものだから。」

「そ、それで、声を掛けた、だけ?」

「そうぞな。」

「だったら、わざわざ背後に回ることないだろ。」

「近寄ってもさっぱりあてのこと気づかんに、何をしてるんだろーなと回ってみただけじゃにゃーか。あんなにびっくりするとは思わなんだ。」

 と、言いながら、エリはにやにやと明かりに照らされた笑みを浮かべている。わざとだ、絶対。

「びっくりするに決まってるだろ。それは何だよ。」

 俺はエリの手にする光源を指した。

「こりゃ、プリペイドの携帯だに。買っておったの忘れてたによって、使ってみた。」

「携帯持ってる式神というのも、何だかアンバランスというか、アナログ、デジタル、はっきりしないな。」

「式神だったら、黒電話でも使えと? それもお仕着せがましい偏見ぞな。式とて携帯ぐらい持つ。便利じゃからな。」

「暗がりで自分の顔を照らす用途に使うなよ。」

「顔を照らしちゃいけんなぞいう決まりなどにゃーが。」

「それはそうだけど・・。あれ、鬼庭は?」

 暗がりに目をこらしても、さっきまでそこにあった鬼庭の姿がない。

「こ、ここ・・・。」

「ん?」

 妙に下の方から聞こえる声だ。視線を落とすと、鬼庭がぺちゃんと、廊下に座り込んでいた。

「どうしたんだよ、座り込んだりなんかして。」

「びっくりしすぎて、こ、腰が・・。」

「どうやら腰を抜かしたようだに。やれやれぞな。」

 お前のせいだろ、とエリに対するツッコミを心の中で入れながら、

「鬼庭、立てるか?」

 と、聞いてみる。

「立てる・・・・。」鬼庭はそう言うものの、いっこうに立つ気配がない。

「しばらく無理だろ。ほら。」

 俺は屈むと、背中を鬼庭へ向けた。

「ほら、って何が?」

「おぶるよ。ここで座り込んだままいても、しょうがないだろ。」

「いいよ、別に。自分で歩けるから。」

「歩けるって、立てもしないじゃないか。それとも、ここに置いてこうか?」

「むぅ・・・。」

 暗くてその表情まではよく見えなかったけれど、鬼庭はしぶしぶといった感じで俺の背中におぶられるのだった。

「!」

 この感触。

 期せずして、何というか、俺は鬼庭の胸のサイズを背中でもって実感することになる。これは、ヌリカベというより猫娘クラスはあるんじゃ・・・。着痩せするって、鬼庭の言っていたことは本当だったのか。猫娘クラスが具体的にどの程度かって話はあるけれど、とにかく、まな板じゃないのは確かだった。

「鬼庭、猫娘だったんだな。」

「え? 何よ突然、猫娘って。」

「い、いや、こっちの話。」

「?」

 俺は鬼庭の猫娘に対する動揺をごまかそうと、早口で言った。

「目処千の居場所、早く探さないと。エリ。何か手掛かりはあったのか?」

「いんや。気配も何もさっぱりにゃーが。ナツはおろか、あの地鏡や宮下達の気配もな。この屋敷、完全にもぬけの殻ぞ。」

「もぬけの殻・・・。」

「そうぞな。奴らいったい、どこに行ったのやら。」

 それから俺達は、何部屋あるのか分からない迷路のような屋敷の中を探しまわるのだけれど、やっぱり目処千は見つからなかった。

 屋敷の中、かなり奥まった場所まで来たところで、エリは、

「おや、スイッチ発見。」

 と、電気をつける。

 光に貧しい裸電球がともるそこは、他の部屋とは異なる異様な場所だった。

「何だ、ここ・・・。」

 畳敷きの部屋に蓋をするようにして、木製の頑丈な格子ががっちりとはまっているそこは、まるで牢屋だ。

「座敷牢、ってやつか・・?」

「ナッちゃんがつかまってるとしたら、こういう場所なのかも。早乙女、もう大丈夫だから降ろして。」

 背中の鬼庭が言った。

「ああ、もういいのか?」

「うん。」ありがと、と鬼庭は小さな声でつぶやく。

 背中に感じていた鬼庭の温もりと感触がなくなって、物足りないというか、もう少しおぶっていたいと思う自分が不覚にもいる。相手は何せ、女子力ゼロの鬼庭なんだ。俺は何も感じちゃいないし、感じちゃいない。鬼庭は鬼庭なんだ。

