第九話:涙
温度のない言葉だった。
何一つとしての感情も感じられず、それはまるで機械的にただ話すという作業を繰り返しているだけのよう。
「桐原……」
すっかり面影がなくなってしまったクラスメイトの名を呼び、彼方は歯噛みする。
「彼方、ドレインダガー相手に接近戦は自殺行為だ。傷を負うばかりでなく、魔力まで奪われるぞ」
「分かってるけど……でも、どうすれば……」
「まずはドレインダガーを無力化させる必要がる。そうすれば後はどうにでもなる」
だが問題は、その無力化させるための手段である。
力ずくで奪おうにも、前提として近づかなくてはいけない。
理想としてはある程度の距離を取りつつ遠距離から攻撃を仕掛けることだが、灯香の体はあくまでもまだ人間のものだ。
テトラの炎では、仮に加減をしたとしても直に触れた物を消し炭にするという効果は必ず付きまとう。
かといって彼方の月下星弓では、恐らく彼方の魔力が長時間持続しないだろう。
その分灯香は有利だった。
まず、前提として取り付いている霊は灯香の体を操っているだけに過ぎないので、魔力の消費そのものは微々たるものだ。
操られている灯香の体も、そこに自分の意思がないので疲れも痛みも感じることはない。
長期戦は不利。
しかし短期決戦を狙うにも、あのドレインダガーが常に付きまとう。
仮に致命傷に満たない傷でも負ってはならないのだ。
こちらの魔力を削られるだけならまだしも、その分を吸収されては差は開く一方である。
「く……厄介なことだ……」
テトラが舌打ちする。
せめてこれが、すでにナキガラと化していれば、この迷いも多少は振り払えただろう。
だが、目の前の灯香は正真正銘の人間だ。
しかも操られているとすれば、それは自らの意思ではない。
正直に言おう。
この場で灯香を単純に倒すだけならそう難しいことではない。
が、灯香を救い、なおかつ取り付いた霊だけを倒すとなると、敷居は格段に上がる。
というよりも、それは無理難題に等しかった。
制限のある戦いが、自分達に有利に働くわけがない。
だがそれでも、何とかしなくてはならない。
彼方も全く同じ意見だった。
が、同時にそれが難しいことであることも理解する。
「……テトラ、さっきのやつ」
「っ、しかし、うまくいくかどうかは……」
「分かってる。でも、このままじゃどうしようもない。やれるだけやってみる」
「彼方……」
彼方はズボンの後ろポケットから、それを取り出した。
ここにやってくる前、自室でテトラから使い方の簡単な説明を受けたものだ。
取り出したのは、トランプと同じサイズほどのカード。
しかしその紙面には、見たこともないような複雑な文字が書き連ねられている。
「……っ!」
ふいに、灯香が一歩下がる。
そのカードの意味を、霊も理解しているのだろう。
才能ある魔術師達は、その力によって生み出した様々な魔術をカードの書き記した。
そうすることで魔力の消耗を抑えると同時に、どこにでも簡単に持ち運びできるようにしたからだ。
それらのカードは、大きく分けて二週類に分けられる。
一つは魔装と呼ばれる、武器や防具などを表すカード。
これらのカードに対して魔力を送り込むことで、それらを一時的に使うことができるというものだ。
昨晩の黒い騎士も、このやり方であの鎧と長剣を具現化していたのだ。
そしてもう一つの種類。
こちらは呪文と呼ばれるカードである。
文字通り、それは魔法そのものを意味する。
とはいっても、その種類は無数にあり、いかに才能ある魔術師でもその全てを把握しきれたことはなかったという。
理由として、魔術師にはそれぞれ得意とする分野と苦手とする分野があるからだ。
魔術師と言っても、その中身はあくまでも人間である。
運動が得意だけど勉強はからっきしダメという人間がいるように、人間には得手不得手というものがある。
