第五十二話:その目は
質問に質問で返すのは無粋だと、そういう人もいるかもしれない。
が、少なくとも相手の問いの意味が分からない以上、そう聞き返すことは仕方のないことでもある。
そう、例えばちょうど、今のように。
「……どっちの、味方、だって……?」
目と鼻の先から投げかけられた問いに、しかし彼方は即答することなどできなかった。
第一に質問の意味が理解できないし、何よりもまずどうしてそんな問いを投げられているのかが分からない。
「ええ」
としかし、エリスはさも当然といったような素振りで言葉を続ける。
相変わらずアリスの方はこのお茶会そのものを話し合いの場として見ていないようで、カップの中の液体をちびちびと口に運んでいる。
「質問の意味が理解できかねますね」
そう言葉を返したのは泉水だった。
エリスの視線がそちらへと移る。
「あなたの言い方だと、まるで私達に対して危害を加えるのは本位ではないと、そう言っているように聞こえるのですが?」
「あら、他にどういう理解の仕方があるのかしら?」
泉水の問いに対しても、エリスは悩む間を見せずに返す。
「……ならば逆に問います。あなた達は……久遠藍瀬をどうしたのです?」
その言葉に彼方は背筋に寒いものを感じた。
そうだ、すっかり忘れてしまっていたが、一足先にこちらへ戻っているはずの藍瀬は一体どうしているのだろうか?
協会の敷地はどうやら思った以上に広大なようだし、そのせいでお互いに顔を会わせていないというのが率直な結論ではある。
だが、何か嫌な予感がしていた。
当たって欲しくない悪い予感だ。
まさかと、そんなはずはないと、浮かび上がるイメージはどれもこれもが薄暗いものでしかない。
「安心して。命は奪っていないわ」
その、あまりにもあっさりと返された言葉に、しかし彼方はホッと胸をなでおろした。
が、それもまさしく一瞬の出来事だった。
「……待てよ。命までは奪っていないって、じゃあ命を奪わない程度には危害を加えたってことか?」
「ええ、多少はね」
これも即答だった。
彼方はその言葉に思わず勢いよく椅子を蹴って立ち上がる。
ガタンと音を立てて椅子が倒れ、両手をついた円形のテーブルがその衝撃でぐらりと揺れた。
カップの中の液体が波のように大きくゆれ、わずかに白いテーブルの上にこぼれていく。
「ふざけるな! 藍瀬が何をしたっていうんだよ! もとはといえば、お前達がシュナイダーを」
「勘違いしないでほしいのだけど」
全ての言葉を言い終えるより早く、エリスは変わらぬ口調で言葉を挟む。
「最初に私達に刃を向けたのは、他ならぬ藍瀬のほうよ。私達は身を守るために彼女の体の自由を奪った、ただそれだけのことよ。こういうのを正当防衛って言うんじゃないのかしら?」
「な、に……?」
「さらに付け加えさせてもらえば、シュナイダー・メルクラフトの件に関しても同じようなものよ。理由はどうあれ、彼はこの協会の中から最重要書類の一つである虚空教典を盗み出して逃走した。あなた達の世界でも、窃盗は立派な犯罪でしょ? 違うのかしら?」
エリスは吐き捨てるように言い終えると、カップの中の液体を一口含んだ。
そのあまりにも落ち着いた、冷静さを装った仕草に彼方は納得がいかない。
言っている言葉は確かに正論なのかもしれないが、それがどうしたのだと彼方は思う。
逆に言えば、お前達は理由はどうあれシュナイダーの命を奪ったのではないかと怒鳴りつけたかった。
それをさせなかったのは、一体自分の中にあるなんと形容すればいい感情なのか。
それとも、こんな後付けの屁理屈に本当に屈してしまっているのだろうか。
「……っ!」
彼方は奥歯を強くかみ締めた。
しかし、それだけだった。
吐き出したい言葉は山ほどあるのに、納得できない事実しか目の前には広がってないのに、それらがどこかでブレーキをかけてしまっているようだった。
仕方なしといった感じで、彼方は後ろに倒れた椅子を乱暴に持ち上げて再び腰を下ろした。
エリスはそんな態度は大して気にも留めずといった感じだし、アリスは突然怒鳴った彼方に対して不思議そうに目を向けてくるだけだ。
「話を続けてもいいでしょうか?」
泉水は彼方に視線を向け、なんともいえない表情を見せてから聞く。
「どうぞ」
エリスは先を促す。
「先ほどのあなたの問いに素直に答えるとなると、答えは二つあるわけです。ではまず、そのうちの一つから。私達があなた達の味方になるつもりがないと答えたら?」
泉水の問いに、エリスは即答しなかった。
カップを受け皿の上に置き、取っ手から指を離す。