 言い聞かせながら俺は、鬼庭を畳の上に降ろした。

 格子の扉を何やらいじっていたエリは、

「ふふん。こしゃくな錠前よの。」

 言って、どこからか取り出したヘアピンを鍵穴に突っ込むと、ものの十秒もかからず錠を開けてしまった。

「そんなこともできるのか。」

「あてのスキルの豊富さは伊達じゃにゃーが、早乙女殿。器用貧乏と言うなかれ、どれもエキスパートクラスぞな。さて。」

 牢の中に入ったエリは、くんくんと鼻を鳴らして言った。

「ふむぅ。どうやらナツは、ここに閉じ込められておったみたいぞな。」

「分かるのか?」

「かすかに、ナツの気配が残っとる。」

「こんなところに・・・。」

 電球一個に照らされただけのそこはいかにも陰湿で、この牢を作った人間の性格がそのまま、部屋の雰囲気に出ているような気がした。こんなところに目処千は閉じ込められていたというのか。きっと、不安でしょうがなかったに違いない。もしかしたら、泣いていたかも知れない。目処千・・・。

「あ、何か落ちてるよ。」鬼庭が部屋の隅に駆け寄って、何かを拾う。

 鬼庭が手にしているのは、人差し指の先ほどしかない、小さな紙片だった。

「よくそんなの見つけたな。」

「ふふん。目はいいのよ。何か書いてある! ナッちゃんの書き置き、とか?」

「どれ。」

 俺と鬼庭、エリは三人で顔をくっつけるようにして紙片をのぞきこんだ。

 犬 訊

 とだけ、そこには書いてある。

 鬼庭は、

「犬。訊く? 何のことだろ。」

 と、首をかしげる。

「さぁ・・? 犬の鳴き声を聞くってことか? そもそも、これ本当に目処千が書いたものなのか?」

 俺の疑問に、エリが応えた。

「そこは間違いないに。これは確かにナツの字。恐らく地鏡らに見つからないよう、隙を見て残したものぞ。」

「そうか。でも、犬って。この屋敷に、犬なんているのか。」

「ふむ。寛次郎と呼ばれていたアホな犬はおるみたいだが・・・。」

「庭か?」

「恐らく。」

 俺達は、目処千の残したメッセージが何を意味するのか分からないまま、とりあえず庭に出てみることにした。日本庭園風の庭では、月の照らし出す砂利や置き石がぼんやりと見て取れ、真っ暗な屋内よりもむしろ明るく感じる。

 俺は庭を見渡すようにして、目をこらした。

「犬なんて・・・、いるか?」

「ふぅむ・・・。」

 エリは鼻をひくひくさせて犬の気配を探っている。

「あ、あれ! 犬小屋じゃない?」鬼庭が指差す方向を見ると、庭の片隅、確かに小さな犬小屋があった。

「行ってみよう。」俺達三人が犬小屋の方へ行きかけると、

 くぅーん、という、何とも寂し気で切実な、困った感に満ち満ちた犬の鳴き声が聞こえてきた。上から。

「?」

 三人同時に上を仰げば、屋根の縁から鼻先を突き出して何やら窮状(きゅうじょう)を訴えかける犬が一匹、そこにいた。

 俺達と目が合ったその犬は、さらに鳴き声を上げ続けた。

 鬼庭は、

「何で屋根の上に犬が?」

 と首をかしげた。同感だ。猫なら、箪笥の上や樹上、高い場所に登りたがるのも分かるけど、屋根に登る犬なんて聞いたことがない。

 エリは何を思ったか、犬に向かって突然喋り出した。

「寛次郎、といったか。そんな所で何してるぞな? ・・・あ? 降りられないから、助けてくれ?」

 エリと犬の間で、何やら会話が成立している。

 俺は、

「降りられない・・? というか、エリ、あの犬の言ってること、分かるのか?」

 と、エリに訊く。

「分かるに。どうも、あのアホ犬、自分で屋根に登ったはよいが、降りられなくなったみたいぞなも。」

「あー・・・。」

 変な犬。俺と鬼庭同時に言った声がかぶった。木から降りられなくなった猫を助ける、なんて映像は時々見かけるけど、犬って。

「とにかく、屋根から降ろそう。」

 俺は言って、辺りを少し歩くと梯子が地面に転がっているのを見つけた。どうやら、これを伝って屋根まで登ったはいいけれど、後ろ足で蹴倒しでもしてしまったのか、梯子が外れてしまったみたいだ。

