第二十一話:幕
「……っ、ここ、まで来て……諦める、ものか……」
泉水の体がよろめく。
先ほどのアクエリアス召喚の魔術で、相当量の魔力を消費した体は重苦しい。
いや、単に召喚するだけならここまで強く疲労が残ることは本来ない。
あったのは、召喚の魔術の副作用とも言うべき、唯一のデメリットだった。
召喚魔術は、召喚したものが消滅するとき、消滅の原因となった衝撃をそのまま魔術師へと伝達する。
百の衝撃がそのまま百で伝わるわけではない。
が、その痛みは間違いなく本物だ。
言うなれば、召喚したものと魔術師は目には見えない糸で繋がっており、それによって神経系まで共有しているようになるのだ。
それを踏まえると、あの月下星弓の一撃をまともに受けたその衝撃は計り知れないだろう。
魔術に対して無防備な物質であったのならば、恐らく跡形も残らずに粉々になっていたはずだ。
それがこうして、泉水がどうにか五体満足を保っていられたのは、ひとえにその身に宿る魔力のおかげだった。
しかしそれでもなお、受けたダメージはあまりにも大きい。
まさか彼方が真魔装などを所持しているなどとは、泉水も予想外のことだった。
「ぐ、あ……」
激痛に表情が歪み、足がもつれて崩れ落ちそうになる。
口の中には嫌と言うほど鉄の味が広がり、吐き捨てても吐き捨てても胃の奥からこみ上げてきている。
口の端を伝う血を拭うことも面倒で、泉水はよろめきながら歩く。
ほんの数メートルのはずの距離が、どうしようもなく遠ざかっている。
視界がぼやけ、意識は朦朧とし始めた。
気を抜けばその場に横たわり、そのままもう二度と目覚めることさえないかもしれない。
だが、それでも。
「諦めて、たまる……か……」
体はまだ動く。
例えどれだけ無様な醜態を晒したとしても、術式だけは何としてでも完成させるという、泉水の信念の表れである。
そうまでして泉水を突き動かしているもの。
それは、思い返せば気が遠くなるほどの過去のことだった。
だが、その頃を思い出すよりも早く、泉水にとっての確実な敵が一人、同じ場所に現れた。
「く……」
空間移動の呪文によってそこにやってきた人物を見て、泉水は思わず奥歯を噛み締めた。
「っ、間に合った、のか……?」
彼方は呟く。
目の前には、今にも折れそうな足で何とか地面に立つ泉水の姿と、屋上の地面の中央に描かれた奇妙な魔方陣があった。
魔方陣はその外周を白い炎に包まれており、足元には見たこともないような奇妙な記号が無数に書き連ねられていた。
とにもかくにも、その白い炎がこうしてまだ猛っているということは、術式は今もなお展開され続けているということだ。
だとしたら、のんびりと眺めている余裕はない。
どんな手段を使ってでも、阻止しなくてはいけない。
彼方は動く。
何をどうすればいいのか分からないが、根こそぎぶち壊してしまえばいいという考えだった。
だが、その行く手を。
「……行かせは、しない」
今のも消え入りそうな声で言いながら、泉水が立ち塞がる。
「ここまできて……終わらせて、たまるも、のか……じきに、術式は完成する。余計な邪魔を、する、な……」
敵意を満々にして放たれた言葉も、今はひどく弱々しい。
ポツリポツリと、泉水の体のあちこちから赤い雫が流れ落ちた。
黒いスーツのあらゆる箇所はバラバラに千切れかけ、その中から覗く白いシャツと地肌。
そのあちこちはすでに血にまみれて薄汚れ、無事な部分を探すほうが手間取りそうなほどだった。
「邪魔しているのは、そっちだ。こんなものを開かれてたまるか!」
彼方は叫ぶ。
目の前にいるのは間違いなく敵だ。
だが、今はあまりにも弱々しくなってしまっている。
とはいえ、それは今の彼方も同じことだった。
