第十七話:再会
儀式結界、次元開放円。
そんな物騒極まりないものがこの街に展開されつつあるなんて、とても信じられないだろう。
少なくとも、普通に日々を過ごしている人々の目には何も異変は映っていない。
いつもと変わらない景色、いつもと変わらない学校、いつもと変わらない仕事場。
だがそれでも、日増しに変化は続いていく。
主犯が泉水であるということと、破壊が極めて困難であるということ。
それ以外に分かったことと言えば、これくらいのものだ。
「……今夜だよな。多分、最後の一ヶ所にまた術式が施されるの」
(ああ、恐らくはな。もっとも、この儀式結界が本当に六星陣になぞらえていればの話だが……)
六星陣、即ち二つの正三角形を上下逆に重ね合わせることで出来上がる、ヘキサグラムのことである。
その図形は、合計で六つの点を持つ。
今日までに確認することが出来た術式の地点は、合計で五ヶ所。
それらの場所を地図上で表すと、ちょうど六つの点のうちの五つがうまったのだ。
となると、残りの……最後の一ヶ所は自ずと姿を現すことになる。
だが、それ以上に彼方を驚かせたのは、その地図上に現れた最後の地点だった。
その場所とは、つまり。
「……まさか、この学校が最後の一ヶ所になるなんてな……」
(最初の晩に泉水が探していたあるものとは、まさしくこの場所そのものだったのだな)
「どっちにしても、今夜しかチャンスはないんだ。やるだけやってみるさ」
(うむ。要するに、術式さえ完成させなければいいのだ。ヤツがまたナキガラを使ってこの場所に術式を施そうものなら、そのナキガラを倒してしまえばいい。最後の一ヶ所だからこそ、私達が唯一先手を打てる機会だ)
「ああ」
だが当然、不安要素もいくつかある。
こうなることは泉水とて事前に分かっていたことだろうから、何かしらの仕掛けをするのは明白だった。
極端な話、泉水本人がこの場を出向いてしまうことも考えに入れなくてはいけない。
というより、むしろその可能性が一番高くなる。
ここまで術式を施しているのだから、泉水としても今夜で儀式結界を完成させるつもりのはずだ。
だとしたら、やはりこの場所で鉢合わせる可能性は高い。
もしも真っ向勝負になった場合、彼方達の勝ちの目はかなり低い。
彼方達の相手をしながら術式を完成させるくらいのことは、泉水にとっては何ということでもないだろう。
「……こっちも、何か手を打っておかないと」
(うむ。さすがに策なしでは結果は明らかだろう。問題はそれをどうするかだが……)
今のところ、これといった具体案は一つも浮かばない。
そうこうしているうちに、昼休みは流れていく。
今日はあいにくの曇り空で、見上げた空は灰色一色の曇天だ。
何と言うか、先行きを不安にさせる空模様だった。
「……ダメだ。何も思い浮かばない」
(……うむ)
手詰まりに陥っていた。
本音を言えば、正直言って相手が悪い。
まともな方法じゃ勝つどころか、対等に渡り合うことさえできはしないほどの相手だ。
とはいえ、儀式結界の完成はもう目前にまで迫っている。
何が目的でそれを完成させたいのかは知らないが、完成してしまえば大きな被害が出ることは明白だ。
次元開放円は、そこに異界の扉を作り出す術式だ。
その際に及ぼされる影響力は計り知れない。
一説によれば、儀式結界を施した土地全てが異界側に呑み込まれて消滅することもあったそうだ。
さらに、異界側から異分子が入り込んでくることもある。
異界の扉そのものが開いている時間はごくわずかだが、その間に呑み込まれたものは例外なく戻ってくることはない。
その逆も同様に、異界側からやってきた異物を押し返すことも出来なくなってしまう。
大昔に同じ術式で異界の扉を開けた際には、扉の向こう側からやってきた異分子の数が多すぎて、それらを殲滅するために戦争じみた規模の争いに発展したこともあるという。
結果的に異分子は一つ残らず処理されたが、そこに至るまでの犠牲は数え切れないものだったそうだ。
今夜起こることは、そんな悪夢のような記憶の再現になってしまうかもしれない。
だからこそ、何としてでも止める必要がある。
できるできないではなく、やるかやらないかだ。
「……なるようにしかならない、な。説得に応じるような相手じゃなさそうだし」
(それができるのならば、最初の夜にあんな捨て台詞は置いていかないだろう)
「……だよな」
結局のところ、話し合いで解決などという手段は最初の段階で潰されていたのだ。
恐らく、泉水もそれだけの覚悟で望んでいるということだろう。
時間だけが流れていく。
雲はもうしばらく、晴れそうにない。
そして放課後。
一日は何事もなく過ぎ去ったが、これから起こるであろうことを思えば、今の状況はまさに嵐の前の静けさだろう。
校舎の中に残る生徒の数はまばらだが、美術部や音楽部などの文科系の部活のメンバーがそれぞれの部室にこもって作業しているものと考えると、まだ結構な数の生徒が残っていそうだ。
