第四話:天敵は突然に
「それで、源三さんは大丈夫だったの?」
「ん? ああ、全然平気みたい。むしろぶっ壊れた家のほうが心配だな」
外から見てもその壊れ具合は目立つだろう。
玄関部分は奇跡的に傷一つなかったが、庭に面した縁側の部分が壊滅状態である。
引き戸や障子、ふすまはあらかた吹き飛ばされているし、廊下の板もところどころ剥がれかけている。
和室の畳は猫が引っかいて遊んだみたいにボロボロで、まるで人口の芝生を無理矢理作り上げたみたいになっている。
「早速今日、知り合いの大工さん呼んで修理始めるってさ。だから、しばらくの間うるさくなるかもしれない」
「うん、それは別に大丈夫なんだけど……」
「けど?」
「……あのさ、私の勘違いかもしれないんだけど」
「うん?」
「昨日の夜、何か変なものを見たような気がするのよね」
「……っ」
「それも二つよ、二つ。一つは黒くて何かこう……グニャグニャしたようなので、もう一つは犬よ犬。全身真っ赤な毛で、オデコの部分だけペンキが剥がれたみたいに銀色になってるの。しかも、この犬が喋ってたような気がするのよね」
「……へ、へー、そりゃスゴイな……」
ほとんど棒読みで彼方はそう答えていた。
内心でテトラに問う。
(おい、この場合どうするんだ? やっぱ黙っておいた方がいいのか?)
(……そのほうがいいだろう。無闇やたらに話して回ることではないからな)
ふと、テトラの口調がどこかおかしいことに気づく。
何だか声が震えているような、感情を必死に押さえつけているような感じだ。
(おい、どうしたんだよテトラ?)
(……犬だと? この私が? 誇り高きケルベロスの血を引く使い魔である私が、犬コロ風情と同じだと?)
(……もしもーし、テトラさん? 聞いてますか?)
(……赦せん、断じて赦せんぞ。かくなる上は五体を引き裂いて、我が焔で骨も残さず焼き尽くしてくれる)
(お、おいおい、どうしたんだよ? 落ち着けって、お前らしくもない)
(何を言うか! この私が犬呼ばわりされたのだぞ? 黙って聞き流せるわけがなかろう!)
(んなこと言ったって、仕方ないだろ。何も知らないのが見れば、外見からして第一印象は犬か、せいぜい狼ってイメージしか浮かばないって。大体、何でそんなに気にするんだよ?)
(気にするに決まっているであろう! 思い出すだけで全身の毛が総毛立つ)
(……何かあったのか? 過去に)
(……ええい、考えるのも嫌になる)
(……何だかよく分からないけど、西花に手を出すなよな)
本当に良く分からないが、どうやら使い魔というのも色々と大変らしいということは分かった。
「ちょっと、聞いてるの?」
「え? あ、ああ、聞いてる聞いてる。そりゃすごい犬もいたもんだな」
言ってからハッとなった。
ロザリオが心なしか熱くなっている気がした。
「そうなのよ。で、その犬がね、口から火を吐いたような気がするのよ。そしたら、もう一つの黒いのは消えちゃってさ。その後、その犬は彼方の方に歩いて行ったんだけど……あの犬、あの後どうなったの?」
「いや、俺も分からないんだけど……」
実は今、首からさげたロザリオの中にいますなんて、口が裂けても言えやしない。
「じゃあ、野良犬だったってことかしら?」
(の、野良……っ!)
「お、落ち着けってば!」
「は?」
「じゃなかった! いや、そうじゃなくて……」
もう何が何だか分からない。
「彼方、アンタ大丈夫? 元からバカだとは思ってたけど、そろそろ本格的に手遅れになってきたんじゃ……」
(こ、この女、我がマスターを侮辱するつもりか……!)
(バカ、気にするなって。こんなのいつものことなんだよ。日常会話の一部みたいなもんだから、お前が気にすることないって)
(日常的にバカにされているということではないか! 断じて赦さん!)