カチャリという食器がぶつかる音が微かに響き、その反響がちょうど消えてなくなった頃、エリスは答えた。
「――殺すわ」
ポツリと、ただ一言。
ザァと、花園の真ん中を甘い匂いを運ぶ風が通り過ぎていく。
しかし、その風はどこか冷たさを含んでいるような気がした。
思わず身震いして肌寒さを覚えてしまいそうな、そんな悪寒のような何かを。
「……では」
泉水は最初からその答えには予想ができていたのだろう、大した動揺も見せずに次の言葉を選び始める。
「もう一つのほう、私達があなた達に敵対しないことを選んだら?」
その問いに、エリスはわずかにだが戸惑いのような表情を見せた……ような気がした。
実際は目の錯覚だったのかもしれないが、それは確かに何かをためらっているような、そんな決断に踏み切れずにいるような表情のように見えた。
わずかばかりの沈黙が場に訪れた。
紅茶の匂いが薄らいでいる。
風は止み、音が何もないことがかえって不気味なほどにこの場は静まり返っていた。
そんな時間がどれだけ続いたのだろうか。
おそらく、実際は五秒程度のごくごく短い時間だったのだろう。
だが、その場にいる彼方達にとっては、そのわずかな時間が永遠のような気が遠くなる長さに感じられた。
彼方がエリスに視線を向けると、その視線がぶつかった。
その瞳には、感情の色は何も映ってはいなかった。
しかし、何かを見透かすかのような……どこか遠い場所を眺めているような、そんな目をしているように彼方は感じた。
エリスは同じ視線を泉水にも向ける。
泉水も彼方と似たような感想を持ったのだろう、わずかに表情の変化が見て取れる。
やがて、エリスは変わらぬ調子で、しかしどこか重苦しそうな様子で口を開いた。
そこから出た言葉は。
「――今はまだ、言えない」
二人の思惑を超えた、予想外の言葉だった。
「……どういう意味です?」
すぐさま泉水が聞き返す。
「そのままの意味よ。今はまだ言えない」
エリスは同じ言葉を繰り返した。
その表情には、先ほど一瞬だけ浮かんだような戸惑いの色は完全に消え失せていた。
「では、いつになれば言えるようになるのです?」
「……それもまだ、今は言えないわ」
答えて、エリスは腰を上げた。
「アリス、片づけを手伝って」
「うん」
エリスの言葉に促され、アリスはテーブルの上にある人数分のカップや受け皿をトレイの上に乗せていく。
「お、おい……どういうことだよ。話は全然終わってないだろ?」
「今の時点で、もうこれ以上話すことはないもの。だったら話を続ける理由はもうないわ」
言い切って、エリスは背を向けて立ち去る。
その横にエリスが並び、二人は花園の向こうへと歩き出す。
「待てよ! まだ話は」
叫びかけた彼方を、しかし泉水は片手で制した。
それとほぼ同時に、エリスが足を止めて一度だけ振り返る。
「とりあえず、今はまださっきの答えは保留でいいわ。あなた達にだって、考える時間は必要でしょうし。ああ、そうそう。久遠藍瀬なら、とっくに開放したわよ。彼女に施した魔術も解除したから、肉体的にも精神的にも後遺症のようなものはないはずよ。今頃は協会の敷地のどこかにいるんじゃないかしら?」
それだけ告げると、エリスは元通り視線を戻してアリスと共に去っていった。
見た目の年齢相応の無邪気な笑顔を浮かべ、アリスと喋りを繰り返しながら。
久遠藍瀬は意外なほどにあっさりと見つかった。
藍瀬は協会の聖堂からそう遠くない場所に位置する噴水の前のベンチに座り込んでいたのだ。
「彼方、それに、泉水まで……」
最初、二人の顔を見つけたときの藍瀬は信じられないものを見たような表情だった。
だが、それも無理はない。
シュナイダーの一件を終え、もう二度と会うことはないと思い手紙を残して街を去ったのだ。
それがまさか、こんなに早い段階で再開を果たすことになろうとは思いもしなかっただろう。
彼方と泉水は事のあらましを藍瀬に話し、同じようにベンチに腰を下ろした。
藍瀬の傍らには、使い魔であるレイヤが寄り添うように付き従っていた。
と、彼方は今にして思い出す。
あの花園の中でテトラの姿を見ていなかったことに。
首から提げたロザリオを手に取り、手の中に魔力を集中させる。
次の瞬間、赤い炎を思わせる光がロザリオから飛び出した。
「……っ、ようやく、私もこちら側に出てこられたか」
テトラはため息を零しながら呟く。
どうやらさきほどまでいた花園の場所では、魔術師と使い魔を強制的に分離させるような力が働いていたらしい。
そういえば、暗い部屋の中を案内していたはずのアルタミラの姿もいつの間にかなくなっていた。
「天赫の、そちらも同じような状況だったようだな」
