第十五話:狂気
「これでよし、と……」
「ご苦労だった、彼方」
深夜の路地裏に彼方とテトラはいた。
目の前では、今まさに倒したばかりのナキガラが悲鳴ともおぼつかない声を上げて消えていく。
「この数日でだいぶ魔力の扱いにも慣れてきたようだな」
「そうか? 自分ではあんまり実感沸かないから、そういうのはよく分かんないけどな」
「謙遜することはない。単純なゼロからの成長速度で見れば、お前は大したものだ」
褒められているには変わりはないのだが、あまり素直に喜べないところがある彼方だった。
「……なぁテトラ。この前の……東真泉水って男だけど……」
「……気になるか。まぁ、気にするなと言う方が無理というものだな」
泉水と出会った夜から、今日で三日が過ぎていた。
その間、再び泉水と出会うことは一度もなく、かといってこの坂上市に何か大きな変化が現れたわけでもない。
そんな変化があれば、テトラが真っ先に気づいているはずだからだ。
「……あの人は、あるものを探してるって言ってたよな」
「うむ。それがどのようなもので、何の目的のために必要なものかは分からんが、確かに気にはなるな……」
あれほどの絶対的な魔力を持ちながらも、さらに求めるものなどあるのだろうか?
彼方には詳しいことは分からない。
分からないが、実感させられた。
泉水と彼方では、その魔力の総量に天と地ほどの差がある。
どうひっくり返ったところで、今の彼方では絶対にあの泉水には敵うことはないだろう。
あの夜、泉水はあえて口にすることはなかったが、その目は無言で物語っていた。
私に協力してほしい。
強制はしない。
が、その場合は邪魔もしないでほしい。
しかし、これも強制ではない。
その場合、こちらもそちらを排除しにいくつもりだ。
それはつまり、今この場で倒さずとも、いつでもどこでも簡単に返り討ちにすることができるのだと、そう言っているのと同じなのだ。
そして実際、それだけの力が泉水にはあるだろう。
互いの力の差が明確にどれほどのものかは分からなかったが、彼方は確かに例えようのない威圧感を感じだ。
あの夜、学校の屋上で相対したあの時。
彼方は動かなかったんじゃない。
動けなかったのだ。
まるで金縛りにでもあったかのように、足が竦んで一歩も動かせなかった。
本能的に感じ取っていた。
得体の知れないものに対する、拭い去ることのできない恐怖を。
「…………」
「……彼方、聞いているか?」
「……え? ああ、悪い。ちょっとボーッとしてた」
「……大方、あの泉水という男のことを考えていたのだろう」
「……まぁ、な」
「しかし、いくら考えたところで埒が明くまい。相手の出方はおろか、目的さえ分からぬこの状態では、手の打ちようがない。それに、彼方には悪いが、今のお前ではあの男にはまだ遠く及ばないだろう。技術や経験はもちろん、魔力の桁がすでに段違いだ。できることなら、関わり合いになるのも避けたいものだ」
「……ああ、分かってる。今の俺じゃ、アイツには遠く及ばない。それは分かってるんだ。むしろ俺は、アイツの言ってた目的っていうのが気になってさ……」
「……憶測ではあるが、その目的とやらを達成するためには探しているあるものが必要なのだろうな。もっとも、それが何なのかが分からないわけだが」
「そう、だな……」
結局のところ手詰まりだった。
いや、それ以前に泉水の目的とやらがどういう類のものか、現時点ではそれすら分かっていないのだ。
……だが。
それでも、彼方は思う。
嫌な予感がする、と。
この感覚は何なのだろう。
まるで、すでにもう何かの網の中に捕らわれてしまているような。
息苦しさと憔悴。
見えていないだけで、本当はもう何かが始まってしまっているのではないかという、根拠のない不安。
「…………」
しかし、どれだけ考えてみても所詮は推測の域を出ない……言い換えればただの妄想に過ぎない。
「……テトラ、そろそろ戻ろう。もう近くに魔力は」
「…………」
「テトラ?」
彼方の言葉には答えず、テトラはただただ周囲の様子を窺っていた。
表情が鋭く、明らかに警戒をしている。
「……近いのか?」
「……ああ。真っ直ぐこちらに向かってきている」
彼方は正面を向き直り、わずかに身構える。
辺りには街灯もなく、周囲は真っ暗な夜の闇に包まれている。
それに乗じて攻撃されれば、一瞬の判断の遅れが命取りになるかもしれない。
何が襲ってくるか分からない。
彼方はその手に、推進のカードを一枚握りこむ。
空気が一気に冷え込んだ。
一歩一歩、敵は確実に近づいてきていた。
今の彼方には、わずかだがそれを感じ取れた。
「……来るぞ!」
テトラが小さく叫び、身を屈めた。
そして、次の瞬間。
目の前の暗闇を縫うように、一人の男が姿を現した。
その目にはすでに生気のカケラも感じられず、二本の腕はだらしなくただぶら下がっているだけで、そこに自我は全く見当たらない。
明らかにナキガラと化した状態である。
「っ!」
彼方は一歩下がる。
呪文での攻撃を仕掛けるべきか、それとも出方を窺うべきか。
そうこう考えているうちにも、ナキガラはさらに前へ前へと突き進んでくる。
「テトラ、呪文を使うぞ」
「…………」
「おい、テトラ?」
「……いや、待て。何か様子がおかしい」
「何言ってんだよ。ナキガラなんだからとっくにおかしくなってるだろ?」
「いや、そういう意味ではない。これは、どうやら……」
テトラは正面からやってくるそのナキガラに対して、体をどけて道を譲り渡した。
「お、おい……」
一体何をしているのだと、彼方は混乱する。
「何やってんだよテトラ。早く倒さないと……」
「待つのだ彼方。どうやらこれの目的は、私達ではないようだ」
「……何?」
目的が私達ではないとはどういうことなのか?
