第六話:月の弓、星の矢
夏の手前という季節のおかげだろうか、夜風は思っていたよりも冷たくはない。
街灯の明かりもまばらで足元は暗かったが、歩き慣れた近所の道だ、迷うことはないだろう。
「テトラ、まだ遠いのか?」
路上を走る彼方は、周囲の一軒家の屋根の上を次々と飛び越えて走る影に聞く。
「近いぞ。もうすぐそこだ」
並外れた跳躍力で宙を飛びながら、テトラは答える。
もう間もなく道は住宅街の外れに辿り着く。
そこには公園ほどの大きさの空き地があり、近所の子供達にとっては馴染みの遊び場になっているはずだ。
もっとも、こんな夜更けではその光景もあるわけはない。
「着いた。ここだ」
テトラが叫び、屋根の上から一際高く跳躍し、空き地の中央に音もなく着地する。
数秒ほど遅れ、彼方も追い着く。
「…………」
テトラは無言で周囲の気配を探っている。
気のせいか、真っ赤なその毛並みがざわついているいうに見えた。
「……おい、テトラ。何もいないじゃないか?」
「……静かに。ナキガラとてバカではない。彼方の魔力を感じ取り、今は気配を殺しているはずだ。そしてその魔力を奪いに、必ず姿を現す」
どうやらナキガラのターゲットは自分の魔力らしいということに、彼方は今更気づかされた。
少し考えれば分かりそうなことではあったが、あいにくそんな余裕はなかった。
「……っ」
そう考えると、嫌でも体が緊張してくる。
かなりの速さで走ってきたが、彼方の呼吸はすでに落ち着いている。
もともと体力にはそれなりの自信があるので、あの程度の距離の全力疾走は疲労と呼ぶには程遠いものだった。
だが、どれだけ体力に自信があっても、そんなことは今はそんなことはどうでもいい。
相手はナキガラなのだ、いくら体力に自信があったとして、それが何の役に立つというのだろう。
首筋に嫌な汗が流れる。
ジットリとした粘っこい暑さが体にまとわりついていた。
それだけで気分が悪くなる。
ザァと、夜風に吹かれて木の枝葉が凪いだ。
その微かな物音が消えるか否かという、その瞬間。
「っ! 上だ!」
テトラは頭上を見上げ、吼えた。
「な……?」
反応して彼方は頭上を見上げる。
そこに。
――まるで西洋の騎士のような……黒い甲冑に身をまとったそれが、長剣を振り下ろして落下してきた。
「彼方、後ろへ跳べ!」
「っ!」
テトラに言われたとおり、彼方は地面を蹴って真後ろに飛び退く。
直後に、勢いよく振り下ろされた長剣の先端が空き地の中心の地面を抉り取った。
ドォンという、低く、それでいて長く後を引く音が響いた。
まるで小型のクレーターのように抉り取られた地面からは、砂煙が立ち上っている。
白い霧のようなその壁の中で、ガチャリと金属が擦れ合う音がする。
黒い影が緩慢な動作で動いた。
砂煙が静かに消え、その奥から黒い甲冑の騎士が姿を覗かせた。
「…………」
遠めに見ても重量感の窺える鎧。
顔は見えず、金属のマスクのようなもので覆われている。
月明かりの届かない闇の中、それでも目立つほどの黒々しい輝き。
一言で言えばそれは不気味だった。
が、そんな彼方の思考は簡単に中断する。
黒い騎士が再び剣を構える。
その切っ先は、紛れもなく彼方に向けられていた。
そして次の瞬間、その重量感溢れるイメージとは裏腹なくらいの速さで間合いを詰め、迫り来る。
彼方は咄嗟に体を横に転がそうとした。
が、そこで一瞬体が硬直してしまう。
目測よりも、長剣は遥かにリーチが長かった。
このまま横に飛んでも、先端部分は間違いなく体のどこかしらを切り裂くだろう。
その一瞬の判断の遅れが、致命的に時間を浪費させた。
現実にはそれは一秒の五十分の一ほどにも満たないものだが、それでも十分だ。
半死と死を分かつほどの間隔としては、それでも手に余る。
そんな思考の間にも、距離は確実に縮まっていく。
気がつけば長剣は振り下ろされ、このままでは確実に彼方の体を頭から爪先にかけて両断する。