すでにアルタミラは泉水の肩にとまっていた。
その口ぶりからするに、やはりアルタミラも出たくても出てこれない状態にあったようだ。
「それよりも……二人とも、どうしてここに……?」
「どうしてもこうしてもない。シュナイダーの言葉が本当なら、もうすぐ魔術の世界はこっちの世界に戦争を仕掛けるってことだろ? そんなの、黙って見たいられるわけないだろ」
「……それらしい理由は確かにあるようですがね。だからといって、どうして今頃になって戦争を起こそうなどというような考えに至ったのか。その辺りの真意も気になるところです。それに」
泉水はそこで一度言葉を区切り、何かを思い出すように青銅の方角を見据える。
「……それに?」
藍瀬が聞く。
「……いえ、何の根拠もないことなのですが…………私には、まだこの戦争の裏側には何かがあるような気がしてならないのですよ」
「何かって……何だよ?」
「……分かりません。単純に私の考えすぎなのかもしれません。しかし、それでも……」
「……何か、思うところがあるのだな、我が主よ?」
「……あの目は、どうにも身近すぎて、ね……」
「どういう意味だ、泉水。自分だけで納得していないで話すべきだろう。少なくともこの場にいる彼方や藍瀬、我らには聞く権利があるはずだ」
「テトラ……」
テトラの言葉を皮切りに、その場の視線が泉水に集中する。
それでも泉水は押し黙るような態度を取ったが、やがて視線の数に耐え切れなくなり、搾り出すように口を開く。
「……あの目はね、似ているのですよ」
「あの目、とは?」
「……もしかして、さっきの双子か? アリスとエリスとか言ってた……」
聞き返したテトラに続き、彼方が思い当たることを口走る。
「ちょ、ちょっと待って!」
と、そこで藍瀬が驚きを隠せないといった感じで口を挟んだ。
「どうして、あなた達があの二人のことを知っているの? あの二人は、この魔術の協会に置ける最高責任者なのよ? おいそれと顔を会わせることなんて」
「いや、我々とて会おうと思って会ったわけではない。むしろあの状況は、招かれたと言った方が正しかろう」
アルタミラが答える。
「私達は暗い建物の中を歩いていました。やがて目の前に扉が現れ、その先があの二人のいる花園に通じていた、そういうわけです」
「……信じ、られない。あの二人が、花園に他の誰かを招くだなんて……」
藍瀬は驚愕の表情で繰り返す。
彼方達には詳しいことは分からないが、あの花園という場所はどうやらあの双子にとってよほど特別な場所だったのかもしれない。
「……主よ、話の先を」
促され、泉水は小さく頷く。
「アリスとエリス、あの双子の目が、一体誰に似ているって言うんだよ?」
彼方は聞く。
一瞬だけ考え、やがて泉水は口を開いた。
「――私、ですよ」
一言、泉水はそれだけを告げる。
「……いや、正確に言えば、昔の私と言うべきでしょうね。成すべきことは嫌というほどに理解できているのに、その過程を歩む覚悟が足りていない……いえ、迷う理由がないはずなのに、心のどこかでためらっているような、そんな感覚でしょうか……」
そう言った泉水の目は、確かに先ほどのエリスの目とよく似ているように見えた。
「久しぶりにね、思い出されましたよ。自分の中で、もうけじめはつけたつもりだったのですが……これが未練というやつなのでしょうかね、いやはや、面倒なものですよ…………本当に、ね……」
その言葉に。
「……泉水、お前、もしかして……」
何かを思い出して、彼方は口を開いた。
そう遠くない過去に、敵として相対した二人。
そこには、互いに戦うべき理由があった。
その理由は、相容れるものではなかった。
だから、二人は反発し、互いの身を削って戦ったのだ。
他人から言わせれば、迷惑でしかない理由でも。
本人にとっては、何物にも変えがたい、それだけで生きる理由になること。
――救わなくてはならない、人がいる。
かつて、この東真泉水という魔術師はそう言った。
その人のためなら、自分の命を捨てることだって何のためらいもありはしないと。
そう言った泉水の目を、彼方は覚えている。
そしてその目が、重なる。
あの、エリスという少女の目に。
「……同じだって、言うのかよ? あんな、戦争の引き鉄を握っているようなやつが……」
「…………」
泉水は答えない。
彼方はもう一度、自分に問いかけるように呟いた。
「……あの二人も、自分達のためじゃない、他の誰かのために…………そのために、動いてるっていうのか?」
唯一答えを知る存在は、今もあの花園の向こう側にいるのだろうか……?