この場所に来たまではいいものの、これからどうするかなどということはまるで考えていない。
強引にでも術式そのものを破壊する、そのつもりでやってきたのだ。
さいわい、目の前の敵はかなり弱っている。
魔力のほとんど残されていない彼方の体でも、これなら多少無理をすれば腕ずくでねじ伏せることも可能かもしれない。
いや、もとより迷っている暇はない。
黙っていればいるだけ、次元開放円が完成するのを見過ごしてしまうことになる。
強引で構わない。
見逃せば、街全体が消えてなくなるかもしれないほどの危険な術式だ。
それをみすみす放置しておくなんて、その方がどうかしている。
「こんなものっ……」
彼方は一枚のカードを取り出す。
いつかの夜に撃退した黒い騎士が所持していた、鉄の長剣のカードだ。
テトラが命を削ってまで渡してくれた魔力を使い、正真正銘最後の武器を手に取る。
「っ……」
ズシリと重い重量感。
が、振って振るえないことはない。
あとはこれで、地面の魔方陣を一部でも削り取ってしまえばいい。
「そうは、させん……!」
としかし、泉水は執拗に立ちはだかる。
武器を手にした彼方を前にしても、その瞳の輝きは何一つ変わらないままだった。
「っ、どけ! そうでないと、俺はアンタを殺してでも」
術式を止めてやると、彼方が続けるよりも早く泉水は口を挟んだ。
「――……それならば、それで構わない」
「……な、に……?」
彼方は我が耳を疑った。
目の前のこの男は、今何と言ったのだろう?
聞き間違いでなければ、泉水は確かにこう言った。
自分の命はくれてやる、だが術式は破壊するな、と。
意味が分からない。
目の前の男は、本当に何を言っているのだろうか?
振りかぶりかけた彼方の両手が止まる。
混乱するなというのが無理な話だった。
まさかこの……東真泉水という男が、己の命と引き換えにしてまで、自分が推し進めてきた計画の成就を願うなど。
その外見から察することのできた、目的のためなら手段を選ばないような眼差し。
恐らく、その考えは間違っていなかった。
ただ一つ間違い……いや、別の意味で違っていたのは、そこに自分の命を軽々しく投げ捨てることができたということだった。
「……どうして、だ?」
知らず知らずの間に、彼方は聞いていた。
そんな時間も、理由もなかったはずだった。
あっさりと聞き流して切りつけることの方が、どれだけ簡単なのことだっただろう。
だが、それでも。
彼方はどうしても、聞いておきたかった。
この東真泉水という男が、自分の命を引き換えにしてまでこの術式を完成させたい理由。
そこまで泉水の心を突き動かすものは、何なのか?
……その問いが通じたのかどうかは定かではない。
が、ゆっくりと泉水は、その傷だらけの口を開き、血まみれの言葉を搾り出す。
まるで、泣いているように悲しい声で。
「――……救わなくてはならない、人がいる。彼女は今も、異界の扉の向こう側に閉じ込められ、現世に戻れないで、いる……」
「……何、だって……?」
その言葉は、とてもじゃないが口から出まかせのものとは思えなかった。
その目の色が、真実であることを物語っている。
だが、それ以上詳しい事情を聞こうにも、もうそれだけの時間的余裕がない。
白い炎がわずかに勢いを増した。
恐らく、術式の完成が近づいた証拠だろう。
時間がない。
彼方は奥歯を噛み締めて、もう一度鉄の長剣を握った。
「……させは、しない……」
しかしそれでも、泉水は彼方の目の前から一歩たりとも退かない。
その足元は、すでに赤い水溜りに染まり返っている。
出血の量が尋常じゃない。
このまま放っておけば、確実に出血多量で絶命する。
「っ、どけ! アンタに構ってる余裕はないんだよ!」
