第二十六話:こんばんは
「彼方、どう思う?」
「え? 何が?」
夜になり、街中へ向かう道の上でテトラが聞いた。
「泉水のことだ。本当に何もないと思うか?」
「……どうだろうな。完全に信じきったわけじゃないけど、とは言ってもな……」
「私の考えすぎかもしれないが、さすがにおいそれと気を許せる相手ではないからな。一体何を考えているやら……」
「まぁ、そうだとしても今は何とも言えないだろ。それに、何かするなら真正面からくるよ、アイツなら」
「……それもそうか」
そうこう話しているうちに、彼方とテトラは大通りへとやってきた。
時刻は深夜の一時半。
終電も終わった今では、日中一番人の足が混み合う場所も静寂に満ちていた。
街灯の明かりはポツポツとまばらに散らばり、信号機の赤いランプだけが一定の間隔を保って点滅を繰り返している。
「どうだ、テトラ?」
「……この辺りには特に何も感じないな。もう少し足を伸ばしてみるとしよう」
彼方とテトラは並んで歩き出す。
空間移動の呪文で距離を移動したほうが確かに楽なのだが、何かあったときのためにも魔力の消費は避けておく。
あの次元開放円の術式を防いで以来、しばらくの間彼方とテトラはこうして夜の見回りを行っていなかった。
そのため、あの夜を前後としてナキガラの数がどう変化しているのかを、今は見定めることができていない。
あれからしばらく日が経ち、彼方のケガなども十分に回復をしたので、今夜はこうして見回りを兼ねて繰り出してきたわけだ。
「……ナキガラどころか、人影すら見当たらないな」
「それならばそれに越したことはないのだがな。逆にこんな時間にうろついているほうが、ナキガラにとっても獲物になってしまう」
夜の闇は思ったよりも深い。
街灯の明かりはあまりにも頼りなく、明かりの届かない場所ではどれだけ目を凝らしても二、三メートル先までしか見通せない。
極端な話、いきなりその闇の向こう側から襲われるようなことがあれば、間違いなく体は反応しきれないだろう。
一瞬の油断が命取りになるというのは、まさにこういう状況のことを示すのかもしれない。
道なりに歩くが、異変らしいものは何も見当たらない。
すぐ横の道路の上を、時々車が通り過ぎていくくらいのものだ。
「……どうやら、思っていたほどのようでもないな」
足を止め、テトラが言う。
「どうする? 今夜はもう戻るか?」
「問題ないだろう。何かあればすぐに分かる」
彼方とテトラは揃って来た道を引き返そうとして、振り返る。
そして、そこに。
「おや?」
すでに聞きなれてしまった男の声がして、思わずその足を止めた。
「……何で、アンタがここにいるんだ」
「何をしている、東真泉水」
二人の目の前にいたのは、泉水だった。
相変わらずの真っ黒なスーツ姿で、まるで闇の中に紛れ込んでやってきたように感じさせるものがある。
「それはこちらのセリフですよ。あなた方こそ、何をしているのです? 特に一条君、君も学生なのですから、夜遊びするにも限度というものをわきまえるべきです。教師として見過ごせませんね」
「……昨日の今日で赴任したくせに、いきなりお説教かよ」
「これも努めですから」
と、泉水は軽く笑って聞き流す。
「前置きはどうでもいい。何をしているのだと聞いているのだ。まさかとは思うが、また何かしらの術式を街に施すつもりではあるまいな?」
「やろうと思えばできないこともありませんがね。ですが、昼間も言ったように、同じ過ちを繰り返すつもりはありませんよ。私がこうしてここにいるのは、あなた方と似たような目的ですから」
「どういうことだ?」
「次元開放円の術式を施した際に、私はこの街の六ヶ所の地点に術式の補助の役割を果たす陣を用意しました。次元開放円そのものは失敗に終わりましたが、補助の陣はまだ完全に破壊されていない可能性があります。ですので、一応自分の足で確かめて、必要とあらば痕跡を消しておこうと思いましてね」
「……本当だろうな?」
テトラは疑い深く、食い下がらない。
「そこまでだ、天赫焔」
と、頭上から新しい声が降り注ぐ。
静かに翼をはためかせながら、夜に溶け込むような体躯を浮かび上がらせたのはアルタミラだった。