(そうじゃなくって、俺とコイツは幼馴染で、言葉に遠慮ってものがもう必要なくなってるんだよ)
(遠慮はいらんということか? 心得た、八つ裂きにしてくれようぞ!)
(そうじゃねーっつってんだろ!)
会話の使い分けというのはとても大変なものだと、彼方はヘロヘロになりながら理解した。
「それじゃ、また明日ね」
「……おう、またな……」
(く、みすみす逃がす羽目になるとは……せいぜい首を洗って待っておくことだ)
(だから……いや、もういいや。疲れた……)
ガックリとうなだれて、彼方は玄関の引き戸を開ける。
「……ただいま」
「おお、帰ったか彼方」
廊下には源三ともう一人、それはもう思わず見上げてしまうほどの長身を誇る男性が立っていた。
目測で二メートル、いや、もっとあるかもしれないほどの大男である。
「ウス」
一言そういうと、大男は小さく頭を下げた。
「は、はぁ、どうも……」
彼方もそれに応じ、頭を下げる。
誰だろう?
全然見覚えのない人だった。
「ジーちゃん、この人は……」
「おお、そうか。彼方は初対面じゃったの。ワシの知人で大工をしておる、鬼頭弁天じゃ。弁天よ、これがワシの孫の彼方じゃよ」
「以後、お見知りおきを」
「あ、はい。こ、こちらこそ……」
差し出された手を取り、軽く握手をする。
弁天の手はゆうに彼方の手の倍近くもあり、恐らく頭をそのまま鷲掴みにできるくらいの大きさだった。
名前と外見はずいぶんと物騒だったが、正確はどちらかというと穏やかや温厚という言葉が良く似合いそうだ。
「源さん、自分はそろそろお暇させてもらいます」
「ああ、わざわざ出てきてもらってすまんかったのう。どうじゃ? 見た感じ、どのくらいで直りそうかのう?」
「そうですね……幸い、柱はほとんど無傷で残ってますから、床板や畳を張り替えるだけの作業です。それ自体はそんなに大仕事ではないので、恐らく一週間もあれば元通りにできるかと」
「ふむ。それじゃすまんが、早速明日から頼めるかのう」
「ええ、お安い御用です」
二人のそんな会話を背中に聞きながら、彼方は二階の自室に戻った。
そういえば、昨日は窓ガラスが割れてしまっていたのだ。
今は窓そのものを全開にしているのでさほど違和感はないが、さすがに寝る間もこのままというのは無用心だろう。
季節的に虫なども入ってくるかもしれない。
板か何かで塞いでおきたいところだが、何か手ごろなものはあっただろうか。
彼方は後で源三に聞いてみることにする。
「はぁ、疲れた……色んな意味で」
着替えを済ませてベッドの上に大の字に寝転がる。
と、途端に胸のロザリオが赤く光りだした。
赤い光の珠は、ロザリオから抜け出して床の上に四本の足で立つ。
「テトラ……」
「ここなら姿を見せても問題はあるまい」
まぁ、源三はこれから夕飯の支度の時間まではのんびりしているだろうし、大丈夫だろう。
「さて」
「待てコラ」
今まさに割れた窓から飛び出そうとするテトラの頭を、彼方は鷲掴みにして引き止める。
「何をするのだ、彼方」
「お前、そのままでどこに行く気だ」
大体予想はできていたが、間違いであってほしいと祈りながら念のために聞いておく。
「決まっているだろう」
「…………」
「あの女を八つ裂きに」
「だから、やめろっつってんだろ! 人の話聞けよお前は! 本当に優秀な使い魔ですか?」
「あそこまでコケにされて黙っているというのか! 彼方はすでに慣れているかもしれぬが、私は犬呼ばわりされることが大嫌いなのだ!」
「んなこと言っても、西花にはお前のことを話してないんだから、どうにもなんないだろ?」
「む……それはそうだが」
「そんなに気にすんなって。どうせ西花だって、昨日のことは夢か何かと思ってすぐに忘れちまうよ」