「…………」
しかし、泉水は無言のまま、その両腕を広げて道を塞ぐ。
だらしなく、ただ垂れ下がるだけの両腕だった。
力の欠片さえも、もはやそこには残っていないのだろう。
それでも。
泉水は、その両手をないはずの力で振り上げた。
無駄だと分かっているはずの、壁にも紙にもなりはしない両腕を。
ここにはいない、けれどいつかはいたはずの人のために。
全部、そのための下準備だった。
やり方が間違っていたことなど、泉水ほど頭のいい人間なら当の昔に気づいていただろう。
しかしそれでも、彼が選んだ道はこの道だった。
恨まれてもいい、憎まれてもいい。
蔑まされてもいい、惨めでもいい。
どんな理由があっても、きっと自分という人間はこの道しか選べなかっただろうと。
東真泉水は、何度もそう思う。
間違いと、過ちと知りつつそれを貫くことは愚考だろう。
だが、その愚考の末に救えるものが一つでもあるならば。
その悪魔の甘言に耳を貸した自分が、どれだけ悲惨な結末を迎えることになろうとも。
その道を歩いていこうと、決めたのは他ならぬ自分自身で。
その果てにこの身が朽ち果てようとも、炎に焼かれようとも、無残な死を晒すことになろうとも。
……そう。
彼女を救った後の世界に、もう自分の居場所がなくなってしまったとしても。
そんな、最悪の結末を年度となく想像し、繰り返し悩む夜を越えただろう。
それでも、考えは変わらなかった。
どの時代の、どの場所で、どんな生まれ方をしたとしても。
東真泉水は、きっと彼女と……片平紫蓮と巡り会っただろう。
だから泉水も、断言する。
どんな自分でも、必ず最後に選ぶ道は一つだと。
幾度となく運命を繰り返しても、必ず同じ道を選んで進んだだろうと。
だから、こそ……。
「…………」
その両腕は、絶対に下がらない。
彼方にはその気持ちが分からないわけではなかった。
けど、それを見逃せるわけもない。
泉水にとってはかけがえのない一つの命。
だが、彼方にとっては何万という坂上市の人々の命がかかっている。
命を秤に乗せること、そのものが間違いだとは分かっているが、一刻を争うこの状況では考える時間はもうなかたった。
意を決し、彼方は再度鉄の長剣を強く握る。
術式を破壊するそのために。
目の前では、泉水がずっと両腕を広げて行く手を阻んでいた。
だが。
彼方は堂々と真っ直ぐに歩いて、泉水に近づく。
数歩近づくが、泉水は動かない。
静止する言葉もない。
ボロボロの黒いスーツと、金色の長い髪が夜風に揺れて微かに宙を舞った。
……それだけだった。
――東真泉水は、そのままの状態で意識を失っていた。
死んでしまったのかどうかは定かではない。
というより、それを確認する間さえ今は惜しむべきだ。
彼方は今度こそ、その両手に握る鉄の長剣を真っ直ぐに振り下ろす。
「……っ、あああああっ!」
ガギンと、金属とコンクリートがぶつかり合う大きな音がした。
鉄の長剣のその切っ先は、しっかりと地面に描かれた魔法陣の中心を砕いていた。
それに呼応するかのように、魔方陣を包んでいた白い炎、その明かりがゆっくりと弱まり、消えていく。
やがて炎が完全に消え去ると、地面の上の魔方陣も空気の中に溶け込んでいくかのように消えてなくなった。
「……間に、合った……」
ガクンと彼方の膝が折れる。
その後方で、ドサリと倒れる音が一つ。
振り返ると、そこに泉水が横たわっていた。
生きているのか、それとも死んでしまったのかさえわからない。
ただ、今は……。
「…………っ」
彼方の体が地面に横たわる。
ひんやりと冷たいコンクリートの感触が頬を伝った。
そしてそのまま、意識はゆっくりと落ちていった。
最後の見たものは、普段と変わらない夜の闇の色だった。