「疑うなと言うのが無理かもしれぬが、ほどほどにしておけ。我が主をそれ以上愚弄することは赦さん」
「いいのだよ、アルタミラ。私はそれだけにことをしでかしてしまったのだから。それに、こういう言われ方は慣れている。今更どうということもない」
「……まぁいいだろう。だが、そういうことなら私と彼方もその場に同行させてもらうぞ。どんなきっかけで気が変わるとも思えないからな」
「もちろん、構わないさ。むしろその方がいいだろう。立ち会ってくれるのならそれに越したことはない」
泉水は踵を返す。
「では行こうか。あまり長々としているわけにいかないだろう、お互いに」
一歩先を歩き出す泉水に続き、彼方とテトラ、そしてアルタミラが続く。
「ここです」
まず最初に行き着いたのは、数分ほど歩いた裏通りの一角だった。
今ではすっかり薄れてしまっているが、目の前にある壁にはうっすらと模様のようなものが浮かび上がっている。
泉水はまず壁に手を触れ、静かに目を閉じた。
やがてその目を開き、確信する。
「やはり、思ったとおりだ。わずかだが、放出した魔力の残滓が漂っている。放っておけば、この魔力もナキガラのエサになっていたことでしょう」
「ナキガラは、人や動物以外からでも魔力を吸収できるのか?」
「もちろんです。早い話が拾い食いを繰り返して力を強化していくようなものだからね。道端に大金が落ちていて、拾わない人間はそうはいないでしょう?」
分かりやすいが、どこか嫌な例え方だった。
「で、どうするんだ? やっぱり呪文を使うのか?」
「普通はそうですが……この程度のことに魔力を裂くのも逆に面倒です。本来なら回収という呪文を使うのですが……」
言いかけて、そこで泉水は振り返る。
「一条君、君の持つドレインダガーを貸してもらえますか?」
「ドレインダガーを?」
「そうです。あれもさっきのナキガラの話と同じで、別に攻撃対象は生物に限られたことではない。無機物でもいいのだよ。私がこの壁をドレインダガーで切りつけるのが、一番手っ取り早いでしょう」
「……でも、それなら俺がやってもいいけど?」
「確かにそれも可能ですが、できればやめておいたほうがいい」
「どうして?」
「回収するべき魔力が、元は私のものだからです。魔力が血液と近い働きであることは知っていますね? ならば、それをそのまま輸血という考えに当てはめれば分かりやすいでしょう。A型の人間にB型の血液を輸血したところで意味はないでしょう? それと同じことは魔力にも言えることです。魔力はそれぞれの固体によって違いがある。相性の悪いものが混ざり合えば、それだけで拒絶反応が出て、結果的に肉体や精神に影響を与えることになってしまう。この場合、私と君の魔力と言うことになりますがね」
「……けど、俺はテトラから魔力を受け取ったけど、別に何ともなかったぞ?」
「魔術師とその使い魔が相性が悪くては話にならないでしょう? 使い魔が主を選ぶ理由には、そういう相性も含まれています。君とケルベロスの相性がいいのは当然のことです」
「……天赫の、そのことに関して説明をしていなかったのか?」
「……説明するほどの事態に見舞われていなかっただけだ。時が来れば、いずれ語ろうと思っていた」
アルタミラの問いに、どこかふてくされたような表情でテトラは返す。
「まぁ、そういうわけです。できるなら私が回収を行いたい。自分の蒔いた種を枯らす意味も兼ねて、ね」
「……分かったよ」
彼方はドレインダガーのカードを取り出し、魔力を送り込んで具現化し、泉水に手渡す。
「済まないね」
受け取り、泉水はそれを静かに壁に突き立てた。
ギンと、壁の一部が砕ける音が夜の中に響き渡る。
ドレインダガーを突き立てた一点に、壁の紋様が吸い寄せられるように集まった。
やがてそれらは刃先を通じて泉水の体へと流れ込み、音もなく消えていく。
「……よし。これでいいでしょう」
突き立てたドレインダガーを戻し、泉水はそれを彼方に返す。
彼方は試しに、その壁に手を触れてみた。
「……本当だ。さっきまであった魔力が、今はすっかりなくなってる」