 梯子を掛け直してその犬、寛次郎の名を呼ぶと、嬉しそうにやって来て、どてどて梯子を降りて来る。

 エリは降りてきた寛次郎を見て言った。

「そういえば、あてが最初にここから脱出しようとしたときも、屋根の上で出くわしたに。屋根に登るのが好きなんじゃの。」

 わん、と応える寛次郎、そうだ、と言わんばかりだ。

「して、寛次郎。あてらはナツという少女と地鏡達を追っているに、ここにはおらんぞな? どこへ行ったか、分かりやるか?」

 へっ、へっ、へっ、へっ、と、口から舌を出して、寛次郎は呼吸をしているだけにしか見えないのだが、対するエリは、

「・・・ふむ。それで? ・・・・・ほう。」

 などと、相槌を打っている。

 鬼庭が俺の隣に来て言った。

「犬、訊く、ってこのことだったのね。エリちゃんは動物と会話ができることを見越しての書き置きだったんだ。」

「ほんとに、そのままの意味だったんだな。それにしても、式神ともなると、不思議なことができるもんだよな。」

「あ〜、いいなぁ。私も犬や猫と会話してみたい。」

「でも、犬猫は自分で飼ってると、何考えてるかだいたい分かるとも言うじゃないか。特に犬。」

「そうかも知れないけど、それって相手の考えてることを察しているだけでしょ。会話じゃないもん。」

「察するだけじゃ、だめなのか?」

「足りないわよ。言葉にして伝え合うってところがいいんじゃない。まったく、分かってないなぁ、早乙女は。」

「分かってないって・・・。ふぅん。そんなもんなのかな。」

「そんなもんよ。」

 などと言ってる内に、エリと寛次郎、話が一区切りついたようだ。

 鬼庭は興味津々といった顔で言った。

「ねぇ、エリちゃん。その、寛次郎くん、何だって?」

「うむ。地鏡とナツ、やはりここにはおらんぞな。先刻(せんこく)、皆で連れ立ち、どこぞへ行ってしまったらしい。」

「そう・・・。どこに行ったか、知ってるって?」

「いや、知らんそうな。」

 俺は目処千のことが気になった。

「それで、目処千は? 無事なのか?」

「それよの。寛次郎、ナツはどうなった。ぬし、何か知っておるか。・・・・ふむ。・・は? そんなことを? それで、死にそうに? ・・・理解できんぞな。」

 応えるエリから不穏な単語が飛び出す。死にそう、とか。心配そうな表情の鬼庭と俺は顔を見合わせ、もどかしい思いでエリによる通訳の結果を訊いてみた。

「それで、エリ、目処千がひどい目にあったのか?」

「まぁ、ひどい目っちゃあ、ひどい目じゃがの。」

「ぶ、無事なのか? 今、死にそうとかって・・。」

「無事は無事ぞな。笑い死にしそうになっただけだによって。」

「笑い死に・・・?」

「寛次郎が、ナツの足の裏を舐め繰り回したそうな。」

「なめく・・・!」

 足の裏を舐められて悶絶する目処千が脳裏に浮かんだ。な、なんか、エロいな。そう思った途端、イメージが頭から離れなくなった。

「舐め繰り回すって・・。うらやま、いや、けしからんな。」

「けしからんて言いながら、嬉しそうな顔してない? 早乙女。」と、鬼庭。

「し、してないぞ。舐め繰り回してみたいだなんて、思ってないからな。」

「そんなこと聞いてないわよ。」

 エリはさらに詳細として、

「宮下と坂延でナツの脇をくすぐりながら、ということらしいぞな。」

 なんてことを言うものだから、俺はうらやましさ、じゃない、怒りに震えて、

「な、なんだってぇ・・・! 許せない! 俺も参加したかったのに!」

 思わず心の底から叫んで、拳を固めた。

「本音が出たぞな、早乙女殿。そういうことなら、あても付き合ってやるに。笑い上戸だからの、ナツは。共に、ナツを悶死(もんし)させてやろうぞくすぐって。」

