第四十話:気持ち
月が出ている。
月下、二人分の人影はこうしてまた面と向かって互いを見合っている。
「…………何をしにきた?」
シュナイダーは聞く。
ほんの二十四時間前、もう二度と会うことはないだろうと背を向けたはずなのに。
自分の中で、一つの区切りがついたものだと思っていたのに。
それでも、なお……。
「決まってるじゃない」
目の前の藍瀬は当たり前の表情のまま、言う。
その言葉を繰り返す。
何度でも、何度でも、何度でも。
「――あなたを止めにきたの」
迷いのない、真っ直ぐな瞳で藍瀬は言った。
月の光が反射して、その瞳を金色に浮かび上がらせていた。
そこに宿る意思は、もう簡単に捻じ曲げることはできそうにない。
「……無駄だ」
「何が?」
平然と言い返すシュナイダーに、藍瀬は二つ返事で聞き返す。
「私を止めることが、だ」
「そんなの、やってみなくちゃ分からないでしょ」
「……私に勝てると思っているのか? 確かにお前の成長速度は脅威だが、それでもまだ私には遠く及ばないだろう。技術、知識、そして根本的な総魔力量で見ても、お前は私に遥かに劣る」
「…………」
藍瀬は答えない。
この状況での無言とは肯定と同意だった。
だがそれでも、瞳に宿る意志の強さは変わらない。
ただの一度も揺らがない。
「それでもなお、私を相手に戦うと言うのか?」
「もちろん」
これにも藍瀬は間を置かずに返す。
その言葉に、シュナイダーの肩がわずかに揺れる。
「できるとかできないとか、可能とか不可能とか、そんなのはもうどうでもいい。やるかやらないか、ただそれだけで十分なのよ」
いみじくも、そう教えてきたのは他ならぬシュナイダーだった。
魔術師とは、可能性を束ねる存在であると。
だったらどうして、何もせずに諦めるという選択肢を選ぶことができようか。
「私の意思は変わらないわ。メル、必ずこの場であなたを止める。たとえ何を犠牲にしようとも」
眼光が輝く。
そこにある光は、しかし負の色合いなどは微塵も見せはしない。
あるのはただ、何が何でもどうにかしてやるという……根拠も理屈も何もない、まるで口から出まかせだらけの強がりみたいなものだった。
そんな虚勢が……嘘偽りを全開にした言葉の一つ一つが、不思議とシュナイダーに突き刺さる。
それはきっと、それが藍瀬の武器だからだ。
魔女はその甘言を利用し、魔術に頼らずとも人や動物を操ったとされている。
そして魔術師の言葉もまた、魔力を宿した言葉という武器そのものなのだ。
脅しを利かせ、鋭い眼光で威嚇すれば戦わずとも敵が退く。
ハッタリの語源ともされているものだ。
が、現状に関して言えばそれも十分な武器となる。
「藍瀬」
すぐに後ろで立ち尽くしていた彼方は、ここでようやく口を開いた。
藍瀬は首から上だけを動かし、顔半分だけで振り返る。
「平気か?」
そう聞くと、藍瀬は心配要らないというようにわずかに微笑んで頷いた。
「手は、出さないでね」
「……ああ」
頷き、彼方はもう数歩ほど距離を取る。
「レイヤも、下がってていいよ」
「でも、向こうにはファントムも……」
そこまで言いかけて、レイヤは口を噤んだ。
「……分かったわ」
そして、静かに身を引く。
その際、藍瀬は小声でありがとうと呟いていたような気がした。
それを視界の端で確認してから、藍瀬は目の前の何もない虚空の空間へと静かに手を伸ばす。
瞬間、目の前の空間がぐにゃりと歪曲した。
その中へ右手を突っ込むと、藍瀬はその中から自らの武器となる双刃の大鎌を取り出す。
全長が藍瀬の身の丈よりも一回り以上大きな巨大な鎌だ。
本来なら三日月を半分に砕いたような切っ先しか持たないはずが、藍瀬の大鎌は刃の部分が三日月そのものを描いた形をしている。
それはちょうど、船の碇の形によく似ている。
見た目にも重量感のあるそれを、しかし藍瀬は片手で軽々と持ち上げ、その切っ先を真っ直ぐにシュナイダーへと向けた。
「必ずあなたを止めてみせる」
それは、あまりにも悲しい宣戦布告だった。
切っ先を向けられたシュナイダーも、どこか諦めたような表情を浮かべながらわずかに俯いていた。
「……残念だ」
そうわずかに漏らしながら、顔を上げる。
「だが、これも運命か。ならばせめて、師である私の手で君に引導を渡そう」
月光によって浮かび上がっていたシュナイダーの影が、その場で起き上がる。
黒一色に塗りつぶされた人影。
人の形をした、しかし決して人ではない異形のもの。
音もなく蠢くそれが、しだいに黒以外の色を映し出していく。
やがてそれは、もう一つのシュナイダー・メルクラフトとなった。
ファントム。
幻影を意味する、シュナイダーの使い魔だ。
「来い」
シュナイダーのその一言が、引き金になった。
速いとか、そういう言葉でくくりきれる速さではなかったと思う。
サブリミナルという言葉がある。
流れる映像の中に一部だけ別の映像を流すことによって、無意識の内にそれを刷り込ませるというものだ。
例えるなら藍瀬の動きは、まさにそれに近かったかもしれない。
一体いつ移動したのか……いや、それ以前に一体いつの間に地を蹴ったのか、それさえも目に映ることはなかった。
