第五十四話:雨
それを出会いと呼ぶのなら。
それはやはり、一つの出会いだったのかもしれない。
その国の名前はなんと言うのか。
そんなことにはこれっぽっちの興味もなかった。
普通に考えたら両足が砕けるくらいの距離を歩んできたはずだけど、そこに疲労はない。
いくつの国境を越えただろうか。
いくつの朝と夜を繰り返しただろうか。
そして……一体いつから、屋根のある場所で一日の終わりを迎えることになっていたのだろうか。
「…………」
目を覚ますと、清潔感にあふれた真っ白な天井がそこにあった。
身じろぎをすると、体が柔らかい布にわずかに沈む感覚があった。
天井と同じくらいに真っ白なシーツと羽毛の布団。
体の上に重さを感じさせずにかぶさるその感覚は、久しく忘れていた何かを思い出させるようだったが、そこに不快感はなかった。
ふと、同じベッドの上の隣に視線を向ける。
そこに、エリスとまったく同じ顔をしたもう一人の少女が静かに寝息を立てて眠っている。
少女の名はアリス。
その手元には、昨夜遅くまで読みふけっていた、異国の御伽噺の物語が描かれた絵本が添えられていた。
よほど気に入ってしまったのだろうか、枕元に閉じておいて置くことももったいなかったのかもしれない。
そんな寝顔を眺め、エリスはわずかに微笑む。
こんな風に心の底から深い眠りの中に身を置いたのは、ずいぶんと久しぶりな気がする。
これまでは、雨風をしのぐことさえできる場所は全て寝床の代わりだった。
もちろん、野宿ばかりを延々と続けてきたわけではないのだが。
それにしても、やはり似つかわしくないと、エリスは思う。
こんな平和一色の景色の中に自分達がいることが、不自然で仕方がなかった。
一体いつからこうなってしまったんだろうか。
「……朝、なのね」
カーテン越しに差し込む日差しを見て、エリスは呟く。
枕元に置かれたアンティークの時計が時刻を告げる。
それまではまったく時間というものに興味を示さなかったというのに、こうして改めて時を刻む病身を見ていると、やはり自分達も世界の流れの中にいるのだということを実感させられる。
決して望まれて生まれた命ではないくせに。
望まれて生まれた命ではないとしても。
時は流れる。
無機質に、ただ単調に。
老いも死も知らない二人を、置き去りにしながら。
控えめにドアをノックする音が聞こえたのは、それからしばらくしてからのことだった。
アリスより一足早く目が覚めたエリスは、アリスの寝顔を眺めたり、無造作に散らばった金色の髪を指先でいじったりしていた。
「どうぞ」
ノックの音に答え、エリスは扉に背を向けたままでそう返す。
カチャリとドアノブが回転する音がして、扉が静かに押し開けられる。
そこに立っていたのは、見た目がエリスやアリスと大して変わらないであろう、十代前半の風貌をした小柄で細身の少年だった。
長めに切り揃えられた茶色の髪。
体のラインは全体的に細く、痩せているというよりも病弱というイメージのほうが合っているかもしれない。
柔和な表情の中、髪の毛と同じブラウンの瞳が微かに笑みを携えていた。
「おはよう。よく眠れた?」
少年は高くも低くもない、年頃のそれらしい声で言う。
「ええ。おかげさまで」
対して、エリスは簡潔に答えた。
「あれ、もう一人は?」
帰ってきた言葉が一人分しかなかったので、少年は不思議そうに再度尋ねる。
「まだ、眠っているわ。少し疲れたのかもしれないわね」
エリスの返事を聞きながら、少年は部屋の中へと足を進める。
「本当だ。よく眠ってる」
スゥスゥと小さな寝息を立てるアリスを見下ろし、少年はどこか嬉しそうに笑った。
エリスもアリスも、今は真っ白なネグリジェのような衣服を身にまとっている。
着る者が着れば、それだけで妖艶さにも似たものを思わせるような衣装ではあるが、外見の幼さがギャップになっているのだろうか、やはり普段のように二人には人形のようなイメージが適切かもしれない。
一方少年は、それが普段着なのかどうかは分からないが、貴族階級の男性が着こなすようなワイシャツとズボンに身を包んでいた。
そこに大人のような堅苦しさはなく、ワイシャツも一番上のボタンが外してある。
これといって特別似合っているわけでもそうでないわけでもないが、何となくしっくりきているようには見える。
「もうすぐ朝食なんだけど、二人はどうする? 部屋まで運ばせようか?」
「……いいわよ、別に。そこまで気を使わないで。それに、別にお腹がすいているというわけでは」
そこまで言いかけて、エリスの横で寝ていたアリスが小さく寝返りを打った。
「んー……エリスちゃん、お腹減ったよー…………」
と、そんなタイムリーすぎる寝言と一緒に。
「…………」
「…………」
エリスと少年は互いに目を見合わせながら言葉を失った。
しかし一拍の間を置いて、少年が小さく笑い出す。
「アハハ。どうやら、アリスのほうはそうでもないみたいだね」
「……もう、アリスったら……」
どこか照れくさそうにエリスは視線を外す。
「もう少し待っててよ。すぐに用意して、運んでくるから」
少年は微笑むと、部屋から出るために扉へと向う。
「あ、でも……」
しかし、エリスはどこか居心地が悪そうに少年の背中を引き止める。
が、構わずに少年は言う。
「これくらいさせてよ。だって、二人は僕にとって命の恩人なんだから。それに」
「……それ、に……?」
少年はまた一拍の間を置いて、そして微笑んで答える。
「――二人は、僕の生まれて初めての…………友達だから」
それだけ言って、扉が閉まる。
パタンという無機質な音が、二人だけには広すぎる部屋の中にこだました。