「頼むぞ、エリ!」

 がっしと手を握り合う俺とエリをしかし、鬼庭は白い目で見ながら、

「馬鹿みたい。」と、ノリが悪い。

「鬼庭は入りたくないのか? このお楽しみイベント。」

「何がお楽しみイベントよ。入りたくないわ。早乙女と一緒にしないで。そんなことより、ナッちゃん達の行き先が分からないんじゃ元も子もないでしょーが。」

「それもそうだな。どうするか・・・。」

 俺達三人が頭をひねっているところへ、わふ、という声が下からする。

「どうしたぞな、寛次郎。」

 と、エリが聞くところによれば、

「・・・ふむ。・・・ほ。できやるか? ならばぜひとも頼みたいが。」

 と、寛次郎に何か頼める状況であるらしい。

 俺はエリに訊いた。

「寛次郎、何て?」

「地鏡達の匂いをたどれるらしいぞな。」

「ほんとか?」

 寛次郎の方を見れば、

 わわん、

 と、嬉しそうに吠えて尻尾を振っている。どうやら、できる、という合図らしい。

 エリは寛次郎の頭を撫でてやりながらうなずいた。

「では、頼むぞ、寛次郎。」

 頼まれた寛次郎は言われるなり、ものすごい勢いで屋敷の中へ駆け去り、リードをくわえて戻ってきた。

「それを付けろと?」

 わふ。

「よしよし。ちょっと待つに。」

 エリがリードを付けるのを見ながら、鬼庭、

「自分でリードを付けてもらおうとするなんて、利口なのね。」

 と、感心するのだが、エリはそうでもない。

「利口というか、あれぞな。これが付いてないと、出先で落ち着いてできないそうだに。」

「できないって、何ができないの?」

「おしっこ。」

「おし・・。」

「当人は散歩に行った地鏡達へ追いつきたいとしか考えてないゆえ、利口だか何だかの。ほれ、できたぞ。」

 リードがついて、さっそく寛次郎はぐいぐいとエリを引っ張る。早く行こう、ということなんだろう。

「よし。目処千を探しに行くぞ。」

 待ってろ、目処千。俺達は地鏡家を後にし、夜の道を柴犬、寛次郎に(いざな)われるのだった。


「宮下、できたか?」

 私はすぐ横に焚いたかがり火のゆらめきを見つめながら、注連縄(しめなわ)の張り具合を宮下に問うた。

 雲一つない夜の空に月だけが照って、かなり冷え込む。

「ええ、お嬢様。」宮下がうなずく。

 荒れ神社の境内(けいだい)、雑草を踏み倒した一角で、東西南北、四方に張った注連縄の囲いの中へ私は入った。木製の供物台の上に、ろうそく二、柊の葉、豆腐一、檜の(けず)(ぶし)沈丁花(じんちょうげ)を置いて儀式の要とし、中央に老石を据えている。なぜ豆腐がこの儀式に必要なのか、理由は知らない。地鏡家の先祖、弥平がそう書き残しているのに従ったまでだ。なぜ、という疑問は、この期に及んで無意味だろう。目処千ナツという実例がすでに存在しているのだから。

 私はポケットから、学内で集めた生徒達の涙の入った小瓶を取り出すと、供物台手前に置かれた白木の箱台へ置く。

「それでほんとに、若返りの水ができるん?」

 注連縄の外に立つ目処千が訊いてきた。

「そのはずだ。前回は失敗したが、今度こそうまくいく。」

「場所を変えたから?」

「そうだ。」

「若返りの水って、もしかして、その瓶の中身がそれに変わるってことかの?」

「ああ。」

「でも、それ、涙なんじゃろ? それを飲むって、ちょっとばっちくないかの?」

「・・・・。」

 これが涙だと、どうして目処千は知っている。私が目をやると、坂延が慌てて視線を逸らした。お前か、坂延。目処千にぺらぺらと、いらないことを喋ったのだろう。ごつい見かけによらず、情にほだされやすい奴だ。目処千に同情したのか知らないが、安心させるためにいろいろ話した、そんなところか。

