第二十話:天赫焔
静まり返る現実。
星の矢が駆け抜けた余韻が、少しずつ引いていく。
「……やった、のか……?」
彼方はその場に膝を折り、崩れる体をどうにか保たせながら呟いた。
手応えらしいものは確かにあった。
が、それは同時にやけに希薄なものでもあった。
水神の名の通り、その手応えはまさに水の幕を貫いたような、どこか不安定さを覚えるものだった。
そして何よりも、彼方の目の前にはアクエリアスの姿が未だに残っている。
微動だにしないそれだが、そこにあるというそれだけの事実がプレッシャーを与えてくる。
もしも今の一撃で倒せていないとなると、さすがに手詰まりとしか言いようがない。
彼方にはもう一度月下星弓を扱うだけの魔力は残されていない。
今の一撃も、残された魔力のほぼ全てを費やしたものだったのだ。
今の状態では、もう空間移動さえ満足に使いこなせないかもしれない。
それくらい疲労は募り、限界に近づいていた。
「……く、体が、言うことを……」
もはや立ち上がることすら一人の力ではままならない。
手の中に残された弓を支えにし、それでも彼方はどうにか立ち上がる。
足元がやたらとふらついている。
彼方の足元にだけ地震が起こっているかのように。
「彼方、しっかりしろ!」
再び崩れかけた体を、しかしテトラが背中から支えてくれた。
「……大丈夫……って言いたいけど、さすがに、キツイな……」
「だが、間違いなく月下星弓の一撃はアクエリアスを貫いていた。いくら強力な召喚の魔術と言えども、あの一撃には耐えられまい」
「……そうだと、いいんだけどな……」
彼方とテトラは同時に見上げる。
今もなお、こちらに背中を向けたまま固まったアクエリアスの体を。
もしもあの体が、もう一度こちらを振り返るようなことがあれば、今度こそ勝ち目は完全に消える。
そう考えた矢先に、それは動いた。
「っ……!」
「……バカな」
かろうじて搾り出した声は、しかし言葉にはならなかった。
諦めかけた、その時だった。
グラリとその巨体は揺らぎ、グラウンドの地面の中に吸い込まれるように崩れ落ちたのだ。
まるで、形を保っていた水が力を失い、重力に逆らうことを忘れて地を流れることを思い出したように。
ザバァと音を立て、アクエリアスの体を構成していた大量の水が周囲に流れ出した。
彼方とテトラの足元に、流れ出した水が波打ち際のようにやってくる。
だが、そこにもう宿っていた大きな力の名残はない。
崩れ落ちた水神の体が大きな水溜りを作り、少しずつ地面の中に染み込んでいく。
「……はぁ……」
彼方は思い切り大きく溜め息を吐き出す。
「マジで、どうなるかと思った……」
「……同感だな。心臓に悪い演出だ」
彼方とテトラはどちらからともなく小さく笑みを浮かべていた。
だが、肝心なことを忘れてはいけない。
アクエリアスは倒すことができたが、それで全てが丸く収まったわけではない。
そして、そのことをわざわざ知らせにやってきたかのように、一羽のカラスは頭上を舞っていた。
「呑気なものだな。まだ何も終わってはいないと言うのに」
「ッ、アルタミラ……」
テトラは頭上を見上げ、その名前を呼んだ。
「我が主の水神をこうも容易く倒したことには素直に感服しよう。だが、まだ何も終わってはいない。それどころか、お前達が水神相手になっているときに、私はゆっくりと儀式の準備を完了させてもらった。ほどなくして、次元開放円はその姿を現すだろう」
「な……」
その言葉に、彼方は今更になって泉水の姿を探した。
が、視界に映る範囲の中にはどこにもその姿は見当たらなかった。
「彼方、上だ!」
「上……?」
そして、彼方は見上げる。
一週間ほど前、初めて対峙したあの夜にお互いが立っていたその場所。
学校の、屋上を。
見上げるとそこには、白い炎がポツンと一つ浮かんでいた。
見覚えのあるその炎は、間違いなく数日前の夜にも見たものと同じものだった。
「く、そ……術式は、グラウンドに展開されてたんじゃなかったのか……」
それは単純な思い込みだったのかもしれない。
次元開放円の術式は、数多くある魔術の中でも群を抜くほどの規模の大きなものである。
その情報から、彼方もテトラもスケールの大きさ……つまりは儀式場は広い敷地を必要とするものだと、そう思い込んでしまっていた。
だが、結果的にそれ自体が間違いの一つだった。
現にこうして、術式は目に届く場所で今まさに行われようとしていたのだから。
「ま、だ……今からなら、空間移動で屋上に向かえば、まだ間に合う……」
「それを私がみすみす見逃すとでも思うか?」
と、彼方の前にアルタミラが立ち塞がる。
「ならば、私もそれを黙ってやらせるわけにはいかない」
その前に、テトラが立ちはだかった。
「行け、彼方。今ならまだ間に合うはずだ。こちらは私が食い止めておく」
「食い止める? もはやそんな必要さえあるまい。お前のマスターは、どうやら先ほどの一撃で魔力の全てを使い果たしているではないか」
「……っ」
彼方は歯噛みする。
まさにその通りだった。
月下星弓の具現化、そして放った一撃に、ほぼ全ての魔力は費やしているのだ。
今のこの体では、たった一回の空間移動でさえできるかどうか分からない。
……いや、断言するしかない。
できない、と。
できるものなら、アルタミラのことなど無視して彼方は屋上へと向かうだろう。
それをしない時点で、アルタミラの言葉が事実であることは明白なのだ。
彼方に残された魔力は、もうない。
