第二十九話:揺れ
完成し、しかし実行しないがために未完成と言わざるをえない魔術。
そんなものがいくつも書き連ねられ、収められた書物……教典。
シュナイダー・メルクラフトは、協会に保管されていたそれを持ち出し、脱走した。
明確な目的ははっきりとはしていないが、かといって野放しにするほど楽観できる事態ではない。
誰一人として実行したことがないということは、本当の意味で効力は未知数ということでもある。
良い方向に働くものもあるかもしれないが、当然その逆で悪い方向に働くかもしれない可能性もある。
ありとあらゆる場面を想定しておかなくてはいけない現状、もっとも有効な打開策はシュナイダー本人を捕らえ、教典も一緒に取り戻すということに他ならない。
もっとも、それが一番の近道であると同時に、一番の難関であるのだが。
「……もしも、その教典の中の魔術を実行したりしたら、どうなるんだ?」
「良い意味でも悪い意味でも、分からないとしか言いようがないな。どうなるかが分かっているのなら、もう少しまともな打開策も立案できたはずだからな」
「……けど、もしかしたらその中に……前の次元開放円を圧倒するかもしれないような術式があるかもしれないんだよな?」
「可能性はゼロとは言い切れない。もっとも、あれを上回るような術式など数えるほどではあるが……」
「……ったく、何でこう厄介なことが立て続きに起きてるんだかな。ほんの数日前に、泉水と盛大にやりあったばっかりだっていうのによ……」
「……これも、血の巡り合わせなのかもしれん。意識せずとも、魔術師の血は他の魔術師の血を呼び寄せてしまうことがあるらしい。何らかの因果めいたものが働いているのかもしれんな」
「……口で言うのは簡単だけど、実際問題、どうすりゃいいんだか……」
「今の様子では、とりあえず藍瀬達が街に施した監視の術式にターゲットがうまく映りこんでくれることに期待するしかあるまい」
「けど、それもどこかでずっと潜伏されてたら無理なんだよな?」
「まぁ、な……」
「……何かないのかな。こっちから探すんじゃなくて、向こうから出てきてもらうような方法が……」
「確かに、そういう手段を用いることができれば楽なのだが……」
言いかけて、テトラはしばし考える。
が、結局言葉は続かなかった。
そうそううまい具合に事態が進むわけもないので、これはこれで仕方がないだろう。
「となると、やっぱりできる範囲でやっていくしかないってことか」
「そういうことだな」
彼方とテトラは路地を曲がり、昨日よりもう少し歩く範囲を広げるのだった。
同刻、藍瀬とレイヤは彼方達とはちょうど正反対の方向にあたる場所を歩いていた。
監視の術式を街のあちこちに仕掛けてはいるものの、それだけでは街の全てを把握できているわけではない。
なので、監視の術式の範囲から外れている部分をこうして歩き回っているわけだ。
周囲には細心の注意を払っているが、今のところ視界の中に不審な人影は何一つとして映りこんでいない。
もっとも、この程度で捕まえることができるような相手なら最初から苦労はしていないのだが。
「……見つからないわね、当たり前だけど」
「そりゃねー。大方、どこかに潜伏して息を潜めてはいるんだろうけどさー。全く、探す側の立場も少しは考えてもらいたいものねー」
と、藍瀬はどこか間延びした、緊張感のあまり感じない声で頷く。
「……藍瀬、前々から聞いておきたかったのだけど」
「んー? 何よー?」
「アナタ、シュナイダーを見つけたらどうするつもり?」
「どうするって、そんなの決まってるじゃないのー。とっ捕まえて教典を取り上げて、後は協会が処罰を下すんでしょー?」
「それはあくまでも、協会の指令の下にアナタが言い渡された任務上の都合でしょ? 私が聞きたいのは……」
そこで一度歩く足を止め、レイヤは藍瀬を振り返ってもう一度繰り返して聞く。
「……私が聞きたいのは、そういうことじゃないの」
「…………」
「……聞き方を変えるわ。アナタは……アナタは本当のところ、どうしたいの?」