「・・若返りという恩恵に比べれば、そのくらいの我慢、どうってことないだろうが。」

「でも、しょっぱそうじゃし・・。」

「量も少ないんだ。味の心配をする必要はないだろ。」

「そういう問題かの?」

「いいから黙ってろ。始めるぞ。」

 若返りに成功するキーともなるんじゃないか。そんなあやふやな目論見で目処千を一緒に連れて来たものの、失敗だったか・・? 何だかこうるさい。母親、という連想を私はしたくなかったが、それでも、その言葉が脳裏に浮かんでイラつく自分がいる。

 白面水の味の心配をしたりと、口では妙なことを言い出す目処千だったが気がつけば、老石をじっと見つめたまま、目を離そうとしない。老石に興味があるということなのだろうか。無理もない。それで自分が若返ったのだ。不思議なものを見つめる目となってもおかしくはない。

 私は二回、大きく響く柏手(かしわで)を打つと、

「目処千。せいぜいそこで見ておくんだな。事の始終を。」

 言ってから、涙の小瓶をつかんで老石にさしむけた。

「ひとつ。」

 瓶の一滴を垂らす。

「ふたつ。」

 もう一滴。二。最初の素数。

「みっつ。」

 三度(みたび)

「よっつ。」

 四。四天王(してんのう)であり、四神(しじん)の四。

「いつつ。」

 五。五芒星(ごぼうせい)陰陽五行(おんみょうごぎょう)

「むっつ。」

 六。六泊金星(ろっぱくきんせい)。天の象徴。

「ななつ。」

 七。分光単色束(ぶんこうたんしょくそく)、つまり虹。

「やっつ。」

 八。末に広がり。

「ここのつ。」

 九。十進最後の一桁にして終わりを示し、それはまた変容と開花の可能性を内包する永遠の未完となる数字。

 私も含め、宮下、坂延達も息を吞む。

 九滴の涙を老石に注いだところで、白く細い煙のようなものが、するすると上に向かって昇り始めたのだ。だが、ここまでは前回と一緒だ。この煙は前回も立ち上ったし、それでいて、何も起こらなかった。目処千の若返りという一点を除いて。

 天上から下がる蜘蛛の糸を希望の一筋と見つめたカンダタよろしく、銀糸のようなその白煙を見上げていたところ、突然、煙の先の方が、くにゃり、と曲がった。

 煙の先は見る間に落ちてきて、私の汗ばんだ手に握り込む、掌中の小瓶とつながる。

「これは・・・!」

 信じられないことを目の当たりにして、それをどうにか理解するには、ずいぶん時間のかかるものだと。数秒にしか満たない時間であったものの、私はそんなことを悟った。

 手にした瓶が、ほんのりと温かさを増す。私の体温で温まったんじゃない。瓶の中の涙、それ自体が、かすかな熱を帯びて私の手の平に伝わってくる。

「お嬢!」

「お嬢様!」

 坂延と宮下が、歓喜の声を挙げた。

「ああ。」

 と、私も思わずにやりと笑ってうなずく。

 やった。煙が瓶に注ぐというこの現象。これは前回起こらなかったことだし、成功したと見て間違いないだろう。

「ふふ・・・。はははっ。やったぞ! 若返りの水、手に入れた!」

 高らかで、朗らかに、そう宣言した私のさわやかな気分を、しかし、ぶち壊しにしようと目論(もくろ)む声がする。

「地鏡っ!」

 境内の破れ鳥居から声が飛ぶ。振り向けば、早乙女、鬼庭、それと、この前忍び込んできたエリベルシカとかいう子供(ガキ)だ。

 これが悪事だと言う自覚は私にないが、しかし、悪事を成し遂げようとしたまさにそのとき、そうはさせないっ、そう言って止めに入るヒーロー面した正義の使者。そんな顔をした三人が、私をにらみつけている。

 その脇には、ファッ○・・・・あの馬鹿犬。留守番してろと言ったのに、奴らをここまで案内したな。エリベルシカにリードを握られて、澄ました顔して座ってやがる。まるであれじゃあ、あの娘のペットだ。誰が主人かをもう一度叩き込まねば。

