第三十四話:混乱
初めましてと、目の前の男は……本物のシュナイダー・メルクラフトはそう告げた。
その傍らには、全く同じ背格好と外見をしたもう一人の男が立っている。
ファントム……幻影の名を持つそれこそが、シュナイダーの使い魔であるという。
「久しぶりだね、藍瀬」
「……っ」
シュナイダーの言葉に藍瀬はわずかに歯噛みする。
結局のところ、今の今まで自分達は亜シュナイダーのいいように踊らされていたのだ。
倒し切ったあの十二の分身も、言うなればコピーのさらに劣化したもの。
状況を打開し、少しでも優勢に立ったと思っていた自分が情けない。
「私の思ったとおりだ。君はいい魔術師になったようだね。師としても嬉しく思うよ」
そう言うシュナイダーの表情は、その瞬間だけはあの不敵な笑みではない、本当の優しさを含んだものに変わっていた。
だが、それも長続きはしない。
「だが、まだまだだ。成長は認めるが、今の君ではまだ私には遠く及ばない。それはこうして面と向かって相対している君……いや、君達が一番よくその体で実感できているはずだ」
圧力のない言葉だった。
真実をそのまま告げるだけに、余計な脅しは必要ないと言わんばかりに。
しかし、事実としてその言葉はまんざら偽りというわけではなかった。
その証拠に、さっきから体が……足が地面に貼り付けにされたかのように動かない。
「っ、どうなって……」
彼方は身じろぎを繰り返すが、足はほとんど動かない。
それどころか、指先は微かに震え始めている。
それは、頭では理解できない本能的な恐怖に対する反応だった。
目の前の敵は、今まで以上に理解しがたい、そしてあまりにも大きすぎる存在だと、本能が告げる。
彼方は歯噛みしながらも、横に立つ泉水に目を向ける。
そして我が目を疑った。
あの泉水が微動だにせず、それどころか汗をかいていた。
飄々とし、いつどんな状況であっても余裕と冷静さを見せ付けてきた泉水が、だ。
その光景に、彼方はやっと理解し始める。
ヤバイとか、マズイとか、そんな問題じゃない。
――終わる。
何もしないでも、勝手に終わる。
目の前にいる敵は、それだけの力を持ち合わせているのだと、体が勝手に理解した。
状況だけを見れば彼方側の有利は変わらない。
単純な戦力の数だけでも六対二。
数式の計算の上では圧倒的に有利なはずだった。
だが、そんなものは何の役にも立ちはしない。
これが普通の……普通の人間同士の殴り合いの喧嘩ならばそれで済んだだろう。
数は力だ。
いつの時代もその理論は変わらない。
けど、それと同じで、どの時代にもこういうのが時々現れる。
数の大小などをもろともしない、掟破りな力を持ち合わせた異端の教徒。
世界規模の戦争を、それらは全て手のひらの上の出来事に過ぎないと言い切れるような、超越した存在。
それが今、こうして目の前にいる。
「……っ、答えて、シュナイダー」
震えかけの声を絞り出し、藍瀬は口を開いた。
「あなたはどうして……それだけの力を持ちながら、今頃になって協会に離反するの? それも、ただ抜け出すだけならまだしも、どうして教典を盗み出すなんてことを……」
「それは違うな」
しかし、言いかけた藍瀬の言葉をシュナイダーは途中で否定する。
「それだけの力を持っていながらとは言うが……では逆に聞こう。これだけの力で、何ができると思う?」
「何、ですって……?」
藍瀬はシュナイダーの言葉の意味が分からなかった。
どう考えたところで、藍瀬の総魔力量はシュナイダーには遠く及ばない。
仮にこの場の藍瀬に彼方と泉水の魔力を重ね、その上でぶつけたとしても、恐らくシュナイダーは無傷で済むだろう。
多分、シュナイダーにとってはそよ風が自分の横を静かに通り過ぎたくらいにしか感じられないはずだ。
それを圧倒的な力と呼ばず、他に何と呼べばいいのか?
「……どうやら勘違いをしているようだが」
言いながらシュナイダーは一歩前に出る。
「君は、魔術師の力のその本質の部分に関して、根本的な思い違いをしているのではないのか?」
「……思い違い?」
それはどういうことなのか。
聞き返すよりも早く、シュナイダーは言葉を続ける。
「魔術を使えるから魔術師である。それはまさしくその通りだが、世の中はそれだけではない。結論から言おうか?」
一呼吸置き、シュナイダーは呟くように言った。
「――魔術師でなくとも、魔術を使う方法はあるということだ」
「っ、何を、バカな……!」
泉水が不意に叫ぶ。
「そんなことがありえるものか。魔術を理解できない、ましてや自らの体内に流れる魔力の存在にすら気づかないものに、どうして魔術が扱えるというのです?」
「それは愚考というものだ。逆に聞くが、それを立証できるかい?」
「それは……」
言い返され、泉水は押し黙る。
確かに立証することは難しい。
不可能ではないのかもしれないが、少なくともそんな手段は彼方には思い浮かばない。
もとより、普通の人々は自分の中に魔力なんてものが流れていることをそもそも知らないのだ。
知らないものを知ろうとするには、ゼロから筋道を立てて教えられる必要があるわけだが、まず最初に魔力や魔術などというテーマを提示したところで誰が納得できようか?
