第五十五話:選択
緩やかに時が流れていた。
不釣合いだなんて、誰に言われるまでもなく理解していた。
全く、どうなっているのだろう。
もしもこの世界に神様なんてものが本当に存在しているというのなら。
その神様とやらは、どうやらふざけているらしい。
だって、そうだろう。
こんな日々を、悪くないと……そう思ってしまうくらいには、なってしまったのだから……。
鼻先を掠めるのは、微かに甘いにおいのする紅茶のものだ。
ベリーの類のものだろうか、どことなくそれに似た香りがする。
「どう?」
ルキアは問う。
「……ええ、おいしいわ」
エリスはわずかに表情をほころばせて答えた。
それを見て、ルキアも嬉しそうに微笑む。
時刻はちょうど午後の二時。
昼食を終えて、午後のお茶を嗜むにはちょうどいい時間帯だ。
もっとも、物静かに椅子に腰掛けてお茶を味わうエリスとは対照的に、アリスはベッドの上に寝転がってむさぼるように本を読みふけっている。
せっかくの白いドレスも、そんなことではあちこちがシワになってしまいそうなのだが、当人はそんなことには全く気づいていない。
おまけに、すねの辺りまである長いスカートが大きくめくれてしまい、そのままだともうすぐ下着まで丸見えになってしまいそうだった。
「アリス、お行儀が悪いわよ」
小さな溜め息と共にエリスは忠告するが、よほど読書に没頭しているのか、アリスからは返答がない。
「もう……」
しぶしぶ立ち上がり、エリスは大きくめくれたままのアリスのスカートを直す。
しかしそれさえも気づかず、アリスは鼻歌交じりに読書を続けていた。
「アリスは本当に本が好きなんだね」
そんな様子を見て、ルキアはおかしそうに言う。
「まぁ、確かにそうなんだけど。この子、昔っから一つのことに集中すると周りが全然見えなくなっちゃうのよ。悪い癖ね」
「その分、エリスがしっかりお姉さんをしてあげてるように、僕には見えるけど」
「見えるんじゃなく、実際にそうしているのだけどね。頼りにされてるのは悪い気分じゃないけれど、微妙なとこね」
紅茶を飲み干し、エリスはカップを置く。
窓の向こうからは、暖かな日差しが差し込んでいた。
ルキアが去った部屋の中、エリスは窓際に立って思う。
こんな時間はいつまで続くのだろうか、と。
「…………」
見下ろした景色は、青と緑に溢れていた。
本来の自分達には、一番遠かったはずの景色。
当たり前の日常、当たり前の風景、当たり前の生活。
それらは全部、絶対に届かないものだったはずだ。
屋根のある場所で暮らすことが、ではない。
人と触れ合うことさえ、二人にとっては禁忌に等しかった。
だって、彼女達は魔女だ。
人間なんかじゃない。
こっち側の世界になんて、絶対にやってこれない。
そう、決め付けていた。
誰に教わるわけでもなく、自然とそれが当たり前なのだと、当然なのだと分かっていた。
言い聞かせたわけでもなく、誰かに教わったわけでもない。
ただ、本能で知っていた。
どれだけ同じ道の上を歩いても、手を伸ばせば届く距離であっても、目には見えない境界線は必ずいつも傍にある。
人間とバケモノ。
違いをあげるのならば、たったそれだけ。
外見がどれだけ人間のそれに酷似していたとしても。
その体には赤い血が流れていても。
痛みを知り、涙を流し、笑顔を作り、二本の足で歩き、太陽の暖かさに包まれ、冷たい雨に打たれ、朝のまどろみを覚え、夜の風に凍え、孤独の中を迷い、差し伸べられた手を振り払うことができなくても。
「……くだらない」
ポツリと、エリスは吐き捨てる。
「結局は、何も変わらないという、ただそれだけのことじゃない」
優しい風が吹き、エリスの頬を撫でた。
その感覚がどうしてか、誰かに涙を拭われたようで……。
ひどく、悲しくて。
どうしようもなく、おかしかった。
「…………」
……終わりにしよう。
エリスは胸の中だけで呟いた。
やっぱりこの場所は……こんな、陽だまりの中心のような場所は、自分達の居場所じゃない。
ここにいると、変な錯覚を覚えてしまう。
まるで、自分達が当たり前の人間であるかのような錯覚。
それはきっと、今までの自分達が心のどこかで憧れていたものなのかもしれない。
それはきっと、今の自分達にとって他のどんなものよりも必要なものなのかもしれない。
でも、それは。
――それは同時に、本来の自分達にとって一番必要のないもののはずだ。
だから、捨てよう。
手に入れる前に、捨ててしまおう。
手に入れる前に失ってしまうのならば、少しは胸も痛まずに済みそうだから。
「ごめんなさい、ルキア……」
今はいない少年の名を呼ぶ。
「あなたとはやっぱり、友達になれそうにないわ……」
理由は簡単だった。
そんな資格は、もとから持ち合わせていなかったのだから。
夜の闇の中を、二人分の人影が動く。
アリスとエリスのものだ。