それを防いだのは……。
「ッ!」
黒い騎士がその身を翻し、後方に飛び退く。
直後に、彼方と黒い騎士の間を裂くようにして炎の弾丸が抜けた。
テトラが放ったものである。
「無事か、彼方」
「あ、ああ。何とか……」
テトラは素早く体勢を整えると、黒い騎士と彼方との間に割って入った。
黒い騎士はテトラの放つ炎を警戒したのか、一定の間合いを取って長剣を構えている。
遠距離攻撃に対する迎撃の構えなのかもしれない。
「な、なぁテトラ。アイツ、この前のヤツとは全然違うよな?」
「うむ。どうやらそれなりの魔力を蓄えているようだ。加えて、あの鎧と剣は魔装と呼ばれるものだ。少々厄介だな」
「魔装?」
「簡単に言えば、魔力によって作られた武器や防具のことだ。破壊力はもちろん、耐久性にも優れ、それでいて全くの負担にならない」
「重さもないようなもんってことか?」
「そうだ。正直、誤算だった。まさかこんなに早く魔装を所持するナキガラが現れるとは……」
テトラは小さく舌打ちする。
「何か、対抗手段はないのか?」
「……ないわけではない。だが、今は……」
言いかけて、テトラは正面を振り返る。
黒い騎士が間合いを詰めて近寄ってきていた。
「ッ、インフェルノ!」
叫び、テトラは再び炎の弾丸を吐き出す。
が、それを待ち受けていたかのように黒い騎士はそれを回避し、跳躍した。
真上から落下する勢いを加算し、地面ごと彼方達を吹き飛ばすつもりである。
だが、黒い騎士はふと気づく。
「ッ?」
落下地点に、すでにテトラの姿がない。
あるのは彼方の姿だけだった。
だが、それでも構うことはなかった。
目的は魔力の回収なので、彼方さえ仕留めればそれで……。
そして長剣を振り下ろしかけた、その瞬間。
「どこを見ている」
背後のその声に振り返るも、振り下ろす長剣に両の手は塞がれ、空中では身動きが取れない。
視界が赤らむ。
灼熱の炎が目の前にあった。
「喰らえ!」
炎の弾丸が鎧の中心に命中する。
ガォンと、金属がひしゃげるような音が響いた。
黒い騎士は空中で吹き飛ばされ、そのまま地面へと落下した。
が、落下した地面はまるで凹んだ様子を見せない。
あの鎧が魔装であるということに証明に他ならなかった。
「……やった、のか?」
「…………」
彼方は呟くが、テトラは答えない。
そして。
「な……」
倒れた黒い騎士は、ゆっくりと立ち上がった。
「……おのれ、やはり対魔術用の防御魔装か」
「どういうことだ?」
「物理面での防御力よりも、魔術に対する耐性に重点を置いているということだ。威力の低い魔術では、決定的なダメージを与えることができない」
「……っ、テトラ、さっき言いかけてたよな? 対抗手段があるにはあるって」
「……うむ」
「具体的にどうすればいい? 俺に何かできることはないのか?」
「……アレを強化しているのは、前述したとおり魔装によるものだ。つまり、魔装さえ破壊してしまえばいい」
「どうすれば破壊できる?」
「……残念だが、私には無理だ。高威力の魔術を使えば強引に引き剥がすこともできるが、それでは辺り一面が火の海になる。それに、ナキガラそのものなら私の炎で焼き尽くせるが、あの魔装ごとできるかどうか……」
「じゃあ、打つ手なしってことか……?」
「……いや、手はある」
「え?」
「私には、できない。だが……彼方、お前ならできる」
「……どうすればいい?」
「魔装には魔装で対抗するだけの話だ。あの魔装は、魔術に対する耐性が大きい分物理面に関しては大した防御力は持ち合わせていない。つまり、より高い攻撃力を誇る魔装の攻撃を当てさえすれば……」
「けど、そんな武器なんて……」
彼方は周囲を見回すが、とても武器になりそうなものは見当たらない。
まさか木の枝で立ち向かうわけにはいかないだろう。
「なければ創るまでだ。お前ならそれができる」
「創る……?」
