第三十七話:春風
時間の流れ方が変わったように感じていた。
一体いつから今の自分はここにいて、これからどこへ向かっていくのだろうか?
藍瀬はふと、そんなことを思った。
確か、もうすぐこの協会という枠組みの中にやってきてから三年近くが経とうとしているはずだ。
外側の世界ではどんな変化が起こっているんだろうとか、少しだけそんなことも気にしながらも藍瀬は組織の中での日々を過ごしている。
協会の中での生活に関しては特に不満はない。
言ってみればこの場所は魔術を覚えるための学校のようなもので、人数こそ少ないものの、似たような境遇の人はいたからだ。
とは言っても、別に本当の学校のようにカリキュラムが組まれているわけではない。
独学で日々知識を蓄える人もいれば、実践向けの魔術を体得するために修練に励む人もいる。
藍瀬はその後者であり、ひとまずの知識よりもまずは魔術というものを体で感じ取り、覚えることから始めた。
面と向かって先生と呼ぶのはどこかおかしな気もするが、一応建前ではその先生役に当たる人物がシュナイダーだ。
藍瀬は思う。
三年ほど経った今でこそ、はっきりと自分の言葉で言いきれる。
シュナイダー・メルクラフトという人は、とても優れた魔術師だ、と。
知識もさることながら、独創性や状況適応力に関しては特に飛びぬけている才能を発揮する。
さすがに協会側から一目置かれ、その実力を認められてスペルマスターとの通り名を持つだけのことはある。
しかしと、だからこそ藍瀬は思う。
と、そんな時だった。
「集中が乱れているぞ」
言って、シュナイダーは手の中の文庫本で軽く藍瀬の頭を叩いた。
「痛……」
藍瀬は頭のてっぺんをさすりながらシュナイダーを見返した。
「どうした? 何か考え事か?」
と、読みかけの文庫本を閉じてシュナイダーは聞き返す。
「……ううん、そんな大したことじゃない。ただ、私がここにやってきてからもう三年近くになるんだなぁって、そう思ってただけ」
「……そう、か。三年か……もうそんなになるんだな」
と、どこか物思いにふけるような様子でシュナイダーは言う。
協会側の提供する宿舎が一望できる小高い裏山の中腹に二人はいた。
季節はちょうど春と梅雨の境界線。
温かな風はほのかに甘い香りを運び、心地よい陽気が眠気を誘ってくれている。
こんな日は本当に静かな木陰で昼寝でもしたくなるというものだ。
「さすがに慣れただろう? ここでの生活にも」
「うん。最初は不安だらけだったけど、今となってはすっかりなじんじゃった感じ。住めば都って本当みたい」
「まぁ、不自由や不満が何もないのかと言われればそうではないんだがな。協会からの保護を受ける代わりに、そこの規則にも従わなくちゃいけないわけだ。普通の学校の校則とかに比べれば、その辺はちょっとややこしい部分だな」
「そうだけど、別に気にはならないよ。分単位でスケジュールを組まれてるわけでもなければ、何かを無理強いさせられるわけでもない。唯一の義務は、魔術の関して興味関心を注ぎ、己の能力向上に磨きをかけることだもの。私はまだ魔術師としての自覚なんてこれっぽっちしかないけど、別に苦痛には感じてないよ」
「なら、それに越したことはない。別に今すぐどうしろというわけじゃないんだからな。魔術的な視点から考えても、数年程度で魔術師としての本質が全て覚醒することはほとんど稀なことだ。いや、そもそも自身の中の魔術師としての才能が完全に覚醒することなど、ありえないのかもしれん。そんな人物は、過去の幾千の歴史を遡っても両手の指の数より少ないことは明らかだ」
魔術師としての自覚が出てくることと、覚醒し切ることとは別問題である。
大半の魔術師はまず自覚が芽生え、そこから各々の得意とする系統、苦手とする系統などを見つけ出し、そこからさらに応用を利かせて磨きをかけていく。
当然、得意なものは自分の中で長所として引き伸ばされていくが、逆に短所となる部分は補おうとしてもそううまくはいかないものだ。
が、本来はそれが当たり前なのである。
