第四十七話:一人と独りの違い
室内には沈黙だけが佇んでいる。
一メートルもない距離を置いて、彼方と西花は隣り合って座り、その間にはテトラが鎮座していた。
「…………」
「…………」
会話らしい会話は何もない。
窓の向こう側から差し込む逆光だけが、二人の背中をわずかばかりに暖めていた。
「……何か、さ。結構久しぶりだよね? こうやって話すの」
「……ん。そう、だな……」
「……最近、どう? あ、そうだ。この前やった数学の小テストとか、ちゃんとできた?」
「……覚えてないな」
「そっか……うん、それどころじゃなかったんだとね、きっと……」
「…………」
会話が途切れる。
お互いに気まずい空気だと感じてはいるものの、それを打開するような言葉が見つからないでいた。
何をどうすればこの重い空気をガラリと変えることができるのだろうか。
そんなことを考えるたびに、頭の中がゴチャゴチャになっていって、しまいには何も分からなくなってしまう。
そんな悪循環の繰り返し。
緊張とは違う、別の圧迫感のようなものが西花の胸を締め付ける。
息苦しさが増す。
会話という一つのコミュニケーション手段は、こんなにも苦痛を伴うものだっただろうか?
それでも苦しさを振り払って、西花は再び口を開く。
「……彼方、疲れてる……?」
「え……?」
ふいにかけられたその言葉に、彼方は視線を西花に向ける。
その表情はどこかやつれているようにも見えた。
少なくとも、今までずっと隣を歩いてきた西花にとっては見たことがないような表情だった。
苦しさや辛さ、痛みや迷いが露骨に浮かび上がっているような、そんな見ているだけでこっちが痛々しくなってしまうような表情。
ズキンと、音を立てて西花の胸が軋んだ。
こんな痛みは感じたことがない。
痛みを通り越して、体の真ん中からどんどん冷たくなっていくような感覚だ。
「顔色悪いし、ダルそうな顔してる。具合悪いんじゃない?」
「……別に、そんなことはないけど……」
そうは言うが、彼方はその一言で視線を外した。
西花はこれもよく知っている。
嘘やごまかしをするとき、彼方は昔から相手の目を見ないからだ。
だが、西花はこの場ではあえてそのことには深く追求はしない。
したところでそれは無意味なことだと理解しているからだ。
しかし、それでも問わずにはいられない。
目の前でこんな……明らかにもがき苦しんでいる彼方を見ているのは、西花としても辛かった。
だから付け加える。
たった一言で核心に迫れる、その問いを。
「…………何が、あったの?」
ピクリと、その問いに彼方の方が小刻みに震えたのを西花は見た。
直後に、彼方は無言のままで拳を握り締めた。
ギリギリと音を立て、爪が皮膚を突き破ってしまうのではないかというくらいに強く。
それだけで西花は理解した。
自分には踏み込むことのできない世界で、何かが起きているのだと。
そして、その何かに関われる位置に彼方は立たされているのだろうと。
「……魔術師、絡み?」
西花はさらに核心へと迫る。
「…………」
彼方は答えない。
が、この状況下での黙秘は肯定を意味することと同意だった。
彼方もそれを理解しつつも、しかし言葉を返すことはできないでいた。
握り締めた拳がゆっくりと解け、力がするりと抜けていく。
「……わから、ないんだ……」
俯き、彼方はポツリと呟く。
「……どうすればいいか、分からないんだ。俺は……俺は、どうしたらいい? 戦争が起こるって、それがヤバイことだってのは分かる。けど、俺に何ができるんだよ? こんなちっぽけな力が一つあったところで、何をどう変えられるっていうんだよ……」
「……彼方」
戦争とか、そんな物騒な単語が急に出てきても、西花には何が何だか分からない。
けど、一つ分かったことがある。
彼方は今、自分に押し潰されそうになっているということだ。
目には見えない、けれどものすごい重圧のようなものを全身で受けていて、それに対するどんな答えを選んでも正しい答えには至らないんじゃないだろうかと、葛藤と困惑を繰り返している。
そして同時に、恐怖しているのだろう。
よく見れば、解けた指先はわずかに震えている。
ひどく小さく見える背中。
いつの間にか大きくなっていて、常に一歩先を歩いていたはずの彼方の存在は、しかしこんなにも小さい。
それこそ、乱暴に扱ってしまえば跡形もなく砕け散ってしまいそうな繊細なガラス細工のよう。
……ああ、そうか。
そうだったんだ。
私だけじゃ、なかったんだね。
口には出さず、西花は胸の奥で呟く。
ずっと怖かった。
彼方が魔術師で、自分とは違う特別な存在だと知って、並んで歩いていた日常から自分だけが取り残されてしまうのが怖かった。
そうやってまた置いてけぼりにされて、ずっと先まで歩いていってしまうと思うのが怖かった。
けどそれは、西花に限ったことではなかったのだ。
同じように、彼方も怖かったのかもしれない。
一人道を外れ、分からないことだらけのレールの上を歩くこと。
終わりの地も見えず、ただひたすら歩かされるだけの非日常。
例えるならそれは、暗闇の中でさらに目隠しをされて一人歩かされているようなもの。
考えただけで気が狂いそうになる。
そんな孤独の中を彷徨い続けることは、一体どれほどの苦痛と恐怖、そして悲しみを伴うことなのだろうか?
