第二十三話:痛覚
「…………」
「…………」
「…………」
……単刀直入に言おう。
部屋の中の空気が、最悪です。
「…………」
「…………」
「…………」
もうかれこれ、こんな沈黙が始まってから二十分近くが経過しようとしていた。
誰もが進んで口を開こうとはせず、かといって待っていても他の誰が口を開くわけでもなかった。
今、彼方の部屋の中には二人と一匹がそれぞれ座っている。
一人は彼方、一匹はテトラ。
そしてもう一人は…………西花である。
「…………」
彼方は横目で、そこに座る西花を見てみる。
が、相変わらず西花は黙ったままで、まるで彼方から口を開くのを待っているような感じだった。
一応、お見舞いという名目でこうしてきてくれたわけなのだが、それにしてはこの重苦しい空気は一体何なのだろう。
とはいえ、何となくその沈黙の理由に心当たりがないわけでもない彼方としては、どうにも微妙な心境だった。
かけるべき言葉は探せば見つかりそうなものだが、かといってそれを素直に口にしていいものかどうか、悩んでいた。
一方テトラは、何も言わずに部屋の隅で体をたたんでいる。
空気が重い。
本当に酸素を取り込んで二酸化炭素を吐き出しているのかどうか、疑ってしまいたくなるほどに。
「…………」
だがしかし、いつまでもこの耐えられない沈黙の中に入り浸っているのも、それはそれで体に毒のような気がする。
それに、どの道こういう根競べで最初に折れるのは彼方の役目なのだ。
昔からいつもそうで、それは多少なりとも成長した今でも何も変わってはいない。
そういうわけで、彼方はすっかり枯れてしまったのどで言葉を搾り出す。
「……悪いな。わざわざ来てもらって」
「……うん」
と、話しかけてみるととりあえずの返答はもらえた。
だが、その声の様子からして期限の良し悪しで言えば間違いなく悪い方だと分かった。
声に覇気がないというよりも、感情を押し殺してただ機械的に受け答えをしているだけのようだった。
「……まぁ、ただの風邪だからさ。早けりゃ明日からは、またいつもどおりに学校行けると思うし」
「……うん」
「……何か、連絡とかあったか? 課題出されたとか、そういうの」
「……うん」
「何?」
「……うん」
「…………」
これは非常にまずい状態かもしれない。
彼方はそう思った。
聞くべきか、聞かざるべきか。
一瞬悩んだが、彼方は恐る恐るその言葉を口にする。
「…………怒ってます?」
「…………」
返事はなかった。
だが、それが逆にその事実を肯定していた。
間違いなく、西花は不機嫌度二百五十パーセントオーバーの臨界点突破状態である。
分かりやすく説明するならば、彼方はこれから殺されるかもしれないということだ。
いや、冗談抜きで……。
「…………して」
ポツリと、西花が独り言のように囁いた。
「……え?」
彼方はその言葉を聞き取れず、西花に一度聞き返す。
「…………どうして、そう思うの……?」
再度聞いて、西花はゆっくりと伏せていた顔を上げた。
その表情は特別な感情で満ちていたわけではなかったが、彼方は今までの付き合いの長さから本能的に察知する。
聞かなければよかった、と。
「……いや、別に……どうってわけじゃないけど」
言葉がどうにも上ずってしまう。
「……何か、そんな風に見えた、から……?」
どうして質問に対して疑問系で返してしまうのだろうか?
そんなどうでもいいことを思ったときには、すでに遅かった。
西花の表情がわずかに強張り、目をやや細めた冷めた表情で彼方を見返していた。
「……っ」
気圧され、半歩ほど身を引く彼方。
後ろを振り返ってテトラを見るが、あっけなく視線を逸らされた。
薄情な使い魔だ。
「ねぇ」
「は、はい……?」
何でもないその一言に、何故だか背筋が凍る思いがした。
ああ、これが世に言うところの死亡フラグというやつだろうか?