「……分かった。彼方がそこまで言うなら、私も自粛しよう」
「……ふぅ」
「正面から襲い掛かれば文句はないだろう」
「大アリだよコノヤロウ!」
どうやら根本的に会話が成り立っていないようだ。
これまでにお互いが生きてきた年月や経緯を考えれば無理もない話ではあるのだが……。
「犬呼ばわりされたくらいで人一人殺す気か? どういう見解だそりゃ!」
「くらいだと? 聞き捨てならんぞ彼方! 彼方は知らぬのだ、犬のように扱われることがどれだけの苦痛かということを!」
「当たり前だろ! 俺は犬じゃない! 人間だ!」
「私はケルベロスだ!」
そんな不毛な言い争いがようやく一段落つこうかどうかというときだった。
「おーい、彼方いる……よね? さっきから何一人で騒いでんのよ。入るわよ?」
ガチャリと、部屋のドアが開いて。
「「――…………」」
中にいた一人と一匹は、同じ人物……呆然と立ち尽くす西花を同時に見て、同時に固まった。
「…………」
「…………」
「…………」
…………バレた。
それも、ずいぶんとあっさりと。
「……えーっと」
「…………」
体裁を取り繕う彼方を尻目に、テトラはブスッとした態度でベッドの真ん中で寝転がっていた。
これでは犬呼ばわりされても無理がない気がする。
「これはだなぁ、つまりその……」
一体どうすれば納得していただけるのだろうか。
彼方は必死に言葉を探す。
本当はテトラ本人に説明してもらうのが一番手っ取り早いのだが、この場はどうやらそういう空気ではないようだ。
「…………なかった」
「……へ?」
ふと、立ち尽くしたままだった西花がポツリと呟いた。
「……夢じゃ、なかった……」
やはり西花は、昨夜の出来事を夢か何かだと思っていたようだ。
まぁ、それが普通というものだろう。
どれだけ鮮明に焼きついた光景でも、一晩過ぎれば虚ろになる。
「本当に、いたんだ…………」
呟きながら、西花はジリと歩み寄る。
その目はすでに彼方を見ておらず、ベッドの上にいるテトラに向けられていた。
そんな気配に気づいたのか、目を閉じていたテトラが片目だけ開けて目の前を確認する。
そこには。
「な、何だ……?」
まるで今から取って食ってやろうと言わんばかりの、そんなオーラを浮かべて西花が立っていた。
その光景は、端から見れば蛇に睨まれた蛙状態だった。
正体不明の眼光に射すくめられ、テトラは本能的に危険を察知した。
「か、彼方よ、これは一体……」
「……いや、実はさ。お前が嫌がると思うから、言わなかったんだけど……」
ゴクリと、テトラは空気の塊を一つ飲み込む。
「――西花はさ……大の犬好きなんだ」
「な……何だと」
そこまで言いかけたところで、テトラの体を西花の影が覆い尽くした。
その眼光が、無言で語る。
逃がしはしない、と。
願ってもない、千載一遇のチャンスだった。
今こそその焔で、骨も残さないほどに焼き尽くしてしまえる絶好のチャンスだった。
……だが。
「な、な…………」
もはや、それどころではなかった。
テトラは動物的本能で察知した。
コレは、危険である、と。
前足を起こす。
が、それが逆に隙になった。
西花はここぞと言わんばかりに、叫びながらテトラの体に抱きつく。
「――銀デコ赤毛犬、ゲットだぜ!」
「な、何をす……ぐ、離せ……、やめろ……私は犬ではない、誇り高きケル…………彼方、助け…………」
言葉にならない声でテトラはもがいていた。
しかし、西花はそんなテトラを子犬のようにいじくり回して至福の笑みを見せていた。
「…………」
彼方は一人、ガラスのない窓の向こうの夕焼けを見上げて思った。
どうなってしまうんだろう、と。