それでも彼方は、今までその暗闇の中を歩き続けてきた。
終わりの見えない、暗黒の迷路の中を。
道標は何もなく、先にあるのは命さえ落としかねない危機の連鎖。
それに恐怖を覚えてしまったことを、誰が責めることができるだろうか?
意気地がないと罵ることができようか?
腰抜けと吐き捨てることができようか?
否。
そんなことを言う資格は、どこの誰にもありはしない。
いや、あってはいけない。
もしもそんな輩がいるとするのならば、西花は迷わずにこう叫ぶだろう。
「――一人でいることは、独りであることじゃないんだよ?」
声に出してから西花はハッと我に返る。
胸のうちで呟いたはずの言葉は、しかし確かに現実のものとして紡がれていた。
その言葉に、彼方がわずかに顔を上げる。
耳の奥深くに、西花の言葉が染み込んでいく。
脳に直接語りかけるようなそれは、静かに体の真ん中へと溶けていく。
「……一人は……独りじゃ、ない……?」
確かめるように彼方は呟く。
震えていた両手を持ち上げて、わずかに汗ばんだ手のひら同士をそっと合わせる。
それだけで震えは収まってしまった。
胸の中で重くのしかかっていた得体の知れない何かも、いつの間にかどこかへ吹き飛んでしまっている。
体が軽くなったような気さえした。
「……私は、私には」
そんな彼方を見て、西花は続ける。
「何もしてあげられることはないかもしれない。正直なところ、彼方がどんな状況に立たされているのかも全然分からないし、分かったところで、やっぱりできることは何もないと思うから」
「……西花」
「けど、だけどね? 話を聞いてあげるくらいのことは、私にもできるんだよ? それでどうなるわけでもないかもしれないけど、それくらいのことは私にだってできるんだよ! なのに……なのに、彼方はいっつも……いつもそうだよ! 昔っからずっと、ずっと……!」
本当に辛いときほど、誰にも何も相談してくれないじゃないという言葉は、涙に紛れてはっきりと聞き取ることはできなかった。
堰を切ったように泣き出す西花を前にして、彼方は一瞬だけ戸惑った。
隣に座るテトラさえも、その想像できない光景にただ呆然としている。
部屋の中には西花の嗚咽だけがこだましていた。
窓越しの逆光が、頬を伝って零れ落ちる涙を淡い色に照らし上げる。
それを拭ったのは、西花の指ではない。
「……ごめん」
言いながら、彼方は震えない指先で西花の涙を拭う。
指先に暖かい水が触れるたびに、どこか懐かしい記憶が舞い戻った。
遠い昔にも、こんなことがあったような気がする。
そう、それはまだ、二人が一人と一人だった頃。
お互いのことを、常に隣にいて当たり前な存在だと決め付けていた頃。
時が経てばあらゆるものは変わる。
街並みも景色も、人も世界も。
けど、変わらないものだってある。
いや、あってほしいと彼方は思うことができた。
それはきっと、近すぎて、それでいて目を離せばすぐに遠くまでいってしまうようなもので……。
「ごめん。それと……ありがとな、西花」
そう言って、彼方は昔のように西花の頭に手を載せ、軽く撫でた。
西花は無言で頷いた。
何度も、何度も。
隣にいる存在を、記憶に焼き付けるように。
「行くのか?」
月のない夜、庭の真ん中で彼方を待ち構えていた源三は静かに聞いた。
「うん。俺、やらなくちゃいけないことがあるんだ、ジーちゃん」
「……そうか。なら、ワシも止めはせんよ」
道を譲るように、源三は動く。
「ごめん、ジーちゃん。俺……」
「言うでない。お前はお前の決めた道を往け。お前の両親も、きっとそれを望んでいるじゃろうて」
「……絶対に戻ってくる。だから、そのときは話してよ。父さんと母さんのこと。それと、ジーちゃんのことも、全部」
「ああ、約束しよう。だから、絶対にここに戻って来い。お前の帰りを待つのは、ワシだけじゃないんだからの」
「……うん」
「テトラ、じゃったかの?」
「いかにも」
「孫をよろしく頼む。そして、戻ってくるときはお前さんも一緒に、な。また昔話に華を咲かせたいもんじゃ」
「……源三殿、やはり貴方は……」
言いかけて、テトラは口を噤んだ。
今言うべきことではないと判断したのだろう。
彼方もそれに対して追求することはなかった。
「……じゃあ、行ってくる」
「ああ、気をつけてな。忘れるなよ、彼方。昔も今もその先も、お前は決して独りではない。ぶち壊してこい。そして終わらせるのじゃ。身勝手な理想だけを積み重ねた、悪夢のような世界を」
答えず、彼方は一つ頷いた。
もうそろそろ、もう一人の魔術師がこの街を出る頃だろう。