「……だから、何度も言ってるじゃないのー」
言いかけた藍瀬の言葉を遮り、レイヤは続ける。
「――その手でシュナイダーを殺すことができるの? 彼は……アナタにとって、かけがけのない存在ではなかったの?」
「…………」
その問いに、藍瀬はしばしの間黙り込んだ。
「……どうなの? 答えて、藍瀬。アナタの心構えしだいでは、私は……」
「……もう、昔のことだよ。だから、もう、忘れた」
「……藍瀬」
「……いいんだよ、レイヤ。シュナイダーは……アイツは、どういう理由があったにしろ罪を犯したの。今のアイツは、教典を奪って逃げ出した脱走者であると同時に、協会に離反した裏切り者と何ら変わりない。放っておいたところで、きっと私以外の指名者がアイツを追うように命じられて、いつかは捕まえる。そうなるくらいだったら、いっそのこと私の手で……って、そう思って自分から名乗り出たんだもの。覚悟は、とっくにできてるんだよ」
「……そうかもしれない。けれど、アナタ本当にそれでいいの? 仮にもシュナイダーは、アナタの」
「レイヤ!」
「っ!」
藍瀬は怒鳴り、その声にレイヤが思わず体を震わせた。
「……もう、それ以上言わないで」
言いながら、藍瀬は静かに目を伏せた。
「藍瀬、アナタ……」
「……これ以上、私を揺らさないで。私の決心を、鈍らせないで。お願いだから……」
「……ごめんなさい」
「……ううん、私こそ、怒鳴ってごめん」
藍瀬は拳を強く握り締め、必死に何かに耐えていた。
行き場のない感情を、奥歯を噛み締めて何とか堪える。
「ほら、行くよ。モタモタしてたら、一時間なんてあっという間なんだから」
「……ええ、そうね」
そう言って歩き出す藍瀬の表情は、もう元に戻っていた。
レイヤは促されるがままに、藍瀬の隣に並んで歩き始めた。
一時間後。
彼方とテトラ、そして藍瀬とレイヤは最初の待ち合わせの場所へと戻ってきていた。
しかし、残念ながらこの一時間の見回りの中で手がかりらしいものは互いに掴めていなかった。
もともと収穫を期待していたわけではなかったが、そのまんま無駄骨というのもどこか虚しい気分だ。
それから遅れること十分ほどで、泉水がようやく戻ってくる。
「すいません、遅れてしまいました」
「そっちはもう、全部終わったのか?」
「ええ、何とか間に合わせましたよ。これはお返しします、ありがとうございました」
差し出されたドレインダガーのカードを彼方は受け取る。
「それで、そちらの方は?」
聞いて、泉水は彼方と藍瀬の両者の顔を見回し、察する。
「なるほど。収穫なし、でしたか」
「だが、無理もないというものだ」
電線から降りてきたアルタミラが泉水の肩に止まる。
「空から探しては見たが、それらしい人影は見当たらない。やはりどこかに潜伏していると考えるのが妥当だろう」
「……そうでしょうね。逃げ回るよりもやり過ごす方が体力を使いませんし、バレてもまた別の場所に移動すればいいだけのこと。改めて考えてみると、相当分の悪いかくれんぼになていますね。鬼は三人いるというのに」
「相手も魔術師だからねー。これが常人なら、簡単に見つけることができるんだけどー」
「何呑気なこと言ってんだよ。どうにもならなくても、どうにかするしかないだろ?」
「いやはや、その通りなんだけどねー」
「……この様子だと、監視の仕掛けにも引っかかりそうにもないな。何か他に手を打つ必要があると思うが」
「それには同感ね。けれど、具体的にどうするかという案が浮かばないのも事実。本当に街全部をしらみつぶしに探すくらいしか……」
「……少し気になるのですが、いいですか?」
泉水の言葉に、全員の視線が集中する。
「シュナイダーという男がこの街のどこかに隠れているということは分かりました。ですが、彼は藍瀬さんが追っ手としてやってきていることを知っているのでしょうか?」
「もちろん知っているわ。一度は面と向かって対峙したけど、その時に逃がしてしまって今に至るわけだから」
「ふむ。ならば、この街を覆う結界が藍瀬さんの手のよるものだということも、彼はすでに気づいていると見て?」
