第三十八話:背中
その時に気づくべきだったのかもしれない。
ほんの些細な、変化に……。
柔らかい風が吹いていた。
藍瀬が立っている場所は、もうすっかりなじみの場所となってしまった小高い丘の上の一角。
草木の息吹を一番身近に感じられ、心も体も洗われるような感覚が心地よい。
「んー……いい気持ち」
草の上に大の字に寝転がりながら藍瀬は言った。
「否定はしないけれど、一体いつまでそうして寝転がっているつもり?」
と、何となく皮肉っぽい色を含ませてそう呟いたのは、つい先日に晴れて契約を果たした藍瀬の使い魔の白猫だ。
白猫はその名をレイヤと言う。
正確に言えば猫ではなくリュンクス……まぁこれもヤマネコといった具合の意味なのだが、とりあえず猫ではないらしい。
藍瀬はレイヤの突っ込みを聞きながら、寝転がったままでグッと背を伸ばした。
「いいじゃない、別に。だって、こんなにいい天気なのよ? 昼寝の一つでもしない方が、人生を損してると思うわ」
「人生の損得勘定を昼寝で換算するのは、恐らくアナタぐらいのものよ藍瀬」
小さく溜め息を吐き出しながらレイヤは言う。
魔術師とその使い魔としての契約を果たしてからまだ数日ではあるが、藍瀬もレイヤも互いの性格をある程度は把握しているつもりだ。
藍瀬曰く、レイヤは生真面目。
レイヤ曰く、藍瀬は能天気。
どちらも言いえて妙である。
「全く、レイヤの言うとおりだな」
と、そこに第三の声が現れる。
藍瀬とレイヤは揃って振り返った。
「ただでさえ日頃から寝坊ばかりで、規則正しい生活とはほとほと無縁なくせに。一体一日のうちのどれだけの時間を睡眠に費やしているんだかな……」
「別にいいじゃない。誰に迷惑かけてるわけじゃないし、やるべきことはしっかりやっているもの。そうでしょ、メル?」
藍瀬は体を起こし、隣に立つシュナイダーに言い返す。
「……まぁ、その点は不本意ではあるが私も認めてはいるさ」
シュナイダーは苦笑しながら言う。
「不本意、だって。どう思う、レイヤ? こんな言い草」
「ノーコメント」
使い魔はなかなかに手厳しかった。
「それで、何か用?」
「ん? 何がだ?」
藍瀬の問いに、しかしシュナイダーは逆に聞き返す。
「何って、メルが私を呼びに来るときは、いつも用事があるときでしょ? 上の方から何か言いつけられたんじゃないの?」
「…………」
藍瀬はそう聞くが、聞かれたシュナイダーは無言だった。
それどころか、何か考え込んでいるような曖昧な表情を浮かべ、藍瀬にはそれが不思議に見えた。
「……いや、今日は特に何もないな」
しばらく沈黙した後で、シュナイダーはそう答えた。
どういうわけか、その表情には微かな笑みが含まれている。
「ふぅん……」
藍瀬にしても、シュナイダーがそんな風に笑みを見せる場面は珍しいものだった。
何かいいことでもあったのだろうか?
まぁ、どちらにしても深く考え込むようなことでもないのであまり気にしないでおくことにする。
「じゃあ、何しにきたの? あ、分かった。メルも昼寝しに来たんでしょ?」
「お前と一緒にするな。私は別に眠気を感じてはいない。気分転換の散歩みたいなものだ」
「えー、勿体ないなぁ。こうやって寝転がると、気持ちいいんだよ? 草も日差しも暖かくて、目を閉じればすぐに眠れるのに」
「……呑気なヤツだ。レイヤも大変だな、マスターがこんなんじゃ」
「もう慣れたわ。これくらいで参っていては、この先が思いやられるもの。無理にでも慣れておく必要があるわ」
「何か、ヒドイ言われようされてない?」
耳元で挟み撃ちにそんな言葉を浴びせられては、さすがの藍瀬も堂々と昼寝を続行することはできなかった。
と、そんな時だ。
ゴーンという鐘の音が三つ響き、今が正午であることを知らせた。
「あ、お昼だ」
言うや否や、藍瀬は勢いよく跳ね起きる。
「もうお腹ペコペコだよ。メルもお腹減ってるでしょ?」
「お前ほどではないがな」
「いいからいいから。早く食堂に行ってお昼を食べようよ。急がないと混雑するんだからさ」
言い終える前に藍瀬は駆け出し、丘を下る細道を行く。
「あの余りあるエネルギーを、もっと魔術師としての技術にあてがってほしいものだがな……」
「……同感ね。けど、アナタも分かっているのでしょう、シュナイダー? 藍瀬が、並の魔術師なんかはとっくに超越するだけの大きな力を持っているということくらいは」
「……そう、だな。恐らくアイツは、数百年に一人と言われるほどの天才だ。もっとも、本人にはその自覚はないだろうし、こっちからその事実を教えるつもりもないがな」
「教えたところでどうなるというわけでもないとは思うのだけどね」
「だろうな。だが、いずれ自分でも気がつくだろう。その身に宿した力が、どれほどのものなのかということを。その時、アイツの一番近くにいるのはレイヤ、お前だろう。もしもアイツがこの先、間違った道を歩みそうなときは、お前がアイツを正してやってくれ。アイツの使い魔として、な……」