「昼間、西花に対して魔法の使い方を説いたことを思い出せ。要領はあれと同じだ。自分の中で武器の形をイメージし、それを具現化すればいい。正当なる魔術師の血を引くお前なら、それができるはずだ。ただ……」
「ただ、何だ?」
「……彼方よ、お前はまだ魔術師としての自覚が浅い。ないに等しいと言ってもいい。その状態で、どこまで自分の中の魔力を練り上げ、魔法の真意を理解して具現化まで至れるか……私にも想像がつかん」
「……俺次第ってこと、か……」
「……そうだ」
二人がそうこう話している間に、黒い騎士は再び長剣を構えた。
「……私が時間を稼ぐ」
「テトラ……」
「信じろ、彼方よ。お前は魔術師だ。自覚はなくとも、その血は紛れもない真の血統だ。魔術師に不可能がないとは言わない。万能とも言いはしない。しかし、それでも」
テトラは振り返り、赤い瞳で告げる。
「――魔術師は、不可能を限りなく可能へと導く力を持っている」
「…………」
「お前を信じている。我がマスターよ」
テトラが地を蹴った。
真っ直ぐに黒い騎士に向かう。
黒い騎士は長剣を構えたまま、防御の体勢から迎え撃った。
対空の迎撃に繰り出された突き。
テトラはそれを体をひねって回避する。
「ぐ……」
が、完全ではない。
わずかに切っ先が皮膚を削り、鮮血が宙を舞った。
着地し、間合いを詰める。
近接戦闘では黒い騎士のほうに分があるのは明白だった。
それでもテトラが接近戦に持ち込むのは、一秒でも多くの時間を稼ぐため。
全ては信頼した、たった一人の魔術師のために。
その信頼に応えてくれるかどうかなど、分かりもしないのに。
それでもテトラは、立ち向かうだろう。
信頼したマスターなら、必ずこの逆境を跳ね返してくれると。
今までも、そしてこれからも。
そう信じ続けるだろう。
そうでなければ、テトラは今までの気が遠くなるような時の中を生き抜いてはこれなかったのだから。
「……集中しろ。そして、イメージするんだ……」
彼方は立ち上がり、自然体で体の力を抜く。
自分で自分の中に浸透するイメージ。
そこにある、今までずっと気づかないままでいたチカラ。
すっかり錆付いた小箱を、こじ開ける。
さらにイメージを強くする。
あの魔装の鎧を壊せるだけの攻撃力を持つ武器。
それは剣か、それとも槍か、はたまた斧か。
(いや、それじゃダメだ……)
それらの全てを、彼方は否定する。
(接近戦じゃ、勝ち目はない。どれだけ優れた武器でも、戦いに関して素人の俺が渡り合えるとは思えない……)
安直な判断に委ねるわけにはいかない。
冷静に分析、そして判断し、自分に最も適した武器を想像し、さらに創造しろ。
(……圧倒的な切れ味を持つ剣も、貫けないもののない槍も、一撃の破壊力に長ける斧も必要ない。俺に……俺に必要で、もっとも適した武器は…………)
「が……っ!」
テトラが空中から地面に叩き落とされる。
黒い騎士が剣の柄の部分でテトラの胴体を打ちつけたのだ。
「ぐ……」
よろよろとよろめきながらテトラは立ち上がる。
分かってはいたのだ。
騎士相手に接近戦を持ち込むなど、遠距離戦を主体とするテトラには不利にしか働かないということ。
「…………」
黒い騎士はその長剣をテトラに突きつける。
あと一撃。
軽く撫でるだけで勝負は終わる。
「く……止むを得ないか。このままやられれば、間違いなく彼方も殺される。魔力を奪ったとしても、ナキガラが自分達の敵である魔術師を生かしておくはずがない。ならば、このままむざむざ殺されるよりは……!」
その身に宿る全魔力を開放し、眼前の敵を葬り去る。
その結果として、周囲に多大な被害が出ることになろうとも、厭わない。
犠牲は今に始まったことではない。
過去の戦いの中で、もっと過酷な状況などいくらでもあったのだ。
それを思えば、今から行うことなど……。
「……赦せ、彼方。今この場でお前を失うことには変えられない!」
テトラの全身が熱を帯び始める。
真っ赤な体毛は一層激しく、燃え盛るように映えた。
