第十一話:新しい足音
「おや? 西花ちゃんじゃないか」
正門からやってきた西花に、源三は声をかける。
「こんにちは、源三さん」
「おお、ちょうどよかっわたい。前にもらった野菜で作った漬物がちょうど出来上がったところでの。後で持って行こうと思ってたところなんじゃよ」
「ホントですか? お母さんも喜ぶと思います。あ、それと……」
「む?」
「彼方、もう起きてますか?」
「んー、どうじゃかの。朝飯も食べに降りてこんし、まだ寝ているかもしれんの。ま、日曜だから別に構いやせんがの」
「お邪魔してもいいですか?」
「ああ、構わんよ。ついでにあのネボスケを叩き起こしてやっとくれ」
源三は玄関前の石畳の上を、引き続き箒で掃き始める。
西花は家の中に上がり、階段を上って彼方の部屋の扉の前に立った。
コンコンと、軽く扉をノックする。
しかし、しばらく待っても中から返事はない。
「……彼方? まだ寝てるの?」
声もかけてみるが、やはり応答はない。
源三からは叩き起こしてくれとは言われたものの、本当にぐっすり眠っているのだとしたらそれもどこか気が引ける。
特に急いだ用事でもないし、午後にもう一度出直してもいいだろう。
そう思って扉の前から立ち去ろうとした、そのときだった。
「西花か?」
「え?」
扉の中……彼方の部屋の中から聞こえた声は、テトラのものだった。
「銀……じゃなかった、テトラ? アンタはいるの? 彼方は?」
「今はまだ眠っている。何か用件があるのなら、私が伝言くらいしておくが?」
「……えっと、入っても平気?」
「……まぁ、熟睡しているようだし、大きな音を立てなければ問題はないとは思うが」
その返答を受けて、西花は静かにドアノブを回し、扉を押し開けた。
部屋の中は薄暗かった。
カーテンを閉め切っているせいだろう。
西花は静かに扉を閉め、部屋の真ん中へと歩く。
そこまで歩いて、ベッドの物陰で横になっているテトラを見つける。
「あ……」
「…………」
目が合うと、テトラは何とも言えない曖昧な表情で視線だけを動かした。
その視線の先では、彼方がベッドに深く沈んで眠っている。
「……ホントに熟睡してるみたいね」
「……溜まっていた疲れが一気に出たのだろう。ここ数日は特に、急展開の連続だったからな」
「そりゃ、いきなりお前は魔術師だなんて言われた日にはね……」
西花はそっと、眠る彼方の横顔を覗き込む。
「何をしているのだ?」
「……いや、特に意味はないんだけど」
言いながら、もう一度食い入るようにその寝顔を覗く。
「……寝顔だけ見てれば、昔っから何一つ変わらないんだけどな……」
「寝るたびに顔が変わるほうが不気味だと思うが」
「いやまぁ……そりゃ、ね……」
「……それで、何用だ?」
「え?」
「何か用があって来たのだろう? 違うのか?」
「……うーん、特別用事ってワケでもないんだけど」
「けど、何だ?」
「……昨日からちょっと、様子がおかしかったから。それが気になってね」
「…………」
「夕方頃だったかな。駅前の通りの近くで、急にサラリーマン風の男の人が倒れちゃってさ、ちょっとした騒ぎになったんだけど」
もちろんその事実を、テトラはロザリオ越しに彼方から聞かされていたので知っている。
「それでそのときの野次馬の中に、私と彼方のクラスメイトの子がいたって、彼方が言ってたんだよね。私は直接この目で見たわけじゃないんだけど。その後から、ちょっと様子が変っていうか、おかしかったから。何かこう、考え込んでるって言うか、思い詰めてるって言うか……うまく言えないんだけど」
「……そうか」
「テトラは、何か心当たりないの? もちろん、私の勘違いってこともあると思うけど……」
テトラはその言葉に、一瞬だけ考える間を取り、深く眠る彼方を視界の端で捉えた。
しかしすぐに視線を戻し、西花の目を見ずに告げる。
「……いや、分からないな。気のせいではないか?」
「……そっか。まぁ、それならそれでいいんだけど。アンタが言うように、疲れが出ただけかもしれないし」
「…………」
テトラは何も答えない。
何をどう答えても、どうにもならないと知っているからだ。
ほんの数時間前の出来事だ。
恐らく……いや、間違いなく、初めてのことだろう。