苦手なものを克服することは可能だが、そうするくらいなら得意な分野を伸ばしたほうが遥かにいい。
魔術師達の間では、この分野のことを系統とも呼ぶ。
そして自分がもっとも得意とする系統は何か、もっとも苦手とする系統は何か。
それらを知り、さらに磨きをかけて魔術を強化していったのだ。
彼方の手にあるカードも、大昔の時代から魔術師達の間で使われていたものと同じものである。
自らの魔力の一部を使用し、そのカードに呪文を刻む。
そうして一度呪文を刻んでしまえば、以降はそのカードを手にして呪文名を言うだけで呪文が発動するようになる。
もちろん、その際にも一定の魔力は消費することになる。
消費する魔力の量は呪文によって異なり、当然高位の呪文になればなるほど魔力の消費量も膨大になっていく。
最大魔力量……魔術師達の言葉で言うところの総魔力量がまだ少ない彼方にとっては、消費の少ない魔力でも致命的になる可能性がある。
加えて、今回用意できた呪文カードはほんの数種類だけだ。
そのどれも、一回の使用に対する魔力消費量こそ少ないものの、効果もあまり大きなものは得られない。
「テトラ」
「む?」
「あのナイフ、お前なら奪えるか?」
「……炎さえ使わなければいい話だから、不可能ではない。ドレインダガーをうまく回避できるかどうかにかかっているが」
「……仮に、この距離から奪うだけなら何秒かかる?」
「……相手が不動と仮定して……二秒」
「分かった。その二秒、俺が稼ぐ」
「……了解した」
彼方とテトラは同時に灯香を見る。
「――隠蔽、オン」
呪文発動。
その直後に、彼方と灯香の視界の中からテトラの姿が消える。
「っ?」
わずかにたじろいた灯香に向かい、彼方は走り出す。
しかし当然のように、灯香はドレインダガーで牽制しながらそれを迎え撃つ。
だが。
彼方の狙いは、そうではない。
ドレインダガーの間合い、ギリギリまで踏み込んだ最後の一歩で、後方へと飛び退いた。
迎撃として振るったドレインダガーは、虚しく前方の空間を切り裂く。
そしてそれは、武器が手の中にありながら隙だらけになる一瞬でもある。
「テトラ!」
「もらった!」
次の瞬間、声と共に消えていたテトラが浮かび上がる。
その牙でドレインダガーの柄を噛み、奪う。
……いや、奪ったはずだった。
だが……。
「え……」
「な、に……?」
テトラの口元には、確かに奪ったはずのドレインダガーの姿はなく。
それどころか、灯香の姿そのものが忽然と消え失せてしまっていた。
「そんな、どうして……」
混乱する彼方。
その背中に浮き出た影に気づいて、テトラが叫ぶ。
「彼方、後ろだ!」
「な……」
彼方が背中を振り返る。
しかし、そのときにすでに銀色の刃先が数センチの距離まで迫っていた。
目が自然とその軌道を追いかける。
体の中心。
そこは、鼓動が響く場所。
そこに引き寄せられるかのようにして、ドレインダガーはゆっくりと……ゆっくりと近づいて……。
ズブリと、不気味な感触が鼓膜を震わせた。
「あ…………」
まず、熱さ。
やや遅れて、痛み。
ドレインダガーは、彼方の胸の中心を刺した。
舞う鮮血が、暗がりの中でもはっきりと分かるほどに赤く映える。
体が崩れていく。
膝がだらしなく折れ、背中が薄汚れた地面へと引き寄せられていく。
「……桐、原……」
そう呟いて見た、彼女の顔は…………。
「――…………て。…………し、て……」
しかし、その声ももう虚ろすぎて届かない。
ドサリと音を立て、彼方はその場に横たわった。
「彼方!」
テトラが駆け寄る。
灯香が手にしたドレインダガーは、その刃先に付着した彼方の血を吸い取ってしまったかのように、すでに元の銀色の輝きを取り戻している。
「貴様……っ!」
激昂するテトラを尻目に、灯香はまたその場から音もなく姿を消した。
「っ、彼方よ、しっかりしろ! 彼方!」
しかし今はそれどころではない。
