表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Astral  作者: やくも
58/59

第五十八話:メッセージ

 ……どう、して……?

 どうして、なの……?

 何で、君は…………。


 ――泣いて、いる、の…………?




「ルキアっ!」

 悲鳴のように叫んでアリスが駆け寄る。

 その胸に深く突き刺さった銀色のナイフ。

 本来なら果物の皮をむくために使われるそれは、しかし紛れもない凶器だ。

 現にこうして、人間の体の真ん中を軽々と突き破ることができるのだから。

「っ!」

 言葉を押し殺して、エリスはルキアの胸に突き刺さったナイフを抜き取る。

 ズルリという生々しい感触に一瞬遅れ、おびただしいほどの血液が洪水のように溢れ出てくる。

 同時にルキアは音もなく咳き込み、その口の中からも大量の血が飛び出し、その赤い雫がエリスの頬に跳ねた。

 そんなことには構わず、エリスはルキアに身につけていた白い寝巻きを脱がせ、傷口に出血を抑えるためにあてがう。

 だが、そんなことをしたところで心臓を貫いた出血は止まるはずがない。

 真っ白だった寝巻きは見る見るうちに真紅へと染まりあがり、その生暖かい命の証がエリスの指先を伝って赤く染めていく。

 ルキアの顔はすでに血の気が引き始め、蒼ざめていた。

 それがどれだけ絶望的な結末をもたらすものか、エリスは嫌でも理解させられた。

 だからといって、添えたその手を離せるものか。

 離せるわけがない。

 だって、そうだろう。

 そうに決まっているだろう。

 彼は、ルキアという少年は。

 生まれて始めての、大切な友達だったのだから……。

「ダメ! ダメだよ、死んじゃダメ! 絶対、絶対私が助けるから! 助けて見せるから!」

 それはまるで、哀しい雄叫びのようだった。

 自信に満ち溢れた言葉とは裏腹に、その目元から流れ出る透明な雫はとどまることを知らずに際限なく溢れていく。

 その様子が全て物語っていた。

 考えて見れば簡単なことだったのだ。

 魔術を使えば傷を癒すこともできる。

 だが、それはあくまでも生きている対象に限った話だ。

 死んだ者は二度と生き返らない。

 それは魔術の世界でも現実の世界でも、唯一変わらない事実だった。

 だから。


 ――もう、ルキアは助からない。


 言葉にすれば、たったそれだけのこと。

 それだけのことだ。

 それだけの、ことだが……。

「…………」

 エリスはその、嫌になるほど触れてきた死という一つの現象に、初めて絶望を抱いていた。

 ルキアを抱く両腕は、遠目から見てもはっきりと分かるくらいに震えている。

 それは、紛れもない恐怖。

 目の前に迫り、そしてどう足掻いたところで立て直すことのできない現実。

 死。

 そんなちっぽけだった一言が、エリスの世界を真っ黒に塗り潰していく。

 その手は。

 この、手は。

 今までどれだけの命を葬ってきただろう。

 数え切れないほどの命を切り裂いて、摘み取って、振り払って、踏み潰して、無に返して。

 灰は灰に、塵は塵に、肉は土に。

 目には見えないだけで、きっとその両手は今も真っ赤に染まっている。

 けれど。

「……ル、キア……?」

 その腕で抱きかかえた少年の体が、あまりにも軽すぎて。

 なのに、その体から流れる血潮は、泣きたくなるくらいに温かくて。

 その温もりが、少しずつ、少しずつ、なくなっていくのを感じていた。


「は、はは、ははははは!」

 少し離れた場所で、下卑た笑い声が響いていた。

「見ろ! 見て見ろ! その目によく焼き付けておけ! これが! これがお前達が招いた結末なのだ!」

 耳障りなことこの上ない男の罵声だったが、そんなものはエリスの耳には届かない。

「バケモノの分際で人間と馴れ合おうなどと考えるからこういう目に遭うのだ! 所詮貴様達は、何かを壊すことはできても救うことなど絶対にできはしないのだよ! 多少人間らしく扱ってもらった程度で情でも移ったか? 全くいい笑い話だ!」

