第四十九話:覚悟の色
夜が深まっていた。
街の中心から外れた端の部分、ちょうど街の入り口になる場所に二人の人影はあった。
「まぁ、こうなるだろうとは思っていましたけどね」
と、どことなく呆れた様子でそう呟いたのは泉水だ。
「どういう意味だよ、それは」
すぐさま彼方は聞き返すが、それに対してもう一度答えが返ってくることはなかった。
そんなものはもう必要ないし、返すだけ意味のないことだと泉水が勝手に解釈したからだ。
「念のために聞いておきますけど、覚悟は変わらないのですね?」
「そんな甘っちょろい覚悟で、こうしてこの場所に立ってるかよ」
これにも彼方は即答する。
すると、泉水はもう一度だけ小さくため息を吐き出し、そして仕方がないといった風に諦めるように息を吐き出した。
「……やれやれ。一応、今の私は教師という立場で、仮にも教え子であるあなたを率先して危険な立場に連れ歩くというのはいかがなものかとも思うのですが……言うだけ時間の無駄でしょうし、引率ということならとりあえずの建前もつくでしょうかね」
この期に及んでどうでもいいことを気にしているものだなと、彼方は口には出さずに思った。
「それで、具体的にはどうすればいいんだ?」
彼方は問う。
一拍の間を置いて、泉水は表情を切り替えて答えた。
「簡単ですよ。敵の本拠地に正面から向かいます」
聞き終えて、彼方は我が耳を疑った。
「正面からって……そんなんじゃ」
「まぁ、最後まで聞きなさい。あなたの言いたいことは良く分かります。確かにそれでは殺してくださいと言っているようなものですからね。ですがね、どうしようもないんですよこればかりは」
「……どういうことだ?」
「一から説明するとややこしいのですが……」
泉水はやや考え込むような素振りを見せ、やがて口を開く。
「――並行世界、という言葉を聞いたことはありますか?」
並行世界。
この世界の中にはいくつもの世界が別々に存在し、それらはそれぞれがほんのわずかに時間軸と空間軸がずれたところで、目には見えないが、しかし同じように存在しているという考え方である。
言い換えてしまえば、彼方達が普通に暮らすこの世界こそが、彼方達にとっては唯一の世界だ。
が、その唯一の世界のすぐ隣には、目には見えない別の世界がいくつも並行して存在しているということになる。
詳しい理論などは分からないが、彼方もその言葉を耳にしたことはあった。
科学的にはにわかには信じられないことだが、かといって頭ごなしに否定できるだけの材料が揃っているわけでもない。
いわゆる一つの可能性に過ぎないものではあるが、一つの理論としては成り立っているといえるだろう。
「我々魔術師という存在は、本来ならこの世界の中では異物なのですよ。そして、過去の歴史がそうであるように、異物はいつの時代と場所でも異端の目を向けられる。そしてそれらは次第にエスカレートしていき、集団の中から追いやられ、蔑まれ、非難されていく。そうなったとき、もう我々の居場所はこの世界のどこにもなくなってしまう。だから、遠い我々の先祖は考えた。考え抜いた末に、辿り着いてはならない禁忌に辿り着き、そして触れた。数多の叡智を駆使し、造り上げてしまったのですよ。一つの並行世界、そのものをね」
「……世界を、造った、だって……?」
泉水の言葉をそのまま信じるのなら、それは世界を造った……創造したという意味に他ならない。
それは、つまり。
ファンタジーの世界にあるような、神様が何もなかった場所に世界を生み出したような、そんな途方もないスケールの大きさの話ではないだろうか。
そんなことさえも遠い昔にはできたという。
そんなことさえも知識の延長上にあったという。
それらが事実ならば、魔術師という存在は……。
「正確には、造らざるを得なかったと言うべきでしょうね。そうでもしなければ、魔術師は過去の時点で皆殺しにされていた。その血を引く者、その可能性がわずかでもある者。例外なく皆殺しです。十字架に張り付けて火あぶりなんてものは、当時の苦痛に比べればずいぶん生易しいものだったでしょうね」
彼方はわずかに寒気を覚える。
歴史の教科書の中で学んだ拷問さえ、生ぬるいと。
目の前の泉水は言い切った。
その言葉の先を知りたいとは思わない。
思わないが、頭をよぎる残酷なイメージはどうやら消せそうにはなかった。
「話が逸れましたね。それで、結論から言うとですね」
泉水は眼鏡を指の腹で押し上げながら続ける。
「まず私達はこれから、敵の本拠地へ向かうわけですが……その際、今言ったように二つの世界を跨ぐということになるわけです。これ自体はそれほど難しいことではないのですが……」
「……ですが、何だよ?」
「問題は、移動した後の場所なんですよ」
「場所?」
彼方は繰り返すように問う。