ナキガラとは、魔力を求めて歩く亡霊のようなもののはずだ。
そしてナキガラにとって魔術師とは等しく敵であり、同時に膨大な魔力を有する絶好のエサでもある。
そのナキガラが、どういうわけか……。
「……どうしてだ?」
「分からん。だが……」
彼方とテトラの間を通り抜け、ナキガラは空っぽの体を引きずってそのまま歩き去っていく。
目の前に、明らかな敵が存在しているにもかかわらず、だ。
「……俺達に、気づかなかったのか?」
「それは考えいにくい。だが、あの感じは……」
ゆっくりと遠ざかっていくその背中を見て、テトラは言う。
「……呪文、か」
「呪文?」
聞き返して、すぐに彼方にも考えが及ぶ。
「操作ってやつか?」
「あるいはそれに近いものかもしれん。どちらにせよ、あれは操られているとしか思えないな。ナキガラが魔術師を目の前にして、劣勢を悟って逃げ出すことはあっても、無視して通り過ぎるなどまずあり得ない行動だ」
「じゃあ、アレは……」
「……後を追うぞ。百聞より一見だ」
彼方とテトラはナキガラを追う。
まるで、見えない糸に手繰り寄せられて歩いている人形のような背中を。
しばらくナキガラを追うと、また別の狭い路地裏にやってきていた。
そこらじゅうにゴミが散乱していて、その腐臭が鼻を突く。
「……どこまで行く気だ?」
「…………」
かれこれ十分ほど後を付けているが、移動した距離はさほど大きなものではない。
空っぽの体を引きずっているせいだろう、その動きが緩慢なのだ。
そしてもうしばらく路地裏を突き進んだところで、ナキガラの動きがピタリと止まる。
それに気づき、彼方とテトラは手近な場所に一度その身を隠した。
見ると、そこはちょうど路地裏の道の行き止まりだった。
ナキガラの目の前には高さ七メートルにも及ぶコンクリートの壁が立ちはだかり、とても乗り越えるのは無理そうに見える。
もっとも、ナキガラならあっさりと飛び越えるか、もしくは壁そのものを破壊してしまうことも不可能ではないのだろうが。
だが、そんな予想と反してナキガラは黙って立ち尽くしていた。
まるで本当に人形になってしまったかのようだ。
「……動かないな」
「……うむ」
「どうする?」
「もう少し様子を見たほうがいいだろう。万に一つ、こちらを誘い出す罠ということも考えられないわけではない」
テトラの意見はもっともだった。
もしもこれが誘い込まれたものだとしたら、戦うにしては場所が悪すぎる。
狭い路地裏の通路は、横幅が一メートル弱しかない上に、左右は建物の壁で高い地点まで塞がれている。
例えばここで、直線状に射程の長い攻撃をされれば、逃げ場はほとんどないと言ってもいい。
だが、そんな考えすらも杞憂だった。
そしてそれ以上に、その行動は狂っていた。
ピクリと、立ち尽くしていたナキガラの型が動く。
彼方とテトラは物陰で息を呑んだ。
わずかに緊張が走る。
それを後押しするように、ナキガラはポケットの中からゴソゴソと何かを取り出した。
カキンと音がして、その姿が露になる。
それは、小型のナイフだった。
折りたたみ式で、果物ナイフと言い換えたほうが想像しやしかもしれない。
それを手の中で握って、ナキガラは動く。
緊張がさらに高まる。
この狭い場所で接近戦はあまりにも不利だった。
テトラはいち早くそれに気づき、打開すべく物影から飛び出て、炎を吐き出そうとして……。
「――アアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
その奇怪に、あまりにも狂いすぎた狂気の叫びに、思わず足を止めた。
だが、狂っていたのはそれだけではない。
「テトラ、どうし」
「っ、来るな彼方!」
「え……」
だが、その制止の声も少し遅い。
彼方は物陰から飛び出し、正面を向き直り、そして、それを見た。
「……な」
「……っ!」
身の毛のよだつ光景だった。
ナキガラと化したその男は、ナイフを両手でしっかりと逆手で握り、こともあろうかその刃の部分を次々に自分の体のあらゆる場所に突き刺していた。
狂った悲鳴を上げながら。
しかしそれでも、強く握られた両手はナイフを放すことはない。
「ヒアアアアアアアアアアッ!」
血の飛沫が辺りに散らばる。