 その声は届かない。

 だが、エリスはゆっくりと声のする方向を振り返る。

 その瞳に、色はない。

「どうだ? 目の前で拠り所にしていた存在が消えていく気分は? そうだ、もっと嘆け、苦しむがいい! どれだけ泣き叫んで血の涙を流したところで、その小僧は二度と目を開くことは」

 そこまで言いかけて、男の言葉は途切れた。

 より正確に言うならば、男の首から上が胴体から強引に引きちぎられたからだ。

 まるで腐りかけの果物を握りつぶすかのように、エリスはその小さな手で男の頭部を強引に引きちぎっていた。

 そして色のない瞳ですでに事切れた男の死に様を一瞥すると、心底つまらなそうにその頭部を林の奥へと放り投げた。

 放物線を描くそれは、夜の暗闇の中に音もなく消えていく。

「……違う」

 虚しさの中で、エリスは呟く。

「違う、違う違う違う違う違う! 私は……私達は、こんな結末のために生まれてきたんじゃない!」

 夜の静寂を引き裂いて、エリスの悲痛な叫びがこだました。

 だが、そこに応える者は誰もいない。

 頭部がなくなって膝を折った元人間の体が、バカみたいに血の噴水を噴き出しているだけだった。


「エリス、ちゃん……エリスちゃん、どうしよう! 血が、血が止まんないよ!」

 涙で顔をぐしゃぐしゃにしながらアリスは叫ぶ。

 横たわったルキアの体からは、完全に血の気が引いていた。

 元から色白で細身だったその体は、なんだかさらに痩せ細って見えた。

「どいて、アリス」

 不思議と落ち着いた声でエリスは言った。

 言ったエリス自身が、自分でもどうしてこんなに気持ちが落ち着いているのか理解できないほどだった。

 ルキアの体を抱き、ようやく血が止まりかけていたその傷口にそっと触れる。

 次の瞬間、淡く白い光が生まれる。

 月夜に舞うホタルのように儚いその光は、ほんのわずかな温もりをたたえてルキアの傷口を覆い尽くしていく。

 やがてその光が消えた頃、ルキアの傷は完全に塞がっていた。

 皮膚の上には傷跡さえ残ってはいない。

 だが、それだけだ。

 認めなくないが……本当に心底認めたくはないが、あの男の言葉は正しい。

 ルキアはもう、眼前に迫った死を振り払うことはできない。

 心臓の鼓動は今にも消え入りそうなほどに小さく、そして哀しい音色を奏でている。

 ルキアの胸に手を当てたエリスは、その鼓動をいたわるように感じる。

 そして、思った。

 どうして、こんな時まで。

 あとは死を待つだけの体にもかかわらず、すっかり血の気が引いて蒼ざめてしまったのに。

 どうして、こんなにも彼の心は温かさを伝えてくれるのだろう。

「…………ごめ、んね」

 消え入りそうなほどの小さく細い声で、エリスは言った。

「エリス、ちゃん……」

 その光景を見て、アリスは少なからず驚いていた。

 初めてだったのだ。

 エリスが、涙を流す光景を見たのが。


「ごめんね、ルキア。謝ったところで、許されないのは分かってる。今のあなたに、こんな言葉が届かないことも……分かってる」

 それでもと、エリスは涙を零しながら胸の内の何かを伝えたいと切に想う。

 こんな感情は、なかったはずだ。

 きっと、生まれたときからなかったはずだ。

 ここまでに至る途中、どこかで落としてきてしまったというわけではない。

 本当に、最初からなかったはずなのだ。

 こんな風に、他の誰かのために涙を流すことなんて。

 だって、おかしいだろう。

 奪うための、壊すための、殺すための、滅ぼすための存在でしかない自分に、そんな感情は必要のないものだ。

 殺した人間の数なんていちいち覚えていないし、数えようと思ったこともない。

 そっと手を振るうだけで肉の塊は弾け飛んで、真っ赤な花を咲かせながら無様に地面を転がった。