「詳しい原理は私にも分かりませんが、他の世界から魔術師の世界へと移動した場合、必ず決まって同じ場所に通じてしまうんですよ。おそらくは何らかの術式によってそう設定されているんでしょうが、同時に外界からの進入を防ぐ役目もあるのでしょうね。どれだけの並行世界があるかも分からない中、もしかしたら侵略される可能性も捨てきれませんしね。過去にそういう経験があるからこその用心のためなのでしょうけれど」
「……それで、どこなんだよ。その、通じた先の場所っていうのは」
彼方が聞くと、泉水はわずかに顔をしかめながら答えた。
「敵の本拠地の中心。より正確には、協会にあるとされている大聖堂の中の一番の最深部。もっとも地位の高い人物がいるとされている場所です」
「……それ、矛盾してないか? そんな重要な人物がいるようなところに直通してるなんて、それこそ暗殺なんかされる可能性が」
「逆ですよ」
彼方の言葉を遮り、泉水は言う。
「それだけの暗部だからこそ、どのような状況でもどうにでもできるのです。文字通り、消えてなくなることさえもね」
「…………」
つまり、それだけの力が集結している場所ということ。
それは自ら死地へと飛び込んでいく行為に他ならない。
向こうからすれば、まさに飛んで火にいる夏の虫ということなのだろう。
いちいち周囲を引っ掻き回されるより、即座に終わらせてしまったほうが手っ取り早いという考え方なのかもしれない。
「もう一度聞きます。世界を跨げばそこは死地です。それでも行くんですか?」
その問いは重みがあった。
半端な覚悟なら踏みとどまれ。
今なら後戻りはいくらでもできるが、一歩進めばもう戻れないのだと。
しかし、それでも。
「もう一度答えるぞ」
彼方は言う。
迷うくらいなら、最初からこの場所に立っていることなどないはずなのだから。
「そんなことで引き下がれる覚悟で、この場所には立っていない」
わずかな沈黙が降りる。
数秒の後、浅い溜め息。
吐き出したのは泉水だったが、その表情はどこか満足そうな笑みが含まれていた。
「では、行きましょうか。戦争を止めにね」
久遠藍瀬は倒れていた。
力なく横たわる体の側面には、石畳のひんやりとした冷たさが溶け込むように伝わってくる。
「…………」
意識はある。
痛みはほとんどない。
何かをする前に、藍瀬はその術を失った。
「藍瀬、大丈夫?」
傍らでレイヤが囁くように言う。
「……ん」
藍瀬はわずかに頷いてそれに答えた。
体の感覚はほぼ失われ、全身は氷のように冷たい。
藍瀬をそうさせたのは、得体の知れないあまりにも強大な力の片鱗だ。
何が起こったのだと聞かれても、分からないとしか藍瀬は答えることができない。
一瞬、あるいは刹那とも言うべき短い時間をさらに億単位で分割したような時間の隙間で、気が付けば藍瀬はこんな体になっていた。
全身のどこにも傷一つなく、しかし生物としての生きるための回路をギリギリまで断たれている状態だ。
睡眠時とよく似た状態でもあるのだが、今の藍瀬は自分の意思で体を自由に動かすことさえできない。
かろうじて許されているのは呼吸と会話能力程度で、あとは糸の切れた操り人形と同じかそれ以下である。
「…………」
あの瞬間。
一体何が起こったのか。
それさえも藍瀬は考えることが無意味だと理解する。
つまり、それだけ圧倒的な力の差がそこには存在したという、ただそれだけのことだった。
抵抗は試みたはずだった。
例えそれで返り討ちにあって、体がバラバラに吹き飛ばされて死んでしまっても構わないとさえ思った。
せめて一撃だけでも、敵に見舞うことができればそれでいいとさえ思った。
そういう気持ちで望んだのだ。
……だが。
結果はこのザマだった。
何もすることさえできず、あまつさえ死ぬことさえ許されない。
指先を少し動かすだけで殺すことができるはずなのに、藍瀬はそうされずに幽閉されている。
協会の地下にある牢獄。
日の光も届かない、静寂と暗黒だけが支配する石の檻。
ロウソクの明かりがなければ、その暗闇は常人を半日足らずで廃人に変えることができるだろう。
「…………メ、ル……」
ポツリ、呟くような言葉。
どうすればいいのだろう。
どうしろというのだろう。
何をどうすれば、全てが綺麗な形で終わることができるのだろう。
そんな都合のいい答えはどこにもないということを知りながら、どうしてそんなことを探し求めてしまうのだろう。
頭の中がごちゃごちゃになっていた。
思考することで、今の動かない体を引きずる自分がかろうじて生きていることを実感できていた。
それが少しだけ嬉しくて、ずいぶんと悔しかった。
そうして藍瀬の瞳は閉じる。
死ではない。
ただ、浅くもなく深くもない眠りの中へと落ちていく。
答えのない間違い探しを、何度でも繰り返しながら……。