第四十二話:戦争
頬を平手で叩かれたのだと、シュナイダーは数秒の空白の後に気づいた。
寒空の下のせいだろうか、打たれた頬はじんわりと赤く染まり、しばらくしてから痛みがやってくるような感覚だ。
「…………」
シュナイダーは無言で頬に手を触れる。
わずかな痛みと、そしてどこか懐かしささえ覚える感覚が胸の奥からこみ上げてくる。
……ああ。
そうか、これは……。
シュナイダーは静かに目を閉じる。
目の前には敵として立つ藍瀬がいることに構いもせずに。
藍瀬はそんなシュナイダーの表情を黙って見上げていた。
涙混じりに繰り出した平手打ち。
怒りや悲しみや、それ以上のやるせなさ。
ほかにもいろいろな感情がごちゃまぜになって、自分でも何がなんだかわからないままに、気がついたらシュナイダーの頬を打っていた。
そのシュナイダーが、目の前で静かに目を閉じている。
その表情がどこか優しげで、いつかの日の光景をスクリーンに映し出されているかのように思ってしまうほどだ。
「……メル?」
藍瀬は静かにその名を呼ぶ。
一拍の間を置いて、反応があった。
シュナイダーは閉じていた目を開き、先ほどまでとはどこか違った瞳の色で藍瀬を見返していた。
そこに、もう敵意を露にした様子は微塵も感じ取れなかった。
まるでつきものが落ちてしまったかのようだ。
その様子に驚き、藍瀬はわずかに肩を竦ませる。
だが、それは不安からきたことではない。
どちらかというと、安心感だった。
こんな状況で不謹慎極まりないとは思う。
だが、実際に藍瀬の感覚がそう捉えているのだから仕方がない。
違う。
言葉にすれば、それはたったそれだけのことだった。
一瞬前のシュナイダーと、今のシュナイダー。
どちらも間違いなく本物のシュナイダー・メルクラフトだ。
だが、そこには絶対の違いがあった。
言葉ではうまく説明できない、けれど絶対にそうだと言い切れる自信が 藍瀬にはあった。
「……こんなことが」
ふいに、シュナイダーは口を開く。
不意打ちのような言葉に、藍瀬は反射的に聞き返してしまう。
「え?」
「……以前にも、こんなことがあったな。あれは確か、お前が協会にやってきて間もない頃だったか。半ば強制的な魔術の修練についていけず、逃げ出したことがあっただろう」
「あ……」
言われて思い出したのか、藍瀬は小さく口を開ける。
「半日かかってようやく捕まえたのはいいが、そんな私にお前は思いっきり平手打ちを見舞ってくれたな。全く、理不尽極まりないことだ。私はあの後、山のような雑用を押し付けられる羽目になっていたというのに」
「そ、それは……」
まだ幼かった頃の記憶を掘り返され、藍瀬は下を俯く。
「……今にして思えば、お前はあの頃から何一つ変わってはいないのだな。成長し、少しずつ大人になるにつれ、私が教えることは少なくなっていった。ただ、時として後先を考えずにがむしゃらに動き出す悪い癖もそのまま引き継いでしまっているようだがな」
「…………」
大きなお世話だと言いたい藍瀬だったが、口では勝てないことを知っているので黙っておく。
「だとすれば、やはり変わったのは私の方なのだろう。理想を追い求めるあまり、常に忠実でいようと思うがあまり、色々と沢山のものを見落としてきていたのかもしれないな……」
蔑むようにそう呟いたシュナイダーの目は冷め切っていた。
今頃になって積み重ねてきたことを後悔するような、自責の色で溢れ返っている。
「……メル? どうし……」
どうしたのと聞こうとして、シュナイダーがその言葉を遮った。
「よく聞け、藍瀬」
その言葉には重みがあった。
瞳の色が一瞬で切り替わり、今は強い意志を感じさせるものになっている。
出掛かっていた言葉を呑み込み、藍瀬は耳を傾ける。
「――もうすぐ、戦争が始まる」
あまりにも簡単なその言葉を理解するのに、藍瀬は途方もない年月が必要な気がした。
何?
何を言っている?