 別にそれを快感と思ったことはない。

 ただ、不快と感じることは少なからずあったかもしれない。

 今にして思えば、それもおかしな話だったのかもしれない。

 思い返せば思い返すほど、納得の行かない過去が際限なく掘り返されていく。

 それは、確かな後悔だった。

 そして、今も、また。

 かつてないほどに心は悲鳴を上げ、言葉にならない何かを必死で訴えている。

 しかし、エリスはそれを表現する術なんて知らない。

 そんなものは、今まで必要と感じたことはなかったからだ。

 だが。

 だが、それでも。

 こうして涙は、その答えのない問いに答えてくれるように溢れてくる。

 強がりでも何でもない、本当に単純にどうしていいか分からないこの状況で、ようやく胸の中の何かがカチリと音を立てて外れたような気がした。


 認めようと、エリスは思う。

 この数日の間の、陽だまりの中にいるようなあの感覚を、心地よいと感じていたこと。

 もしも。

 もしも、願いというものが叶うのならば。

「私、は……私達、は…………」


 ――できることなら、いつまでもこの陽のあたる場所でこうしていたかった……。


 あまりにもささやかな願いだった。

 しかし、それすらも叶わぬことを他でもない二人は知っていた。

 そしてその結果が、目の前の光景だ。

 初めてできた大切な、かけがえのない友達をこんな残酷な結末に招いてしまった。

「ごめんね、ルキア。ごめんね……」

 その冷たくなった体を、そっと抱き寄せる。

 どれだけその口元に耳を近づけても、そこからは声はおろか呼吸の音さえもう聞こえない。

 胸に添えていたその手にも、いつの間にか鼓動は途絶えていた。

 エリスはせめてもの気持ちで、ルキアの口元の血を指先で拭う。

 瞳は閉じられていた。

 が。

「え……?」

 アリスがふいに呟く。

 エリスがその視線を追い、ルキアの顔を覗き込む。

 そして。


 ――そこに、うっすらと瞳を開いたルキアが、確かに居た。


「……ル、キア……?」

 エリスは少年の名を呼ぶ。

「…………」

 答えはない。

 ただ、ルキアはわずかに視線を彷徨わせ、エリスとアリスの姿を確認すると、ゆっくりとその腕を持ち上げた。

 その手を二人が握り返す。

 言葉には出さず、しかし想いは一つ。

 此処に居るよ。

 私達は、此処に居る。

 それだけで、全ては伝わった。

 ルキアは確かに、決して見間違いなどではなく、一度だけ小さく微笑んで……。


 「――――、――――――――…………」


 二人だけに聞こえる声で一言呟いて、瞳を閉じた。

 そして。

 その瞳は今度こそ、二度と開かれることは、なかった。




 神様。

 もしもあなたが、世界のどこかに居るのなら。

 僕の願いを一つだけ、叶えてください。

 僕の大切な友達を、守ってあげてください。

 大切な、本当に大切な友達なんです。

 二人は見た目がそっくりで、けど性格はまるで正反対で。

 双子らしいんだけど、僕には一つか二つ年の離れた姉妹に見えました。

 その、二人の女の子を。

 アリスとエリスを、守ってあげて欲しいんです。

 きっと二人は、僕のことを背負っちゃうだろうから。

 だから、そんなことは気にしなくていいんだよって、伝えて欲しいんです。

 僕はもう、伝えることができないから。

 だから、お願いします。

 二人に伝えてください。

 ありがとう。

 そして。

 さようなら。

 あ、それと。

 最後に、もう一つだけ。

 もしかしたら、僕の最後の言葉は、届かなかったかもしれないから、念のために。

 ……………………。

 …………。

 ……。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