第三十六話:出会い
シュナイダーと藍瀬は同じ魔術協会の中で出会った。
その時のきっかけは覚えてはいないが、当時の藍瀬はまだ魔術師としての自覚が浅く、己の中にある魔力を使いこなすことができない未熟な状態だった。
とある事件をきっかけに、藍瀬は普通の日常から隔離された魔術の世界に足を踏み入れることになる。
そんな藍瀬を保護したのが、二人が揃って所属していた魔術協会だ。
自分の身に何が起こっているのか、これからどうなってしまうのか。
そんないくつもの不安は、当時まだ幼い容姿を残す藍瀬にとっては抱えきれないものだった。
全てを失い、たった一つ残ったものはその身だけ。
親も友も皆死に絶え、残されたのは自分一人だけだったのだ。
幼いながらも、藍瀬はその残酷な事実の裏側にうっすらと気づき始めていたのかもしれない。
皆いなくなったのに、自分ひとりだけがこうして生き残っているという事実。
原因は何なのか?
考え始めてすぐに、答えは出た。
――私がやったんだ。
藍瀬は魔術協会の大人達に何度も問いただした。
しかし、彼らは揃って悲しそうな笑みを浮かべながら、君は何も悪くないんだよと、同じ言葉を繰り返すばかりだった。
それだけではっきりと分かった。
皆がどこかへいなくなってしまったんじゃない。
私が皆をいなくなるようにしてしまったんだ、と。
藍瀬は自分と存在をそこで改めて認識し、そして同時に恐怖した。
怖い。
こんな自分は、おかしい。
こんな自分は、嫌だ。
どうして大切なものが全部なくなってしまうのだろう?
そんなこと、これっぽっちも望んだことはなかったのに。
だって、昨日まであんなに溢れていたんだ。
幸せだったんだ。
変わらない日常、ありふれた風景。
友達の笑い声、走り抜けた公園。
あっという間に、全部なくなってしまった。
……私が、全部壊したんだ……。
「……どう、して……?」
藍瀬は一人、膝を抱えてうずくまっていた。
どれだけ考えても答えは見つからない。
何がいけなかったのか、どこで間違えてしまったのか。
皆は何も悪くない。
じゃあきっと、悪いのは私だったんだ。
私は悪い子だったんだ。
きっと、いてはいけない子だったんだ。
でも、じゃあどうして私は今ここにいるの?
一番いらないのは、私なのに……。
「……いらない。何もいらない。私が、いらない……」
俯いて繰り返す言葉は同じものばかり。
目の前が真っ暗で、何も見えなくて。
手探りで彷徨っても、誰の手にも触れることはできなくて。
やがて、闇に抱かれることに慣れてきて、不安と恐怖の温度さえ覚え始めた頃。
藍瀬は一つの……簡単な結論に至る。
「…………」
道端で、ガラスの欠片を拾った。
傷だらけの表面には、もう自分かどうかも分からない誰かが映りこんでいる。
「……いらない。私は、いらない。どこにも……ない」
歪に並ぶ切り口も、手首を切り裂くには十分な切れ味を持っている。
痛みは一瞬だ。
何もかもを失ったあの痛みに比べれば、そんなものはどうってことはないはず。
ゆっくりと振り上げ、真っ直ぐに振り下ろす。
ザクリと皮膚が裂け、真っ赤な血が飛び散った。
跳ねた赤い雫の一粒が、藍瀬の頬に触れる。
温かかった。
それが生きているという証拠なのだと、今更になって気づかされた。
でも、もう遅い。
あとはもう、このまま眠ってしまえばいい。
誰の目にも触れない場所で、誰に見送られもせず、誰の涙も受けずにただ息絶えていく。
それでいい。
孤独にはもう慣れていた。
これ以上味わうべく苦痛や悲しみなど、どうせこの世界の中にはありはしないのだから。
……その、はずだった。
「……え?」
だけど、不思議と痛みはない。
少しだけ目を大きく開けてみると、そこに大きな手があった。
その大きな手の甲が、一直線に切り裂かれている。
真っ赤な血が流れ、指先を伝ってポタポタと地面に落ち、赤い斑点をいくつも作り上げていた。
「…………」
藍瀬の目が無意識に上を向き、そこにある名前も知らない一人の顔を見つける。
その表情は、無表情だった。
喜怒哀楽のどれにも属さない表情で、その人はただ立っていた。
「生きることに飽いたか?」
不意打ちのようにその人は聞いた。
藍瀬は突然のその言葉に答える言葉を持ち合わせなかった。
しかし、無言の藍瀬に構わずにその人は続ける。