などと、彼方はそんなどうでもいいことを思い浮かべる。
しかしまんざらでもなく、何かしらの危機的状況が目の前に迫っているのは明白である。
ひょっとしてひょっとすると、このままボコボコにされて入院直行コースにされてしまうのかもしれない。
そんなことを想像したら、さらに背筋に寒気が走った。
気のせいか、嫌な汗が額の辺りに浮かび始めている気がする。
「本当に風邪だから、学校休んだの?」
「な、何だよいきなり……」
「答えて」
「っ……」
西花の押し迫るような態度の前に、彼方はさらに追い詰められる。
「……そうだよ。学校にも、そういう風に連絡いってるだろ?」
「……本当?」
「何だよ、しつこいな……」
と、そう言ったところで視線を逸らしてしまったのが決定打になった。
西花は彼方の言葉が嘘だと確信し、さらに畳み掛けるように言葉を続ける。
「でもさ、風邪だったら普通、部屋の中になんて通さないよね?」
「う……」
「一応私も、源三さんにそんな風に話したんだけど。構わないから上がっていってくれって。おかしくない?」
「……あ、う」
何やってんだよジーちゃんと、彼方は内心で叫んだ。
が、もう何もかもが遅い。
「……もう一回聞くよ」
静かに、そして低い声で西花が言う。
「嘘なんでしょ? 風邪で学校休んだわけじゃないんでしょ?」
「…………」
もはや言葉の逃げ道はなかった。
彼方は仕方なく諦めると、大きく溜め息を一つ吐き出し、答える。
「……ああ、風邪ってのは嘘」
「じゃあ、理由は何?」
「……全身筋肉痛」
「それも嘘じゃないでしょうね?」
「……この状況で堂々と新しい嘘をつけるほど、俺が器用な人間だと思うか?」
「…………」
今度は嘘偽りなく答えたのだが、それでも西花はしばしの間考え込むように彼方を睨みつける。
まるで蛇に睨まれた蛙のように、彼方は半歩引いたままの状態で視線を交わす。
「……ま、そういうことにしておいてあげる」
「……だから、嘘じゃないっての……」
そうは言うが、すでに一度嘘をついているのだから信用度が低いのは当然だろう。
それでも何とか、西花はとりあえず納得はしてくれたようだった。
表情もいくらかは落ち着いた様子になっている。
「じゃあ本題ね」
「って、まだ尋問が続くのか?」
言い返した途端、鋭い眼光で睨みつけられた。
彼方は抵抗を諦める。
触らぬ神に祟りなしである。
もっとも、すでに目の前の神は相当お冠の様子なのだが……。
「それじゃ、どうしてそんな全身筋肉痛なんかになったのよ? 彼方、運動部に所属なんかしてなかったよね?」
「……いや、それが実は最近になってから陸上部に」
入部したんだと言おうとしたが、その目が嘘ついたら殺すと物語っていたのでそこで言葉が止まった。
「……入部なんてしたわけもなく……はい、所属してません」
「じゃあ、何で?」
「……いや、何でと言われてもな……」
この場合、どう説明すればいいのだろう。
一応、西花も彼方がナキガラと呼ばれるものを狩っていることは知っている。
が、それに関しては彼方もテトラも具体的な内容は何も話していない。
もちろんそれは、何も関係のない西花を巻き込まないようにとするための配慮だ。
それに、言葉ではうまく説明できるものだとも思えない。
かといって目の前でこういうことだと知らしめるには、それはそれである意味で残酷なことになるだろう。
さて、どう説明したものだろうか……。
彼方は一度だけテトラに視線を送るが、テトラの目も彼方と同じことを無言で物語っていた。
余計なことに巻き込む必要はない、と。
その意見には彼方も同意だった。
しかし。
「…………」
目の前の西花は、そう言ったところできっと納得はしてくれないだろう。
理解はできるかもしれない。
けど、理解することと納得することは全く違うことだ。
頭では分かっていても実際に何もできないことが世の中には嫌というほどある。
それと同じことだ。
だから。
また、嘘をつくことになる。
けれど、今回は少しだけ工夫した、バレにくい嘘を。
見破られにくい嘘のつき方を知っているか?
それは、嘘の中に何割かの真実を含ませておくことだ。
けどそれは、その時点で嘘ではなくなり、同時に真実でもなくなる。
この場合、それは何と称されるものになるのだろうか。
そこにあって、しかしないもの。
そこになくて、しかしあるもの。
仮の事実。
さしずめ、幻想とでも称するべきだろうか。
たとえまやかしでも、納得を促す材料としては十分だろう。
「……前に、言ったよな? ほら、ナキガラってのを倒してるって」
「……うん」
「そのためって言うか……いくら魔術師だからって、何でもできるってワケじゃなくてさ。体は人間のものだから、走ったりしてればそりゃ疲れもするわけでさ。だから、そのための基礎体力をつけるためっていうか……まぁ、そんな理由で」
「…………」
彼方は嘘は言っていない。
けれど、同時に肝心な部分については何も話してはいない。
ナキガラという存在は、決して一筋縄ではいかないものだということ。
場合によっては、彼方側が命に関わる危険に見舞われることもあること。
……そして、何より。
――彼方はすでに、その手で人を一人殺してしまってるということ。
それらを隠して、それらしい言葉を選んで繋げた。
つきたくてついた嘘じゃない。
ただ、自分の周りの人達を巻き込みたくなかっただけ。
この理由で納得してくれないのなら、これ以上はどうしようもない。
たとえどんな風に思われるようになっても、これ以上のことは言えない。
言えばきっと、西花の性格上……癇癪を起こしたように怒鳴り散らしてくるだろう。
その罵倒を、お前には関係ないの一言で一蹴することは簡単だ。
いや、実際それが一番手っ取り早い答えなのかもしれない。
けど、できることならその言葉は選びたくはなかった。
言ってしまえば、それだけで色々な何かがガラガラと音を立てて崩れ落ちてしまいそうな……そんな気がしたからだ。
「……はぁ」
と、西花は深く溜め息を一つついた。
聞き返してこないところを見ると、一応の納得はしてくれたのだろうか?
