第三十九話:始まり
「……結局そのまま、わけのわからないうちにメル……シュナイダーは裏切り者として認定されて、私達は追う者と追われる者の立場になってしまった。今でもまだ、何も分からないの。どうしてこんなことになったのか、全然……」
一通り語り終えて、藍瀬は静かに顔を俯かせた。
心なしか、冷たい風が吹いている。
真夜中ということもあって決して珍しいことではないが、今日の夜風は普段よりも一段と体の奥の深いところを撫でるようにして通り過ぎているような気がする。
「…………」
彼方は無言だった。
というよりは、かける言葉が見つからないといった方が正しい。
こんな話を聞かされて、一体どんな言葉をかけてやればいいというのだろうか。
その場しのぎの慰めは容易い。
が、それは何の意味も成さないことは明白だ。
言葉で聞いたよりも、藍瀬の内側にある迷いや混乱、そして傷跡はずっとずっと大きなものだろう。
それこそ、適当な言葉で簡単に傷口を埋めることなどできそうにもない。
だから彼方は、何も言えず、何も言わなかった。
ただ黙って藍瀬の話を聞くことが、恐らくこの状況では一番いいことだろうと思ったからだ。
「……そんなことが、あったのか……」
口を開いて最初に飛び出した言葉はそんなものだった。
だが、ヘタに気を遣ったりするよりはマシかもしれない。
藍瀬は言葉では答えず、俯いた顔を小さく頷かせる。
目の前にいる藍瀬の姿は、普段のあの陽気な印象からあまりにもかけ離れている。
まるで別人ではないかと目を疑ってしまうほどにだ。
だが、大方の事情を把握した今となってはそれも仕方がないことなのかもしれない。
師弟、いや、それ以上に二人の間には言葉では言い表せないような絆のようなものがあったに違いない。
しかしそれは、ある日を境にあまりにもあっさりと砕け散ってしまったのだ。
今までの自分を支えてくれたものが。
当たり前のように隣に立っていた人が。
時に笑い、時に泣いて、共に喜びや悲しみや怒りを共有できた……本当の家族を失ってしまった藍瀬にとっての、新しい家族と言い換えても過言ではなかったほどの存在。
シュナイダー・メルクラフト。
一体どうして、シュナイダーは突然すぎるほどに態度を豹変させてしまったのだろう?
藍瀬とシュナイダーの想いには、それほど差があったのだろうか?
いや、ない。
絶対にそんなものはなかったはずだ。
もしもなかったのなら、全ての始まりの出会いの日に、どうしてシュナイダーは藍瀬を救ったのだろう。
この際、そんな理由はどうでもいい。
大切なのは、藍瀬が救われたことでもシュナイダーが救ったことでもない。
――その日、二人が出会い、何かが始まったという、たったそれだけの事実で十分なのだから。
「……立てよ、藍瀬」
彼方は静かに言う。
「…………」
しかし、目の前の藍瀬の体は微動だにしない。
膝を抱えて地べたに座り込むその姿は、あまりにも小さすぎた。
まるで、来ないと知っている迎えを冷たい雨の中でジッと待ち続けている、小さな子供の姿のようだった。
「立て」
それでも彼方は同じ言葉を繰り返す。
「立つんだ、藍瀬」
何度でも、何度でも。
返事がなくても、その体が動かなくても、言葉は確かに届いているはずだ。
だったら、何度だって繰り返してやる。
「……これで終わりかよ? 何だよ、それ? 結局何一つ変わってないじゃないか」
「彼方、アナタの言いたいことは分かる。けど」
「このままで何が変わるっていうんだ?」
間に挟まれたレイヤの声を無視し、彼方は続ける。
「また同じことの繰り返しじゃないか。お前、そんなんでいいのかよ? 本当にそんなことを心の底から望んでいるのかよ?」
「…………っ」
藍瀬の肩がわずかに揺れる。
「そんなんじゃ、何がどうなるわけでもないだろ。それとも、もう諦めるのか? 想い出だけは綺麗なままでしまっておいて、目の前のことはそっちのけか?」
「……分からないわよ」
搾り出したようなか細い声だった。
とうに枯れ果てたのどをどうにか震わせて、微かな声が響く。
「あなたには、分からない。分かりっこないわ。昨日まで確かにそこにあったはずのものが、今はもうどれだけ手を伸ばしても届かないほどに遠いところに行ってしまった。そんな人の気持ちなんて、あなたに分かるわけがない」
「そうだな、分かるわけない。いや、俺は分かりたいとも思わないな」
彼方ははっきりと言い切る。
「……だったらもう、放っておいて。あなたには関係のないことなんだから、いいでしょ……」
「それが逃げ口上だって言ってんだよ」
「っ……」
膝を抱える藍瀬の両手がわずかに強まる。
「結局、お前はもう心のどこかで諦めてるんだろ? だからそんな言葉が口から出てくるんだ」
「っ、あなたに何が」
「分かるわけないだろ」
冷ややかに彼方は言葉を重ねた。
今まさに叫び出しそうだった藍瀬も、その様子に思わず口を閉じる。
「……お前、さっき言ったよな。今はもう、どれだけ手を伸ばしても届かないほど遠いところに行ってしまったって。でも、お前自身はそれを本当に試してみたのか?」
「……何、ですって……?」
「実際にやってみたのかって聞いてるんだよ。本当に、心の底からどうにかしようって、無我夢中でがむしゃらになって、周りなんか何も見えなくなるくらいにもがいて足掻いてみたのかよ? どうなんだ?」
「…………」
藍瀬は何も言い返せなかった。
ものすごく単純で、深く考えることが逆にバカらしくなるような真っ直ぐな言葉が耳の奥へと突き抜ける。
何もできなかった。
……違う。
違う、そうじゃない。
それはただのいいわけだ。
何もできなかったんじゃない。
何もしようとしなかったんじゃ、ないのか……?