「死ぬことは容易い。魔術師であろうと、その体は生身の人間と変わりないからな。高い崖から落ちても、銃で撃たれても、ナイフで刺されても魔術師は死ぬ。一体どこが特別な存在なのか、時々自分でも理解に苦しむときがある」
「…………」
独り言のように繰り返されるその言葉を、しかし藍瀬は黙って聞き続けた。
握っていたガラスの欠片は、いつの間にかその人に取り上げられてしまっていた。
「魔術師になるということは、人間であることを失うことと同意だ。にもかかわらず、魔術師の定義は人間のそれと何ら変わらない。唯一違うものがあるとすれば、それは領域の拡大という一点のみだ」
「……領域の、拡大……?」
ふいに藍瀬は、その人の言葉を繰り返していた。
難しい言葉の意味はまだよく分からない。
けれど、不思議とその言葉には力が秘められていた。
口ずさんでいるだけで、何となくそこにある意味を理解できそうな気がしたのだ。
「言い換えればそれは、可能性と言ってもいい。何かを成そうとして、それが結果として成功を収めるにしろ失敗に終わるにしろ、それまでの過程には常に可能性という定義がまとわりつく。世間一般の数学理論でも同じことが言えるが、私達魔術師の場合は少し違う。数学の場合、基本的に答えは一つしかない。それはつまり、未来が限定されているということだ。ある数式を、いかなる過程の通って答えまで導いたとしても、最終的に求められる正しい答えは一つしか存在しない。それが間違っていれば全ては失敗に終わる」
「…………」
「だが、私達は違う。魔術師の言う可能性とは、無限だ。しかし、それは同時に夢幻でもある。多くの魔術は人を魅了する奇跡であると同時に、どうしようもない絵空事に過ぎないものばかりだ。だからこそ可能性を追い求める。意味ではなく真理を理解し、その先にある何かへと辿り着こうとする。そこに不可能はない。あるのはただ、可能性という無数の欠片だけだ」
「……可能性」
「そうだ。そして、それを拾うも捨てるも、全ては自由だ。だから私は」
言って、その人は一度藍瀬から取り上げたガラスの欠片を再び握らせた。
「それがお前の意思だと言うのなら、もう止めはしない。その資格も権利も、私にはないのだからな」
「…………」
改めて握ったガラスの欠片は、さっきとは違って……少しだけ、冷たかった。
「……皆、いなくなった」
「…………」
藍瀬の言葉を、その人は聞き返さずに黙って聞いた。
「ううん……私のせいで、いなくなっちゃった。もう、戻れないのかな……?」
呟き、藍瀬はその人を見上げた。
その人なら、答えを教えてくれるような気がしたからだ。
しかし、現実は違った。
「他人に答えを求めるな」
その人ははっきりと言い切った。
「納得がいかないのなら、まずは自分で足掻くことだ。どれだけ格好悪くても、惨めでも、周囲から蔑まされても構わない。その程度の抗いもせずに、可能性を見限るな」
強く、そして真っ直ぐな言葉だった。
決して温かさはないのに、それでも透き通った真水のように心の中に浸透していった。
澱みが晴れていく。
水底に積もった泥が、静かに引いていくように。
「……私、私は……」
どうすればいいのと、藍瀬は言わなかった。
たった今言われた言葉を忘れるわけにはいかない。
だって、まだ私は何もしていなかったのだから。
「……強く、なりたい……」
そう願ったのは、いつの頃からだったか。
「今よりもっと、ずっとずっと、強くなりたい……!」
思い願うだけで、口に出せなかったのはいつの頃からだったか。
振り返るには浅すぎる人生の中で、今ほど悔しかったことはなかっただろう。
他でもない、自分自身に対する悔しさが溢れかえっていた。
だから、なのだろう。
だから私は……泣いているのだろう。
「……強く……強く、なりたい……」
「……それがお前の導き出した答えなら、目の前の現実に抗うと決めたなら」
言って、その人はそっと藍瀬の頭に手を置いた。
温かかった。
ほんの少し優しく撫でられただけで、また涙が溢れた。
全部失ったと思っていた大切なモノが、一つだけ、そこにあった。
「――お前は誰よりも強くなれる。今のその気持ちを、一生の宝物にしろ」
「…………っ!」
堰が切れた。
名前も知らないその人に、私は抱きついて泣いていた。
名前も知らないその人は、そんな私を黙って受け入れてくれた。
少しだけ、世界がが違って見え始めていた。
後日、その人に名前を尋ねた。
シュナイダー・メルクラフトと、その人は名乗った。