第十九話:水神
終わったかに見えたのは、ほんの一瞬のことだった。
砂煙のカーテンが少しずつ消えていく。
その、内側に。
「…………」
東真泉水は、無言のまま立ち尽くしていた。
全身を覆う黒いスーツはところどころが汚れ、何ヶ所かに至っては破れかけている。
額と口の端からはうっすらと血が滲んでいた。
「ふぅ……」
と、泉水は溜め息のようなものを吐き出す。
だがそれは疲れたとか安心したとか、そういう感情は一切含まれていない。
どちからというとそれは、面倒くさくて仕方がないというような、苛立ちを含ませたような声色だった。
「慢心、ですか。確かに、この有様ではそれを認めざるをえないでしょう」
乱れた髪を掻き分け、泉水はその身を翻す。
「ですが」
と、一言と区切って泉水は続ける。
「それでも君達が私に勝てる見込みはない。今からそれを、己が身を持って知るといい」
その表情は、元通りの不敵な笑みに戻っていた。
泉水は内ポケットか数枚のカードを取り出す。
彼方とテトラは互いに遠すぎない距離を保ちながら、泉水からわずかに距離を取った。
互いの間合いはそれぞれ二十メートルほどもあるが、そんなものは何の余裕にもなりはしない。
今度はどんな攻撃呪文を使ってくるのか。
彼方とテトラの警戒は、その一点に集中していた。
……だが。
「精霊、オン」
そう告げられて姿を現したのは、青白く光る球体だった。
バスケットボール程度の大きさのそれが、泉水の目の前でフワフワと宙に浮いている。
これも何かの攻撃の予備動作なのかもしれない。
彼方もテトラも同時にそう思った。
しかし、構わずに泉水は続ける。
続いて、二枚目の呪文カードを手にする。
「水星、オン」
次いで出現したのは、大きさがほぼ同じで水色に光る球体。
それはまるで、水が宇宙空間で形を保っているかのような映像だった。
ひどく不安定に揺れながら、何とか球体の形を保とうとしている。
二つの球体は、互いに隣り合ったまま宙に浮き、しかしそれだけで特別な動きを見せない。
身構える彼方とテトラだが、その雰囲気はどこかおかしい。
まるで攻撃してくる気配が感じられないのだ。
それは本当の意味で無害で、ただそこにあるがままの存在のようだった。
「……テトラ、あれは何なんだ?」
「分からん。だが、何らかの攻撃を仕掛けてくる可能性は高いはず……」
そう、そのはずなのだ。
だが、何も起こらない。
まるで、ただ時間が流れるのを待っているだけのように……。
「……さて」
と、泉水が再び口を開く。
「待たせてしまったね。では、第二幕といこうか」
その言葉が呟かれるなり、青白い球体はドクンと鼓動を発した。
それにつられるように、並ぶ水色の球体がゴポリと酸素の塊を吐き出す。
「見せよう、我が力」
そして泉水は、最後にもう一つのカードを手にし、その呪文を口にする。
「同調、オン」
直後に、二つの球体は音もなく静かに交わり、重なり、一つになる。
瞬間、ものずごい圧力が風となって周囲を吹き飛ばしにかかった。
まるで台風を目の前にしているかのような、強烈な突風が全身を襲う。
「っ、何だ、これ……」
「……同調だと? まさか、あれは……」
テトラが言いかけたところで、より一層突風の勢いが増す。
「うあ……!」
「っ、彼方!」
足の踏ん張りがきかず、彼方の体は後方に飛ばされる。
何度となくコンクリートの地面の上を転がり、背中から壁に激突してようやく止まる。
「彼方、平気か?」
「っ、ああ、何とか……」
あちこちを擦りむいてはいるものの、打ち所が悪いところはない。
「それより、一体あれは何なんだ……」
「……私は魔術に関してはそう詳しくはないから、確信は持てない。だが、いつだったか聞いたことがある。あれは恐らくは……」
「そう。あれは召喚と呼ばれる高位魔術だ」
その言葉は、頭上から降ってきた。
「お前は……」
彼方が頭上を向くと、屋根の上にはアルタミラがいた。
「やはり召喚の魔術だったか。だがまさか、この時代まであの魔術を継承し、実演できる人間がいるとは……」
「才能などという一言で片付けてくれるなよ、天赫焔。我が主はたゆまぬ努力を繰り返し、現代では不可能であろうと言われていた召喚の魔術さえも甦らせた。それがどれだけの苦労と時間を費やしたものか、貴様には想像もつくまい」
「悪いが、そんな努力に賞賛するつもりは毛頭ない。私達はヤツを止める、それだけだ」
「言うは易く、だな。できるのか? そのようなことが実際に、できると思うのか? あれを目の前にして、同じ台詞をもう一度繰り返す余裕はあるものか?」
アルタミラは視線を変え、無言で促す。
彼方とテトラも、その先を見た。
そして、そこには。
「――出でよ、水神……アクエリアス」
紡がれた名。
凝縮された力の渦が、一気に膨らみ、そして弾けた。
「っ……!」
「……これが」
「そう。我が主の召喚せし霊獣、水神アクエリアスだ」