――彼方は、人を一人その手で殺したのだから。
結果的にそれは、一人の少女を本当の意味で救うことになっていたとしても。
現実に救うことができなかったと言われれば、それもまた認めなくてはいけない事実だ。
この二つの事実の差は、浅いように見えてそこが知れないほどに深い。
これからずっと、この事実は……この記憶は、彼方の中に刻み続けられるだろう。
苦悩として、後悔として、無力として。
だが、いつかそれが他の何物にも変えられないものになることもまた事実である。
が、そのことに気づくには、彼方の心はまだ成熟しきっていなかった。
何もかもが未熟。
考えも、経験も、知識も、何もかも。
そしてそのことに気づくのに、他の誰かの力を借りてはいけない。
自分自身で気づくことでしか、そこから先へは進めないのだ。
そういう意味では、昨夜の出来事は彼方に対して些か早すぎる試練だったとしか言いようがない。
向き合った現実があまりにも残酷で、心が壊れかけている。
テトラはもう一度、眠る彼方に目を向けた。
もしかしたら、彼方はこのままもう二度と目を覚ますことはないかもしれない。
自責の念のよって殻の中に閉じこもれば、外からこじ開けることは不可能だろう。
人間は脆い。
他の生物より遥かに優れたものをいくつも持っている代わりに、弱さもそれに負けないほど多く持っている。
大自然の動物達の中では暗黙の掟でもある弱肉強食。
強い者だけが常に生き残り、弱い者はそのための糧でしかない。
野生動物達の中では、それがルールであり、生きるための真実だ。
しかし人間は違う。
強さだけを持つ人間はどこにもいやしない。
しかし同時に、弱さだけを持つ人間もどこにもいない。
いい意味でバランスが取れているようで、実は恐ろしく不安定。
言葉一つで感情は傾くし、態度一つで心理が揺れる。
誰でもそう、同じことだ。
彼方とて、例外ではない。
とにかく今は、時間が経つのを待つしかない。
この眠りの中で、彼方は何を得、何を失うのか。
それは、他の誰にも分かりはしないのだから。
「あ……」
ふと、西花が呟いた。
テトラは目を開け、何事かと西花を見る。
すると西花は、全く別の方向を見ていた。
その視線を追いかけてみると……。
「……彼方」
「…………」
ベッドの上で、彼方が上半身だけを起こして目を覚ましていた。
目はまだ半開きで、眠気が少なからず残っていることを容易に想像させる。
その体がぐらりと傾いて、彼方は手を着いて自分の体を支えた。
「彼方、無理をするな。まだ疲れが取れていないのだろう?」
「そうだよ。もうしばらく休んでなって」
「…………」
彼方はぼんやりとテトラと西花に視線を移し、軽く目元をこする。
それで少しは目が覚めたのだろうか、小さなあくびを噛み殺し、彼方は言う。
「……西花」
「え、何?」
「……何でお前、俺の部屋にいるの?」
「あー、それは……えーと……」
「……お前さ」
「う、うん……?」
ふいに西花はたじろいだ。
何を言われるか分からなかったからだ。
……が、しかし。
「――朝っぱらから夜這いか? いや、この場合朝這いって言うのか?」
「…………は?」
「…………」
呆然とする西花。
テトラは無言のまま、楽に次の展開が予想できたので耳を塞いだ。
「悪いけど、俺にはそういう趣味はな」
言いかけた途中で、顔面に強烈な一撃が見舞われた。
そのままベッドに再び沈む彼方。
勢いよく扉が閉まるバタンという音だけが、部屋の中に虚しく響いていた。
西花はズンズンと階段を降り、廊下を歩く。
「人が心配して来てやったっていうのに、アイツは……!」
不機嫌二百パーセントの表情のまま玄関までやってくると、そこに源三がいた。
「おお、西花ちゃん。どうじゃ? 彼方は」
言いかけて、源三は言葉を失う。
稀に見る不機嫌極まりない形相で、西花が歩いてきたからだ。
「…………」
源三は命の危険を感じた。
触らぬ神に祟りなしという言葉は、今この瞬間を置いて残された生涯の中で使うことはないだろう。
「……源三さん」
「な……何かの?」
「あのバカ、寝起き悪かったからもう一度寝かしつけときました」
「そ、そりゃどうも……」
言って、西花は去っていく。
孫の命は無事だろうか?