いや、言葉としての意味はあまりにも単純だ。
理解もできる。
しかし、意味が全く分からない。
「……戦争? メル、それって、どういう」
「詳しいことを説明できるだけの時間はない。じきに私も」
そこまで言いかけたところで、シュナイダーの動きが停止した。
いや、正確には動き始めていたのだ。
ただし、それは動くというよりも倒れると表現するほうが正しい。
ぐらりと、二本の足による支えを失ってしまったかのようにしてシュナイダーの体が傾ぐ。
「え?」
藍瀬は一瞬だけ迷い、しかしすぐに倒れ掛かってくるシュナイダーの体を受け止めた。
体格差があるので、細身のシュナイダーの体も藍瀬には重くのしかかる。
「ちょ、ちょっと、メルってば」
冗談か何かだろうかと思い、藍瀬はシュナイダーの両肩を掴んで立ち直らせようとする。
が、直後にシュナイダーの両膝が折れた。
がくんという感覚と共に、その体が崩れ落ちる。
「え……?」
その瞬間、藍瀬はシュナイダーの体を支えていた自分の両手に、何かこうぬるりという生暖かい感触を覚えた。
それはどろりとして、ぬめりのある液体のようだった。
……知っている。
藍瀬は、それを知っている。
それは、命の色だ。
赤く赤く、真っ赤に流れる命の水。
それが……その血が、シュナイダーの体の真ん中辺りからとめどなく流れ出していた。
「……メ、ル……?」
乾いた声でそう呼ぶが、返事はなかった。
両手にべったりとへばりついた血の感触が気持ち悪い。
何が起こった?
藍瀬は頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。
何故?
どうして?
疑問ばかりが後を絶たずに流れ込む。
その間にも、シュナイダーの体からは血が失われていく。
その足下には、すでに赤い水溜りが出来上がっていた。
「……い、や……嫌あああああっ!」
藍瀬は叫んだ。
もう何が何だか分からない。
両膝が折れ、地面の上にだらしなくへたり込む。
それに気付き、レイヤ、彼方とテトラが急いで駆け寄る。
「藍瀬、落ち着きなさい!」
「おい、しっかりしろって!」
「この出血……急いで止血しないと危険だ」
テトラの言葉に促され、とりあえず彼方は上着を脱いで素手の部分を引きちぎり、それをタオル代わりにシュナイダーの腹部へと巻きつける。
だが、そんなものは役に立たないも同然だった。
白いトレーナーがわずか数秒足らずでシュナイダーの血を吸い、真っ赤に染まり上がる。
「だめだ、こんなんじゃほとんど意味がない! 早く救急車を……」
自分で言いながら上着のポケットの中から携帯を取り出し、彼方は番号をダイヤルしかけた。
が、その時だった。
「――その必要はありませんよ。医学的にどう対処しようとも、それはもう絶対に助かることなんてありえませんから」
夜の静寂をゆっくりと引き裂くような声が響いた。
彼方が振り返ると同時に、その場にいる全員の視線が一点に集中した。
そこに、一人の男が立っていた。
全身を黒いコートで覆い尽くし、それでもなお暗闇の中で浮き彫りになるほどの威圧感と存在感を、その男は兼ね備えていた。
その男の右手には、何か黒光りするものが握られていた。
暗闇の中、彼方は目を凝らしてそれを見る。
うっすらと浮かび上がる輪郭。
半分ほど見たところで、それが何であるか理解した。
それは、拳銃だった。
彼方の背筋を寒気が走る。
嫌な感覚だった。
その手に握る人を殺せる武器もさることながら、それ以上に不気味なのは男の存在だ。
まるで一人だけが波のない水面に佇んでいるようで、ひどく不安定な印象を受ける。
しかしそれを補って余りあるほどの威圧感。
目が合っただけで殺されるような感じがした。
「……お前、誰だ……?」
絞り出した声で彼方は聞く。
すると男はうっかりしていたと言わんばかりの反応を見せ、わずかに笑みを含んであっさりと答えた。
「これは失礼。私はレニオス・トーマスバーグと申します。すでにお気づきとは思いますが、私もあなた方と同じ魔術師です」
魔術師。
すでに聞きなれてしまったはずの単語がここまで不気味な旋律を奏でている。
違う。
このレニオスという男は、魔術師という区分けこそ同じものの、明らかに異物だ。
誰もがそう感じ取っていた。
そして、レニオスと名乗った男がその手に握る拳銃でシュナイダーを撃ったということもまた明白だった。
「…………し、て……?」
押し殺したような小声で藍瀬は聞く。
「はい?」
かたや、レニオスは相変わらずの不気味な笑みを携えたままの表情で聞き返す。
「……どうして、メルを撃ったの?」
「ああ、そのことですか」
と、レニオスは明快そうな声で答える。
そして温度も色も何もない、無機質なだけの言葉で簡単に吐き捨てた。
「――言われたとおりに動けないような手駒に、価値を見出せというのが無理な話ではありませんか?」
決定だった。
彼方達とレニオスは、たとえ千年話し合っても相容れない。
次の瞬間、藍瀬は迷わずに地面を蹴っていた。
レニオスはただ、静かに銃口を突きつける。
またまた長期にわたって更新ができずにすいませんでした。
年末年始は仕事ばっかりで休む間がなく、あと別件でやらなくてはいけないことがあったため手が止まってしまっていました。
ようやく再開できましたが、更新のペースはまだちょっと安定しないかもしれません。
できるだけ時間を見つけてがんばっていきますので、よろしければお付き合いいただければと思います。
それでは手短ですがこれにて。