第五十話:陽の当たる花園で
目を開けると、そこは見たこともない場所だった。
「……ここが?」
小さく呟いたはずのその声が、まるで洞窟の壁に反響するかのように周囲へと響き渡った。
辺りは薄暗い。
明かりらしいものは何もなく、この場所が締め切られた空間であることが分かる。
「油断しないでください。ここはすでに敵の懐なのですからね。一秒後にはもう呼吸できない体になっているかもしれないんですから」
囁くように泉水が言う。
その言葉に彼方は気を引き締めなおし、わずかに身構えた。
シンと静まり返る空間。
ジッとしているだけで耳鳴りのようなものを覚え、小さな頭痛を感じてしまいそうになる。
ここがどういった場所なのか。
部屋なのか、そうだとしたらどの程度の広さなのか。
そして、他に誰かいるのか。
疑問はいくつもあったが、それを一つ一つ解決していくほどの余裕はなさそうだった。
泉水の話が正しければ、こうして今立っているこの場所こそが、藍瀬の言っていた協会とやらの中でも一番の闇の部分になるはずだ。
そんな重要極まりない場所に、何の警備体制も敷かれていないはずがない。
もしかしたらすでに彼方達が侵入したことは周知であり、何らかの対応がなされている可能性だって十分にあるのだ。
いや、その可能性のほうが高いと考えていいだろう。
つまり、このまま固まっていても何の解決にも至ることはない。
「どうするんだ?」
「……ひとまず、この暗闇の中じゃ身動きが取れませんね。アルタミラ、あなたの目を借りますよ」
呟き、泉水はピアスにそっと手を触れる。
暗闇の中ではその色合いまでは見えないが、うっすらと光る輪郭が浮かび上がった。
その宝石の部分からゆっくりと膨れ上がるようにして、泉水の使い魔であるアルタミラはその姿を現す。
「アルタミラ、あなたの目ならこの程度の闇も問題はないでしょう?」
「無論だ。して、どの道を往く? 見たところ、出入り口と思しき扉のようなものが複数あるようだ」
「複数、ですか……それぞれの扉の外側から感じられる光源の大きさは比較できますか?」
「正確には難しいが、おおまかな大小の区分けなら可能だ」
「では、もっとも光源の小さな扉へ向かいましょう」
「え、どうしてだ? 光源が大きなほうが、外に通じてるんじゃないのか?」
「それは同時に、内部の者に見つかる可能性が高い、ということだろう」
彼方の疑問にテトラが付け加える。
アルタミラの先導に続き、彼方達は暗い部屋を歩く。
どうやら足元に段差などはないようで、まっすぐ平坦な道が続いているようだった。
ただ、足音が響かないということは、もしかしたら絨毯か何かのようなものが床一面に敷かれているのかもしれない。
靴の裏から感じられる感触が、ちょうどそんな感触に良く似ていた。
「この扉だな」
数十メートルほど歩いて、アルタミラは告げる。
これだと言われても、暗闇のせいではっきりとは扉を視認することはできない。
が、目を凝らせば確かにうっすらとではあるが、扉の取っ手のようなものを確認することはできた。
泉水はおもむろに懐へ手を伸ばすと、スーツの内ポケットの中からライターを取り出し火を灯す。
暗がりだけだった空間に、オレンジ色の炎がポツリと浮かび上がる。
今の今までライターの火を頼らなかったのは、言うまでもなく敵との接触を避けるためだ。
もしもこの暗闇の中に伏兵が潜んでいたとしたら、この炎が自分達の居場所を示す目印になってしまうからだ。
泉水はライターの炎を扉に近づけ、その取っ手を確認し、静かに握る。
「開けます」
ゴクリと、空気の塊を飲み込むような音がした。
心臓の鼓動がわずかに早まっているのは、おそらく気のせいではないだろう。
カチャリと微かな音を立て、扉が押し開けられる。
真っ白な光が飛び込んできて、そして…………。
眩いほどの光に目をくらませながら、それでも微かに開いた視線の先。
そこに…………。
――どこまでも続くような、広い広い花園が佇んでいた。
「…………」
「…………」
彼方と泉水は、二人揃って棒立ちになって呆然としていた。
何だ、これは?
