長い一日-1
「あの時の俺は月刊誌に載せるエッセイを書いてたんだ。そのネタ収集でたまたまこの町に来て、この道を通りかかったのも本当に偶然だった。…あの日は雨が降っててさ。俺はこの田舎町の色んな場所に行って、最後にこの道にたどり着いたんだ。都会じゃなかなかお目にかかれない風景だし、せっかくだから散歩してみようと思ってさ。どこに繋がってるかも分からないこの道を一人で歩いてた」
ぽつりぽつりと語り出すその内容はまるで何かの物語みたいだ。
本が好きでよく読んでる僕は自分が関係した話だという事も忘れ、寝る前に本を読んでもらう子供みたいにじっと耳を傾けた。
「俺は雨の音を聞きながら川とか周りの景色をぼんやり見ながら歩いてたんだが、しばらくすると前から傘も差さずに歩いてくる奴がいた。それがお前だ」
「僕…?」
「そう。瀬良瑛汰、お前だ。確かに近距離なら傘を差す必要も無い程度の雨だったけど、この畦道って長いだろ?周りに家もないし、第一お前、かなりズブ濡れだったからさ。気になって声を掛けたんだよ」
────おい、あんた。傘持ってないのか?
────・・・持ってこなかった。
────なんで?
────あの日に・・・戻れるような気がして・・・。
「あの日?」
「ああ。後で知ったんだが、お前が両親と旅行に出かけた日は生憎の雨だったらしい。お前がそれを覚えてたのか、婆さんから聞いたのかは分かんねーけど妙に引っかかってな。雨の中お前を説得して家まで送ったんだよ。お節介もいいとこだよな。それでその時に婆さんからお前のことを聞いた」
「!?婆ちゃん……何て言ってた?」
「お前は事故に遭って以来、物事を記憶できなくなったって」
「記憶……できない?それって記憶喪失って事…!?」
あまりのショックに立ち止まって声を上げた僕に浩祐さんは振り返り神妙な面持ちで首を横に振る。
「違う、逆だ。お前の場合、事故に合う以前の記憶はあるだろ?そして事故に遭った後のことは覚えてない。前向性健忘症って言って、精神的ストレスや脳が損傷して起こるんだと。お前の場合は後者だ」
「それって……事故で?」
「ああ。"助かったのは奇跡だ"って医者が言ってたってくらいだ、相当酷い怪我だったんだろ」
「でも……覚えてない。事故の事もその後の事も……それにあんたの事だって…!」
「落ち着け。…分かってる。分かってるから」
「っ……!」
頭が混乱して声を荒げた僕を浩祐さんはしっかりと抱きしめ、何度も背中を撫でてくれた。
……知ってる。
知らないはずの彼の腕の中はとても心地よくて、見ず知らずの他人の腕の中だとこんなに安心感を覚えたりしない。
だから僕はきっと知ってる。
頭は何もかも消し去ってしまってるけど、本能とでも言うのかな。
浩祐さんの腕の中は本当に温かくて痛いくらい優しい。
もっと知りたい。
この正体不明の人物を。
謎だらけの彼の事を。
例えそれが明日忘れてしまう事だとしても…。
僕はたった一つ残されたその温もりに酔いしれ、そこが仮にも外だという事すら忘れて彼の胸にしがみついた。