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猫と河童と、あるいは毒蜘蛛中性子星  作者: 桜田駱砂 (さくらだらくさ)
1/11

チャプター1 毒蜘蛛 Girl’s Empire

「えー、つまりぃ、だ。主星(しゅせい)となるわずか半径10キロ程度の中性子星によって、周囲の伴星(ばんせい)が絶えず蒸発を続けているとぉ、いうわけだ。共食いする毒蜘蛛になぞらえて、毒蜘蛛中性子星などと呼ばれている。」

 毒蜘蛛中性子星って、すげーネーミングだよ。物理教師の橋本(はしもと)、独特の言い回しでもって言われるものだから、余計、耳に残る。

 授業はケプラーの法則から脱線すること30分。橋本は延々と中性子星や、恒星の一生にまつわるエピソードを閉まり切らない蛇口みたいに話し続け、終わるところを知らない。クラスの何人かは子守唄とばかりにそれを聞き、夢の中で春に近いお日様と(たわむれ)れている様子だった。垂れる(よだれ)が彼らの幸せを物語ってる。

 俺はシャーペンの芯を銃の照星(しょうせい)、フロントサイトに見立てて、橋本の無精髭(ぶしょうひげ)に照準を合わせていた。伸ばして整えるでもなく、剃るでもなく、ただ、面倒くさいから三日ほどそのままにしてあるだけであろう髭に、ぼさぼさの頭でもってカモフラージュされているけれど、鬼庭(おににわ)いわく、橋本は隠れイケメンなんだそうだ。ちゃんと髭を剃って身だしなみを整えれば、かなりイケてる、らしいのだが、俺にとってそんなことは一昨日(おととい)の天気よりどうでもいい話だった。

 ケプラーの第一法則をちょっと触っただけで、結局授業は終わってしまってその次。家庭科の調理実習で班決めをしなければならない。これは俺にとってひとつの試練だった。

 なぜに試練といって、俺はクラスのどのグループにも属していなかったからだ。誰とも話さないというほどでもないけれど、俺は高校二年の新学期が始まっても、常にクラスメートと距離を取っていた。手短にいってひとりぼっちと、そういう状況にあるといえばその通りで、俺はあえて一人でいることを選んでいた。無理に話題を合わせて作りたくもない笑みを浮かべるのは正直しんどいし、一人で、黙っている方がまだ楽だ。安全で、安心。関心を向けられないかわりに、関心を向ける必要もない。俺は自分の置いた立ち位置を称して、クラスの「真空地帯」と勝手に呼んでいた。辛苦(しんく)地帯じゃない。空気と干渉がない方の真空地帯。

 ただ、楽ではあったけれど、グループ分けとか、誰かと一緒に組みなさいとか、そういうタスクで困ってしまうのは、俺が取った立ち位置から得られるメリットの代償だった。こんなときはいっつも、何となく席が隣だからといった理由でどこかの班に入れてもらい、まあ、断る理由もないし、といった感じで受け入れてくれたグループの中で、再び小真空地帯に収まると。たいてい、そんな具合だった。

 なのに、今日に限ってその真空地帯(エリア)(おびや)かされる、ちょっと変わった目にあった。

早乙女(さおとめ)君。」

 俺の名前だ。早乙女(さおとめ)久郎四郎(くろうしろう)。下の名前、久郎四郎は転じて苦労しろう。俺に一生苦労しろと? そんな悪意はこめてないという父親の釈明(しゃくめい)に、俺は一度だって納得したことがないのだけれど、それはさておき、自分の名字を呼ぶ声に俺は慌てて振り返った。

「調理実習。私達の班に入らない?」

 声を掛けてきたのは地鏡(ちかがみ)地鏡(ちかがみ)魔樹(まき)だ。美人で名家のお嬢さんとか、ドラマやアニメの中だけに存在する設定だと常々思っていたわけだけれど、地鏡の場合はリアルに、その通りのパラメータを持っていた。