光が天を突き、雲を散らした。
その光は、膨大な魔力の名残だ。
召喚という大規模な魔術の反動で、魔術師本人から垂れ流しになった余剰な魔力が行き場を失い、天に向けて放出されている。
そして、後に残ったのは……。
「……何だよ、これ……」
「……これが、召喚の魔術……」
彼方とテトラはわずかに上を見上げる。
そうしないと、その全貌が明らかにならないからだ。
水神、アクエリアス。
その名を持つ召喚されし霊獣は、人間に程近い体格を持ちながら、しかしその身の丈はゆうに五メートルを越す巨人だった。
青々しく澄み渡るように美しい体は、まるで秘境の湧き水を彷彿させるイメージを与える。
一点の汚れも澱みもない、純粋な真水のよう。
しかしそれは今、紛れもなく、間違いもなく。
「……さぁ、第二幕……開始だ」
静かに、襲い掛かってきた。
巨体ならば動きも鈍いと考えるのは、恐らく常識の範囲内だろう。
だとすれば、目の前の光景は実に非常識極まりない。
泉水の一言により、アクエリアスは動き出す。
その巨体の持つ足が、一歩前に出たかと思った時だった。
直後、そこにアクエリアスの姿はなくなっていた。
移動したというレベルの速さではない。
あれはもはや、その場から消えたという表現しか適切ではないだろう。
そんな、脳が認識をできないほどの速さで動いたアクエリアスは、彼方とテトラが振り返るよりも早く背後にいた。
「っ!」
「……速い!」
すぐ目の前にはその拳が迫る。
魔術的な意味はすでになく、それは単純に力任せで目の前のものを破壊するだけの一撃だ。
「空間移動、オン!」
彼方はテトラの体に触れながら、素早く言う。
間一髪のタイミングで、空間移動は成立した。
そこからおよそ百メートル離れた、グラウンドのほぼ中央に彼方とテトラは着地する。
そして、今しがた自分たちのいた場所を見返す。
が、そこにすでにアクエリアスの姿はなく。
その光景に一瞬だけ気を取られたその直後に、今度は背後ではなく横合いからアクエリアスの姿が現れた。
「な……」
「っ、いつの間に……」
彼方は再び空間移動を使用する。
またも間一髪のところで、アクエリアスの拳は空を切る。
しかし、その拳を振り抜いた風圧だけで、グラウンドの一部が浅く抉り取られていた。
風圧だけでこの威力なのだ、直撃すればどうなるか、想像したくもないが想像は容易いだろう。
「ぐ……」
再び移動し終えた地点で、彼方は膝を折った。
「彼方、大丈夫か?」
「……っ、何とか……」
口ではそう言ったが、疲労は積み重なるばかりだった。
こう隙間のない頻度で呪文を連続で使用すれば、魔力も体力もすごい勢いで削り取られていく。
魔術師同士の戦いの中において、これほど戦況を苦しめる理由は他にはない。
「く……まずはあのアクエリアスとやらを何とかしなければ、泉水に近づくことさえできん……」
「……テトラ、このまま逃げても時間の問題だ。一か八か、あのデカイのを月下星弓で倒せば……」
「……確かにその方がいいかもしれない。いや、それしか手段はないかもしれん。だが、もしも外せば……」
テトラはその先を言わない。
外せば全てが終わってしまうということは、彼方もよく理解しているつもりだ。
「……分かっていると思うが、アクエリアスは移動速度が尋常ではない速さだ。回避される可能性もあるだろう。それでも、やるか?」
「……やるしかないだろ。何もしないで逃げ回るよりは、よっぽどマシだ」
「……分かった。だが、チャンスは一瞬だぞ」
彼方は頷き、立ち上がる。
今この場で月下星弓を出すわけにはいかない。
正面からそんなものを出してしまえば、当然泉水も何らかの対抗策をうってくるだろう。
魔装の具現化、そして構えて矢を放つまでの一連の動作を、見えないようにやる必要がある。
そのための時間は、自分で稼ぐしかない。
アクエリアスの姿はまだ視界の先に見えていた。
だが、間もなくしてすぐに襲い掛かってくるだろう。
ならばいっそのこと、先手を打つ。
「行くぞ、テトラ」
「ああ」
「空間移動、オン」
彼方とテトラの姿が消える。
時間の猶予は、まさにこの一瞬のみ。
このわずかな猶予の中で、具現化した月下星弓を彼方は構え、矢を合わせる。
一瞬の判断の遅れも許されない。
アクエリアスはその間、微動だにしなかった。
時間に換算すれば一秒にも満たない間、ジッとその場に立ち尽くしていた。
やがて、その背後に何らかの気配を察知し、一度振り返る。
そこには、標的の姿が……一つだけ、あった。
振り上げかけた拳が、わずかに停止する。
もう一つの標的の影を探そうと、思考しかけたその瞬間。
背後に、光を見た。
「……何だ、あれは?」
遠巻きに見ていた泉水が呟く。
しかし、その疑問が結果的に一瞬の判断の遅れとなった。
「まずい……!」
そう泉水が感じたときには、時はすでに遅かった。
膨大な魔力の込められた星の矢は、一直線にアクエリアスの体を貫いた。