第6話 殿様はホームレス
ジュニアは雨粒が木の葉を打つかすかな音で目を覚ました。
目の前に葉の生い茂る枝が幾重にも被さる光景の意味を思い出すのに時間がかかった。
思い出したのは、傍らの殿様の白い毛皮の上着を見てからだった。
帝都からはるばる旅して辺境の領主を訪ねたジュニアは、高い木の上の寝床で起き上がり正座して目を擦った。
殿様は太い枝の上で腹這いに寝そべり、顎の下に腕を差し入れて目を閉じている。
まだ眠っているらしい。
口をクチャクチャさせ、ちょっと微笑して見えるからだ。
起きているときの殿様が笑っているのをまだ見た事はない。
目もほとんど常に細めているのでよく見た事がなかった。
ジュニアは寝袋を畳んで背嚢に仕舞った。
木の葉のドームの中は少し湿った匂いがする。
ジュニアは手を伸ばして木の葉を毟りモグモグと噛んだ。
まだ手の届くところにいくらでも実がなっているが、少々食べ飽きていた。
殿様と行動を共にして数日になる。
今のところ殿様は同じところに2日と泊まっていない。
まともな屋根のある所にさえ寝ていない。村や街を訪ね、そこの人々に会い、話をしたり、まき割り水汲みといった力仕事をする事もある。
そして立ち去る。立ち寄る先は一人暮らしの年寄りや病人、母子家庭などが多かった。
ジュニアは殿様の話が済むまで花の雄しべの数を数えたり、蟻の穴を覗いたりしていた。
そして夜はいつも野宿だった。
もっとも寝ぐらは行き当たりばったりではなく、どれもいつものお気に入りの場所らしかった。
昨日は日が暮れる前、迷う事なくこの林の、この木の上にジュニアを担ぎあげた。
小川が大きな川に合流する所の側にある林だった。
座り具合の良い木のまたにジュニアを乗せると、更に上の枝に登り暗くなるまで上にいた。
ジュニアは、殿様がそのまま上で寝るのかと思っていたが、背嚢から取り出して手近な枝に据えたロウソクに火を灯す頃下りてきた。
その日の2人の夕食は昼間訪ねた家々で貰った種々雑多でひとくちずつの食べ物と、周り一面に鈴なりの小指の先ほどの大きさの青い木の実だった。
お寒くはないですか、と、殿様はその晩も同じ事を聞いた。
寒いと答えたら最寄りの村長なり土地の有力者の家に運び、ジュニアだけ一晩預けようという意味だった。
「葉っぱの天蓋付きのお宿だね。都の宮殿よりずっと素敵だよ」
「多分、ここが一番お気に召すと思っていました」
お腹が膨れて食べられなくなると、ジュニアはその日集めた植物の標本を整理したり日誌をつけたりした。
殿様はブーツを履いたままで手入れしていた。
「木の上だから脱いでてもいいのに」
と、ジュニアが言うと、殿様は、履いてても不都合はないです、と答えた。
その後、殿様はすぐ寝てしまったが、夜になって雨が降り出すと半身を起こし、ちょっと聞き耳を立てていたようだが木を下りていった。
ジュニアは拡げた道具を背嚢にしまい、代わりに寝袋を引っ張り出して具合良く包まると、殿様の帰りを待たずに眠った。
ジュニアが木の葉の朝飯を食べ、背嚢から取り出した水筒の水で歯磨き洗面を済ませた後も殿様は朝寝を決め込んでいた。
寝返りをうって仰向けになり、軽く口を開けた殿様の額に小鳥が止まっている。
ジュニアが膝を抱えて見下ろすと木の根元は完全に水に浸かり、魚が泳ぐのが見える頃、雨が止んで木洩れ陽がさす頃、殿様は起きて大きく伸びをして、この木は何て言ってますか、と聞いた。
「よくは分からないけど、なんかノリノリな感じ」と、ジュニアはクスクス笑いながら答えた。
「働き盛りのお父さんみたいな木だね。葉っぱは今最高に脂が乗ってるし、コンサート開演直前の歌手みたい」
「良かった。実は、毎年なんてことをする奴だと、怒ってるかもしれないと心配してました」
ジュニアは背嚢から雨カッパを引っ張り出して着込み、背嚢を背負って身支度をした。
木の根元に小舟が何艘も集まっている。その内の一艘の漕ぎ手が、木から下りようとするジュニアを抱き上げ、小舟に乗せ、殿様に手を振った。
殿様は木のてっぺん近くまで登り、枝に体重をかけてしならせた。
そのまま揺らして木を大きく揺さぶる。
葉に残る雨の雫と大量の木の実が降ってきて水に落ち、土砂降りのような音を立てる。
林の木々の根元を完全に沈めた水面を、今度は落ちた木の実が埋め尽くす。
小舟の漕ぎ手は水面に浮かぶ青い木の実を大急ぎで網ですくう。
殿様はその木からもう落ちなくなると、隣の木に飛び移り同じように揺さぶる。
小舟がどれも木の実で山盛りになり、どの木からも実が落ちなくなると、殿様は川をせき止めていた枯れ木や枯れ枝を崩した。
「実はこれを崩す瞬間が一番楽しいです」と、後で殿様はジュニアに説明した。
林にあふれていた水が川の本流に合流し、夕陽で光る川を、すくいこぼした青い実が浮かんで流れて行く。
「私にはこれが毎年の春の最大のイベントです」
流れる川のほとりで殿様はそう言った。