二人の衣服は真っ白なエプロンドレスから、真っ黒なゴシックロリータのものに変わっていた。
それが二人の本来の衣装だ。
こうして今闇の中に紛れているように、二人が住む世界は本来ならこっち側だった。
そう、今までが……この数日間が、間違っていたのだ。
あの、雷鳴が轟く雨の日に。
夢のような時間が始まり、そして今夜で終わる。
「エリスちゃん、本当に行くの……?」
アリスはエリスの服の裾を握り、小声で問う。
「……ええ。いつまでもこんなところで道草を食っているわけにはいかないもの」
「でも……」
「……いい、アリス? 私達は人間なんかと一緒にいちゃダメなのよ。それに、こうしている間にも私たちのことを追っている連中に、この場所を嗅ぎ付けられちゃうかもしれない」
「……うん、それは分かってるけど……」
「……けど、何?」
「……ルキアに……ルキアにくらいは、ちゃんとお別れを言っておきたかったな……」
「アリス……」
「だって、初めてだよ? 初めて私たちの友達になってくれたんだよ? 今日まで一緒にお話したり、遊んだりしてくれたんだよ?」
「…………」
アリスの言葉には嘘も迷いもなかった。
だからこそ、エリスは何も言い返すことができなかった。
ただジッと、浴びせられる言葉を黙って聞くことしかできなかった。
「……なのに、それなのに……」
アリスの目じりから、わずかに透明な雫が浮かび上がっていた。
あと少し感情が揺れてしまえば、その雫は瞬く間に溢れかえってしまうだろう。
だが、それでも。
「そうだと、してもよ」
エリスは声を抑え、静かに言う。
「ここはやっぱり、私達の居場所じゃないの。それどころか、私達がここにいたら、いつかきっとルキアを危険な目に遭わせてしまう」
アリスは涙をこらえ、黙ってその言葉を聞いていた。
「私達の都合に、ルキアを巻き込んでいいはずがないの。だから……早く、行かなくちゃ」
例えそれが、自分達を友達と呼んでくれたルキアに対する裏切りという形になってしまったとしても。
共に過ごしたこの数日が、確かに心地よいと感じたことが確かな事実であったとしても。
互いの世界は、住み分けなくてはいけないのだと。
それが一番いいのだと。
そう、言い聞かせるようにして。
「……アリス、あなたがルキアの幸せを願うなら……この数日の時間を、大切な思い出にしておきたいのなら」
言って、エリスはアリスの肩に優しく触れる。
「私達は、ここにいてはいけないのよ……」
その言葉は。
他ならぬ自分達が、人からバケモノと呼ばれる存在であることを再確認するためのものではなく。
たとえバケモノであったとしても、一人の少年の幸せを願うことくらいは許して欲しいといういうような……。
祈りにも似た、言葉ではうまく言い表せない感情だったのかもしれない。
その言葉を受けて、アリスは目の端の涙を袖口で拭う。
「……行きましょう、アリス」
言葉には出さず、アリスは小さく頷く。
きっと、決心はまだ揺らいでいるだろう。
もしもここで、闇の向こうからルキアの声でも聞こえれば、この足は前に進むことさえできなくなってしまうかもしれない。
だから、そうなる前にこの場所から去ってしまおう。
誰にも告げず、置手紙すら残さず。
まるで煙のように、消え去ってしまおう。
そして、願わくば……。
――どうか、一日も早く今日までの日々を忘れてくれますようにと、強がった願いだけを残して……。
二人は闇の中を歩く。
その手は決して離れないよう、強く強く握り締めて。
後ろは振り返らない。
夜が明ければ、きっと二人の足跡もきれいに消えてなくなるだろう。
時が経てば、きっと二人がいた記憶も消えてなくなるだろう。
それは少し……ほんの少しだけ、悲しいことだけど。
それでいいと、二人は思う。
その代わりに。
二人はこの日々を、決して忘れはしないと誓えるから。
絶対に忘れてやったりなんてしない。
たとえこの、バケモノと称される肉体に、いつか滅びが訪れたとしても。
灰になって世界に散りばめられても、忘れはしない。
友達と呼んでくれた、たった一人の少年のことを。
――カツン。
だから、二人は思わず固まった。
そんな足音が、背後から聞こえたからだ。
だが、それは。
その、足音は。
「……どちらさま?」
エリスは首だけ後ろを振り返って聞く。
その言葉に、音もなく闇がうごめいたような気がした。
下卑た笑いが聞こえてくるようだった。
粘性のある液体を体の周囲にまとっているようで、不快な空気が充満していくのが手に取るように分かる。
断言できる。
そこにいるのは、間違ってもあの少年ではない。
「ようやく見つけたぞ、二人の魔女」
それは、あっさりと二人の正体を告げた。
緊張が走り、夜の闇が凍る。
一瞬の後に、闇を引き裂くようにして、その魔の手が二人の魔女に襲い掛かった。