第四十五話:受け継がれるもの
夜は終わり、また朝がやってくる。
この日は快晴だった。
が、それはどこか皮肉だった。
全てを託し、犠牲となった一つの命があることを、多くの人は知らなかった。
風が吹いている。
今はもう使われておらず、取り壊しの工事さえも昨今の不景気の影響で無期延期にされ、今はもう全くと言っていいほど人が寄り付かなくなった廃ビル。
学生達の間では、そこはかなり有名な心霊スポットとして囁かれている影響もあるのだろう、真昼の空の下でも人影は皆無だった。
その廃ビルの屋上……階数で言えば十六階に相当する高さの場所に、藍瀬とレイヤはいた。
一人と一匹は、ただ無言で青空の下に広がる街並みを見下ろす。
そこには、普段と変わらない当たり前の景色が広がっていた。
米粒みたいに小さく見える人影が忙しそうに右往左往し、車やバスなどの交通機関が時間に追われているように走っていた。
もうすぐ、戦争が起こる。
そう言い残して、シュナイダー・メルクラフトは息を引き取った。
藍瀬は、一夜明けた今になってもその言葉の意味がわからない。
いや、それ以前に、昨夜の出来事は全て夢だったのではないのかと疑問に思ってしまうくらいだった。
けど、それはやはり違う。
あれは夢なんかじゃない。
その手で触れた暖かさも感触も、絶対に偽者なんかじゃなかった。
だから、たとえどれだけ頭の中で現実を否定し続けても、すでに起こってしまった事実は何も変わることはない。
それがこの世界のルール。
過去は変えられない。
たとえそれが、魔術師であったとしても、だ。
「……魔術師、か……」
ポツリと、藍瀬は呟く。
足元に佇むレイヤは、声を出さずに藍瀬の顔を見上げる。
「何なんだろね、魔術師って。普通の人と、一体どこが違うんだろ……」
「…………」
レイヤは答えなかった。
明確な違いを示す言葉はいくつか見当はある。
しかし、今の藍瀬はそんな弁解のような言葉は求めてはいないだろう。
だとすれば、その問いに対する答えをレイヤは持ち合わせていない。
何を言ったところで、それは求めるものではないからだ。
「……分からなく、なってきた。普通の人間と魔術師としての人間との間には、確かに根本的な隔たりはある。けど、結局は何も変わってないんだよね。生まれたときは皆赤ん坊だし、死ねば等しく土に還るだけ。マンガやゲームの世界みたいに、呪文一つで死者を蘇らせたりするなんてことはできないし、かといって無敵ってワケでもない。殴られれば痛いし、傷を負えば赤い血が流れる。全部一緒。だとしたら、私達は一体何のために魔術師としてここにいるんだろ……」
誰に向けて呟いたかも分からない言葉は、ビル風に流されて空の向こうへ運ばれていく。
照り付ける日差しが強いので、藍瀬はわずかに目を細めた。
そのまま静かに考える。
ふと、視線がはるか下の地上へと向く。
そこには歩道があり、沢山の人々が行き交っていた。
隣り合わせの二車線では、信号が赤なせいか、車の歩みが止まっている。
空とは程遠いこんな屋上でも、地上との距離は目がくらむような高さだった。
多分、落ちれば死は免れないだろう。
「…………」
藍瀬はぼんやりと地上を見下ろす。
ふいに覚える、得体の知れない感覚。
それは紛れもない、死という感覚に対する恐怖だった。
いつから、空はこんなに低いところにあったのだろうか。
こうして見下ろしているだけで、吸い込まれて落ちてしまいそうになる。
……嫌、だ。
怖い。
純粋に藍瀬はそう感じた。
それは、今まで生きてきた中で感じたことのない感覚だったかもしれない。
だが、振り返ってみればそれは何も不思議なことではない。
魔術師であっても、その体は普通の人間と同じ構造だ。
特別に骨が硬いわけでもなく、筋肉や神経が頑丈に造られているわけでもない。
だから、この高さから飛び降りて地面に激突すれば、簡単に死ぬ。
そんな当たり前な事実に、藍瀬は寒気を覚えた。
死という感覚は、これほどまでにも恐ろしく、そして密接な関係だった。
どうしてそんなことに、今頃になって気づかされたのだろう。
……それは、多分。
――藍瀬、お前は……生きろ。
多分、そう教えてくれた人がいるからなのだろう。
その身を犠牲にしてまで、語ってくれた人がいたからなのだろう。
そう教えてくれた人は、今はもういない。
全てを残し、この世を去った。
魔術師として、そしてたった一人の師として、人として。
そして何より……全てを失った藍瀬の、新しい家族として。
親かと言われれば、藍瀬は首を振るだろう。
例えるなら、世話焼きな兄という印象が強かった。
時々鬱陶しく感じることもあったけど、面倒見はよかった。
真面目すぎるのがたまにキズだったが、それも一つの個性だ。
だが、その性格が災いし、シュナイダーは知ってしまった。
知らなくてもいいことを知り、シュナイダーは迷走することになる。
そして起こる、離反。
それは、何も知らない藍瀬の目には裏切りにしか映らなかった。
誰よりも一番近かった人。
心の拠り所にできる人。
ゼロだった藍瀬に、新しい何かを与えてくれた人。
そして……。
――自分でも気づかない内に、恋愛感情を抱いていた人。
追う者と追われる者。
どこで歯車が狂ってしまったのだろう。
それとも、最初から狂うように仕組まれた出会いだったのか。
……違う。
それだけは、絶対に違う。
強く、強く、藍瀬は思う。
そんなことだけは絶対に認めない。
絶対に、認めてなんかやらない。
「……決めた」
もう一度小さく、藍瀬は呟く。
「私は、知らなくちゃいけない。メルが最後の最後まで守り通したように、私はその意志を受け継いで、先に進まなくちゃいけない。たとえそれが、メルと同じように協会を裏切る行為になるとしても……」
体を預けていた手すりを強く握る。
その言葉に、レイヤはゆっくりと口を開く。
「……本当に、分かって言っている? 協会に離反するということは、最終的にアナタ自身の居場所を奪い去るということなのよ? アナタに、その覚悟があるの、藍瀬?」
「分かってるよ」
藍瀬は迷わずに即答した。
「それでも、止めなくちゃ。戦争なんて、絶対に起こさせちゃいけない。もしもそんなことを、本当に協会が企んでいるならなおさらね。それを確かめるためにも、一度戻る必要があると思うの。真相を確かめるために」
「……その結果、他の全てを投げ捨てることになったとしても?」
「ええ」
藍瀬の瞳は揺るがない。
そこに宿る意志の色は、藍瀬一人だけのものではない。
藍瀬は言う。
幼い頃から、それこそ聞き飽きるほどに繰り返された師の言葉を。
「――魔術師とは、可能性を束ねる存在。その一点だけが、自分が魔術師である最大にして唯一の理由なんだから」
ようやく、その表情がわずかに笑みを称える。
「……そう」
溜め息にも取れる返事をして、レイヤは続ける。
「それがアナタの選ぶ道なら、私はそれに付き従うだけよ」
「ゴメンね、出来の悪いマスターでさ」
「気にしないで。もう、慣れてるもの」
一人と一匹は互いに小さく笑い、それぞれの気持ちを決める。
そして、今頃になって藍瀬は気づいた。
青く透き通るような空を見上げて、あの日と同じ言葉を呟く。
「いい天気だね」
「……ええ、本当に」
どこかで、もう一人分の頷いた声が聞こえた気がした。