第四十四話:眠り
動けなかった。
隙だらけでがら空きの背中を目の前にしても、彼方は追撃の矢を構えることができなかった。
視界からアーネストの姿が消えたことに、心の底から安堵している自分がいた。
今頃になり、嫌な汗がどっと噴出してくる。
「彼方、平気か?」
「……ああ」
テトラの問いにそうは返したが、体は小刻みに震えを繰り返している。
本当の意味での恐怖。
棒立ちのまま立ち尽くす二本の足は、今もまだ言うことを聞いてはくれない。
「……俺は平気だ。それより……」
絞り出した声で呟き、彼方は視線を移す。
そこには。
「…………」
「メル……しっかりして……お願いだから、目を開けてよ……!」
シュナイダーは血まみれの体を横たえたまま、今なお藍瀬の腕の中で抱かれていた。
すでに衣服は元の色が何色だったかを忘れさせるほどに、鮮やかな赤色に染まり返ってしまっている。
それだけで、残された時間が余りにも短いことは誰の目にも明らかだった。
「……藍、瀬……」
耳を澄まさなくては聞き取れないほどの小声で、シュナイダーの唇が動いた。
閉じられていた瞳が細く開かれる。
おそらくは、もうその視界の先には歪んだ景色しか見えてはいないだろう。
それでもシュナイダーの両目は開かれる。
そこにいる、命をかけてまで守り通すことを決めた人物のために。
「メル……いるよ。私は、私はここにいるよ……」
真っ赤に濡れた互いの指先を絡め合うように、二人は手を取った。
「……ああ、分かる……怪我は、ない、か……?」
答えずに、藍瀬は静かに首を縦に振る。
「大丈夫だから。私は、どこも何ともないから」
藍瀬は一際強くシュナイダーの手を握り返す。
本来なら懐かしいはずのその温もりが、今はとてつもなく冷たい。
まるで真冬の氷に直に触れているみたいだった。
「そう、か……なら、いい……」
藍瀬の返事を受け取ると、シュナイダーは満足そうに薄く微笑み、口元を緩ませた。
「……済まな、かった……結局、お前まで巻き込んで……しまう形に、なって……」
言いかけて、シュナイダーは咳き込んだ。
空気の塊を吐き出すのと同時に、口の中から赤い血の塊が吐き出される。
「っ、もういいよ、もういいから! それ以上喋らないで!」
いつの間にか目の端に溜まっていた涙を零しながら、藍瀬は叫ぶように言う。
「もう……いい、から……お願い、だから……」
感情を押しとどめることなどはできなかった。
一体どこから間違っていたんだろう。
何でこんなことになってしまったんだろう。
嗚咽の中、藍瀬はほかでもない自分自身に問いかける。
が、ぐちゃぐちゃになった頭で何を考えても答えなどは見つかるはずもなく、気がつけば同じ言葉だけを繰り返している。
どうして、どうして、どうして。
何がいけなかったの?
どこで道を間違えたの?
答えって何?
何が正解で、何が間違い?
行き場のない感情は涙となり、次から次へと限界を知らずに目の端から流れ出る。
もう何も分からない。
分かりたいとも思わない。
こんな結末、一度だって望んだことはないのに。
浮かんでくるのは自責の言葉ばかり。
誰にも理解されず、誰もが答えを持たない問い。
例えるならそれは、深い森の中でたった一人で迷子になってしまったかのよう。
帰り道はどこにあるのか。
来た道さえ失ったのに、帰る場所などあるのだろうか。
そんな、どうしようもない不安と恐怖。
助けてと、のどが枯れるほどに叫んでも、その声は誰にも届かない。
やがて訪れる闇の中に、全てを置き去りにしていくだろう。
……しかし。
救いの手は差し伸べられる。
あまりにも弱々しいその指先だが、それでも泣きじゃくる迷子の涙を優しく拭い取ることくらいはできるのだから。
「……っ、……メル……?」
「泣くな、藍瀬。お前は、何も間違ってなど……いない」
刻一刻と体温を失っている指先が藍瀬の頬に触れる。
そしてゆっくりと、涙の後を消していく。
「……教えてくれるかしら、シュナイダー」
と、今までずっと静観を続けていたレイヤが口を挟んだ。
「アナタは、あの教典を持ち出してどうするつもりだったの? アナタは教典の危険性をしっかりと理解していた。それに、私はアナタが教典を悪用するような人間だとは思えない。こうまでしてアナタが協会に離反した理由は、一体何だったの?」
「…………」
レイヤの問いに、シュナイダーはすぐには答えなかった。
藍瀬の涙を拭った右腕が静かに落ちる。
そしてシュナイダーは一度静かに目を閉じると、覚悟を決めた口調で語り出した。
「――戦争だ。もうすぐ、この世界全体が戦争に包まれる」
その言葉を聞いたのは、藍瀬は二度目だった。
「戦争だと? どういうことだ?」