「何をしにきた、早乙女っ!」

「目処千を返せ、地鏡。」

 目処千は早乙女の姿を認めるなり、

「久郎ちゃん!」

 叫んだ。

「目処千! 無事か!」

「うちは大丈夫じゃ。」

 私は注連縄をくぐりながら、早乙女をにらみつける。

「返せ、だと? お前に返せと言われて、ただ言うなりになると思ったか。」

 白面水は手に入れた。目処千を返さない理由はいくらも残っていなかったものの、やはり、早乙女ごときの言うことをただ聞くのは(しゃく)だった。

「行くぞな、鬼庭殿。」

「うん!」

 エリベルシカと鬼庭、二人が目処千に向かって駆け出す。

 私は宮下、坂延に鋭く言った。

「目処千を渡すな! まだ使い道はある!」

 坂延、

「ええ? もういい加減、いいんじゃないすか、解放してあげても。かわいそうですよ。」

 と、反論する。

「黙って言うことを聞け!」

「しかし、お嬢・・・。」

 宮下は、相変わらずの張り付いた笑みを浮かべながら、

「坂延。お嬢様がああ言うんだ。そのとおりにしよう。」

 などと言っている間に、鬼庭、エリベルシカの二人は坂延達と一気に距離をつめる。

 ちっさいくせに驚くほどよく伸びる鬼庭のハイキックが、宮下の顎先をかすめた。

「おっ・・と! この・・・!」

「宮下! 気をつけろ! そいつ、空手部だ!」

「ちょ・・! お嬢様! そういうことは先に言ってください!」

 鬼庭の手数をかろうじて防ぐ宮下。

 防戦一方の宮下とくらべて、がたいだけは人並み以上な坂延、エリベルシカと対峙し、まさか遅れをとるとは考えていなかった。

「あたたたたぁ!」

 エリベルシカの繰り出す拳の先が見えない。岩のような固さを誇る坂延の腹筋、一度触ったことがあるから岩のようなと形容するわけだが、その腹筋に散弾みたいなエリベルシカの拳がまともに炸裂した。

「ぐはっ・・! このガキ・・!」

 両手でつかみかかる坂延の動きを、しかし、エリベルシカは燕のような身軽さでかわして坂延の肩を軸に、空中を一回転してその背後へ回る。そのまま身体を沈み込ませると、水面蹴りの要領で坂延の足を払った。

「ぬぉ!」

 と、雄叫びを上げ、地面へ派手に転がる坂延。

「あいつ、人間か・・・?」

 エリベルシカの超人的な動きを前に、坂延はまったく為す術がない。

 宮下と坂延、二人がたこ殴りにされるその様へ意識を取られて、私は迂闊(うかつ)にも、いや、人生における最大の油断と呼んでも過言ではない瞬間を迎える。

「!」

 視界の端に、私は早乙女を捉えた。

「いつの間に・・・!」

 注連縄の中へ入った早乙女は一直線に供物台へ駆け寄ると、老石をその手に取った。

「早乙女っ! 何をする!」

「地鏡。悪いけど、こうするしかないんだ!」

「やめ・・、やめろぉ!」

 両手を振り上げた早乙女は、老石をそのまま、地面に転がっていた岩に叩きつけた。

 ぱしゃん、とガラスの瓶が割れたような音がして、老石は粉々に砕け散った。かがり火に照らされた老石の破片は砂みたいに細かく。ゆっくりと空中へ飛び散ったかと思うと、きらめく粉雪のように舞った。そよ風ほどの微風が吹くに合わせて、老石の破片は瞬く間に霧散して行く。

 地鏡家を再興するという、目処千曰く、失ったものの穴を必死に埋めようとし続けた私の行いが、霧のように溶けて消える。

「やめ・・ろぉ。」

 よろめく私へ、ぶつかってくる衝撃を感じた。

 わぅ!

 と、能天気な声をあげる寛次郎だ。

 思わぬところで寛次郎に体当たりされた拍子に、私の手から白面水の入った小瓶が滑り落ちた。儀式の最中だった。蓋はしていない。

「ぁあ!」

 瓶の中身は盛大に、寛次郎の鼻ヅラへぶちまけられた。一滴残らず。

「は・・白面水が・・!」

 鼻先にかかった白面水を、寛次郎はぺろぺろと舐め回した。

 見る間に、寛次郎の容姿が変わり始める。老齢ゆえに垂れ下がったひげは張りを取り戻し、枯れた芝生みたいにつやのなかった毛並みが、新たに生え上がった天然芝のごとく輝き出す。 