目の前の現実に打ち伏せられて。
ただそれを認めたくないがために、都合の悪い部分だけを全部目隠ししてやり過ごす。
多分、沢山の人がそうやって生きている。
今あるこの世界は、そんなものなんだろう。
見て見ぬ振りなんて日常茶飯事。
誰だって自分から無関係な厄介事の中に突っ込もうなどとは思わないし、逆にそれらしいものからは自然と足を遠ざける。
それが普通。
正しくもなく間違ってもいない、そこにあるだけの風景。
だが。
――本当にそれでいいのか……?
「…………私、は……」
「藍瀬……」
一度上げた顔を再び俯かせ、藍瀬は呟く。
傍らではそれを心配そうにレイヤが見ている。
「……もう一度よく考えろよ。今のお前はまだ何もしていない。だったら、今からでも始められるってことじゃないのか? 諦めるっていう選択肢は確かにあるだろうけど、何一つ全力で抗わないうちに、もうそんな最悪の答えを導き出すのかよ? そんなのおかしいだろ?」
「……今、から……」
藍瀬はその言葉を反芻する。
頭の中に響き続ける、いつかの言葉。
あの日、何と言われていたのだろう。
いや、あの日だけではない。
気がつけばいつも、口癖のように言われていたことじゃないか。
それこそ耳にたこができるくらいに繰り返されて、気がついたときには一字一句間違わずに丸暗記してしまっていたほどに。
「――考えることを止めるな。止めてしまえば、もうそれ以上は何も見えてこない。思考停止とは、可能性の消去と同意なのだからな」
「……ああ、そっか……。ずっと前に、もう、答えは……」
呟いて、藍瀬はもう一度静かに目を閉じる。
まぶたの裏に浮かぶ光景。
決して短くはない、しかし長くもないけど、同じ時間を一緒に過ごした人。
新しい始まりをくれた人。
歩く道を先導してくれた人。
ゼロが何もないことではなく、そこから何かが始まるものだということを、教えてくれた人。
思い浮かぶのはどれも同じ顔だった。
無愛想で、どちらかといえば口が悪く、人前では滅多に笑うこともない。
知識ばかりの頭でっかちかと思えば、意外性のある一面が毎日のように見えた。
その言葉が、教えが、不器用な優しさが。
その足音が、その背中が、そして何よりもその存在そのものが。
……どれだけの力を与えてくれていただろう。
ゼロになったはずの自分に、言葉では言い表せないほどの沢山のものを与えてくれただろう。
覚えている。
はっきりと覚えている。
あの人は……シュナイダー・メルクラフトという人は、そういう人なのだ。
何の理由もなしに、無意味な行動を起こすような人ではなかった。
その行動の起因となる部分には、必ず何かしらの理由があった。
それは全てが藍瀬に納得できるものではなかったかもしれない。
けれど、はっきりと言える。
シュナイダーはまだ、何かを隠している。
言葉にはできないような、何かを。
それを確かめもせずに、一体何を塞ぎ込んでいるのだろう?
途端に自分がバカらしくなってくる。
「……あはは。私、何やってんだろ……」
「藍瀬?」
突然聞こえた乾いた笑い声に、レイヤは訝しげに顔を覗き込んだ。
何もおかしなことはない。
一言で言えば、ようやく始まったという、ただそれだけのことなのだから。
「吹っ切れたか」
無言を決め込んでいたテトラがどこか満足そうな表情で呟く。
「いいんじゃないか? 少なくとも、しゃがんだままよりは数倍マシだろ?」
「全くだな」
彼方とテトラは互いに頷き合う。
そして、ようやく藍瀬は重い腰を上げた。
「そっかそっか。あーもう、私は本当にバカだなぁ」
などと、藍瀬は軽い調子で夜空を眺めて呟く。
「レイヤ、行くよ」
「……どこへ?」
返ってくる答えを知りながら、レイヤはあえてその言葉を口にする。
マスターの覚悟を確かめるかのように。
「メルんとこ。でもって、引っ叩いて洗いざらい吐かせてやるのよ」
藍瀬は満面の笑みを見せながら言った。
「……いいわね、それ。付き合うわ」
レイヤも同様だった。