全てをそつなくこなすバランス型というのもあるにはあるが、バランス型というのは良くも悪くも全てにおいて中途半端である。
そうなるくらいなら、長所と短所を割り切って何かに特化した能力を覚醒させる方が手っ取り早いのだ。
もっとも、覚醒と一口に言ってもそれは自分の意思でどうこうできる代物ではない。
多くの場合は人生の大半の時間を費やした末、死と隣り合わせで辿り着く場所とも言われている。
だからこそ、若い世代で覚醒を成し遂げた史実の数少ない魔術師達は神格化されているのだ。
そして現在の協会には、残念ながらその領域にまで達している魔術師は存在していない。
これが遠回しに魔術師としての血統が時代とともに薄れ、衰えていることを如実に物語っていると言えるだろう。
だがしかしと、藍瀬は思う。
視線の先には、景色を見下ろすシュナイダーの横顔があった。
ふと、その視線が合う。
別に後ろめたいことは何もないのに、藍瀬は緊張した。
「何だ? 私の顔に何かついているか?」
「あ、いや、そんなんじゃないんだけど……ただ……」
「ただ?」
「……えっと、どうしてメルは、いつまでもこの場所にいるの?」
メルというのは、シュナイダーの呼び方のことだ。
メルクラフトの頭を取ってメルと、藍瀬はシュナイダーのことをそう呼んでいた。
もっとも、シュナイダー本人は何となく女っぽい名前だからやめてくれと言っているのだが、そんなことなど藍瀬はお構いなしである。
「どうして、とは?」
「だって、そうでしょ? すでにこの協会でもトップクラスの力があるのに、どうして外の世界に行かないでこの場所に引きこもってるの? そんなの勿体無いよ。ここ以外にも、もっと大きな枠組みの別の協会とかもあるんでしょ?」
「引きこもりとは、また人聞きが悪い例え方をするな……」
やや呆れたように小さく嘆息し、シュナイダーは腕組みした。
「別にどうという理由があるわけではないさ。外に行く理由が私には見当たらないだけだ。もっとも、上からの指令があれば話は別だがな」
「指令? 例の、任務ってやつのこと?」
「そうだ。もっとも、そんなものがしょっちゅうある方が物騒だということだがな。ここ数年はそれがないということは、まぁとりあえず外の世界も魔術の世界も比較的安定した均衡を保てているということだろう」
「……そうなんだ?」
「表向きは、な」
藍瀬が聞き返すと、シュナイダーはあっさりと、しかしどこかしら意味深な一言を付け加えた。
藍瀬の表情でそれを察したのか、シュナイダーは言葉を続ける。
「魔術の世界は、言ってしまえば世界の闇の部分だ。表の世界も十分薄汚いが、こっち側にはそれを上回る汚れがこびりついている。時としてそれは、表の世界にも干渉してしまうことがある。そうなった時の対処も私達の仕事の一つでもあるのだが……」
言いかけて、しかしシュナイダーはそこで口を閉ざす。
「……まぁ、お前もいずれ分かる。嫌でも分かるさ」
「そんなもん、かなぁ……?」
「そんなものだ。そういう世界に、私達はいるんだからな」
シュナイダーは断言した。
迷いなく、しかしどこか少しだけ悲しげに。
「それに、今の私にはなおさら外の世界に行く理由はないだろう」
「え、どうして?」
藍瀬は素直に疑問を覚えて聞き返した。
だから、シュナイダーが何となくイタズラっぽい笑みを含んで振り返ったとき、思わずドキリとした。
こんな風に笑みを浮かべるシュナイダーを見るのは、本当に稀なことだったからだ。
「――教え子を放り出してしまっては、師としての面目が立たないだろう?」
シュナイダーはあっさりと言い切った。
「…………」
そんな何気ない一言だったが、思わず藍瀬は言葉を失った。
何というか……はっきり言ってらしくない言葉だったからだ。
「どうした? 何を黙り込んでいる?」
「……いや、似合わないなぁって思って……」
思ったままの一言を口にしてから、藍瀬はしまったと思った。
が、時すでに遅し。
「……やれやれ。まぁ、どう思われても私は構わないがな。だが、せめて口に出す言葉と胸のうちにしまっておく言葉の区別くらいはつけるべきじゃないか?」