「間違いないと思うよー。そのせいで潜伏してるんだろうしねー」
「でしたら、逆にしてみてはどうでしょう?」
「逆? 何をどう逆にするんだよ?」
彼方が聞き返すと、泉水はとんでもないことを口走った。
「――簡単なことです。結界を解いてしまえばいいんです」
「な……そんなことしたら、真っ先に逃げ出すに決まって」
「いや、待て。なるほど、確かにそれなら……」
彼方の言葉を制し、テトラが納得する。
「そう、ね。確かにそういう方法もなくはないわね。けど、リスクは大きいわ。ヘタをしたら、またシュナイダーをみすみす逃がす羽目になってしまう」
「……あ、ああ、そういうことか。要するに、わざと逃げるチャンスを与えて、そこを押さえようってことか?」
「そうです。シュナイダーにとっても、一つの場所に長居することはできる限り避けたいはずです。時間が経てば経つほど、協会側からも更なる追っ手が追加されるかもしれません。今はまだいいですが、後に負っての人数が増えることを考えれば一ヶ所に留まるのは自殺行為。彼は今、この街を出たくて仕方がないはずです。しかし、早い段階で街は結界に覆われ、教典を所持する彼は結界の外に出れない状況になっています。そんなとき、ふいに結界が解ければ……」
「ここぞとばかりに飛び出してくるというわけね。確かにそれなら、監視の範囲にも姿が映ることもあるかもしれない」
「しかし、問題もいくつかあります。まず、この結界のことをシュナイダーが知っているかどうか。知っているとしても、その効果がどれほど持続するのかを把握しているかどうか。結界のことを知っていても、効果の持続時間さえ把握されていなければ、突然結界が消えても怪しまれることはないでしょう。逆に把握されていれば、こちらの罠だと気づかれてしまいます」
「それに関しては心配はないと思うわ。この結界も協会側から特別に用意された呪文だから、まず知られていないと見て大丈夫のはずよ」
「なら、あとはタイミングしだいです。できるだけ多くの監視の術式を街中に施した上で結界を解除。その後シュナイダーに接近し、そこを捕らえる」
「けど、そううまくいくものなのか? 向こうは逃げ隠れに関してはスペシャリストみたいなもんなんだろ? 結界が解けて逃げ出す時だとしても、油断するようには思えないけど……」
「ああ、大丈夫よー。そこのところは私に考えがあるからー。とりあえずは、アイツをうまくおびき出しさえすれば、あとはどうとでもなるわー」
「……期待していいのか、正直不安なんだよな」
「む? ヒドイ言われようだなー。こう見えても実力はあるんだから、少しはお姉さんを信用しなさいってばー」
「そういう態度が、信用できないって言ってるんだけどな……」
「いやいや、手厳しいなー」
彼方は深く溜め息を吐き出す。
「まぁ、それでいいならそれでいいさ。捕まえるときに協力すればいいんだろ?」
「……ええ、そうね。まずは監視の術式をもっと広く展開させて、その上で結界を解除した後の脱走を阻止するための罠を用意するわ。それは私と藍瀬に任せてくれればいいから、あなた達には最終的にシュナイダーと対峙した時の助力をお願いしたいの」
「分かりました。ですが、下準備にも色々と時間も必要です。手伝える範囲で私も手伝いますが、実行はいつにしましょう? 放っておいても、結界はあと五日すれば自動的に消えてしまうのですよね?」
「そうね……三日もらえないかしら? それまでに全ての舞台は整えておくわ」
「では、三日間で準備を終わらせ、実行は次の四日目の夜ということでいいですか?」
「四日後の夜か、分かった」
「面倒を押し付けちゃって、申し訳ごめんねー。無事に解決したら、必ず埋め合わせはするからさー」
「そういうのは、全部丸く収まってから言えよな」
「アハハ、それもそうだー」
「……全部、丸く収まる……そんなこと、ありえるのかしら……」
そのレイヤの独り言を聞いた者は、誰もいなかった。
夜が深まっていく。
全ては、四日後の夜へと預けられた。