第十六話:下準備
「…………う」
「彼方、気がついたか?」
「…………あ、れ? ここは……?」
「さっきの路地裏から少し離れた通りだ。あいにく、他に休めそうな場所が見当たらなくてな」
彼方の体は街路樹にもたれかかるようにして座らされていた。
「……そっか。テトラが運んでくれたのか、悪いな」
「気にすることはない。あんな光景を見せられては、正気を保ってはいられないだろう」
「……ああ」
思い出すだけでまた吐き気がしてきそうだった。
「……それで、あの後どうなったんだ?」
「……どうもこうもない。見ての通りだ」
彼方は立ち上がり、先ほどの路地裏への入り口に立つ。
そして、視界の果てにそれを見る。
「……何だ、あれ?」
そこには、白い光の柱が聳え立っていた。
その光ははるか上空まで突き進み、夜空を覆う雲を貫くほどの勢いだった。
「テトラ、何なんだこれは……」
「儀式結界だ」
「……儀式、結界……?」
テトラは頷き、言葉を続ける。
「魔術の中には、魔術師一人の力では到底成し遂げることのできないほど大きな力を持つものが存在する。そういった場合、普通は触媒となるものを媒介にして負担を減らすのだ。儀式結界は、その応用の最も高位なものと考えればいい」
「……魔術に必要な触媒が、あの光の柱ってことか……?」
言いかけて、彼方は気づく。
「ちょ、ちょっと待て。だとしたら、それってメチャクチャスケールが大きいってことじゃ」
「……まさしくその通りだ。これほどの大仕掛けを有する術式など、魔術の歴史の中でも数えるほどしか確認されていない。そしてさっきの白い炎。これらから考えるに、構築されている術式は一つだ」
「…………」
彼方は息を呑む。
テトラは白い光の柱から目を逸らし、彼方を見上げて言った。
「――次元開放円。この世界とは異なる世界……異界から何かを召喚する術式だ」
「……異界?」
「……この時代の人間には非科学的な言葉だが、魔術の世界の置ける常識の中では、異界の存在というものは身近なものなのだ。本来、魔力というものそのものが人間の力ではない。それは文字通り、悪魔の力だ。その力がどうして人間達の中に浸食し始めたのか、それについては詳しいことは何も分かってはいない。だが、一説によればこう書かれている。この世界は、常に異界側から何らかの干渉を受けている状態にあり、二つの世界は目には見えない部分で微かに繋がっている。それにより、そこから部分的な力が流れ、その影響を受けた人間がある種の変異を遂げたものが、魔術師という新しい存在なのだと。言わば魔術師は、悪魔の力を手に入れた人間なのだと」
テトラの言葉は、科学者が聞けば大笑いしてしまいそうな……そんなものばかりだった。
だが、彼方はその言葉をあっさりと聞き流すことはできない。
他ならぬ自分自身が魔術師の一人だからだ。
「……それで、具体的にはどうなるんだ?」
「……これが次元開放円だとすると、相当大掛かりな下準備が必要になるはずだ。儀式結界の術式は、その下準備が完璧に整わない限りは実演不可能だからな。恐らく、これと似たような仕掛けを施された地点がこの街のあちこちに点在しているはずだ。それらの内の一つでも破壊してしまえば、術式の発動は失敗に終わるはずだ。だが……」
「……無理、なのか?」
「……理論的には不可能ではない。だが、術式そのものの防御能力が極めて高い。加えてこの術式は、物理面での衝撃を全て無効化することができる上に、魔術に対する耐性が非常に大きい。並大抵の呪文では、傷一つつけることはできないだろう……」
「……俺の、月下星弓でも無理なのか?」
「……まず、無理だろう。月下星弓はの威力は確かに大きい。並の術式の結界ならたやすく打ち破れるだろう。だが、矢を射ることによる攻撃は物理として扱われ、この術式の前では無効化されてしまうだろう。純粋な魔術の力だけでこの術式を破壊しようとすれば、それこそ最高位の呪文を使うしかない。それでも確実に破壊できるとは断言できないが……」
「っ、打つ手なしかよ……一体、誰がこんなものを……」
「……決まっているだろう」
「え?」
「……これほどの大規模な術式。加えて、さっきのナキガラが遠隔操作でこの地点に術式の一部を書き記すために操作されていたのだとしたら、それを操っている魔術師本人の魔力は相当なものだ。その上、術式それぞれに外部からの破壊を防ぐための防御魔術まで施している。これらを全て成すだけの、それだけの膨大な魔力を持つ者は、この街にはもはや一人しかいるまい」
「……まさか、あの人が……」
「そうだ。東真泉水と名乗った、あの男しかいるまい」
「…………」
主犯の姿は見えた。
だが、それだけだ。
絶対的な力の差を持つ、もう一人の魔術師。
すでに一度、その力の差を目の前で思い知らされている彼方達は、主犯の男の名を告げることしかできなかった。
闇夜を裂いて、一羽のカラスが飛んでいた。
泉水の使い魔のアルタミラだ。
アルタミラは街のネオンサインが苦手だった。
人工的な光が放つあの瞬きは、常に暗がりの中で生きてきたアルタミラにとって目の毒でしかなかった。
日中の日の光もどちらかといえば苦手で、そういうわけでアルタミラは日中のほとんどを日の当たらない日陰か、あるいは泉水の持つアクセサリの水晶時計の中で過ごす。
