第二十四話:介入
目に見える範囲での大きな変化は特になかった。
一日くらい学校を休んだところで、確かにそれはどうというわけではない。
ただ、密やかに……というよりは、人の噂に戸は立てられぬという言葉もあるように、ある種の話題が生徒達の間では上がっていた。
その原因の種は、彼方のクラスのある一人の女子生徒のことだ。
もう二週間以上に渡って欠席を続けている生徒の机。
今日になっても、彼女の席は空っぽのままだった。
生徒の名前は桐原灯香。
ある日を境に家に戻らなくなり、そのまま行方不明となってしまっていた。
最初の一週間程度は病気などの言い訳でも十分に通じたが、それを過ぎた頃からは妙な噂の一つも出てくると言うものだ。
ある噂では、何かの事件に巻き込まれて人質になってしまったとか。
別の噂では、神隠しにあって失踪してしまったのだとか。
根も葉もないような噂話だけが一人歩きして、もはや手のつけようがなくなってしまっている。
もっとも、学校側としても桐原が行方不明になってしまったという連絡はすでに受けており、その事実をうまく隠しきれるような状況で
もなかった。
一応そういう根拠のない噂は立てないようにとの忠告はあったのだが、時はすでに遅い。
そういう圧力がかかったことで、噂話の信憑性は一気に増していった。
とってつけたような話はさらに増え、今では何が何だか分からなくなっているほどだった。
「…………」
昼休み、彼方は一人で屋上にいた。
いつものように購買で買ってきたパンとパックの飲み物を胃の中に収め、何をするわけでもなくぼんやりと過ごしていた。
教室にいれば何かしらの話題に入れたとも思うが、今となってはその話題の大半が桐原の失踪に関することなので、それは彼方にとっては胸の痛む原因にしかならないことだ。
「……はぁ」
溜め息しか出てこない。
あちこちで騒がれている噂話だが、実際のところその中には真実は何もない。
その真実を知っているのは、恐らく彼方だけだろう。
彼女は……桐原灯香は、すでにこの世にはいない。
どこを探そうとも、手がかりを掴もうとも、そんなものは何一つとして出てくることはないだろう。
ナキガラに同調された彼女は、自らの意思で抗うことも敵わず、死を受け入れることでその呪縛からの開放を望んだ。
そのための手を下したのが、他ならぬ彼方だったのだから。
だが、そんなことを他の人間においそれと話せるわけもない。
いや、話したところで誰も信じはしないだろう。
しかしそれでも、そういった類の噂話を嫌でも耳にするのはいい気分ではなかった。
彼方自身、その出来事に関しての踏ん切りがまだ完全についたわけではない。
ふと気がつくと、そのことを思い出しているときがある。
今でも鮮明に、あの時の桐原の表情が思い出せた。
最後の瞬間、桐原は泣きながら笑っていた。
感謝されるいわれなんて何一つないのに、それでも桐原はありがとうと、そう最後に呟いてくれた。
救えなかったのに。
何もできなかったのに。
それでも桐原は笑ってくれていた。
その笑顔は、同じ学校のクラスメイトとしては見たことのないような表情で。
普段大人しくて物静かな桐原からは、想像もできないような自然の笑みだった。
それを思い出すたびに、彼方は嫌でも考えさせられる。
本当にあれでよかったのか、と。
今になって考え出せば、もう少し別の手段があったんじゃないかと、そう考えてしまう。
けれど、やはり何度考え直してみても、あの時点ではあれが最善の方法だったということも間違いはなく。
救うことと殺すこと。
相反する二つの理念が複雑に混じり合い、重なり合い、交し合って得た、唯一の手段。
結果として桐原は救われたが、同時に命を落としもした。
それは、誰かを救ったということなのか。
それは、誰かを殺したということなのか。
彼方は今になっても、その答えが分からない。
分からない、けど……。
「…………」
ぼんやりと空を眺める。
少なくとも、桐原は笑ってくれていた。
それだけが、彼方の心を支える力になっているのかもしれない。
桐原の最後の表情が、曇りのない微笑みに包まれていたこと。
それを思うと、やはり……あれでよかったのだろうと、そう思えるときもある。
反面、その笑顔が痛々しかったのもまた事実で、それを思い出すと彼方は息苦しくなる。
重荷になっているわけではない。
ただ、どこかやりきれない気分がして仕方がなくなってしまう。
やはり、他に何か手段があったのではないか?
気がつけば繰り返すようにそう考えている。
けどそれは、全てが終わってから多少なりとも時間が経った今だからこそ思えるものでもある。
あの夜から今まで、過ぎた時間はそれこそ数えるほどでしかないが、できることは変わってきている。
今の力があの夜にもあれば、もしかしたら桐原は……。
「……俺は」
言いかけて、彼方はそこで言葉を止めた。
何を言っても、過去は変わらない。
だったら、辛いことも悲しいことも全部まとめて背負うしかないだろう。
そう、自分に言い聞かせることが今の彼方にできる精一杯だった。
こんな答えでも、桐原は納得してくれているだろうか?