「あ、う……」
まさしくその通りだったので、藍瀬は苦笑しながらごまかすしかなかった。
「……だが、まんざらそうだというわけでもないのかもしれないな」
「え? 何が?」
「……いや、こっちの話だ」
一言で言い切り、シュナイダーはまた視線を景色へと向ける。
その横顔は、やはりどこかしら寂しげに見えた。
普段はそんな一面を決して見せることのないシュナイダーが……確かな実力を身につけ、多くの魔術師からも尊敬される眼差しで見られ、現代に甦った古代の血筋と謳われてさえいるあのシュナイダーが、どういうわけか……。
「…………」
今、この瞬間だけ。
藍瀬の目には、とても小さな存在に見えてしまった。
もちろん、そんなことは絶対に口には出さない。
これこそ胸の中で独り言で済ませておくべきことだろう。
「……ねぇ、メル」
「何だ?」
「……メルは、夢とかはないの? ううん、夢じゃなくていい。例えば、ああしたいとかこうしたいとか、そんなことって」
「藪から棒に、どうしたんだ?」
「意味はないよ。ただ、何となく今そう思っただけ。メルには、そういうのってあるのかなぁって」
藍瀬の問いに、シュナイダーはしばらく沈黙を保っていた。
二人の間を春風がゆっくりと通り過ぎていく。
足元の草を、背後の木々の枝葉を優しく揺らし、鼻腔をくすぐるようなほんのりと甘い果物のような香りを届けた。
「――…………いな、私には……」
「……え?」
ほんの小さな風だったのに、シュナイダーの言葉はそれにかき消された。
何と言ったのだろう?
藍瀬はすごく気になったが、どうしてか同じ問いを繰り返すことができなかった。
それは多分、相変わらず見せるシュナイダーの横顔が寂しかったからなのかもしれない。
外見の歳相応からは想像もできないような、あまりに弱々しすぎる怯えた子供のような表情。
こんなにも温かい春の太陽の下なのに、シュナイダーだけが一人、冷たい雨の降りしきる中に置き去りにされているかのよう。
藍瀬はそんな錯覚を覚えつつも、とうとう最後まで同じ問いを繰り返すことはなかった。
それは、遠慮だったのか。
それとも、全く別の……ただ、言葉にうまくできないだけの別の感情だったのか。
それは、藍瀬本人にもよく分からない。
分からなくなってしまった。
きっと、春風のせいだ。
春風が全てを静かに運び去ってしまったからに違いない。
そうに決まっていると、藍瀬は一人で無理矢理納得する。
まるで、そうでないことを頑なに否定しているかのように。
「……藍瀬」
「ん、何?」
「お前には……いや、何でもない……」
言いかけた言葉を、しかしシュナイダーは呑み込んだ。
藍瀬もそれを聞き返すことはしなかった。
だから代わりに、場の雰囲気を変える適当な一言を言っておく。
「メルってさ、時々変だよね。いや、割と結構変かも?」
「……何の脈絡もなく、ひどい言われようだな。私から言わせれば、お前の方がよっぽど変だ」
「そう見えるなら、それはきっとメルのせいだよ。うつっちゃったんだよ、きっと」
そうだ。
そうに、決まっている。
「……勝手にしろ。今に始まったことじゃない」
「それもそうだね。うん、やっぱりメルはメルだよ」
「……またわけの分からないことを。それと、その呼び方はやめろと何度も言っているだろう?」
「何度やめろと言っても意味のないことくらい、メルなら分かってるでしょ?」
「……やれやれ」
小さく溜め息を吐き出し、シュナイダーは苦笑したように見えた。
本当に、少しだけ楽しそうに笑ったように。
それを見て、藍瀬はもう少しだけどうでもいいことを口走ってみることにした。
それはもう、本当にどうでもいいことを。
「ねぇ、メル」
「……何だ?」
シュナイダーはもう、その呼ばれ方に対して何も言わない。
ただ真っ直ぐに……いや、少しだけ視線を上に向けている。
同じように、藍瀬も視線を上に向け、透き通るような青い空を眺めて言った。
「いい天気だね」
「……ああ」
一拍遅れて、返事が来た。
「いい天気だ」
ほんの少し、嬉しそうな声で。