 若返ったのだ、寛次郎が。

「あぐ・・。この・・・!」

 私はその場にへたりこんだ。

「この・・・馬鹿犬・・。」

 犬に飲ませるために作ったわけじゃない。この白面水を。

 わふ、と嬉しそうに尻尾を振る寛次郎を叱りつける余裕も気力もすでに、私には残っていなかった。

 その場にへたり込む私の視界が、ゆらゆらと揺らめき始めた。それが自分の流す涙によるものだと気づいたときにはすでに、スカートへ数滴、涙がこぼれ落ちていた。

 泣いていない。自分は泣いてなんかいない。この地鏡魔樹が泣くなんて。そんなことありえるものか。

 くそっ。

 涙を流していることを早乙女に悟られたくなくて、私はうつむいたまま、手の甲で乱暴に顔をぬぐった。

 誰かが、私のすぐ前にひざまづく。

「泣かんでええじゃろ、地鏡さん。」

 はっ、として顔を上げたそこには、目処千がいた。

「目処千・・・?」

 元の年齢に戻ったのだ、その容姿も、何もかも。目処千だと、気づかない? いいや。私には、目の前にいる人間が目処千ナツであるとして、間違えようがなかった。浮かべる笑みは目処千のそれであって、歳を経ようともまったく変わっていなかったからだ。あたたかな笑みは、どこか、優しかった頃の母の面影があった。

 目処千は私の頭を撫でながら、

「地鏡さんはええ子じゃけぇ、あの石に頼らんでもうまくやっていけると思うんよ。」

 そう語りかける。

「人の苦労も知らず・・・。」

「そこは確かに悪かったとも思うがの。でも、うちの時間、どうしても返して欲しかったんじゃ。久郎ちゃんにもそう頼んでおったから。」

「早乙女に、頼んだ・・? だからあいつ、老石を割ったのか。」

「ほうじゃ。」

「せっかく若返ったのに、元に戻りたい、だと・・。」

「うちの過ごした時間はうちの人生、そのものじゃけぇ。若い頃の自分に戻って、そりゃ楽しいこともあったがの。でも、やっぱりうちは、うちの歩んだ道のりを否定したくなかったんよ。」

「そうか・・・。誤算だな。世の中に、若返りたくない人間がいたなんて。」

 早乙女がやってきて座り込む私の前に立ったものだから、慌てて立ち上がった。この上、早乙女に見下ろされるなんて、そんな状況死んでもごめんだ。

「地鏡。その、悪かったよ、石を割って。でも、目処千を元に戻すには、この方法しかないと思って・・・。まさか、地鏡が泣くなんて、思ってなかったし。」

「誰がだ。」

「え?」

「誰が、いつ泣いた。」

「だって、泣いてたじゃ・・。」

「泣いてなどいない。あまりのショックに、涙腺(るいせん)が緩んだだけだ。」

「それを泣くと呼ぶ─。」

「黙れ、早乙女。それ以上言ったら、お前が泣いて許しを乞うはめになるぞ。」

「わ、分かったよ。」

 老石が割られ、白面水を失った以上、今回の計画、完全に破綻したわけだ。もはや、ここにいる意味はない。坂延と宮下を目で探すと、二人そろって仲良く地面にのびていた。あいつら、鬼庭達にノされたのだろう。

「宮下、坂延。いつまで寝てる。帰るぞ。」

 私はつま先で二人を小突きながら言った。

「ぅう・・。あ? お嬢・・。」

「こういう荒事、苦手なんですよね、俺。」

 二人、頭や脇腹を抑えながら、のろのろ立ち上がるのを見ながら、

「知るか。給料分は働け。」

 と、私が言うのに対し、宮下は、

「給料の割に合ってませんよ。空手女子にどつかれるなんて。」

 などとぼやいている。

「契約書に書いてあったはずだ。業務内容、家事その他、私闘(しとう)含むと。」

「そうでしたかね。」

 宮下の奴。絶対そこも読んでるはずなのに、とぼけて見せる。

「ふん。嫌ならやめろ。」

「やめられて困るのはお嬢様、あなたでしょうに。本気ですか?」

「私はいつだって本気だ。」

「はいはい。本気なんですよね、いつだって。だからさっきも泣いちゃうし。」

「ぐ・・!」

 見てたのか。気絶したフリしてただけとは。宮下。こいつも結局、底が見えない。

「泣いてなんかない。気のせいだ。」

 私の断言にも関わらず、坂延に状況を訊かれたのであろう宮下は、ひそひそとさっきのことを伝えているみたいだ。坂延の驚いたような顔に、私はもはやこの件、スルーすることに決めた。なかったこととして記憶の狭間に押し込める。