 ショートボブ、っていうんだっけ? 髪をぱさ、と指先でかきあげる仕草に嫌みはなく、にっこりと笑う微笑(びしょう)に眼鏡がよく映えた。

「え?」

 俺はその地鏡が、なにゆえ俺を班に誘うのかまったく理解ができず、思考の追いつかないままに間の抜けた声が口から漏れた。

「一人、足りないの。よかったら、ご一緒にどうかしらと思って。」

 ゴイッショにドウカシラ、なんて言葉を、俺は生まれて初めてかけられた。

「あ、や、その・・・。」

 イメージ。ぐるぐる回る水車みたいな運動器具の中で、猛烈に走るハムスターのイメージが俺の頭に中に湧き、地鏡に対してどう返せばいいのか、答えが見つからなかった。

 1 ありがとう、そうさせてもらうよ。(同意)

 2 人数、足りないんだ。しょうがないな。(もったいぶった同意)

 3 いや、入る班、もう決まっているから。(嘘)

 4 どうして俺を班に入れようと?(疑問)

 5 どうしようかなぁ。どうしてもと言うなら、入ってもいいけど。(恩着せ)

 6 他をあたれば。入りたくないし。(拒否)

 7 地鏡、いい匂いがする。(回答になっていない)

 8 etc

 つまり、こんな感じで回答パターンが無限に増殖し、収集がつかなくなっている。変わらぬ笑みを浮かべて、じっくりと俺の答えを待っている地鏡を前に、俺の混乱はその極みに達した。

「い、いや・・。や、やめとくよ。」

 絞り出すように、やっとそれだけ答えることができたわけで、けれど地鏡は断られたことなど(つゆ)とも気にしてない様子だ。

「そう。突然、声を掛けてごめんなさい。じゃあまたの機会に。」

 気品にあふれた立ち居振る舞いでもって、地鏡は自分の班の方に戻って行った。他の女子が地鏡にかける声が聞こえる。

「魔樹ちゃん、気にすることないよー。早乙女の奴、せっかく魔樹ちゃんが誘ってやったのに。断るとかありえない。」

「いいのよ。私は気にしていないし。」

「でもさぁ、あいつ、何様って感じじゃん。いっつも孤独ぶって、回りを見下してるってゆーかさ。」

「そんなこと言うものじゃないわ。人それぞれってことだから。」

「さすが魔樹ちゃん、大人〜。」

 とかなんとか。

 地鏡は俺の方をつかの間、ちらと見てから後は、自分のいる班の子達と会話を続けている。俺はあぶら汗を額ににじませつつ、動揺が収まるのを待った。

 いけない。どうにもいけない。取り立てて対人恐怖症とか、そういうわけではないのだけれど、同世代の女子や若い女性から話しかけれると、うまく返せないのが常だった。いいかげんドーテーっぽさ全開の、この反応が自分でも嫌になるのだけれど、意識して自然に振る舞おうとすればするほど、不自然な態度が表に出るジレンマを、俺はどうすることもできずにいた。

 それに。

 俺は正直、地鏡が苦手だ。こんなことを公言(こうげん)しようものなら、クラス中から総ブーイングを浴びせられかねないから口には出さないのだけれど、今の、「ちら」というとき見せた地鏡の視線。一瞬、俺の周囲だけ気温が五度くらい下がったんじゃないかと思えるほど、冷たい圧迫感のある目力だった。

 他の連中が気づいているのかいないのか知らないけれど、地鏡は時々、そういう視線を送っている、ような気がする。ほんとに一瞬だし、別に気にするほどじゃないといえばそれきりのことなのだけれど、とにかく、俺は用心深く、地鏡へ近づかないようにしていた。近づかないように、もなにも、そもそも地鏡と俺の接点なんてこれまでほとんどなかったわけだけれど。