源三は本気でそう思った。
「全く、何を考えているのだ」
「……記憶が飛んだかもしれないな」
ぶっ飛ばされた顔面の一部をさすりながら、彼方は起き上がる。
「今回に関しては、彼方に非があると言わざるを得まい。雰囲気的に気づかぬのか?」
「……いいんだよ、あれくらいで。余計なこと考えさせると、アイツ妙なところで勘が鋭いんだよ」
「……損な役回りだな、それは」
「全くだ。自分でも嫌になる」
言いながら、彼方は小さく笑った。
「それで、体の具合はどうだ? まだどこか痛むところはあるか?」
「……どこっていうよりも、体全体がまだダルイ感じだな。特に痛むところはないけど、力が中途半端に戻ってる感じだ」
「ふむ。まぁ、仕方なかろう。全魔力はおろか、少なからず血も流してしまったしな。本来なら輸血などの処置も必要になってくるが、魔術師に限っては時間経過で元に戻るから心配ないだろう」
「そういうもんなのか?」
「魔力とは血液に溶け込むものだ。逆に言えば、魔力は血液の代わりにもなる。魔力の回復と共に、一部の魔力が徐々に血液の中に溶け込んでいくのだ。それで輸血の代わりになる。多少時間はかかるがな」
「……自分で言うのもアレだけど、便利な体だな」
「同じ意味で、不便でもあるがな」
「そりゃそうだ」
とりあえず彼方はベッドから降り、私服に着替える。
日曜とはいえ、いつまでもジャージ姿でいるのもどうかと思う。
「彼方よ」
「ん?」
着替えを終えた頃を見計らって、テトラが口を開く。
「……大丈夫か?」
その言葉には、色んな意味が重くのしかかっていた。
彼方もその言葉の中にある意味を、しっかりと理解する。
「……正直言うと、まだキツイ部分はいくつもある」
「…………」
「……でも、ここで逃げたら…………桐原のヤツにも、何か言われそうだしな」
「……そう、だな」
「……テトラ」
「む?」
「俺、強くなるよ。あらゆる意味で、今より」
「…………」
「少なくとも、自分とその周りくらい、守れるように」
「……ああ。お前ならできる」
それだけで、お互いの気持ちは伝わった。
テトラをロザリオの中に戻し、彼方は一階に降りる。
冷めてしまった朝食を温め直し、空っぽの胃袋の中に収めていった。
「おお、やっと起きてきたか」
ちょうど台所に源三がやってきた。
その手には小さな壺を抱えている。
「すまんが彼方、この漬物を西花ちゃんのところに届けてもらえるか?」
「ん、分かった」
彼方がそう答えると、源三は心底ホッとしたような表情を見せた。
まるで危機が去ったかのような感じだ。
「どうしたのさ、ジーちゃん」
「いやなに、さっき西花ちゃんが、ものすごい形相で帰っていったからの。何かあったのかの?」
「あー……」
そういえばと思い出す。
……色々あったというか、一方的に殴られただけな気がする。
思い出し、彼方もハッとなる。
あれからほとんど時間の経ってないこの状況で、ノコノコと西花のところに行くのは自殺行為以外の何物でもないのではないか。
「ジーちゃん、ちょっとタンマ!」
と言ってみたものの、そこに源三の姿はすでになく、漬物がギッシリ詰まった壺だけが置き去りにされていた。
「……テトラ」
(…………)
「俺、死ぬかもしれない……」
(……お前なら……できる)
言葉の重みが、数分前とは大違いだった。
その男は、展望台の上にいた。
「……坂上市か。さほど広くもないが、かといって手狭というわけでもない。ちょうどいいくらいの広さだな」
「どこもかしこもまだ発展途上のようだな。十数年もすれば、街並みもがらりと変わるだろう」
男の言葉に続け、客観的な感想を述べたのは、その男の肩を止まり木にして佇む黒い鳥。
不幸の象徴として多く見られる、一羽のカラスだった。
「ところで、気づいているかい? この土地にはずいぶんと魔力が満ちているようだが」
「無論だ。目測の人口密度から考えても、一般の人間一人一人が持ち寄る魔力の総合計よりも、遥かに基準値を上回っている」
「ふむ。ということはどうやら、ここにはすでに私のご同輩がいる、ということになるのかな?」
「可能性は極めて高いだろう。それも、相当量の魔力を有する者だ。油断はできんな」
「油断? お前がそんな言葉を使うなんて珍しいな、アルタミラ。凶兆の象徴とされるがゆえに、危険を感じたのか?」
「分からん。だが、現時点での我の感情を言葉に表す場合、油断という言葉がもっとも適切だと判断した」
「……なるほど。肝に銘じておくとするよ」
「ときに、この街で行うのか? 例の儀式を」
「これほどの広さがあれば申し分はないだろう。何より、ここを逃したら次にこんな好条件の場所に辿り着けると思うかい?」
「……確かに。これだけの魔力があれば、儀式そのものの進行も極めて順調に進むだろうな」
「そういうわけだ。アルタミラ、この街に決めるぞ。ここが私達の儀式場となる」
「……嬉しそうだな。我が主よ」
「……嬉しい? お前にはそう見るのか? アルタミラ」
「…………」
「ああ、すまない。責めているわけではないんだ。元々私は感情が乏しいからね。表情の変化など微々たるもので、その変化で喜怒哀楽の感情を見極めることなど、普通は無理だからね」
その男は、変わらない笑みのままでそう告げる。
「それと、いつまでも堅苦しく主なんて呼ばなくてもいいんだよ? 私には東真泉水という名前があるのだから」
「主がそう呼べというのならば、善処はしよう」
「ま、どちらでも構いはしないけれどね」
泉水は歩を進め、景色を一望する。
「この景色も、もうすぐ見納めとなるわけか」
「…………」
「さて。まだ日は高い。作業開始は夜の帳が落ちてからにするとしようか。アルタミラ、お前の力も借りることになるだろう」
「分かっている。我が力、我が主のために使おう」
「期待しているよ。宵闇の支配者、スケアクロウが一子……黄昏右翼、アルタミラ」
アルタミラはその羽根を大きく広げ、黒い羽根を街の上から撒き散らした。