「ッ……!」
黒い騎士はわずかに後退した。
その膨大な魔力の量に気圧されているかのように。
だがその時、黒い騎士の視界に彼方の姿が映る。
そしてそれは、ターゲットの変更に他ならない。
「何……」
テトラもその動作に気づいたが、わずかに遅い。
黒い騎士はその長剣を、まるで槍のように彼方目掛けて投げつけた。
切っ先は真っ直ぐに彼方の体目掛けて飛んでいく。
当の彼方は、そのことに気づいていない。
「彼方っ!」
叫び、テトラは反射的に炎の弾丸を長剣目掛けて放つ。
炎の弾丸は長剣にぶつかり、その衝撃で長剣は宙を舞った。
わずかに胸を撫で下ろすテトラ。
だがしかし、予期せぬ偶然が続く。
弾かれた長剣が、放物線を描いて再び黒い騎士の手の中に戻る。
そしてすかさず、その長剣はテトラ目掛けて振り下ろされる。
「しま……」
この間合いでは炎の弾丸を放つ間はない。
かといって、飛び退いたところでリーチの長さで回避もできない。
絶命の瞬間はすぐそこに迫っていた。
その声が、届くまでは。
「――テトラ、伏せろ!」
「ッ!」
その声に反応し、わずかに黒い騎士の動きが止まる。
その隙に、テトラは横に飛び退く。
自然、黒い騎士の視線はテトラに向かう。
……だが。
その体から、魔装の鎧がガラガラと崩れ落ちていく。
それだけではない。
「オオオオオッ!」
黒い騎士は叫びを上げ、あの不定形な姿を晒し、そのまま夜の中に解けるように消えていった。
崩れ落ちた鎧も長剣も、同じように消えていく。
その一瞬、何が起こったのか。
テトラの目にさえ、それはこう映っていた。
――光のような何かが目の前を横切ったと思ったら、全てが終わっていた。
その光がやってきた方向を振り返る。
そこに。
「……っ、間に合った……か?」
「彼方、それは……」
――まるで三日月を思わせるような、巨大な弓を構えた彼方が立っていた。
「その弓は、まさか……」
震える声で、テトラは言う。
「――真魔装、月下星弓……アストラルアロー……」
グラリと、彼方の体が崩れる。
「っ、彼方!」
我に返り、テトラは慌てて駆け寄る。
「無事か、彼方」
「……ああ、平気。けど……何か、急に体の力が抜けちまって……」
「無理もない。魔力の扱いに慣れていないのに、ただでさえ膨大な魔力を消費する真魔装を使ったのだ。しばらくはまともに動けん」
「……マジかよ、参ったな……」
ゴロンと、彼方は大の字で地面に横になる。
「はぁ……」
「……無理をさせてしまったな。すまない」
「いいって、気にするなよ。それよりも、お前の方こそ傷は大丈夫なのか?」
「かすり傷程度だ。心配はいらん」
「そっか、ならいいんだ。ギリギリだったけど、間に合ってよかった」
「……見事の一言だった。私の目にも、何が起こったのか分からないほどだったぞ」
彼方はイメージの中で、様々な武器をイメージした。
そしてその中から、弓矢を選んだ。
理由らしい理由は特になかった。
ただ、数ある武器の中でそれが一番しっくりくるような気がしただけのことだった。
そして幸か不幸か、選び具現されたのは真魔装と呼ばれる、無数ある魔装の中でも上位に位置するもの。
しかし、それを扱うには彼方の体はまだ未熟すぎた。
その結果として、魔力の消耗に比例した反動を受けてこの様子だ。
だが、それでも彼方はどこか満足していた。
ドッと疲れてしまった体でも、しっかりと実感できている。
「……なぁ、テトラ」
「む?」
「ほとんど運だったけど、俺も一応それっぽく戦えたよな?」
「そうだな。初陣にしては上出来だ」
「……これからは、お前だけには戦わせないからな」
「…………」
「って、そんな偉そうなこと言える立場じゃないけどさ」
「……いや。そう、だな……今後の成長に期待させてもらうとしよう」
テトラはどこか嬉しそうに笑った。
だから彼方も、同じように笑っておく。
とりあえず今は、もうしばらく勝利の余韻に浸っていたかった。