第四十一話:本音
音はなかった。
ただ静かに、そして早く二人分の人影は動き出していた。
瞬間、激突した音がこだまする。
片方は藍瀬が振りかざした大鎌、もう片方はシュナイダーの拳に装着された拳全体を覆うような銀色の武具だ。
肘ほどの位置までの長さのあるそれは、西洋甲冑のガントレットのようなものによく似ている。
よほど頑丈な造りをしているのだろう、藍瀬の大鎌と正面からぶつかり合ってもヒビ一つ入っている様子はない。
ギリギリという音が続いている。
ぶつかり合った大鎌と拳は今もなお互いをこすり合わせるように触れ合ったままで、押さず引かずのにじり寄る姿勢のままだ。
「……っ」
藍瀬の口から微かに舌打ちにも似た声が漏れる。
一気に押しのけてしまおうとすれば、それに合わせてシュナイダーは拳の支点をずらすだろう。
そうすればあまった余計な力で姿勢は前に崩れ、致命的な隙が生じてしまう。
かといって一度引こうとすれば、シュナイダーはそこに合わせて更に力を押し出してくるだろう。
一進一退。
結局はこうして力の均衡を保つことが精一杯で、少なくとも藍瀬の思考にそれ以外の余裕はなかった。
だが、シュナイダーはそうではない。
「…………」
無言のまま、そして無表情のまま力の均衡を保っていたが、次の瞬間その眼光がわずかに鋭くなる。
その変化に藍瀬は気づいたが、それでもなおシュナイダーの余裕は変わらない。
ふいに、削り合うように密着していた力のバランスがフッと消える。
シュナイダーが拳の力を抜いたのだ。
藍瀬はもちろんそれに気づき、力任せに押す動作を瞬時に停止させる。
だが。
「え……?」
次の瞬間、そこにすでにシュナイダーの姿はなかった。
ほんの一瞬の出来事だった。
藍瀬が視界からシュナイダーを外したのは、時間にすればコンマ数秒、あるいはそれ以下のあまりにも短い時間に過ぎない。
しかし、それでもなお十分すぎだと言わんばかりに、見失った標的の声は静かに告げる。
「遅いな」
「っ!」
背後を取られたと、そう気づいて振り返るよりも早く、必要最低限の動作のみで繰り出された……しかし驚異的な威力を誇る拳が、藍瀬の体の中心を抉り取るように突き刺さる。
「ご、ほ……」
悲鳴かどうかさえ分からないそんな一言だけを漏らし、藍瀬の体はくの字に曲がりながら吹き飛ばされる。
軽く十メートル以上もの距離を吹き飛ばされ、背中から地面に体全体を叩きつけ、そこからさらに数メートルの距離を転がる。
灰色の砂煙を巻き上げながら、藍瀬の体はまるでトラックにはねられたボールのようだった。
「藍瀬っ!」
さすがに黙って見ていることができなくなり、レイヤは一直線に駆け出した。
彼方も同じ感情に駆り出されたが、一歩を踏み出すまでで踏みとどまる。
これは藍瀬の戦いだ。
部外者である自分が手を出したりしていいものではない、と。
どうにかそう自分に言い聞かせることで、その場に立ち止まっていた。
傍らにいるテトラも似たような想いだろう。
「藍瀬! しっかりして、藍瀬!」
巻き上がる煙の中でレイヤは叫んだ。
「……っ」
レイヤの呼び掛けに藍瀬は呻き声で返すのがやっとだった。
意識こそあるものの、その体はすでにあちこちが傷だらけだった。
命に関わるような致命傷こそないものの、白く綺麗な肌のあちこちからは血が滲んでいる。
ラフな服装もところどころが破れており、血と汚れの色で見ている方が痛くなってしまいそうだ。
「……い、たた……」
片目をつむったまま、藍瀬はよろよろとした足取りで立ち上がる。
が、立ち上がっただけだ。
両膝はすでに笑っているし、現に武器であるはずの大鎌を支えにしなくては立っていることさえもままならない状態だ。
「藍瀬、無理をしないで。その体ではもう……」
無理だという、最後の一言がレイヤには言い出せなかった。
いや、言えなかったと言う方が正しいかもしれない。
藍瀬にとって、この戦いがどれだけ重要な意味を持っているかということをレイヤは知っている。
だからこそその後に続く言葉を言えないでいると同時に、言えないでいる自分に対して葛藤を覚えもしている。
使い魔である自分がマスターの危機を目の前にして何たる無力なことか。
本来ならあってはならない図式を目の前にして、レイヤは困惑していた。
このまま続けさせてもいいのだろうか?