一刻も早く彼方を手当てする必要がある。
テトラは彼方の上着の裾を咥え、肌を覗かせる。
出血は思ったよりも少ない。
だが、見た限りでは心臓か、あるいはそれに程近い場所を確実に刺されていた。
傷の深さによっては一刻の猶予もない。
が、しかし。
「……これは」
彼方が首から欠けていたロザリオ。
その一部がわずかに欠けていた。
どうやらこのロザリオが、刺さる刃の威力を遮ってくれたようだ。
とはいえ、それでも安心はできない。
テトラはさらに、彼方のズボンの後ろポケットの中から残りのカードの一枚を引っ張り出す。
それは治癒のカードだ。
そしてそのカードを彼方の傷口に沿え、自分の魔力を送り込む。
「治癒、オン」
呪文が発動し、彼方の胸の傷が徐々に塞がっていく。
出血も止まり、とりあえずはこれで一安心だ。
「…………う」
「彼方、気がついたか?」
「……あれ、俺は……?」
「無理に動くな。浅手とはいえ、無理に動けば傷が開く」
「痛っ……」
彼方は胸を押さえる。
ほんの数分間気を失っていただけなのに、何だかやけに記憶が飛んでいる感じがした。
「……そう、か。俺、桐原に……」
目を閉じると、数分前の記憶が甦る。
迫る刃先。
嫌な感触。
全てが手に取るように思い出せる。
「……テトラ、桐原は?」
「……すまない、逃がしてしまった」
「……よし。まだそんなに遠くには行ってないだろ。追いかけるぞ」
「バ……何を言っている! その体で何ができると言うのだ!」
立ち上がるが、体は簡単にふらついた。
「その体では無理だ。ドレインダガーにより、お前の魔力も相当量失われている。体力もそう余裕はあるまい。今夜に限っては今が引き時だ」
「……それじゃダメだ。魔力を吸い取るだけ吸ったら、きっと桐原の体は用無しになるんだろ? だったら、それこそもう余裕がないんじゃないのか?」
「それは……確かにそうだが」
テトラは一度は頷くが、撤回はしない。
「それでも追わせるわけにはいかん。みすみすお前の命を投げ出すようなことを、見逃せるわけがなかろう!」
「…………してくれって」
「……何?」
彼方の声にテトラは聞き返す。
その小声は、どこか震えているようにも聞こえた。
「…………してくれって、言ってたんだよ。桐原のヤツ……」
「……彼方?」
「――殺してくれって。アイツ、俺にそう言ってきたんだよ。泣きそうな顔でさ」
「…………」
それはあの一瞬、ドレインダガーが体に刺さる刹那のことだ。
ずっと色を失っていた灯香の瞳に、一瞬だけ色が戻った。
それはすごく、悲しそうな瞳で。
うっすらとその端からは、涙が浮かんでいた。
そして灯香は、泣きながら確かに言ったのだ。
殺して……殺してくれ、と。
「……多分、桐原の意識はもう限界なんだよ。けど、何とかギリギリのところで自分を保ってるんだ。そして、助けを求めてる。殺されることでも構わないくらいに、助けを求めてるんだ」
「……彼方」
「だから、行かないと。この状況で桐原を救えるのは、俺達しかいないんだよ」
「……一つ、確認したい」
彼方は答えず、テトラの目を見た。
「彼方よ、お前は今言ったな? 殺されることでも構わないくらいに、彼女は助けを求めていると」
彼方は無言で頷く。
「……では、あえて問おう。お前に彼女を殺せるか? それが唯一、彼女を救う手段だと知ってなお、お前は彼女を殺せるか?」
「……分からない。でも、形はどうであれ、それが桐原を救うことに繋がるなら、きっと……」
「……いいだろう。お前の答えを、とくと見せてもらおう」
「ああ……」
今ならまだ、灯香の魔力を追うことができる。
一歩先を行くテトラを追い、彼方は急いだ。
「なぁテトラ、さっき桐原が目の前から消えたのって、一体何だったんだ?」
「断定はできないが、恐らくあれも呪文の一種だろう」
「瞬間移動ってやつか?」