当然運動部の多くはグラウンドや体育館を利用して練習に励んでいる。
一通りの授業が終わった午後四時では、そう簡単に人の数は減るわけもない。
「俺達も、一度戻って出直したほうがいいな」
(そうだな。さすがに夜中まで校舎の中に隠れ潜むわけにもいくまい)
彼方は校舎を出る。
空を覆う分厚い雲の隙間から、わずかに漏れるようにして夕焼けが射していた。
そのまま帰路につく。
普段歩く十五分の道のりが、今日に限っては全く長く感じなかった。
それどころか、短すぎるくらいだ。
考えることが多いと、時間というものはこうも無常に過ぎ去っていくものなのか。
玄関の引き戸を開けようとしたが、今日に限って珍しく鍵がかかっていた。
どうやら源三は出かけているようだ。
彼方は鞄の中から合鍵を取り出し、鍵穴に差し込んで開錠する。
ガラガラと戸を開け、そのまま真っ直ぐ台所へと向かう。
普段の今頃なら、源三は一足早く夕食の仕込みに取り掛かっているところだが、やはり今日はその姿がない。
テーブルの上を見てみると、そこにはメモ用紙をちぎったものに書置きがされていた。
自治会の会合があるので、帰りは遅くなる。
夕食は適当に済ませておいてくれ、とのことだった。
今日に限っては好都合かもしれない。
会合はいつも、何だかんだで長引く場合が多い。
源三は帰宅したら間もなくして床につくだろう。
(彼方よ)
声と同時に、テトラがロザリオから出る。
「ん?」
「夜中まではずいぶん時間がある。少し仮眠をしておいたほうがいいのではないか? ここ最近、満足に眠っていないだろう」
「……そうだな。それじゃあ、少し休んでおくよ」
「ああ、それがいい」
テトラに促された直後、ちょうど気が抜けたかのように全身の緊張がほぐれた。
彼方は自分でも気がついていなかったが、今日一日は特に気を張りすぎてしまっていた。
それに加えて、ここ数日中の睡眠不足が重なったのだろう。
一度ベッドに体を沈ませると、それこそ死んだように眠ってしまうのに時間はかからなかった。
「…………ん」
目が覚めると、そこは薄暗かった。
ここが自分の部屋であると気づくのに、彼方はしばらく時間がかかった。
「……っ」
まだ少し頭が重い。
それに伴ってか、体中にダルさが残っているようにも感じる。
眠気そのものはだいぶ消し飛んでいるが、本調子までは少し時間が必要らしい。
「起きたか」
「……テトラか」
「間もなく十時といったところだ。もう少し休んでいても大丈夫だったのだがな」
「……目が勝手に覚めたみたいだ」
「調子はどうだ? 大丈夫か?」
「起き抜けだからまだ少しボーッとしてるけど、少し待てば体も起きると思う」
彼方はベッドから降りる。
今頃になって、制服のまま着替えもせずに眠ってしまったことを思い出す。
とりあえず制服を脱いで、私服に着替えることにした。
「そういえば」
「む?」
「ジーちゃん、もう帰ってきたか?」
「いや、まだのようだ」
「そっか。ま、どうせ近所の人と話し込んでるんだろうな」
「それならそれで、こちらとしても気兼ねせずともいいだろう」
「ああ」
着替えを終え、彼方は準備をする。
と言っても、呪文カードを持つだけだが。
「少し早いけど、行くか」
「休まなくて平気か?」
「夜風に当たってるほうが頭もすっきりしそうだ。それに、万が一にも後れを取るわけにはいかないからな」
「よし。では行こう」
玄関から出てもよかったのだが、そこで源三と鉢合わせる可能性もあるので、やはりいつもどおり窓から抜け出すことにする。
いつもなら正門から出るが、今日は念には念を入れて裏口から出た。
夜風そのものは拭いているが、どこか蒸し暑さを感じさせる夜だった。
ふと、空を見上げる。
あれからずっと、雲はその場所に佇んでいた。
まるで、見られたくない何かを隠し続けているかのように。
ゆっくり歩いたつもりなのに、時間はそれほど経ってはいなかった。
学校の正門前に到着したのは十時半ちょうど。
すでに学校はその機能を停止させ、シンと静まり返った校舎は無造作に聳え立つだけ。
校舎内に明かりは見えず、無人であることは明白だった。
彼方は正門を乗り越え、敷地内に侵入する。
と、ここまではよかったが問題はここからだ。
以前は都合よく昇降口の鍵が開いていたが、さすがにそうそう都合よく事が進むわけがない。
彼方は昇降口の前をそのまま通過して、校舎の裏側のほうに向かう。
一階の東側に当たるその周辺は、調理実習室や被服室など、家庭科の実習でよく使われる教室が連なっている。
それらの教室の窓はそのまま外に面していて、鍵さえ開いていれば外から中へ入ることも簡単だ。
昼間のうち、彼方は一ヶ所だけ鍵を開けておいた。
もちろんその窓は、カーテンなどで覆って即席の目隠しも施してある。
それでも閉められる可能性はあったが、今日はどの学年も実習室を使う予定がないことは事前に調べて分かっていたので、そのままにされる可能性は他の教室に比べてずっと高かった。