もっとも、今は真夜中なので、アルタミラにとっては好ましい時間帯だ。
泉水の手伝いをしながら、こうして夜の散歩をするのが密かな楽しみでもあった。
ちょうど今夜も一仕事を終え、帰り際に坂上市の夜景を眺めながら戻っていたところだ。
高層ビルの屋上の手すりに着地する。
そこには、手すりにもたれかかって夜の街を一望する泉水の姿があった。
「ご苦労様、アルタミラ。無事に術式の一部は出来上がったかい?」
「うむ、成功だ。だが、少々予定外のこともあった」
「予定外?」
「あの魔術師達が、たまたまその場に居合わせてしまったようだ。恐らく、あの操作していたナキガラと遭遇してしまったのだろう。それで後をつけられたものと思われる」
「ああ、ケルベロスを連れた彼か。ナキガラ退治に熱心なのはこちらとしてもありがたいのだけど、今夜はちょっと運が悪かったかな」
「どうする? さすがに術式のことはもう悟られたと思って間違いあるまい」
「どうもしないさ。彼らだってバカじゃないから、すぐに気づくだろう。この術式は、破壊しようと思ってすんなり破壊できるような代物ではない。物理攻撃を無効化する特性により、あらゆる魔装でも傷一つ付けることはできない。仮にそれが、最高位の真魔装だとしてもね。となると破壊は呪文に頼ることになるわけだが、術式の魔術防御力はそれこそ他の比じゃない。破壊することは不可能だよ」
「……確かに。歴史を振り返ってみても、この術式を未然に防げたという記録は一つも見当たらない」
「だろう? アルタミラ、君の心配事は杞憂だよ。何も心配することはない。全ては順調なのだからね」
「……そうとも言い切れないだろう」
「…………」
「主とて気づいているはずだ。確かにこの術式……次元開放円は過去のどれだけ秀でた魔術師によっても妨げられたことのない、言わば完成を約束された術式でもある。だが、その反面」
沈黙する泉水を横目に、アルタミラは続ける。
「――同時に、この術式を成功させた魔術師も過去には一人もいないのだぞ?」
それはまさに、諸刃の刃。
何人たりとも阻止はできず、しかし何人たりとも成すこともできぬ術式。
そして術式を試みた魔術師は、例外なく失敗の反動で命を落としている。
それゆえに、この術式は禁忌とされて歴史の裏に葬られた。
文献を見ればその術式の名前くらいは発見できたかもしれないが、そこに術式の詳細は何一つとして記載されてはいなかった。
あったとしても、それは個人の記録によるひどく断片的なものだ。
だが。
それらの情報を全て集め、足りない部分を余りあるその才能で補い、大雑把ながらも術式を甦らせた男がいた。
東真泉水、本人である。
魔術師とは、常に探求する存在だ。
未知のものに対して、過去のものに対して、失われたものに対して。
不可能という言葉を聞けば、それに抗わずにはいられない。
何故なら魔術師とは、不可能を限りなく可能に近づける才能のことを指し示しているのだから。
魔術師の辞書に不可能という文字はない。
いや、それ以前に魔術師は辞書などを用いない。
ゆえに、出来る出来ないで物事を判断せず、やるかやらないかで判断する。
やると決めたらとことんやる。
突き詰めて突き詰めて、壊せる壁は全て壊し、壊せない壁も壊してみせる。
そういうものだ。
少なくとも、東真泉水はそういう男だ。
どれだけ周囲が不可能だと騒ぎ立てても、泉水はそんな言葉には耳を傾けない。
ほんの少しでもそれを認めてしまえば、自分の中の信念が崩れ去ってしまうから。
「……そんなことは、私にとっては些細なことだよ、アルタミラ」
「…………」
「かもしれないなどという、そんなIFの定義は私には必要ない。そんな言葉はあの日あの場所に全て捨ててきたのだからね」
「……そうだったな。つまらぬことを言った、詫びよう」
「構わないよ。むしろ、世界はそれを正しいと認めるだろう。だが、私は違う」
「…………」
「……自分でも思うよ。恐らく私は、とうに狂っているのだろう。修正のきかないほどに、どうしようもないほどにね。それでも私は、追い求めることをやめることはできない。例え私の全てを否定されても、私は私の信念だけは否定しない。我侭で構わない。傲慢で構わない。蔑まされて構わない。愚かで構わない。ただ、そこに可能性がある限り、私は自分を最後まで貫こうと決めたのだ。その程度の覚悟もなくて、失くしたモノを取り戻そうなどとは思わないよ」
「……分かった。もはや何も言うまい」
「……迷惑をかけるね、アルタミラ。こんな不甲斐ないマスターには、愛想も尽きるというものだろう?」
「尽きていれば、とうにこの場に居合わせていない。私がこの場に留まるのは、私の意思だ。そういうものだろう?」
「……やれやれ。全くもって、私には勿体無い使い魔だよ、君は」
「褒め言葉として受け取っておこう」
夜風が通り過ぎる。
黒い翼と金色の髪が、音もなくなびいた。
「……あと、三日」
泉水は呟いて、もう一度坂上市を一望した。
「……もう少しだ。あと、もう少し……」
その声は、どこか優しげで。
泉水の手の中で、握り締めた水晶時計が時を刻む。
今はもういない、過去の思い出。
最後の記憶は、いつの頃だったか。
「――……紫蓮」
声に出したのは、一つの名前。
夜が、深まっていく。