「……もちろんそのつもりではあるけど……何だかアナタらしくないわね、シュナイダー。仮にも藍瀬の師であるアナタなら、藍瀬が道を踏み外したときはアナタ自身が止めに入りそうだけど?」
「……できるなら、そうありたいとは思っている。だが、全てが思うように動くほど、この世界というものは優しい形をしていない。それくらいは分かるだろう?」
「……そう、ね。魔術師の世界も外の世界も、本当に優しい輪郭をまとっているのはほんの一部だけ。ほとんどの部分は剥き出しの茨の棘みたいに鋭い牙を向いて、部外者を傷つけて爪弾きにしてしまう。そういう意味では、藍瀬がこれから歩く道は、他の誰よりも辛く険しいものになるのかも……」
「だが、選んだのもまたアイツの意思だ。もっとも、アイツはそこまで深く考えていたとは思えないがな」
「でしょうね」
言って、レイヤは小さく嘆息した。
「おーい、メルもレイヤも何やってるのー? 早くしないと間に合わないよー」
下の道から藍瀬の声が上がっていた。
答えずに、レイヤは四本の足でマスターの元へと急いだ。
シュナイダーは丘の上からの景色をもう一度だけ眺め、曖昧な表情を浮かべた。
「……どこもかしこも、狂っている……」
その呟きを聞いた者は、誰もいない。
それから、三日が過ぎた頃だ。
――シュナイダー・メルクラフトが単独で協会側に離反し、最重要書物である虚空教典を盗み出し、逃亡した。
何が何だか分からなかった。
「……どうして? どうしてなの……?」
だから藍瀬は、何度も何度も同じ言葉を繰り返す。
「何で、こんなことになってるの? ねぇ、教えてよ……黙ってちゃ、分からないじゃない……」
「…………」
藍瀬の必死の言葉に、しかし相手は答えない。
二人が相対している場所は丘の上。
見すぎたけど見飽きることのない、二人が最初に出会った場所。
本来なら、そこで少女が一人死んでいたはずだった。
世界に絶望し、自分に絶望した少女。
少女を助けた青年。
あの日、青年は言った。
不可能などはなく、あるのはただ、可能性という無数の欠片だけだと。
それが、魔術師という存在なのだと。
そう教えてくれたのは、青年だった。
だとしたらこの……今、こうして目の前に一つの事実として突きつけられた現実も、可能性の一つだというのだろうか?
……例えそうだとしても。
藍瀬はそれを、信じない。
信じたくはない。
信じられないだろう。
ギュッと拳を握り、腹の底から大声で叫ぶ。
何度でも何度でも、納得のいく答えが出てくるまで、叫び続ける。
「――答えてよ、メル……!」
「…………」
名を呼ばれた魔術師……シュナイダーはしかし、答えない。
丘の上から望む協会周辺の街並みは、すでに見る影もないほどの炎の海に沈んでいた。
そしてシュナイダーの手の中には、黒い表紙と背表紙に折りたたまれた一冊の本。
厚さだけで百科事典ほどのものであり、ページ数は二千にも及ぶだろう。
「……どう、して……? どうして、アナタがこんなことを……」
「……お前には分からないさ。いや、分からない方がいい」
ようやく口を開いたシュナイダーは、しかし藍瀬を遠ざける。
「私は私の意思を貫く。たとえ魔術の世界全てを敵に回したとしても、この道を選んだことを後悔はしない」
「そん、なの……そんなの、全然納得できない。分かるように説明してよ……いつもみたいにさ……」
「……自分で考えるんだな。お前はもう、一人の立派な魔術師なんだ。どうにかする手段なんて、それこそいくらでもあるだろう」
それは、完全な宣戦布告。
言葉で言って無駄ならば、あとは力ずくで止めてみろという、遠回しな決別の言葉。
藍瀬は奥歯を噛み締めた。
わずかに鉄の味がする。
「……藍瀬、もう何を言っても無駄よ。シュナイダーの目は、覚悟を決めている」
「……っ!」
もう言葉が出てこなかった。
いくらでも浴びせる言葉はあったはずなのに。
たった一言で、今まで築き上げてきた時間と思い出が、ガラガラと音を立てて崩れ去ってしまったかのように。
「……時間がない。すぐにここにも協会側の追っ手がやってくるだろう。だから私は逃げさせてもらう」
静かに告げて、シュナイダーは藍瀬に背を向けた。
「どうするかは、自分で決めろ。お前はもう、あの時のような子供ではないのだから」
それだけを言い残し、シュナイダーはその場から姿を消した。
藍瀬は結局、隙だらけの背中に対して何もすることができなかった。
言葉を投げかけることも、力を投げつけることも。
「……分かんないよ。何が、どうなってるのか……」
膝が折れ、藍瀬はその場にうずくまる。
行き場のない怒りを、握った拳を地面に叩きつけることで無理矢理発散させた。
けど、流れる涙の理由は、その痛みのせいではなさそうだ。