第二十二話:青空
空が高い。
「…………」
彼方はゆっくりと、自分の部屋のベッドの上で目を覚ました。
最初に目の中に飛び込んできたのは、白い天井。
起き抜けの自分がいつも最初に見ているものだ。
「……あ、れ?」
首から上だけを動かし、彼方は部屋の中をぐるりと見回す。
見慣れた机、クローゼット、本棚。
間違いなく、ここは自分の部屋である。
だからこそ、おかしいのだ。
「……何で、ここにいるんだ……?」
彼方は上半身だけを起こそうとする。
が、その途中で体のあちこちに走る痛みに思わず呻いた。
「……っ!」
体中のあちこちがギシギシと音を立てているようだった。
マラソンを終えた翌日の筋肉痛のようで、体がまるで油の切れたロボットのよう。
「痛……」
その痛みに耐えながら、彼方は何とかベッドの上で体を起こす。
カーテンは開け放たれ、外からは風が入ってきていた。
窓の外を見上げてみると、まるで台風が過ぎた翌日のような快晴の空がそこにあった。
どこまでも青く澄み渡り、流れる雲もどこか気持ちよさそうに見えてくる。
が、そんなことは今はどうでもよかった。
今更になって思い出して、彼方は思わず表情を険しくする。
「そう、だ。術式は……次元開放円は、どうなったんだ……?」
一人呟くが、その問いに対する返事はない。
「……テトラ?」
と、彼方はその名を呼んでみる。
しかし、部屋のどこからもその名を持つ存在の返事はなかった。
いつもならベッドの隅で寝ているはずなのだが、今はその姿が見えない。
出歩いているということも考えられるが、テトラの性格上そういうことはしそうにはない。
だとすると、もしかしたら……。
嫌な予感が彼方の頭を横切った。
そんなはずはないと、自分の言葉を否定する。
が、そんなことじゃ不安は消えない。
枕元には、いつも身につけているロザリオが置いてあった。
しかし、その中にもテトラの姿は見えない。
とにもかくにも、彼方はベッドから無理矢理起き上がって家の中を探すことにした。
体が言うことを聞かないというのは、まさに今、このような状態のことを言うのだろう。
「……これは、キツイかも」
一段ずつ、彼方は慎重に階段を下る。
しっかりと手すりを掴んではいるものの、うっかり足を滑らせでもしたら、そのまま廊下まで一直線に転がり落ちてしまう。
そうなればケガ程度じゃすまないだろうし、何よりこの全身ガタガタの状態ではひどい結末しか見えてこない。
普段は何も考えずに上り下りしている短い階段なのに、今だけは地獄に通じるもののように見えて仕方がない。
と、そんな恐ろしい想像をしているうちに何とか階下まで下りきる。
心なしか安堵の息をついて、彼方はまず台所へと向かっていく。
「あれ?」
としかし、そこにはテトラはおろか源三の姿さえ見当たらない。
家の中で、源三が一日で一番多くの時間を過ごす場所が台所周辺なのだが、この時はいなかった。
とすると、家の中で次にいる可能性が高いのは和室あたりだろうか。
彼方は踵を返し、奥の和室へと足を運ぶ。
ふすまを静かに引いて、中を窺う。
しかし、そこにも源三の姿はなかった。
部屋の中はがらりとしており、わずかに冷えた空気が立ち込めている。
「ジーちゃん、出かけてるのかな?」
そんなことを思いながら、彼方は和室の壁掛け時計に目を向ける。
現在の時刻は、昼前の十一時五分。
もしかしたら昼食の買い物にでも出かけているのかもしれない。
などと考えていた直後に、彼方はふと思う。
十一時過ぎと言うことは、間違いなく学校は授業中である。
今になって思い出すが、今日は休日でも祝日でもなく平日なので、当然学校もいつもどおりにあるはずだ。
だがまぁ、今頃になって大騒ぎしたところで仕方もないだろう。
もとより、こんな体じゃ学校へ行くまでの道の途中でへばって動けなくなってしまうのが目に見えている。
源三のことだ、学校側にはうまく連絡してくれているだろう。
彼方は和室を後にし、念のため家中を探してみることにする。
源三は本当に出かけているのだとしても、やはりテトラの姿が見当たらないのは気にかかる。
万が一、なんてことは考えたくもないが、それがあってからでは手遅れなのだ。
廊下を進み、突き当りを曲がった。
その時だった。
彼方は、目の前にありえない景色を見た。
縁側のそこでは、源三は両手で茶碗を持って茶をすすっていた。
まぁ、それはいい。
こういうのはお年寄りにはよくある光景なのだ、特に珍しいというわけでもない。
……だが。
一つだけ、違和感があるとすれば、それは間違いなく……。
「…………テトラ、さん?」
我が目を疑いつつも、彼方は恐る恐るその名を呼んでみた。
その、ありえない光景の中にある……。
縁側でお茶を飲む源三の隣で、警戒心ゼロのまま、日向ぼっこを楽しむ犬のように寝そべるテトラの姿を。
「……む?」
「ぬ?」
と、源三とテトラはほぼ同時に彼方の声に気づき、振り向いた。
「おお、ようやく起きてきおったか」
「彼方よ、もう体の具合は大丈夫なのか?」
と、違和感の欠片も感じさせずに言い放つ一人と一匹。
彼方はその時だけは全身の痛みを忘れて、思いっきり突っ込みを入れたい気分になった。
「……で、どういうことなんだ」
「どうもこうも、今説明したとおりじゃよ」
「うむ、そのとおりだ」
「……頭が痛くなってきた」