 ため息まじりに、どこか滑り込めそうなグループがないか見回していると、

「さ、お、と、めぇ!」

 どべしっ、と背中を平手で叩かれた。

「いてっ!」

「せっかく地鏡ちゃんから声掛けられたってのに、何、チェリーぶって断ってんのよ。」

「ちぇ、チェリーぶってなんかない! 何だよ、チェリーぶるって。そんなフリする需要がないだろ。」

 背中をぶったたいてきたのは、小柄でピンポン玉みたいに落ち着きのない女子、鬼庭(おににわ)美弥子(みやこ)だ。女子とうまく話せない俺だけど、例外もいる。この鬼庭は数少ないその例外で、というのも、色気もへったくれもない、小学生男子がそのまま制服着ただけじゃないかっつー雰囲気をかもすものだから、話のできない「女子」としてカウントされてないのだ。しかもこの娘、俺の真空地帯に土足で入り込んで来る類いの例外だった。

「相変わらず女子との会話力ゼロねぇ。私とは話ができるのに、おかしくない?」

「鬼庭を女子としてカウントしてないだけだ。」

「失礼ね。カウントしてよ。この玉のようにみずみずしー女子高生をつかまえて、女としてカウントしないってのはふし穴よね、完全に。早乙女の目はさ。」

「玉は玉でも、ピンポン玉とかそっち系だろ、鬼庭は。」

「ピンポン玉って何よ。せめてボウリングの玉に例えなさいよ。」

 なぜだ。

「嬉しいのか? ボウリングの玉のようだね、君は、とか言われて。」

「尻軽な女じゃないってことでしょ。簡単には振り向かないの。三本の指に力をこめて、がっちりつかんでようやくなびく、奥ゆかしぃ乙女だと例えられたいものじゃないのさ。彩りだって鮮やかだしさ。」

「意味が分からん。ボウリングの玉に見立てられたいなら、邪魔はしないけどさ。ピンにするのだけはやめてくれよ。」

「ああ。それいいわね。早乙女ピン。一発ギャグだけで消える芸人の名前みたい。」

「変なあだ名つけるな。だいたい、俺は忙しいんだ。あっち行け。」

「はぁーん? 忙しいって、何に忙しいのよ。」

「色々とだよ。考えなきゃいけないことだって山ほどあるんだ。」

 どの班に入るか、とか。

「そんなこと言っちゃって、いいのかなぁ?」

「何がだよ。」

「班決め、ほとんどのとこ、決まちゃってるよ。」

「え?」

 俺は慌てた。班の定数は五名。クラスの人数は五で割り切れないから、必ず余りが出る。最後の余り者になってしまうと、最悪、先生と一緒に調理実習ということになりかねず、それだけは避けたかった。

 見た所、五人組のグループがそこかしこにできあがっていて、いつの間にか入れそうな余地がなくなっている。

 鬼庭は勝ち誇ったような笑みを浮かべて俺を見下ろしている。立ち上がれば俺の方が背は高いのだけれど、鬼庭は腕を組んでそらすように胸を張り、座ったままの俺を至近距離から見下ろしているわけで。