「…………とも、だち……?」
エリスは口の中で、何度もその言葉を繰り返し……。
やがてよく分からなくなり、考えるのをやめた。
「……ん、あれ……エリスちゃん、おはよー……」
その頃になって、ようやくアリスが目を覚ました。
まだ眠気が抜けきっていないのだろうか、目元をこすりながら上半身だけをベッドから起こしている。
だが、そんな声はエリスには半分も届いていなかった。
少年の言葉が、頭の奥深くで何度も響く。
それは、よく分からない感覚だった。
けれど、それは。
ひどく、優しくて心地よい響きだった。
少年は名を、ルキアと名乗った。
歳は十三歳ということなので、逆に年齢を聞かれたエリスは自分達もルキアと同い年だということにしておいた。
ルキアの両親はこの土地では有名な貴族だったらしい。
もっとも、屋敷一つ取って見るだけでも、裕福な家庭であることは明白だった。
民間のホテルなんかの数倍部屋の数はありそうだし、何よりも庭と呼ばれる部分の敷地面積が尋常じゃない。
庭の真ん中には噴水が備え付けられているし、少し遠くには何やら果樹園のような木々が見える。
こんな広い庭を手入れするだけでも大変だろうとは思う。
実際に使用人やお手伝いであろう人の数も相当な数がおり、逆に言えばそれくらいの人手がないと屋敷全体の雑用などをまかなえないということなのだろう。
あれから二人の部屋に朝食が運ばれ、そこにルキアも同席する形で三人は朝食を食べた。
それが終わると、すっかり目が覚めたアリスがもっとたくさんの本が見たいというので、ルキアに案内される形で三人は部屋を出て、庭の片隅にある書庫までやってきていた。
アリスはもとから本を読むのが好きなようで、見たこともない本の山は宝のように見えていたのかもしれない。
その中から数冊を選んで書庫をあとにすると、三人は噴水の近くにある木陰までやってきて、そこで腰を下ろすことにした。
ルキアの話だと、両親は名のある貴族ということもあって、日中から夜まで毎日のように国のあちこちを飛び回っているそうだ。
やはり貴族階級ともなれば、社交の一部と称して色々とそういう動きをしなくてはならないらしい。
そんなわけで、普段はこの広い屋敷にルキアは一人で留守番をしていることになる。
もちろん使用人なども大勢いるので一人きりというわけではないが、実際はそれと同じことだった。
ルキアには友達と呼べる存在がいなかった。
同年代の少年少女は、街の中にはいくらでもいるだろう。
だが、ルキアの両親はそれらの子供達と付き合うことをよしとはしなかったのだ。
それは言うまでもなく、身分の差によるものが理由になる。
だが、今はそうじゃない。
少なくとも、今のルキアの隣にはエリスとアリスがいる。
こうなった理由。
それは、昨夜のことだった。
土砂降りの雨が降っていた。
雷が吼えるように空を切り裂いて走っていた。
ザァザァと、冷たい雨が降り注ぐ。
時刻は深夜。
街灯の明かりのほかには月明かりしか頼りになるものがない夜の世界の真ん中で、しかし闇に溶けて一つの惨劇が起ころうとしていた。
いや、それは実際に起こった。
起こって、終幕へと進んでいた。
それは、定められた物語の結末だった。
だから、本来ならそこで、死んでいなければならない。
そう、ルキアはその夜、死んでいるはずだったのだ。
そこに、二人の魔女が現れることさえなければ。
「……君、たちは……?」
冷たい雨に打たれながら、轟々たる雷の音を聞きながら、ルキアは尋ねた。
倒された馬車。
傷を負った使用人達。
そして何より、馬車を襲った夜盗の集団。
その一人残らずが、すでに呼吸をしていない。
薄汚い路地裏の、泥の混じった水溜りの中に、だらしなく肢体を横たわらせるだけ。
「君達は、一体……」
少年は絞り出すような声で聞いた。
周りにいる執事達が危険ですと騒ぐ声さえ、その耳には届かない。
「……私達に関わらないほうがいいわよ。早く帰りなさい」
エリスは温度のない声でそれだけ告げた。
そして無言のまま路地裏へと歩き出す。
もうすでに慣れてしまった、汚れた世界へ。
「…………待って!」
しかし、その声は背中を呼び止める。
そのまま歩き去ることもできただろう。
いや、それが一番のはずだった。
呼び止められ、それに従う理由などどこにもなかったのに。
なかった、はずなのに。
「…………」
エリスは無言で振り返っていた。
呼び止めた少年と目が合う。
その瞬間、うまく言葉にはできない違和感のような何かを感じ取ったのは、隣にいたアリスも同じだった。
得体の知れない感覚だった。
頭の中にあるどれだけの知識を総動員させても、この感覚は言葉にはできなかった。
冷たい雨は降り続く。
少年の茶色い髪の毛から雫が滴り落ちる。
寒さに体が震えているのが分かる。
その震える唇で、しかし少年はそのおとなしい外見からは想像もできないような強い言葉で、言った。
「――僕の友達になって欲しい」
その言葉の意味が、二人には唐突過ぎて理解することはできず。
だから、無視してしまえばよかったんだ。
それだけでよかった、はずなのだ。
それでも…………。
「――変なヤツ……」
エリスはどうして自分が笑っているのか、理解できなかった。
不思議と、断るということは考えてなかった。
いや、考えられなかった。
バケモノと呼ばれ続けたこの体に、そんな言葉が降りかかる日がやってくるだなんて。
一体、誰が想像できただろうか。
……きっと、笑っているに違いない。
だから、笑っているんだろうと、エリスは思う。
だって、アリスは笑ってくれたから。
なら、きっと。
笑っていても、いいんだろう。