だとしたら、彼方にとってはそれに越したことはない。
多少の罪悪感は残るが、巻き込まずに済むならそれはそれでいい。
……はず、だった。
なのに、西花が続けた言葉は、そんなことを最初から全部見通していたようなものだった。
「――相変わらず、彼方は嘘をつくのがヘタなままだね」
呆れた表情で、西花はそう言った。
「……な、何言ってんだよお前」
「はい、ストップ」
言いかけたところで、西花の静止がかかる。
「自分のクセ、気づいてないでしょ? 彼方、昔っから嘘つくときは、視線を逸らすか一言目を噛むんだよ」
「…………」
ズバリと言われたものの、彼方にはそんな自覚などこれっぽっちもなかった。
なくて七クセとは言うが、まさかこんなところにその一つがあったとは……。
「……それに、うまく隠してるつもりみたいだけど」
西花は言いながら、彼方の肩の辺りを平手で叩く。
「い……っ!」
そこはちょうど、泉水との戦いで強くぶつけた部分だった。
服の下ではシップと包帯で処置してあるが、痛みはまだしっかりと残っている。
「ほら、やっぱりケガしてるじゃん」
と、小さく笑いながら西花は言う。
「っ、お、お前な! 分かってるならもうちょっと加減ってものをしろよ! 思いっきり叩きやがって……」
肩口をさすりながら彼方は言う。
「あはは」
としかし、西花は笑う。
「あのな、笑い事じゃ」
言いかけて、振り返った彼方は硬直する。
「はは、は……」
「……西花……?」
どういうことなのか、全然ワケが分からなかった。
――西花の声は確かに笑っているのに、その目は確かに泣いていた。
「……あ、れ? あれ、何で……私、何で…………?」
「…………」
西花は自分でも分からない様子で、慌ててその涙を袖口で拭う。
しかし、堰を切ったように涙が止まらない。
彼方は何も言えなかった。
ただ、頭の中にぼんやりと、今と似た記憶が甦りつつあった。
ずいぶんと昔の話だ。
彼方がこれ以前に泣いている西花の姿を見たことがあるのは、たった一度だけ。
……そうだ。
確か、あのときも……。
こんな風に、体はボロボロになっていて……。
「……っ」
思い出そうとすると、彼方の頭の芯がズキンと痛みに襲われる。
不意打ちで頭をハンマーで殴られたような衝撃で、彼方は思わず頭を抱えて目を伏せた。
「……彼方?」
すぐ横で、西花のそんな声がする。
「……っ、う……」
ズキン、ズキン、ズキン。
頭が潰れそうになる。
釘を脳に直接打ち込まれているようだった。
「彼方、ねぇってば!」
「彼方!」
西花に次いで、テトラの声。
二つの声がやけに頭に響く。
閉じたまぶたの裏。
真っ黒だったそのスクリーンに、いつかの光景がフラッシュバックのように映り始める。
映画のワンシーンをいくつも張り巡らせたような、静止した映像が次から次へと流れ込んでくる。
次々と、次々と。
一方的に流れ込んで、やがて全てが真っ白になった。
「っ!」
そして一瞬だけ、世界の音が消える。
が、すぐに世界は元通りになり、音も景色も正常になる。
「……あ」
「彼方、大丈夫か? 頭が痛むのか?」
「わ、私、源三さん呼んでくる!」
立ち上がり、部屋を去ろうとする西花の腕を彼方は取る。
「え?」
「……大丈夫。もう、収まった。少し休めば、それでいいから……」
「で、でも……」
「本当に大丈夫だから。今の俺が嘘言ってるかどうか、お前なら分かるだろ?」
「……うん」
彼方の言葉に制され、西花はその場に立ち尽くす。
「……少し、休むよ。まだ疲れが抜け切ってないみたいだ」
「……うむ。その方がいいだろう」
「…………」
「そんな顔すんなよ。らしくないな」
不安げな表情のままでいる西花に、彼方は言う。
「だって……」
「……大丈夫だよ。俺は…………俺だ」
「あ……」
その言葉だけで、全ては伝わっただろう。
西花の涙の意味も、何もかも。
「……彼方」
「ん?」
「……また明日、学校でね」
「……ああ、また明日」
そう答えると、西花はどこか安心したように小さく笑い、そのまま部屋を後にした。
その姿を見送ってから、テトラが耳打ちする。
「……彼方よ。ああは言ったが、本当に」
「大丈夫だよ。大丈夫だ」
「……なら、いいのだが……」
テトラの言葉を遮って、彼方は言い切る。
いや、それは誰に向けた言葉でもなかったのかもしれない。
恐らくは、他でもない…………自分自身に向けたものだったのかもしれない。