テトラが聞き返す。
「……特別な、意味などない。その言葉が示すとおり、争いが起こるということだ……」
「そんな、どうして」
レイヤが言いかけた言葉をシュナイダーが遮る。
「理由など、それこそいくらでもあるだろう……我々魔術師は、何百何千という、気が遠くなるような歳月を、ずっと受け入れられずに生きてきた。常識という枠組みの世界から爪弾きにされ、異端の目で見られ、過去にはむごたらしい仕打ちさえ受けてきた。それを全てなかったことにしろということの方が、無理というものだろう……」
「けど、それは……!」
「……分かっている。それらも紛れもない史実だが、所詮は過去の出来事だ。今更千年の歴史を蒸し返し、報復に繰り出すような輩は、そうは、いない。だが……」
一度言葉を区切り、シュナイダーは続ける。
「……全てが全て、割り切れるわけではないと、いうことだ。どれだけの歳月を経ても、胸の奥深くに刻み込まれた苦しみや痛みは決して癒えることはない。そしてそれが、膨大な年月を今日まで歩んできた者ならば、なおさらだ……」
その一言で、藍瀬は察した。
「……じゃあ、戦争を引き起こそうとしているのって……」
「そう、だ……私達が所属していた協会、それこそが……戦争の種火となるであろう、火付け役だ……」
その場にいた全員の表情が凍りついた。
数秒の空白が流れた後、彼方は言う。
「ま、待てよ。どういうことだよ、それ。だって、その協会ってのは今までずっと常識の世界と魔術の世界との均衡を保つために動いてきたんだろ? なのに、なんでいきなり……」
「……いきなりと言うほどのものでもない。いつからかは定かではないが、おそらくずいぶんと前から計画は進められてきていたはずだ。表向きの役割など、やつらならいくらでもごまかすことができる。文字通り、やつらは舞台裏の支配者だったからな……」
「舞台、裏……? まさか、協会の上層部が……?」
「間違い、ないだろう。隅から隅まで、全部真っ黒だ」
再び絶句。
本来ならバランスを保つ役割にあたるはずの機関が、実は裏側で虎視眈々と時期を伺っていたという。
静かに、密やかに。
過去に受けた傷の復讐を果たすべく、水面下でひっそりと。
「……私は偶然からこの事実に気づき、独自に上層部を洗い流した。そしてこの計画を知り、その実行に必要不可欠とされる虚空教典を持ち出したのだ。もとより使う気などなかった。人知れぬ山奥か海底に沈めてしまうか、頃合を見計らって焼き払うつもりだった……」
傷に呻き、シュナイダーは言う。
「だが、結果は……このザマだ。ミイラ取りがミイラになるとは、よく言ったものだ、な……」
……結局のところ。
シュナイダー・メルクラフトは、確かに協会を裏切っていた。
何もかもを投げ出し、全ての決着を自分一人の手でつけるつもりだったのだろう。
それはあまりにも無謀で、お世辞にも勇敢という言葉は与えられない愚行だったかもしれない。
しかし、それでも。
シュナイダー・メルクラフトは、最後の最後まで捨て切れなかった。
たった一人の大切な人のことを、どうしても裏切ることができなかった。
いっそのこと、決別でもしてくれたほうが気が楽だったかもしれないのに。
裏切り者と罵られ、見限られたほうがマシだったかもしれないのに。
それでも。
――シュナイダー・メルクラフトは、目の前に差し伸ばされたその手を、どうしても振り払うことができなかった。
逃げることも容易い。
殺すことも容易い。
そこまで理解していながら、最後の一歩が歩めない。
「……私は」
夜空を見上げ、シュナイダーは言う。
「心のどこかで、期待していたのだろうな。お前が、私の前に立ちはだかってくれることを……」
「……メル」
「……何て顔を、しているんだ……」
一度は拭ったはずの涙が、また藍瀬の頬を伝って流れ落ちていた。
それを取り去ろうと伸ばした腕だが、どういうわけかシュナイダーの視界までもが熱いものに覆われ始める。
「……遠いな……こんなに、近くに……いる、のに……」
その声が遠ざかっていく。
かろうじて繋ぎ止めていた両手から、音も泣く力が抜けていく。
「……い、や……嫌だよ、メル! こんなの嫌だ!」
「……ば……か、者……私、なんか、の……ため、に……泣いて、くれる、な……」
涙に溢れたシュナイダーの目が、静かに閉じていく。
「……あい、せ……死ぬ、な、よ……お前は、私の…………全て…………」
最後まで言葉が綴られる前に、シュナイダーの口は閉じた。
抱き寄せられ、まるであやされる子供のようにシュナイダーは静かに眠りにつく。
「――っ、メル――――ッ!」
……もう二度と、起きることのない眠りに……。