「・・・・・。」

「ふふん。」

「何だよ。」

「うちら、今ちょうど四人なの。」

「だから?」

「言いなさいよ。ほら。」

「何をだよ。」

「とぼけるんぢゃないわよ。班に入れてくださいって、私に頼みなさいよ。」

「何で鬼庭なんかに頼まなくちゃいけないんだ。」

「はぁ? なんですってぇ?」

「だから、鬼庭に頼まなくたって、別に、どうにかする。」

「どうにかって、どうするのよ。休み時間中に決めとけって、先生言ってたでしょ。その休み時間、もう終わるわけだけれど。」

「う・・・。」

 黒板の上の時計を見れば、鬼庭の言うとおり、残り二分もない。

「分かったよ。入ればいいんだろ、入れば。」

「え?」

「だから、鬼庭の班に入るって。」

「入る?」

「鬼庭。・・・入れてください。」

「足りないわよ、さん、が。」

 このピンポン女め。

「・・・・入れてください、鬼庭さん。」

「えー? どうしよっかなぁ。」

 くっ。俺の真空地帯がいいように蹂躙(じゅうりん)されている。

「しょうがないわねぇ。じゃあ、入れて上げるわよ早乙女。ありがたく思うことね。」

「・・・・はぁ。はいはい。ありがたいことですよ。」

 妙に嬉しそうな鬼庭は、いったい何に勝ったというのか知らないけれど、勝ち誇った笑みを浮かべていた。

「じゃ、よろしく。美味しいの作ろうね。」

「ああ。」

 鬼庭へのあてつけじゃないけれど、授業は適当に流してしまおう。調理実習の課題は茶碗蒸しだった。

 鬼庭の強制スカウトが終わったところで、彼女と仲のいい女子、北原(きたはら)がすばやく鬼庭へ寄って来る。鬼庭の腕を引っ張って行きながら俺と鬼庭、交互に変な顔で見比べて、

「あのさ、ミャー子。」

 と、小声でまくしたてた。鬼庭美弥子(みやこ)だから、ミャー子。

「早乙女とあんまり絡みすぎるの、やめなよ。変な噂がたっちゃうよ。」

「噂って、何の?」

「ミャー子と早乙女ができてるって噂よ。」

 おいおい。俺と鬼庭の間に、いったい何ができるっていうんだ。せいぜいが勝つか負けるか、互いの矜持(きょうじ)をかけた緊張関係くらいしかできやしないのに。

「えー、と・・・・。・・・・・・それは困る。」

 ずいぶんな長考を経て、ぽつりとつぶやく鬼庭だった。

 調理実習はつつがなく終わって昼休み。がさつそうにしか見えない鬼庭の料理は、その予想を裏切ることなく、大雑把なものだった。海老と鶏肉、しいたけ三つ葉の入ったオーソドックスな茶碗蒸し、作り方自体さして難しくないのだけれど、鬼庭中心に調理した結果、ゆるゆるのどぼどぼで、茶碗蒸しというより、和風ダシスープとでもいうべきか、茶碗蒸しの(てい)をなしていなかった。料理はセンスだとか言って、鬼庭、計量もろくにせず適当にダシや卵、具材を入れるものだから、うまく蒸し上がらなかったのだ。

 北原はじめ、班の連中はひきつった笑顔で、こういう料理もありだとか鬼庭にフォローを入れていたけれど、さすがの鬼庭もうまくいかなかった主たる原因が、自分にあると分かっているのかしょげている。

 俺は調理実習で作った茶碗蒸しもどきをぐびぐびと飲み干し、昼用に買った焼きそばパンとカレーパンを大急ぎで胃に詰め込んでから、漫画雑誌を懐に忍ばせて教室を出た。

 階段を降りて、昼というのにどことなく陰気くさい地下一階へ向かう。地理準備室の扉前に立つと、廊下を見回して誰もいないことを確認してから、定期のICカードを扉の隙間へ突っ込む。そのまま上にずらすと、鍵はたやすく開いた。

「ICカードも便利なもんだよ。鍵まで開けられるんだからな。」

 なぜ俺がこんなところに来るのかといえば、そこが昼休みをすごす、お気に入りの場所だったからだ。窓のないその部屋は、地球儀や世界地図、誰が集めたのか航空写真なんかが所狭しと収められ、秘密基地のような雰囲気をかもしている。暗いと言うなかれ、ここで静かに漫画を読むのが、学校生活のストレスを癒す最良の方法というわけだ。

 部屋の片隅にある錆の浮いたパイプ椅子が、いつも陣取る場所だった。しんと静まり返った静寂は、ここが学校の中であることすら忘れさせてくれる。どことなく、聖域めいた場所だった。

 行者(ぎょうじゃ)瞑想(めいそう)のごとく、俺が静かに連載バトル漫画を堪能しているところへ、五分もたってないだろう、突然、その静寂が破られた。

 がたた、と扉が鳴る。まずい。俺は心臓が飛び出るほど驚いて、部屋の隅っこに身を隠した。昼休み中に人がここへ来ることなんてなかったのに。先生か?