 身体を引きずるようにして歩く宮下達を従え、私は早乙女を睨みつけた。

「早乙女。今日は引くが、お前のしたこと、私が忘れると思うなよ。必ず責任は取らせる。」

 宮下は、

「なんだか貞操(ていそう)を奪われたみたいなもの言いですね、お嬢様。」

 などと、横槍を入れてくるものだから、

「黙れ、宮下。」

 一喝してから、早乙女に向き直る。

「覚えておけ早乙女。」

 我ながら、負け犬の遠吠えに聞こえてしょうがなかったが、それ以外に言い残しようがないのだ。負け犬。犬といえば、

「寛次郎! 来い!」

 わわん、とやって来る寛次郎だった。はつらつとした若さに満ちる尻尾を見ながら思うのだが、この犬にもきつい仕置きが必要だ。のこのこ早乙女達を案内し、あまつさえ、白面水をこぼさせるとは。

 早乙女。この借りは必ず返させる。私は復讐の思いを胸に秘め、荒れ神社を後にするのだった。


「バァちゃん。元に戻ったんだな・・。ちょっと、というか、かなりもったいない気もするけど。」

「ふふ。九郎ちゃん、ありがとう。九郎ちゃんからすればもったいないと思うかも知れんがの、うちはこれでよかったと思っとるんよ。」

「そっか・・・。ま、バァちゃんがそれでいいって言うなら、それでいいか。」

「老石を割ったときの九郎ちゃん、かっこよかったけぇの。心配せんでも、今にもてもてになるじゃろ。」

「心配って、何の心配だよ。」

「彼女の一人や二人、作ったらええのに、って心配じゃ。」

「一人や二人って、あのさぁ。ほっといてくれよ。」

 何だか、バァちゃんとのやりとりがひどく懐かしい。目処千は目処千であって、18だろうが88だろうが彼女自身であることに変わりはないし、その笑みにも違いはないのだけれど、やっぱり目処千のバァちゃんはバァちゃんであってくれるのが、一番落ち着くのだった。

「ねぇ、早乙女!」

 バァちゃんと(なご)んでいるところへ、鬼庭が血相を変えてやってくる。

「どうしたんだよ、鬼庭。」

「エリちゃんが、エリちゃんが・・・!」

「エリが・・?」

 見れば、鬼庭はその手に人形を抱えている。エリベル人形。

 そうか。俺は思わず息を呑んだ。

「目処千のバァちゃんが元に戻るってことは、エリの召喚条件を満たさなくなるから、つまり・・。元の依り代に戻ったんだ。」

「元の依り代って・・・?」

 鬼庭が泣きそうな顔で訊いてくる。

「元々、エリはその人形を依り代とする式神なんだよ。バァちゃんが若返った影響でエリも召喚されてたんだ。」

「そう、だったの・・。じゃあ、エリちゃんは、もう・・?」

 俺は首を振った。エリは人形に戻って、もう二度と喋ることもない。

 老石を割ることに気を取られて意識してなかったけれど、こういう結末を迎えることになるのだった。目処千を元に戻すということは。

 ああ、そうか。

 目処千が元に戻りたいと言い出した時、エリの顔が一瞬曇ったのを俺は思い出した。あの時、エリはこうなることをすでに思い描いていたんだ。けれど、ひと言も、目処千の言うことに反対しなかった。だって、反対すれば目処千は元に戻れなくなる。その積み重ねた年齢を、失ったままとなる。だから。エリは黙っていたんだ。本当は、人形という依り代に押し込められたくなかったはずなのに、黙っていた。ただ、目処千という主人のことを考えて。

「エリベル・・・。」

 目処千のバァちゃんは、鬼庭からそっと人形のエリベルを受け取ると、愛おしそうに抱きしめた。

「ありがとう・・。最後まで、いい子じゃった。・・美弥子ちゃん。ひとつ、お願いがあるんじゃが。」

「お願い?」

 バァちゃん、鬼庭をまっすぐに見つめて、こくりとうなずくのだった。

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