壁に、地面に、いくつもの赤い斑点が刻まれて、男の体からは噴水のように血が噴き出した。
耳障りで不快な音がこだまする。
肉をえぐり、筋肉と神経を引きちぎり、骨を削る。
この世のものとは思えない狂気。
断末魔の叫びを幾度となく繰り返しながら、空っぽの男は絶命に至る直前までその手を止めることはない。
「う、あ……っ」
強烈な吐き気がこみ上げた。
彼方は思わず壁に寄りかかり、その光景から目を逸らす。
「彼方、大丈夫か!」
大丈夫なはずがない。
鼻につく生ゴミの匂いが、いつの間にか鉄の匂いに変わり果てていた。
ビチャビチャと、そこら中に撒き散らされる血と肉片の匂い。
どれだけ目鼻を覆っても、一度見たそのイメージが脳に焼き付いて離れようとしない。
胃液が逆流しそうなほどの嘔吐感。
狂わされる。
見たことも感じたこともない狂気に、この身が狂わされていく。
「ヒ、アアアア……アア、ア…………」
ナキガラの声が途切れていく。
一体どれだけの血を流し、その体に穴を作り出したのだろうか。
ドサリと音を立て、ナキガラはその場に横たわる。
足元には赤い水溜り。
人間の体に、これだけの血液が流れていることなど想像もつかないほど。
壁には飛び散った血飛沫がこびりついていた。
夜の暗さの中、その赤は黒に紛れてしまっているが、妙に赤々しく見えてしまう。
横たわったナキガラはもうピクリとも動こうとしない。
もともと死んでいる体に乗り移り、霊がそれを動かしているわけだが、ナキガラと化したそれはどうやら二度の死を味わうことになってしまったようだ。
横たわった男の体は、間もなくして灰になった。
だが、流れ出した血潮は今もなおその場に溢れかえっている。
「……っ、何、だよ、これ……何が、どうなってんだよ……」
「……恐らく、としか言えないが、やはりあのナキガラは操られていたのだろう。そして、この場で自ら命を絶った。理由は分からないが、そういう命令を書き込まれていたのだろうな」
テトラの声が冷静だったおかげで、彼方も少しずつだが落ち着きを取り戻していく。
とはいえ、胃の中のものが丸ごと逆流してしまいそうなこの吐き気だけはどうにもならない。
少しでも気を抜けば、すぐに戻してしまいそうだ。
「とにかく、ここを出てどこかで休もう。彼方、歩けるか?」
「……ああ、何とか……」
壁に手を突きながら、よろよろと彼方は歩く。
頭の中が真っ赤になってしまった。
目の前が全部赤一色に統一され、今が夜であることさえ忘れてしまいそう。
目を閉じれば耳障りなあの音が甦り、匂いを嗅げば鉄の匂いしかしない。
今はただ、一秒でも早くこの場から逃げ出してしまいたかった。
この、狂った夜の帳から……。
だが、それさえも赦されない。
ふいに、夜の闇が照らされた。
光ではない。
月も星も、今日はその姿を見せていない。
その光は。
「……白い、炎……?」
振り返ったそこには、灰と化したナキガラの上に灯る白い炎があった。
白い炎は灰を瞬く間に無に還し、足元の血溜まりを宙に浮かせた。
赤い珠となって浮かび上がる血の雫。
それらは、左右と正面の壁に次々と激突していく。
ピシャンピシャンと音を立て、赤い珠が砕け散っていく。
やがてそれらは、全てが壁の中に吸い込まれる。
そして、出来上がる。
「……これは」
壁に浮かび上がる紋様。
それはさながらに、呪文カードに刻まれたものと酷似する図柄だった。
「っ、まさか、この術式は……」
テトラがその光景にうろたえるが、それが何なのかを聞き返す力さえ彼方にはなかった。
描かれた図柄は、白い炎と共に高く燃え上がる。
白い炎は血潮の図柄を焦がし、壁の中にそれらをしっかりと焼き付けた。
左右、そして正面の壁にそれぞれ焼き付けられた図柄が光ると、地面の上に同じ光が浮かび上がる。
そこに浮かび出たのは、まるで魔方陣を思わせるような図だった。
「……間違いない。この術式は……」
確信するテトラを尻目に、光はさらに強まった。
「く……彼方、とりあえず今は退くぞ!」
「あ、ああ……」
どうにか頷いて、彼方はおぼつかない足取りで狭い通路を走り出す。
一体、何がどうなているのだろうか?
そう考えたところで、彼方の意識は闇の中に落ちた。