「鍵がかかってる。」

 外から声が聞こえる。鍵は俺が入ったとき、念のため閉めた。けれど、電気が。つけっぱなしじゃ、俺が先にここへ入ったことがばれる。大急ぎでスイッチのところまで行くと電気を消し、物につまづかないよう気をつけて、部屋の隅へ戻った。

「何か細いものでも突っ込んで、押し上げれば開くわよ。」

 扉越しのくぐもった声がそう言って、鍵の開く音がした。再び電気がつけられる。

 中に入って来たのは四人。倉田英子(くらたえいこ)とその取り巻き女子二人。あとは・・・地鏡? 一番最後の入った倉田が、「鍵を閉め」た。授業の準備のため教材を取りにきた、というわけじゃなさそうだ。だったら、部屋に入った後、鍵を閉める必要はない。

 地鏡と、倉田達三人が対峙するように立つのを、俺はそっと棚の隙間からのぞく。何だか、面倒くさい場面にあってしまったみたいだ。

「一緒にお昼を、と誘われて来たけれど、ここで食べるの?」

 地鏡が不安気な声で倉田に言う。

「地鏡さん。そんな・・・。」倉田はそこでちょっと言葉を切って、それから、

「わけないじゃない。律儀にお弁当箱持って来て、馬鹿じゃないの。」

 嘲笑するような調子でもって、地鏡に言い放った。

 うわぁ。修羅場だよ。

「え? どういう・・こと?」地鏡の声が震えている。

「前々から気に食わなかったのよ。クラスのみんなに取り入って、ちやほやされて。家がちょっと金持ちだからって、いい気になって余裕ぶっこいてんじゃないわよ、このクソあま。別にあんたが偉いわけでもなんでもないじゃない。」

 クソあま・・・。どうやら倉田は、地鏡のことが相当気に入らない様子だ。

 倉田は倉田で、成績もいいしかわいい部類に入るものだから、余計、地鏡の次席に甘んじることが我慢ならなかった、というところか。しかし、昼休みに呼び出していちゃもんつけるとか、ずいぶん古式ゆかしい行動に出たもんだ。

「べ、別に、私は自分が偉いとか、思ったことない・・・。」

 地鏡が泣きそうな顔で言った。育ちがいいからか知らないけれど、地鏡はこういう修羅場に慣れていないみたいだった。というか、育ちの問題云々(うんぬん)でもないか。誰だっていきなりこんな風に呼び出されて、正面切って悪意をぶつけられれば、動揺せずにはいられない。

 さすがに、見ててかわいそうになってくるほど地鏡はおびえていた。

「思ったことなくったって、態度に全部出てんのよ。お嬢様ぶるの、やめてほしいんだけど。見てるとイライラするのよ。」

「で、でも、お嬢様ぶってるつもりなんてないし、態度に出るって言われても、どうしたらいいか・・。」

「隅っこでおとなしくしてればいいのよ。早乙女みたいにね。」

 俺か。ここで引き合いに出される俺って、いったい・・・。まぁ、人畜無害を地で行く立場を自ら選んだのは俺なわけで、隅っこでおとなしくしてる影の薄い男子、という印象を倉田に持たれているとしても、仕方のないことだった。

 地鏡は、黙ったまま耐えかねたように、倉田の背後にある扉に向かった。黙ってこの場を去る。今の地鏡にとってそれは、賢明な判断だ。

「まだ話は終わってない。」

 倉田が地鏡を遮ろうとした拍子にその手が、地鏡の持っていた花柄の弁当箱へ当たった。箱はきれいに上下逆さまとなって、派手に中身をぶちまけてしまう。

 一瞬、やりすぎたか、という倉田の後悔がよぎったようにも見えたけれど、むしろ自分が優位に立つ材料に転じたようだ。いい気味だ、とでも言わんばかりに、倉田は腕を組んで地鏡を冷たく見つめる。

 いくらなんでも、それはかわいそすぎるだろ、と地鏡への同情がこみ上げてくる。地鏡が今置かれている状況に対する同情というか、憐憫(れんびん)というのもあるけれど、むしろ、ぶちまけられた弁当の方が俺の心をより強く動かした。あれじゃあ、地鏡は午後中、悔しさと空腹に満ちた思いを引きずることになるんだろう。出て行って止めるべきか。面倒ごとには巻き込まれたくないし、地鏡にはなるべく関わらないというポリシーに反するけれど、さすがに彼女の置かれた今の状況は見てられない。