と、二人の頭を同じ疑問が駆け抜けたのは言うまでもない。
二人の目の前に広がっているのは、まるで御伽噺にでも出てきそうなほどに鮮明に再現された、秘密の花園そのものの景色だったのだから。
「……俺は、夢でも見てるのか……?」
「……ということは、これは幻ではないようですね。揃いも揃って同じ夢なんて、それこそ悪夢以外の何物でもありません。それに」
言いかけて、泉水は取り出した一枚のカードであろうことか自分の手の甲を浅く切り裂いた。
うっすらと赤い血が滲み出し、赤い珠が地面へと落ちていく。
「……どうやら、本当に夢でも幻でもないみたいですね。だとすると、ますますわけが分からなくなるんですけど」
痛みで感覚を研ぎ澄ませても、目に映る光景は変化しない。
信じられないことだが、この光景は紛れもなく現実の中でおきていること、のようだ。
「一体、ここはどういう場所なんだ? 西洋貴族が午後のお茶を嗜むような場所だぞ?」
「悪い趣味ではないですが……どうにも好きにはなれませんね。この場所は、あまりにも綺麗過ぎる。いらないものを全て排除して、必要なパーツだけを揃えて寸分の狂いもなく組み上げたような正確さ……言い換えれば、綺麗過ぎて逆に気持ちが悪いですね」
そう言われてもう一度景色を見直すと、第一印象とはまるで違ったものが見えてくる。
最初は単純に綺麗な空間だと思った。
それこそ、本当に絵本の世界に出てくるような場所だったからだ。
しかし、よく見ればどうだろう。
その景色はあまりにも整然としすぎている。
全てが完璧に整いすぎていて、それがかえって違和感を生み出してしまうのだ。
泉水が言う、綺麗過ぎて気持ちが悪いと言う言葉は的を射ていた。
こんな場所に長時間いれば、それだけで気が狂ってしまうかもしれない。
「協会の中に、なんでこんな場所があるんだよ……」
「そこまでは分かりません。ですが、一つだけ言えるのは、こんな場所を好き好んでいるのは、相当趣味の悪い輩ということくらいでしょうかね」
そう、泉水が吐き捨てるように言った直後だ。
「――あら、ヒドイ言われようね。この場所を気に入っている人に対して失礼じゃないかしら?」
そんな少女の声が、二人の耳に届いたのは。
「っ?」
「……!」
その声に、二人は揃って背後を振り返る。
しかし、そこには誰の姿もない。
確かに声は背中から聞こえていたのに、その声の主の姿はどこにも見当たらなかった。
それだけではない。
二人が押し開けてきたあの扉さえ、すでにそこには影も形も見当たらなくなっていたのだ。
間違いなく扉を抜けてきたはずなのに……。
動揺する二人を尻目に、しかしその声はさも平然と続く。
「さっきからどこを見ているの? 私達なら、ここにいるじゃない」
そしてまた背後から響く声。
振り返り、二人がもと見ていた方向を再度見ると、そこには西洋風の人形をそのまま形にしたような、かわいらしい服装に身を包んだ二人の少女が寄り添いあうように立っていた。
メイド服とゴスロリの衣装を合わせたような服装で、二人の少女はお揃いの顔と格好をしている。
頭には白いカチューシャ、足元は赤い靴。
骨董品のアンティーク人形のようだというのが、彼方の最初に受けた印象だった。
「…………っ」
「…………」
……いなかった、はずだ。
彼方は胸の中で呟く。
ほんの一瞬前まで、そこには誰の姿もなかったはずだ。
目を離したのは、最初の声に振り返ったわずかな間だけ。
たったそれだけの間に、二人の少女は気づかれることなくそこに立ったことになる。
最初からどこかに隠れていたのだろうか?
確かに、この広い庭園のような場所には小柄な少女二人が隠れることができるような場所はいくらでもある。
だが、しかしだ。
仮にそうだとしても、あの一瞬の間に彼方にも泉水にも気づかれることなく、こうして目の前に立ったということだけは否定しようのない事実だ。
それは、普通の人間のなせる業ではない。
つまり、この二人の少女達もまた……。
「……魔術師……」
小声で確認するように、彼方は呟いた。
「ううん、違うよ?」
としかし、その言葉に片方の少女が反応を示す。
何色でもない、無垢なままの声で。
「私もエリスも、魔術師なんかじゃないもん。私達はね」
そして、どこか誇らしげに人差し指をピンと立て、少女は続ける。
「――私達はね、魔女なんだよ?」
その声が透き通るように響いて、吹くはずのない風が花園を揺らした。
わずかに香るのは花の甘い香り。
暖かな春の日差しのような風と、木漏れ日と太陽の光。
そして愛らしくさえ聞こえる少女の声。
まやかしの始まりはどこからだろうか。
現を曇らせる影は、そこにあるというのに。
「…………バカ、な……」
しかし、その言葉に泉水は耳を奪われていた。
「……君達が……魔女、だと……? そんな……そんなはずはない! 魔女の血を引く者達は、あの時全て命を落としているはずだ! そんなことがあってたまるはずがない!」
叫ぶように泉水は激昂した。
その肩が上下し、興奮がまだ覚めやらぬことを如実に物語っている。
「……へぇ。アナタも、あの結末を知っているんだ?」
もう片方の……エリスと呼ばれた少女が、わずかに感心したように言う。
「けれど、自分の頭の中にあることだけが真実だと思い込んでいるのなら、それは間違いよ。だって、現にこうして私とアリスは魔女としてここにいる」
「デタラメを言うな! そんなことがあるはずがない……あってはいけないんだ! そうならないために、過去に魔女と称された人々は自ら道を閉ざしたんだ。たとえ純粋な魔女の血を引こうとも、どれほどの禁忌を犯そうとも、元はただの人間の体である存在が今の時代まで命を保つことなど……っ?」
言いかけて、泉水は口を噤んだ。
そして同時に、気づいた。
自分で言いかけた言葉だから良く分かる。
だがそれさえも……いや、だからこそ頭がそれを否定する。
ありえない、と。
あってはならないと、執拗に繰り返す。
「ま、さか…………当時、すでに……完成していた、と……?」
「お、おい。泉水、どういうことだよ。話が全然見えてこないぞ?」
「…………そん、な……」
彼方の呼びかけに、しかし泉水は答えない。
目の前の事実を否定したい気持ちはいっぱいなのに、頭の奥深くに残るもしもの可能性が拭いきれない。
「そうだよ。アナタの考えているとおりだよ?」
そんなことなど構いもせずに、エリスは淡々と告げる。
紛れもない、魔女の唇で。
「…………ホムン、クルス……魔女の手によって造られし、魔女の血を引く偽りの生命……」
「偽りなんかじゃない」
エリスは言い切る。
「私達は、誰かのための道具じゃない。だから誰にも縛られない。だから、私達は私達のやりたいことをする。そのためにはまず、今あるこの世界が邪魔なのよ。だから消すの。それだけのことよ」
「……何、だって……?」
幼い外見とは裏腹なその言葉に、彼方は耳を疑った。
「……じゃあ、お前達が……この協会の…………?」
それは、にわかには信じがたい答え。
しかし、信じざるを得ない答え。
日の光が差す、暖かい花園で。
間もなく始まるのは…………殺し合い。