「やはりまだ傷が癒えていないのだ。もうしばらく横になったほうがいいのではないか?」
「そうじゃぞ。いくら若いからって、疲労や傷が一日やそこらでなくなるわけがなかろう。しばらく大人しくしておくことじゃ」
「……いや、そういう意味じゃないんだけど」
ないんだけど、これ以上言っても頭痛がひどくなる気配しかしないので彼方はそこで言葉を止めておく。
それよりも何よりも、この違和感をまるで感じさせない組み合わせは何なのだろう。
と、考えたところで頭痛がし始めたので、やはり彼方は後回しにすることにした。
「さてと」
源三が立ち上がる。
「ワシはぼちぼち、昼飯の支度に取り掛かるかの。彼方よ、食べれそうか?」
「あ、うん。腹は減ってる」
「そうか。まぁ、何か消化しやすいものでも作ってやろう。少し待っとれよ」
そう言い残して、源三は廊下の奥へと去っていった。
「彼方よ」
その背中を最後まで見送ってから、テトラが口を開いた。
「ん?」
「もう動いても大丈夫なのか? やはり、もう少し眠ったほうがいいと思うが」
「まぁ、確かに体中あちこち筋肉痛みたいになってるけどな。それに、今起きたばかりでもう一度寝るのは難しそうだ」
「ふむ、それもそうか」
頷き、テトラは目を伏せる。
「……済まなかった」
ふいに、テトラが呟く。
「……何だよ、急に」
「……またお前に、無理をさせてしまった。やむをえなかったとはいえ、褒められたことではない」
「気にするなよ、そんなの。それに、無理でもしなきゃ止められない相手だっただろ?」
魔術師、東真泉水は桁外れの魔力の持ち主だった。
元から単純な魔力の差では勝ち目はないと分かっていたが、実際に目の当たりにしたそれは驚愕のものだった。
そんな相手をギリギリにでも止めることができたのは、正直言って運がよかったの一言に尽きる。
勝てたというより、勝たせてもらったの方が正しいかもしれない。
ともあれ、最悪な結末を回避できたことを今は素直に喜ぶべきなのかもしれない。
それはというのも、テトラの力があったからこそだった。
「…………」
彼方はふと、テトラに目を向ける。
その額の、銀色の毛並みに遮られて今は見えないが、そこには新しい傷跡が刻まれているはずだ。
自らの額をドレインダガーの切っ先に押し付け、文字通りにその身を削って力を渡した行為。
彼方の手には、あの時の感触が今でもはっきりと残っている。
決して気持ちのいいものではないけれど、きっと生涯忘れることはないだろうと彼方は思う。
「……悪い、ちょっと我慢してくれな」
「む?」
テトラの返事を待たずして、彼方はその額の毛並みをそっと掻き分けた。
最初に謝っておいたのは、犬扱いされることを嫌がるテトラはこういうことも嫌がるだろうと思ったからだ。
が、思いのほかテトラは大人しく、気持ちよさそうにするわけでもないが、嫌がった様子も見せず、しばしそのままでいてくれた。
彼方は手をどける。
やはり、傷跡はくっきりとそこに刻み込まれていた。
恐らく、この先一生消えることのないだろう傷跡が一つ。
「……それ、消えないよな、多分」
「……かも、しれんな」
テトラは静かに答えた。
「だが、私はそれでも構いはしない」
「え?」
「この傷跡が、私がこの時代で生きた証になる。彼方というマスターと共に生きたという、確かな記憶になる。それならば、私はそういうのもいいのではないかと思うのだ」
テトラはどこか嬉しそうに言った。
「……そっか。なら、それでもいいかな」
「ああ、それでいい。この傷は、私が自ら望んで受け入れたもの。お前が気に病む必要など、これっぽっちもないのだよ、彼方」
まるで、我が子を諭すような言葉。
不思議と違和感や抵抗はなく、すんなりと受け入れられる。
「……それで、街は大丈夫なのか?」
「うむ。術式の発動は未然に防ぐことができたようだ。少なくとも、この街が直接的に何かの影響を受けるということはないだろう」
それを聞いて彼方はようやく一安心する。
本当に綱渡り名部分だらけだったけど、どうにかなったようだ。
「ただ、な」
と、テトラは言葉を続ける。
「直接的な影響こそないものの、間接的な問題もいくつか生じた。何しろあれほどの膨大な魔力を用いた術式だからな。遠目からでも、分かる者にはそれが何か分かってしまう」
「要するに、あれを見てまたナキガラが増えるかもしれないってこと、か」
「そういうことだ。今すぐに急増するということはないだろうが、あの魔力に導かれるようにして追々増えてくる可能性は高い。一夜明けた今でも、術式の六ヶ所の地点には特に強い魔力の名残があるようだ」
「まぁ、それくらいの代償で済んだならいいさ。街が丸ごと消えてなくなるかもしれなかったのに比べたら、安いもんだ」
「そうだな。まぁ、そういうわけで」
テトラは彼方を見上げ、変わらぬ表情で言う。
「またしばらく、忙しくなるだろう。よろしく頼むぞ、マスター」
「ああ、こちらこそ。優秀な使い魔で助かるよ」
言い合って、一人と一匹は互いに小さく笑った。
空はどこまでも青い。
一夜前の出来事を、まるで何事もなかったかのように消し飛ばしてしまうほどに。
……だが。
風は、常に吹く。
それがただ目の前を過ぎ去るだけか、あるいは、嵐となって襲い掛かるか。
それはもう少し、先の話になるだろう。
今はこの、青天の下に免じて、わずかばかり次の嵐を遅らせることとしよう……。