 地鏡は眼鏡を外して、袖で目元をぬぐっている。

 泣いた。

 俺は棚の陰から一歩踏み出す。いや、踏み出そうとしたときだ。地鏡が、ふぅ、と大きく息を吐いた。

「ああ〜、こういうことやっちゃう人なんだ、倉田さんて。」

 さっきまでの動揺した様子が嘘のような、低く落ち着いた地鏡の声だった。

 圧倒的優位に立ち、地鏡を泣かせた満足感にひたっていたのであろう倉田は、ぎょっとして地鏡を見つめている。

 地鏡は実に自然な動きで、机の下に落ちた消しゴムを拾うかのような何気ない所作でもって、倉田の取り巻き女子Aに近寄るとその両肩に手をかけ、そして、お腹に思いっきり膝を入れた。

「うぇっ!」

 と、うめいた相手はそのまま、床にうずくまってしまう。もう一人の取り巻きBには、すれ違うようにしてみぞおちへ拳を。

 暴力。

 人は人に対して暴力をふるうとき、たいていの場合、何らかの躊躇をする。人を殴れば必ず、親や教師に叱られるといったペナルティを伴うものだし、場所や相手によっては警察沙汰になりかねない。だから、殴るとか蹴るというのは、かなり最終手段的な色合いの濃いものであって、多くの場合、そうした行為に及ばない方法を取るものだ。

 けれど、地鏡は違った。暴力それ自体が会話の続きでもあるかのように、何の躊躇も、遠慮も、あるいは過度な気負いもなく、「おはよう」と朝の挨拶をするみたいに、そうすることが当たり前とでもいうように、手足を動かす。修羅場に慣れていない、どころじゃなかった。慣れすぎている。

 あっと言う間に仲間を無力化されて、口をぱくぱくさせたまま倉田は言葉を告げられずにいた。

「いきなり昼ご飯を一緒に、なんて言い出すからおかしいとは思っていたけれど、まさかここまではっきりといちゃもんつけられるとは思っていなかったわ。へこんだフリしてやりすごそうかとも思ったけれど、やめた。」

 ・・・俺は踏み出しかけた足を、そろそろと引っ込める。

 地鏡は、がっ、と倉田の後ろ髪をつかむと、鼻先同士がくっつくほどに顔を近づけた。目が、完全に据わっている。

「ふざけてんじゃねぇよ。クソはお前だこのタコ。私の弁当、どうしてくれんだよ。お前、全部食え。その床に落ちたやつ、手を使わず犬みたいに食え。」

 ぐぁぁ。見てしまった。俺は(はか)らずも、地鏡の本性を目の当たりにしてしまったのだ。

 地鏡、あまりの豹変(ひょうへん)ぶりに、倉田は完全に精神的なアドバンテージを失っていた。ずぶ濡れになっておびえたハムスターみたいな目をして、何も言い返せずにいる。

 そのまま地鏡に無理矢理ひざまずかされて、落ちた弁当へ顔を押し付けられそうになりながら、倉田はなんとかそれに抵抗していた。

「早くしろよ。私の午後の空腹、この程度で落とし前つけてやるんだ。よかったなぁ、倉田。鼻を折られる前で。」

「ぐっ・・。」

 ショックと屈辱で、倉田の目に涙が浮かぶ。

「おっと。」

 そのとき地鏡は、不可解な行動に出た。ポケットから手の平に収まるくらいの小さな瓶を取り出し、親指で栓を抜く。倉田の頬を伝って流れ落ち、顎先からしたたりそうになった涙を、その小瓶で受け止めたのだ。瓶にはすでに、三分の二ほど、透明な液体が入っていた。