いくらマスターの意思を尊重するといっても、これではただの見殺しと変わりないのではないだろうか?
……止めるべきだ。
レイヤはすぐに結論に至る。
しかし、最後の一言が続かない。
「……レイヤ」
そんなことを考えていると、藍瀬が苦しそうな声で静かに呟いた。
「あなたは、余計なことを考えなくていいの。そこで見てなさい……」
「……藍瀬」
何もかもを見透かしたような言葉だった。
ボロボロの体を引きずって、藍瀬はようやく一歩前へと踏み出す。
直後に、その表情が明らかな苦痛の色に歪んだ。
同時に藍瀬の口の中から、真っ赤な血の塊が吐き出される。
「っ!」
思わず駆け寄ろうとしたレイヤに対し、しかし藍瀬は振り返らずに片手で制す。
「……大丈夫、だから。こんなの、全然どうってことないから」
言葉とは裏腹に、声色はあまりにも痛々しかった。
藍瀬は袖口で口元を拭うと、痛む腹部を片手で庇いながら歩き出した。
一歩、また一歩と、自らが戦うべき相手の場所へと。
殴られた腹部がズキズキと痛む。
内臓のどこかしらに思った以上の痛手を負っているのかもしれない。
もしかしたら気づいていないだけで、肋骨の数本が折れているのかもしれない。
だが、そんなものはこの際関係ない。
例えどれだけ骨が折れていても、戦う意思だけは折れたりはしない。
この腕が、足が、体のどこかしらがわずかでも動くのならば、それだけで戦う理由にはなるのだから。
「っ、はぁ、はぁ……」
目が霞み始めている。
それでもどうにか前に進めるのは、きっと傷の痛みが脳を刺激してくれているおかげだろう。
文字通り、これがケガの功名とというやつなのかもしれない。
などと、藍瀬はそんなどうでもいいようなことを内心に思いながら歩く。
こんなくだらないセリフが浮かんでくるうちは安心だ。
少なくとも、諦めるなんて選択肢はまだまだ手にしなくて済みそうなのだから。
ぼやけた視界の先にシュナイダーが立っている。
半身に構えたままの姿勢で、真っ直ぐに藍瀬を見据えている。
二人の距離が少しずつ近づいていく。
が、あともう少しでその手が届くというところで、ふいにシュナイダーの姿が消え、次の瞬間藍瀬の目の前に現れた。
「っ?」
その咄嗟の出来事に反応さえままならず、藍瀬は反射的に身を引いた。
しかし、それよりも早くシュナイダーの手が藍瀬の首を鷲掴みにする。
首を圧迫する力が一瞬だけ強まり、藍瀬ののどの奥から空気の塊が吐き出された。
「メ、ル……」
「寝ていろ」
霞んだ声に答えず、シュナイダーはそのまま藍瀬の体を投げ飛ばした。
よろめきながら歩いてきた距離が無に帰す。
藍瀬の体は再び地面へと投げ出され、何度か転がったところで静止した。
「……ゲホ、ゲホッ……!」
横たわったままの姿勢で藍瀬が咳き込んだ。
そのたびに真っ赤な血が口の中から吐き出されて、アスファルトの地面の上に大小無数の赤い斑点を作っていく。
だが、それでも。
「…………」
よろよろと立ち上がる藍瀬の姿を、シュナイダーは無言で眺めていた。
その場からは一歩も動かず、ただ見返すだけ。
何とか立ち上がった藍瀬だが、直後に膝が折れて地面に突っ伏してしまう。
たった二度の攻撃を受けただけで、残っていた体力は根こそぎ奪われてしまっていた。
どれだけ魔力に余力があったとしても、それを扱う肉体が先に限界を迎えてしまったのでは意味がない。
ガソリン満タンの車でも、運転手がいなくては走行が不可能なのと同じことだ。
「……まだ、よ……まだまだ、全然……」
それはシュナイダーに向けた言葉なのか、それとも独り言なのか。
それとも無意識の中で繰り返されるうわごとのようなものなのか。
答えは誰にも分からない。
レイヤにもシュナイダーにも、もちろん言葉を発した藍瀬自身にもだ。
ただ、それでも傷だらけのその体がまだこうして動くということが、それだけがたった一つの答えなのかもしれない。
痛み以外の感覚はすでになく、口の中には鉄の味だけが広がり、ただただ一方的に殴り倒されるだけの無様な醜態を晒すとしても。