鼻で笑われてしまうのが大半だろう。
もし仮に説明を理解してもらえたとしても、それだけで魔術師になれるわけではない。
人間誰にも得手不得手というものがあるように、魔術師の素質というものも分け隔てなく公平に分配されているものではない。
選ぶ選ばないではなく、選ばれるか選ばれないかである。
どれだけ魔術というものに興味関心を示し、理解を深めたとしても、体得できるかどうかは全くの別問題だ。
「仮に魔術という力の存在が公に認められる世界があるとしようか。しかし、そこでもやはり魔術師として選ばれるのはほんの一握りにしか過ぎない。当然、選ばれなかった者達はそれを快くは思わないだろう。嫉妬し、苛立ちもするだろうさ。だからこそ、こんなものが生まれてしまったんだよ。この世界にね」
言いながら、シュナイダーは、懐から一冊の辞書ほどの大きさの本を取り出した。
「それは……!」
見覚えのあるその表紙に、藍瀬が声を上げる。
それだけですぐに分かった。
恐らく、あの本が協会から盗み出されたという教典なのだろう。
「シュナイダー、それを返して。それは持ち出されてはいけないものだわ。悪用されれば、魔術の世界だけでなくこの世界そのものに大きな影響を与えることになる。使い方を間違えれば、それこそどうなるか……」
「その通りだ。この教典には私もまだ目を通してはいないが、恐らく数々の魔術の立案が記されているだろう。中には君が言うように、本当に世界のバランスを崩しかねないようなものもあるかもしれない」
「そこまで分かっているなら、どうして……!」
「……藍瀬、君は……本当にそう思っているのか?」
「……何? どういうこと? 分かるように説明してよ!」
藍瀬が叫ぶように言うと、シュナイダーはわずかに表情を苦しませた。
そんな顔は見たくなかったと、声に出さずに呟いているようだった。
「藍瀬、これは……この教典はね、あの場所に保管されるべきものではないんだよ。いや、あの場所に在り続けることこそが、ありとあらゆるものにとって一番危険極まりないことなんだ」
「どうして? だって、教典は今までだってずっと協会の管理の下で厳重に保管されていたじゃない。実際、こんな風に持ち出されてしまうことなんて、過去には一度もなかったわ。あなたが奪って脱走するまで、一度も」
「そうだ。だから教典は、協会でも一部の階級の人間……上層部の人間しか出入りを許されない保管室で管理されていた。何百年という、気が遠くなるような年月の間ね」
「……もうやめましょう、こんな話。結局のところ、あなたと私はもう正反対の立場なのよ。あなたは脱走した裏切り者。私はそれを捕えるための使者。それだけのことなんだから……」
藍瀬は無言で鎌を持ち直した。
その目には、悲しみと怒りの色が混じっている。
戦うつもりなのか。
これだけ圧倒的な力の差を見せ付けられ、身動きすらままならないような相手と……。
「おかしいとは思わないか?」
としかし、シュナイダーは構わずに言葉を続ける。
「……やめなさい。もうあなたは、私の知っているあなたではなくなったんだから」
「……そう思われるのならそれでも構わない。しかし、それでもあえて私は君に問おう」
シュナイダーの視線と藍瀬の視線が重なる。
「――それほどまでに厳重に保管されていた代物が、今こうして私の手の中にあることに、一つの疑問すら感じないというのか?」
「……っ?」
その言葉に、藍瀬の体がわずかに震える。
同時に、彼方は思う。
確かに……シュナイダーの言葉を鵜呑みにするわけではないが、疑問は浮かぶ。
それだけ厳重な体勢で保管されていたものが、どうしてこうも簡単に持ち出されてしまっているのだろうか?
答えとしては簡単だ。
要するに、厳重に管理されていなかったということだ。
だとしたらそれは管理側のミスでしかない。
だが、もしも。
そこにもしも、他に理由があるとしたら、それは。
それは、今まで積み重ねてきた沢山の何かを呆気なくバラバラに崩すことができるのではないだろうか?
「……何が、言いたいの?」
震えかけた声で藍瀬は聞く。
「……今はまだ、何も言えない。だが、私も私の答えを求めるため、今ここで君に捕まるわけにはいかない」
それだけ言うと、シュナイダーは再び教典を懐にしまい込んだ。
「っ、待ちなさい!」
慌てて藍瀬は叫んだが、すでにシュナイダーは手の中に呪文カードを握っていた。
「今度は君が考える番だ。私の全てを信じることはない。しかし、考えることをやめたとき、それは真実から目を背けたことと同じだ。いいか、藍瀬。世界は君が思っているほど、綺麗な輪郭を持ってはいないんだ。それだけは覚えておいてほしい」
最後にその言葉を言い残し、シュナイダーは自らの幻影と共にその場から姿を消した。
このとき、とっくに街全体を覆っていた結界はなくなっている。
シュナイダーが別の場所へ逃走したとしても無理はない。
「……どういう、こと……? あなたは結局、私に何を言いたかったの……?」
奥歯を噛み締めたまま、藍瀬はその場に膝を折った。
「藍瀬……」
レイヤが寄り添うが、かける言葉は見つかりそうになかった。
それは、彼方も泉水も同じことだった。
そればかりか、戦うことにならずに心のどこかでホッとしている自分がいた。
体の震えは、今もまだ完全には収まっていない。
「……何が、どうなってるのよおおおおおっ!」
藍瀬は叫び、地面に拳を打ちつけた。
その悲痛な叫びは、ビル壁に跳ね返りながら夜空の中へと消えていった。