「地鏡の奴・・、何してるんだ・・?」

 瓶の中の液体、あれは涙か? 涙を集めている・・・? 奴の趣味? 涙集めなんて趣味、聞いたことがない。Tears Collector 涙蒐集家(しゅうしゅうか)とでも呼べば何となくカッコいい気もするけど、いや、やっぱりそれとて悪趣味か。

 地鏡は大事そうに瓶の栓を閉め直すと、それをポケットに入れた。

 地鏡の一連の行動の意味を、まったく理解できなかったわけだけれど、とにかくこの状況、俺はいったいどうすればいい。地鏡を助けるべく踏み出しかけた足は完全に引っ込んでしまったし、このまま(こと)の一部始終をのぞき見し続けるしかないのか。幸い、俺がここにいることは地鏡に勘づかれていない。この部屋に俺はいなかった。このことは口外しない。それで解決だった。俺はこのまま、何の支障もなくクラスの真空地帯の中で、平穏な学校生活を送ることができる。そのはずだったのに。

 重力のいたずらか、万有引力の法則は、俺の意図とまったく異なる人生ルートを強いるのだった。パイプ椅子に置いたままとなっていた雑誌が、ばさ、と盛大な音をたてて床に落ちた。見つかる・・・!

 ゆら、と地鏡が立ち上がる。

 棚の陰に隠れていた俺のところへやって来て、睨まれる、かと思いきや、にこ、と地鏡は笑うのだ。

「あら、早乙女君。こんなところでお昼休み? 全然気づかなかったわ。」

 何なんだ、この女は。倉田へ床に落ちた弁当を食べさせようとしていたその顔はあっという間に消え去り、いつもの、教室で見せるお嬢様モードに戻っている。今ほど、地鏡の笑みを不気味に思ったことはなかった。

「あ、いや・・。み、見てないから・・・。」

 俺は、自分の口をついて出たどうしようもない嘘を後悔した。狭い室内、あの状況で、何が起こっていたのか見てないなんて、そんな嘘、とおるわけがない。

 けれど地鏡は、

「そう。そうね。早乙女君が見ていないと言うなら、そのとおりだということにしておくわ。」

 と、意外にも俺の嘘を否定しない。

「けど。」と、地鏡は続けた。

「今の言葉がもし嘘だとしたら。本当は最初から最後まで、すべてを見ていたにも関わらず、見ていないと嘘をついているのなら。」

 地鏡の笑みが、さらに深まる。

「君のお気に入りの立ち位置、そこだけ誰からも干渉されない、まるで真空みたいな居場所に、いられなくなるから。嘘はいけないことよ。覚えておいてね。」

 そう締めくくると、地鏡はへたり込んだ倉田のところへ戻り、身をかがめて囁く。

「このこと、誰かに言ったら()いてネットにさらす。言おうとしたことが私の耳に入ってもさらす。他の人間の口から漏れてもさらす。」

 地鏡は部屋を出て行った。

 嘘はいけないこと、だって? 倉田にぶつけた地鏡の本性。あんな素顔を隠したまま、クラスでの優等生的立場をたもつ、地鏡の存在そのものが嘘じゃないか。

 俺は地鏡の笑みを思い出し、背筋に戦慄(せんりつ)を感じた。あの女は、クラスの連中それぞれが、どんなタイプの人間で、何を重視しているのか、完全に見抜いている。俺の場合は、人に干渉を受けない真空地帯という立ち位置を大事にしていると、それを知った上で、地鏡は居場所を失いたくなければ、黙っていろ、と俺を脅したのだ。倉田に至ってはもっと単純。こうして地鏡に呼び出しをかけるときでさえ、他の女子を従えて来るという本質的には小心な性格を、そのまま暴力と恫喝(どうかつ)で押さえつけた。倉田にはもう、地鏡に反抗する気力はないだろう。

 蜘蛛みたいな奴だと俺は思った。糸でクラスメートをからめとり、自分の思い通りにそのテリトリーを広げる、まるで毒蜘蛛みたいな女子。

 こぇぇよ、地鏡。こうして、俺の女子アレルギーはますます重症化するのだった。

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