そして案の定。
「……よし、開いたままだ」
彼方は外靴のまま校舎の中に入り込む。
中に入ると、ちょうど手近にあった雑巾で靴の裏の汚れを念入りに落としておく。
足跡でも残れば、翌朝には学校全体がパニックになってしまうだろう。
「とりあえず、ここまでは順調に来れたけど……」
「彼方、屋上に行くぞ。そこからの方が周囲をよく見渡せるはずだ」
「そうだな、そうするか」
物音を立てないように細心の注意を払いながら、彼方は廊下に出る。
当たり前のようにそこは無人で、昼間とは全く別の姿が続いていた。
何というか、素直な感想を述べると不気味だった。
あまりに静か過ぎて、本当にこの場所で昼間生徒として生活しているのか、その実感が希薄になっていく。
「行くぞ」
ぼんやり立ち尽くしていると、テトラが言った。
その後に続いて、彼方も階段を上って屋上を目指す。
足音はどれだけ殺したつもりでも、いくつかは響いて残ってしまう。
足取りは決して軽くはなかった。
少なからず緊張している彼方の体は、小刻みに震えていた。
どういうわけか、屋上に続く扉の鍵は開いていた。
いや、そもそも昼休みに彼方が頻繁にこの場所を出入りしていることも考えると、もとから施錠されていないのかもしれない。
あるいは、鍵そのものが壊れていてそのままにされているとか。
まぁ、この際そんな諸事情はどうでもよかった。
「…………」
風が少し強くなっていた。
ちょうど一週間前の今日、ここで出会ったのだ。
魔術師、東真泉水と。
「……今のところ、異常はなさそうだな」
屋上を一回りし、目下の様子を探り終えたテトラが言う。
彼方も踊り場の上を歩き、そこから手すり越しに景色を眺める。
それほど高い場所に立っているわけではないが、ここからでも街並みはある程度一望することができた。
時間が時間なだけに、まだ明かりの灯っている家は少なくない。
遠くには数多くのネオンサインが瞬いている。
移動しながら光るのは、車のヘッドライトか何かだろうか。
改めて街を……生まれ育った坂上の土地を眺めて、彼方は思った。
この街は、こんなに広かっただろうか、と。
生まれてから十七年間、ずっとこの場所で育ってきた。
それでも、まだ街の中には訪れたことのない場所も沢山あるし、全てを把握できているわけでもない。
考えてみれば、この街の歴史についてだって何一つ分からないままだった。
どうしてだろう。
今まで見飽きるくらいに見てきた景色が、どれもこれも新鮮さを帯びたような感覚になる。
何もない街というわけじゃない。
けれど、何かがあるという街でもない。
だからきっと、それは人々から言わせれば……普通。
何てことはない、どこにでもありそうな街。
……けれど。
誰が、信じるだろうか?
この街が、この景色が、もう間もなく消え失せてしまうかもしれないなどと。
誰が信じ、誰が夢に見るだろう。
あり得ないと笑い飛ばすだろう。
多分、それは間違った反応ではないと思う。
例えば、見ず知らずの明らかに初対面な人間に、真っ向からあなたは今日死にますなどと言われ、誰がそれを信じるだろうか?
そう、普通は信じない。
逆に言えば、信じないことが普通なのだ。
何でもかんでも信じてしまっては、世の中は狂ってしまう。
……だが。
それは、あくまでも目に見える日常の部分で生きる人の意見だ。
現実としては、世界はとうに狂っている。
少なくとも、一人の魔術師はとうに狂っている。
その狂気に身を任せて、男は……東真泉水は行動するだろう。
その、目的とやらのために。
恐らく、ありとあらゆる犠牲を省みずに。
それはもちろん、あらゆる意味で例外などはなく。
「……っ!」
彼方はふいに立ち上がった。
同時に、テトラも身構える。
両者の目の先は、同じ一点。
色濃く迷彩された、夜の闇の向こう側。
そこから。
「来るぞ」
「ああ、分かってる……」
それは、近づいてきた。
そして。
「っ、下だ!」
テトラが叫んだ。
直後に、グラウンドの中央に砂煙が巻き上がる。
無音で隕石が落下したかのよう。
静かに巻き上がる砂煙の中、一人分の人影がゆらりと揺れた。
「……さて」
魔術師、東真泉水は静かに語る。
「邪魔はしないでほしいと頼んだが、やはりそれは無理というものだったかな?」
「あの様子を見るに、そのようだな」
アルタミラは翼を羽ばたかせながら頷く。
見上げたその場所には、同胞の少年と赤きケルベロスの姿。
「ならば、仕方あるまい。私とて、ここで引き下がるほどお人好しではないのだから。アルタミラ、術式の準備は君に任せる」
「心得た」
「……気乗りはしないのだがね。これも魔術師の血の巡りと、言い聞かせることにしよう」
泉水は視線を高く上げる。
そこに、自らの敵を認識し、告げた。
「――始めようか。お互い、時間を無駄に出来ない立場だろう?」
空が、割れた。