それは分からない。
けど、それでも。
「……前を向いて、歩くしかない……よな」
彼方は立ち上がる。
思い切り背伸びをし、体の奥底に溜まった色んなものを外側に押し出していく。
と、ちょうどそのとき昼休み終了の五分前を知らせるチャイムが鳴り響いた。
「いけね、そういえば午後は移動教室だったっけ」
彼方は校舎内に戻り、大急ぎで教室へと走っていった。
午後の授業の一発目は美術だった。
というわけで、彼方のクラスの生徒は今、美術室にやってきている。
いつもなら担当の教師がやってきている頃だが、どうやら昼休みにあった職員会議の影響で少し遅れているらしい。
席に着いた生徒の多くは、適当に談笑を繰り広げている。
かくいう彼方も、いつもの顔ぶれの中で適当な会話を交わしていた。
「それ、マジなのか?」
「多分ね。友達が職員室の前を通りかかったとき、偶然立ち聞きしたらしいんだけど」
わずかに驚いて聞き返す大地に、斎はそう付け加える。
「でも、この時期に赴任してくるなんて珍しいよね?」
「まぁ、大人の事情ってやつじゃない? 色々とあるのよ、色々と」
「……色々、ねぇ」
彼方は適当に相槌をうっておく。
話の内容はというと、どうやらこれから始まる美術の担当教師が新しく赴任してきた人物になるとのことだった。
ちなみに今まで美術を担当していた先生は、ちょうど今年で定年を迎えることになる初老の人だった。
それを考えれば分からなくもない話ではあったが、なにぶん急な話だった。
そんな話題が多少なりとも広まっているのだろうか、他で談笑するクラスメイトの間からも似たような声が時々聞こえてきている。
「ま、ぶっちゃけあんま興味ないな。ねちっこい性格じゃなけりゃそれでいいよ、俺は」
と、大地は本当にどうでもよさそうに言ってのける。
だがまぁ、彼方としてもその意見には概ね賛成だった。
やってくる教師が美人系か熱血系かとかで一喜一憂するような場面でもないだろう。
まぁ、できるなら話しやすかったりとっつきやすい性格であることは願うが。
などと、そんなことを話していると美術室の扉がガラリと開く音がした。
クラス全員が一斉にその方向に向き直る。
何だかんだで、皆結構この手の話題は気になって仕方がないのかもしれない。
「遅れてしまってすまなかったね」
としかし、入ってきたのは今までどおりの担当教師である藤沢先生だった。
それを見た途端、クラス中のテンションがガクリと下がる。
やっぱりガセネタじゃないのかとか、そんな言葉が小声で行き来していた。
そんな中、クラスの男子の一人が挙手しながら問いかける。
「先生、噂で聞いたんですけど、新しい先生がきてるって本当っすか?」
「ん?」
その質問に、藤沢先生は少しだけ驚いた様子だった。
「何だ、もうそんなことまで話題になってるのか?」
「……ってことは……?」
と、また別の男子生徒が続ける。
「どこから仕入れたかは知らないが、確かにその通りだ。今もきてもらっている」
その発言を聞くなり、再びクラス中が湧き上がった。
同世代の転校生などならまだしも、新任教師でここまで盛り上がるとは……。
「やれやれ。君達が何を期待しているのか分からないが、これだけは言っておこう。新しい先生は男の人だぞ」
途端に、男子生徒のテンションが一気に下降した。
逆にボルテージが上がっていったのは女子生徒達である。
何というか、非常に分かりやすい反応だった。
「まぁ、あとは実際に自分達の目で見たほうが早いだろう」
藤沢先生はそう言うと、一度廊下まで戻る。
「先生、こちらへ」
「はい」
その声から察するに、かなり若いイメージだった。
二十代後半か、あるいはもっと若いかもしれない。
いや、それよりも何よりも。
「……あれ? この声、どっかで…………」
「彼方、どうしたの?」
「いや……気のせいか?」
どこかで聞き覚えのあるようなその声。
やがて、入り口の扉にそのシルエットが浮かぶ。
まず最初に目の中に飛び込んできたのは、嫌でも目立つその金色の髪だった。
しかもその髪の毛はかなり長く、首の後ろで一度束ねてあるにもかかわらず、腰の辺りまでの長さがあるものだった。
前髪はオールバックにしてあるのだが、そこから二本ほどまるで虫の触覚のように跳ねた部分がある。
「…………」
次に服装だが、全身を真っ黒なスーツに包んでいた。
まるで喪服を思わせるような徹底ぶりで、ネクタイまでもが真っ黒である。
彼方はこれが夢ではないかと、我が目を何度も疑った。
いや、夢であってくれないと色んな意味で大変なことになってしまうだろう。
だって、そうだろう。
一体何が理由で、目の前に新任教師を名乗って現れた人間が…………。
「…………おいおい、何かの冗談……だよな? そうだと言ってくれ」
――どこをどう見ても、目の前に立つ男は…………東真泉水、その人であった。
「はじめまして。今日から美術の担当をさせていただくことになりました、東真泉水と言います。よろしくお願いしますね、皆さん」
としかし、泉水は何事もないようにすんなりと自己紹介を述べていく。
一部の女子はかなり騒いでいる。
恐らく見た目が好みのタイプだったのだろう。
まぁ、確かに泉水の外見は男女問わずに見ても整った顔立ちだし、背も高いのでそういう印象を受けることは不思議ではないのだが……って、そんなことはこの際どうでもいいわけで。
「……どうなってんだよ、一体……」
(……分からん。だが、油断は禁物だ。あの男が何も考えずに行動する理由がない)
テトラの忠告を彼方は素直に受け取っておく。
と、そうこうしているうちに彼方と泉水の目が合った。
マズイと、彼方は慌てて視線を逸らそうとするが、対する泉水はどういうわけか小さく微笑んだだけだった。
その笑みが逆に不気味で、また何かよからぬことを企んでいるのではないだろうか。
あるいは、先日の借りを返しにきましたとかで再戦なんかが始まってしまうのではないだろうか。
などと、思い浮かぶのはマイナスイメージのことばかりだった。
彼方は机に突っ伏して、両腕で思いっきり頭を抱える。
「彼方、どうした? 気分でも悪いのか?」
何も知らない大地が聞いてくる。
「……ああ、最悪だ。色んな意味で」
「はぁ?」
そんなこんなで、午後の授業が静かに始まっていくのだった。