「こん、なの……何とも、ないわよ。こんなのより、こんなの、よりも……」
それでも、この体はまだ動く。
こうして、確かな意思を持って動いてくれる。
頼りない両手両足。
たとえそれが、ただぶら下がっているだけで何の役にも立たないものだとしても。
細すぎる小枝のように弱々しいものだとしても。
それは、とても喜ばしいことだ。
真っ直ぐに見据える。
自分の前に立つ、敵を。
「こんなの、よりも…………っ!」
藍瀬は何か、目の端に熱いものを感じた気がした。
けどそれはきっと気のせいだろうと、そう自分に言い聞かせて奥歯を噛み締める。
今はまだ、強がりを見せ付けておいたほうがいい。
みっともなくても情けなくてもいい。
だってまだ、肝心の言葉を……どうしても面と向かって言ってやりたい言葉が、残っているのだから。
「……っ!」
藍瀬は再び足を動かす。
その手にはもう、唯一の武器である大鎌すら握られてはいない。
だらしなくぶら下がるだけの両手両足を引き連れて。
しかし、ただの一度も振り返らずに。
少しだけ下を俯きながら、それでも真っ直ぐに足は歩を進めていく。
もう一度。
いや、何度だって歩いていける。
この言葉を、直にアイツの耳の奥底にまで叩き込んでやるまでは。
「…………」
シュナイダーは相変わらず、ゆっくりと歩み寄ってくる藍瀬をただ待ち構えているだけだった。
そうして先刻のように一瞬で間合いを詰め、藍瀬の体を簡単に弾き飛ばすだけでいい。
そう。
何度でもそれを繰り返し、いつか藍瀬が立たなくなってしまうまで。
徐々にその距離が縮まる。
シュナイダーは一度だけ目を閉じ、すぐに開いた。
変わらない。
今までもこれからも、自分がやるべきことには何の変化ももたらされはしない。
天啓を望んだことなどはないし、運命に流されることを受け入れたこともない。
全ては自らの確かな意思によって行ってきたことだ。
今までも、これからも。
変わることはないだろう。
裏切り者として協会から離反したことも、教典を盗み出したことも、全て自分の意志で決めたことだ。
悩み、迷った時間も決して少なくはない。
だが、今頃になってその意志を曲げることなど許されはしない。
最後までその意志を貫くだけだ。
たとえその過程で、いかなる障害が目の前に立ちはだかろうとしても。
たとえそれが、特別な感情を抱いている相手だとしても、だ。
「……もう休め、藍瀬」
誰にも聞こえないような小声で呟き、そしてシュナイダーはその場から消えた。
一瞬にして間合いを詰め、その姿は藍瀬の眼前へと移動する。
拳を強く握り、振りかぶる。
わずかに奥歯を噛み締めて、わずかな迷いを断ち切った。
拳が空気の層を突き破る。
そして再び、鋭い拳が藍瀬の体の中心に突き刺さる…………はずだった。
しかし、あるはずの手応えは何もなく、拳はただ目の前の虚空をすり抜けている。
「……どうして」
耳元で懐かしい声がした。
さっきからずっと同じ声を聞いていたはずなのに、この声はどういうわけかあの頃の日々を思い出させる。
シュナイダーは目だけで声の出所を追いかけた。
すぐ横で、藍瀬が俯いた顔をゆっくりと上げながら口を開いていた。
「いつも、そうだよ。メルは、全部一人で抱え込んでさ……」
詠うように流れる声。
どこか寂しげで、悲しげで、でもどこか優しい声。
「……私は、バカだから。難しいことは全然、分かんないけどさ。けど、それでも」
揺れる前髪に隠れていたその表情が露になる。
藍瀬は怒りを含んだ声色で、だけどその表情は……その、目は……。
「力にはなれなかったかもしれない。何もしてあげられなかったかもしれない。けど、だけど……!」
大粒の透明な雫を抱え込んで、今にも壊れてしまいそうだった。
そして涙は頬を伝う。
その、言葉と共に。
「――何も言ってくれない方が、よっぽど辛いんだから!」
パァン、と。
やけに乾いた、気持ちいいくらいの音が一つ、静寂の夜の下に響き渡った。