「これで、少しは信用してもらえたかな? 少なくとも、後始末はしっかりとやるつもりなのですが」
「……ま、少しはね」
「それはよかった」
泉水は満足そうに微笑む。
「でも、あと五ヶ所も残ってるんだろ? だったら、さっさと全部片付けに行ったほうがいいんじゃないか?」
「その通りですが、距離の離れている場所もありますから。今からだと、あともう一ヶ所が限界でしょう。残りは明日以降にでも始末するつもりです」
「だったら、とりあえずこの後始末が一段落するまでは、一緒に行動してやるよ。これがあったほうが楽なんだろ?」
彼方はドレインダガーを戻したカードを手にして言う。
「それは助かります。ですが……」
「何だよ。問題でもあるのか?」
「いえ……一応、私も一教師ですからね。教え子の夜遊びを黙認するのはいかがなものかと思いまして……」
「……そんなこと言ってる場合かよ。ったく、何考えてんだか……」
本当に考えの読めない男だと、彼方は内心で呆れ果てた。
「それでいいよな、テトラ?」
「彼方がそうすると言うのなら、私に依存はない。見届けなくてはならないとも思うしな」
「……分かりました。では、そういうことでお願いします。とりあえず今夜中に、もう一ヶ所の方に……」
そこまで言いかけたところで、泉水はふいに言葉を途切れさせた。
気のせいか、その表情がわずかばかり険しくなったようにも見える。
「……おい、どうしたん」
どうしたんだと言い終えるより早く、彼方はその気配に気づいて反射的に振り返った。
テトラもアルタミラもその気配を察し、警戒心を剥き出しにして同じ方向を見ている。
暗い闇の向こう。
何かがこちらに向かってやってきていた。
その気配は、明らかに異質さを含んでいた。
うまく言葉にできないその雰囲気は、不気味の一言に尽きる。
やがて、足音が少しずつ大きくなる。
闇の中から、シルエットが浮かび上がった。
「……ありゃ? おっかしいなぁ、確かにこの辺りからだと思ったんだけど……」
闇の中から出てきたのは、一人の女性だった。
その長い銀色の髪の毛は、昼間であったら間違いなく人目を引くだろう。
女性は肩に何やら長い棒状のものを背負っており、反対の手には小さめの旅行鞄らしきものを持っている。
あらゆる意味で、時間と場所に不相応な外見だった。
もっとも、それはこの場にいる彼方や泉水とて例外ではないのだが。
「むー、私の気のせいだったのかなぁ……」
と、何やら女性は悩むように唸っている。
まるで道に迷った旅人のようだった。
「何を言っているの。悩む前に、目の前の光景を確認するべきではないの?」
と、どこからか新しい声が一つ増える。
その出所を探すと、ちょうど女性の足元で何かが動いていた。
そこから顔を覗かせたのは、一匹の白い猫だった。
いや、それは問題ではない。
問題なのは、その猫がつまり……喋っていたということだ。
「あ、レイン? 何よ、どういうこと? 目の前って言ったって、別に……」
当然のように足元の白猫に話しかけ、ようやく女性はこちらを見向く。
「…………」
そして、目を丸くして硬直した。
「……え、嘘? いつからいたの?」
「最初からずっといたわよ。本当にアナタって、周りのことが目に入ってないのね……」
呆れたような口ぶりで白猫が嘆息する。
「いやー、参ったなぁ……」
言いながら、女性は照れるよな仕草で頭をかいた。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
そんな様子を、二人と二匹は黙って眺めていた。
何というか、別の意味で言葉を挟む隙が見当たらなかった。
胸の中にある緊張感とは全く別に、どうにも妙な空気が流れ出している気がする。
と、そんなときだ。
女性は何を思い出したのか、今更になってこちらを向き直り、照れ笑いしたままの表情で言った。
「――あ、どうも初めまして。私、久遠藍瀬って言います。いやー、実は私、こう見えて人間じゃないんですよー」
いきなり、とんでもないことを言ってのけた。
その足元で、白猫はもうダメだといった様子でガックリと頭をうなだれていた。
本当に、何がどうなっているのだろう……?