「正確には空間移動だな。あるいは位置交換かもしれん」
「どう違うんだ?」
「前者は呪文としてのレベルが高いが、代わりにカードと魔力さえあれば無条件で使用できる。後者の場合は交換に必要な媒体が必要になり、それを介してではないと呪文が発動しない。その代わり呪文としてのレベルは低く、魔力の消費も少ない」
要するに、交換するからには相手が必要だということである。
この場合の相手とは、別に同じ人間である必要はない。
道端に転がってる石ころでも何でも構わないのだ。
ただし、空間移動が広範囲に影響を及ぼすのに対し、位置交換の範囲は大分狭まってしまう。
これも呪文としてのレベルの関係だ。
「ヤツの総魔力量から判断して、恐らく位置交換の方だろう。もっとも、さっきので彼方の魔力を吸収し、総魔力量が増加しているかもしれんがな」
「…………」
彼方は自分の中にある総魔力量をまだ把握しきれていない。
だが、多少なりとも吸収されていることを考えると、恐らく月下星弓は具現化できないだろう。
果たしてそれで、どこまで対抗できるのか。
「近いぞ。こっちだ」
テトラの先導に従い、彼方も続く。
そして辿り着いたのは、今はもう使われていない廃ビルだった。
地上十五階建てほどの高さがあり、数年前まではマンションとして機能していた。
が、近年の不況の影響だろうか、潰れてからはそのままほったらかしにされている。
そういえばこの廃ビルは、ある種の心霊スポットとして密かに囁かれている場所でもあったはずだ。
彼方も学校でそんな噂を耳にしたことがある。
確か、昔飛び降り自殺した少女の霊が出るとか、そんな類の話だったと思う。
「…………」
「この上だ」
彼方は立ち入り禁止の札を跨ぎ、中へと入る。
当たり前だが、エレベーターなどの昨日はとっくに停止している。
階段を使うしかなさそうだ。
カツンコツンと、自分の足音が響く。
明かりもないので、足元には十分気をつけなくてはいけない。
「……っ、く……」
思った以上に消耗した体力は多かった。
階段を上る程度で息が上がるなんて、今までになかったことだ。
「彼方、平気か?」
「……大丈夫だ。急ごう」
「うむ……」
長い長い階段を上り終えると、錆付いた鉄の扉が待ち受けていた。
その扉は今、わずかに開いている。
「……行くぞ」
「ああ……」
扉を押し開ける。
キィという金属音が響いた。
まるで、誰かが泣いているような音だった。
屋上に出る。
さすがに風が出ている。
寒さこそ感じないが、吹き付けるような強い風だ。
空は……厚い雲に覆われていた。
星はまばらに顔を覗かせているが、月はすっかりその輝きを遮られてしまっている。
足元は薄暗い。
澱んだ空気が蔓延しているようだ。
そんな場所に、彼女……灯香はいた。
まるでこの場所に彼方達がやってくることを見透かしていたかのように、ジッとこちらを見ている。
その手の中には、やはり銀色に輝くドレインダガー。
意思のない黒い瞳が、ぼんやりと光っていた。
「…………もっと」
「……桐原」
「……足りない。まだ、足りない。もっと、血を。魔力を」
「……絶対、助けてやるからな」
「……もっと、もっと。まだまだ足りない。より強く、より高く。そのために、魔術師の血を。魔力を……」
「彼方よ」
「ん?」
「私は最後まで手は出さないでおこう。しかし、お前を見殺しにするつもりは毛頭ない。ダメだと感じたら、例え彼女を焼き尽くしてでもお前を救う。いいな」
「……分かった」
それは恐らく、テトラにとって最大の譲歩だろう。
本当ならマスターである彼方をみすみす見殺すようなこの行為は、使い魔としてあるまじき愚考だ。
だがそれでも、見守ろうと決めた。
その意思が、どこまで貫けるのか。
その想いが、何を変えられるのか。
今一度見極める時かもしれない。
そして彼方は、用意したカードの最後の一枚を取り出した。