「どうやら図星のようだな。諦めてここから術式の完成を見上げているがいい。もはや障害となるものは何もないのだからな」
「く……」
テトラは表情を歪ませる。
実を言うと、手段がないわけではなかった。
彼方もテトラも、もちろんその手段のことには気づいている。
……だが。
テトラは恐らく、その言葉を口に出来ないだろう。
その言葉を口にすることは、みすみす彼方を死の淵へと追い込むことになってしまうのだから。
もちろん、アルタミラはそのことにも気がついている。
テトラという使い魔が、優秀であると同時にマスターに対する強い忠誠を持ち、それは時として甘さにもなるということを。
魔術師にとっての魔力とは、そのまま血液を意味する。
魔術師は魔術の実演に伴い、自らの魔力が不足した場合にその身を流れる血潮でそれを補ったと言う。
そう考えれば、彼方は魔力を取り戻すことはできる。
指でも腕でもどこでもいい。
浅く切りつけて、血を流せばいいだけの話だ。
ただし、それはあくまでその体が万全か、あるいはそれに限りなく近い状態だからこそ、一つの手段として考える余地があるものだ。
今の彼方の体には、それはあまりにも大きすぎる負担だった。
そうでなくても、彼方は過去に一度……と言っても記憶に新しいほどの日数しか経過していない過去だが、その時にも一度同じ手段で血を流してしまっている。
その時の消耗はとっくに回復こそいているが、その手段そのものは褒められたものではない。
それは文字通り、命を削り取る行為。
繰り返すうちに、無意識のうちに体がそれを覚えていってしまうのだ。
限りある命が、無限の魔力に見えてくる幻想。
そのまやかしに溺れて命を失ってしまった魔術師も、歴史の裏舞台には数多くいる。
テトラは当然そのことを知っていた。
だからこそ、だ。
一度は黙認こそしたが、二度目はできない。
いや、あってはならないのだ。
例えどんな理由があっても、もう同じ景色を黙って見過ごすことはできない。
だが、今の状況はまさに一秒を争う。
彼方の命と、この街に住む人々の命が同じ天秤に乗せられている。
計れない重さ。
どちらも軽すぎることはない。
比べてしまうことが、そもそもの罪なのだと。
知っているからこそ、どうしようもない目の前の現実がもどかしくて、やるせない。
……だから。
テトラには、こうすることくらいしかできない。
「お、おい、テトラ……?」
テトラは彼方に振り返ると、彼方のズボンの後ろポケットから一枚のカードを口で引き抜いた。
そのカードを地面に置いて、自らの魔力を送り込む。
……そうして。
その魔装は、姿を現した。
月のない夜の下、銀色に輝く刃を携えた短剣が、狂ったように光っていた。
ドレインダガー。
別名、同胞喰とも呼ばれる、魔術師の天敵とも言える魔装。
その効果は、傷を負わせた対象から、傷の深さに比例して魔力を吸い取り、自分のものにするというもの。
そしてその対象とは、魔術師に限ったことではなく。
使い魔さえも、その対象に含まれる。
「テトラ、お前……」
彼方がその先の言葉を呟くよりも早く、テトラは点検の柄の部分をその口に咥える。
そして、それを彼方に半ば押し付けるように差し出す。
言葉を失ったままの彼方だったが、その目の色に反論することができず、差し出された短剣の柄を握り取る。
その、直後に。
――テトラは、自らの額をその刃先に突きつけた。
ズリと、皮膚を破く耳障りな感触が彼方の手を伝い、全身を巡った。
「……っ」
テトラは無言でその痛みに堪えている。
額の部分だけが銀色になっていたはずなのに、そこは見る見るうちに血で真っ赤に染まっていった。
「……な、何やってんだよテトラ!」
彼方は我に返って叫び、すぐにその刃先をテトラの額から離した。
傷自体は浅い。
が、テトラの額は確かに裂け、眉間の間を血が流れて地面を濡らしている。
「……これで、多少の魔力は戻っただろう。行け、彼方。ヤツを止めてくるのだ」
「お前、こうなることが分かってて……俺に、このカードも持っていけって言ったのか……?」
「……いや、ここまでは予想できなかった。だが、最終的に厳しい状況になるだろうことは分かっていた」
血塗れた額をさらけ出したまま、テトラはしかし満足そうに言う。
「気にすることはない、彼方。マスターの力となることが、使い魔としての真の意味なのだ。私は今、本当の意味でお前の力になれることが……嬉しいのだよ」
「…………」
「……この理不尽な宿命を突きつけたとき、お前はそれを受け入れてくれた。これは、そのことに対するほんのお返しだ」
それだけ言うと、彼方の返事を待たずにテトラは前を向き直る。
「行ってくれ、彼方。今のこの状況を止められるのは、お前しかいない」
「……分かった」
彼方はその手にドレインダガーを握り締めたまま、空間移動のカードを手にする。
「そう簡単に行かせるわけには……」
言いかけたアルタミラの言葉は、最後まで続かなかった。
「お前の相手は、この私だ」
額から流れる血よりも赤い瞳で、テトラはアルタミラを睨みつけていた。
その威圧に、わずかにアルタミラがひるむ。
「空間移動、オン」
「しま……」
彼方の体は一瞬で屋上へと向かう。
アルタミラはそれを負うべく、翼を羽ばたかせた。
だが。
「っ!」
行く手を阻む業火に、その動きが止まる。
「行かせはしない」
赤い赤い、真っ赤な瞳でテトラは語る。
「それ以上一歩でも動けば、その全身は消し炭になると思え」
天赫焔は静かにそう告げ、黒い翼に襲い掛かった。