気がつけば藍瀬の体はシュナイダーの眼前、懐まで飛び込み、振り上げられた大鎌が容赦なく地面を抉り取っていたのだから。
だが、それでも。
「っ?」
藍瀬の大鎌が砕いたのは、アスファルトの地面だけだった。
そこにいたはずの二人分の人影は、文字通り影も形もなくなっている。
藍瀬は瞬時に思考を切り替え、周囲に緊張を走らせる。
前後左右、どこにも気配らしいものはない。
ならば。
「上!」
小さく叫ぶと同時に見上げる夜空。
月がなくなっていた。
いや、正確には月を覆い隠すようにして、二つの人影が重なっていた。
そのうちの一つが、重力に引き寄せられるように落下しながらその拳を振るった。
その拳のあちこちには、鋭く光る金属の刃が見て取れる。
狼の牙のような刃が襲い掛かる。
ギィンと、金属同士が激しくぶつかり合うけたたましい音が炸裂した。
「ぐっ……!」
落下速度をそのまま威力に上乗せした一撃は、藍瀬の大鎌を持ってして受け止めてもまだなお余りある威力を叩きつけてきた。
そのあまりの衝撃が体中をつきぬけ、足の裏から一気に放射されてアスファルトの地面を砕く。
どうにか大鎌を薙ぎ払い、追撃の拳を弾き飛ばす。
弾かれたシュナイダー……いや、ファントムは空中で体勢を立て直し、静かに地面の上に着地する。
が、それもほんの一瞬に過ぎない。
足が地に触れるや否や、休む間もなく地を蹴って突進してくる。
攻撃の起点となるのは、やはり右拳に装着された爪を想像させる凶器だ。
魔術的な用語ではこのような武器をクロウと総称する。
とはいえ、そもそも魔術師の多くはこんなに常人離れした身のこなしを持っているわけではない。
シュナイダーのように武術に長ける魔術師というのは、それだけで珍しいものなのだ。
通常、このような武器を扱う場合にも魔術師達は様々な工夫をこなす。
もっとも多い例とするのなら、それは武器そのものに何らかの付加効果をつけるというものである。
致死量わずか数ミリグラムほどの猛毒や痺れ薬、麻酔。
その他、特殊な条件を負荷することも可能である。
彼方の持つドレインダガーなどが分かりやすいだろうか。
あれはドレインダガーによって傷付けた対象者から魔力を奪い、自らに吸収するという付加効果を持っている魔装だ。
こういった特殊な効果を持つ魔装は、製作に時間こそかかるものの、一度完成してしまえばほぼ半永久的に使いまわすことが可能だ。
もっとも、武器である以上は損傷もするので、破壊されてしまっては一から作り直す必要はあるのだが。
ファントムは高速で地を駆ける。
互いの間にあった十数メートルの距離など、わずか数歩でその距離をゼロに縮めることができる。
右腕が繰り出される。
殴りかかるというよりも、それは切り裂くとか引っかくという意味合いが強い拳の軌道だ。
直撃を狙うのではなく、あくまでも切っ先の刃で標的の体を傷付けるための攻撃。
藍瀬はそれは大鎌の刃の腹で受け止める。
ガキンと、強烈な音が周囲にこだました。
小さな火花がいくつも飛び散り、両者間で攻撃と防御の作業的行動が繰り返される。
「く……っ!」
絶え間なく繰り返される攻撃を紙一重で弾きながら、藍瀬は舌打ちした。
こうして受け続けているだけで、藍瀬の体力はどんどん削り取られていく。
一瞬でも気を抜けばすぐに体に穴を開けられてしまうことは間違いない。
攻撃に転じようと機を窺ってはいるものの、指し返す隙間さえ見つからない。
このまま持久戦に持ち込まれてしまえば、先に体力が尽きるのは藍瀬の方だろう。
「こ、の……っ!」
一瞬の隙間を縫って、藍瀬は大鎌を前へと押し出した。
「っ!」
視界を塞ぐようにして押し付けられた鎌に、ファントムの手が一瞬だけ止まる。
藍瀬はその隙を見逃さなかった。
柄を強く握り返し、手首の返しだけで大鎌を上空へと振り上げる。
必然的にファントムの視線がそれに集中し、藍瀬から目が逸らされる。
その瞬間、藍瀬の手の中で一枚のカードが輝きを増す。
ファントムはそれに気づいた。
が、気づいただけでは遅かった。
すでに凝縮された魔力のエネルギーの塊が、藍瀬の両手の中で弾けんばかりに膨れ上がっていた。
藍瀬はわずかに身を前に乗り出し、両の手を静かにファントムの体の中心へと押し付けた。
そして、放つ。
「――フォトンレイズ」
光の弾丸が弾けた。
無音で射出された弾丸が、ファントムの体を丸ごと飲み込んでいく。
ガリガリとアスファルトの地面を削り取りながら、まるで流星のような一撃が夜の闇を切り裂いた。
ファントムの姿はかなり遠くまで吹き飛ばされたようで、藍瀬の位置からではその姿を確認できない。
が、そんなことには構わずに藍瀬は空を見返す。
さっきからずっと、月と地上の狭間に浮かんで下りてこない、本当の敵に対して。
「……下りてきなさい、メル」
「…………」
その言葉に、無言でシュナイダーは従った。
「次はあなたの番よ」
藍瀬は空から落ちてきた大鎌を片手で受け、再び構え直す。
「……本気、みたいだな」
呟くようにシュナイダーは言う。
藍瀬は無言で頷いた。
「……残念だ」
言いながら、シュナイダーはその目を見開いた。
「この手で、お前を黙らせる時が来るとはな……」
悲しみと哀れみが入り混じった瞳が、静かに藍瀬を見ていた。