第十話:光
「――推進、オン」
呪文が発動する。
彼方は一瞬だけ身を屈め、地を蹴った。
その動作に反応し、灯香も迎撃のドレインダガーを構える。
……が。
「っ!」
目の前を何かが横切ったような感覚。
その感覚を受けた次の瞬間には、視界の先にいたはずの彼方の姿はすでになかった。
そして。
「とりあえず、このナイフは取り上げさせてもらう」
気がつくと灯香の腕は彼方に掴まれ、その手の中からドレインダガーは呆気なく奪われた。
「…………」
灯香は無言でもう片方の手を伸ばし、ドレインダガーを奪還しようとする。
だが、その手はあっさりと空を切った。
そこにすでに彼方の姿はなく、振り返れば元いた位置に戻っている。
その手にはしっかりと、ドレインダガーが握られていた。
「……っ、は、あ……」
しかし、彼方の負担は大きい。
呪文、推進は身体能力を飛躍的に向上させ、移動能力を爆発的に増加させる効果を持つ。
具体例を述べるなら、今の彼方の足だと百メートルの距離を二分の一秒でゼロに縮めることができるほどだ。
まさに目にも留まらぬ速さというやつである。
「……っ、思った以上に、キツイな……」
しかしその反面、体にかかる負担も大きい。
彼方の体力、及び魔力が万全の状態であったなら、この程度の使用は全く負担にはならなかっただろう。
しかし今、彼方の体力と魔力は万全の常態と比べて三分の一か、あるいはそれ以下にまで落ちている。
ドレインダガーによる魔力吸収が一番の痛手だったのだ。
額には汗の珠が浮かび、たった二回の推進の使用で息が切れている。
どう考えても長続きするとは思えない。
しかし、無理した甲斐もあって成果は大きい。
ドレインダガーを取り上げることができたのは、戦況を大きく変化させたと言っていいだろう。
これで灯香も丸腰同然だ。
空間移動の能力は厄介だが、再びドレインダガーを奪われることさえなければどうにでもなる。
問題は、これからだ。
武器を奪ったとはいえ、灯香の体は未だに霊に取り付かれたままの状態だ。
どうにかしてそれを分離させないといけないのだが、そのための手段は皆目見当がつかない。
操られているだけの灯香の体にどれだけ傷を負わせたとしても、肝心の霊本体には何のダメージも与えられない。
いや、それ以前に彼方には、灯香の体を殴る蹴るなどの真似はできないだろう。
つまり、攻め込むことはできても勝機を掴むには至らない。
その点でも彼方は圧倒的に不利だった。
逆に灯香は、そんなことなどためらいもしないだろう。
その証拠に。
「…………」
灯香は足元に転がっていた金属の棒……鉄パイプを細くしたようなそれを拾い上げ、手の中に収めた。
そして。
「っ?」
彼方の視界の先から、その姿が消える。
空間移動だ。
どこからくる?
右か、左か、背後か、それとも……。
わずかに風を切る音を、彼方の耳は捉えた。
「上か!」
見上げるより早く、彼方はその場から横合いに飛び退く。
次の瞬間、今まで立っていたコンクリートの地面が叩きつけられた。
地面の一部が砕け、破片がパラパラと周囲を転がる。
そのまま、間を与えずに追撃がくる。
灯香の姿が消える。
再び空間移動を使用したのだ。
「く、今度はどこから……!」
言いかけた瞬間、背後でカツンと音がした。
反射的に背後だと思い、彼方は前方に転がる。
だが、それは。
「な……」
音を立てたのは、ただの石ころだった。
それが落下し、地面を転がっていたという、だたそれだけの音だったのだ。
そして。
「…………」
予めこの方向に逃げてくることを予想していたかのように、灯香は彼方の目の前で鉄の鈍器を振り上げ、待ち受けていた。
風を切り、それが振り下ろされる。
転がったときの体勢が悪く、回避は不可能。
「っ、推進、オン!」
ガツンと、再び地面が砕かれた。
そこからおよそ二十メートルほど離れた場所で、彼方はよろよろと立ち上がる。
「……はぁ、は……っ、く……」
呼吸の乱れが目立つ。
本格的に体力も魔力も限界に近づいていた。
加えて……。
「……っ、さっきの、傷が……」
胸の傷が開いていた。
出血こそ少ないものの、薄手のシャツは胸の辺りを中心に真っ赤に染め上げられている。
ズキズキと鋭い痛みが襲う。
しかしその痛覚のおかげで、どうにか意識を失うことを免れている。
だが、しかし。
「……っ」
ガクンと膝が折れる。
もはや立っていることもままならない状態だった。
胸の傷は治癒の呪文を使えば塞ぐことはできるが、恐らくそれで残った魔力は全て使い果たしてしまうだろう。
その魔力を推進にあてがったとしても、あと二回が限界だ。
つまり、どうがんばってもあと三回。
その三度目の攻撃で、確実に彼方は倒れる。
そのことを灯香も理解しているのだろう。
空間移動なら一瞬で詰め寄れるその距離を、わざとらしくゆっくりと歩いてくる。
コツコツと、その靴音が徐々に近づいてくるのが分かる。
彼方の手の中から、ドレインダガーがするりと抜け落ちる。
カランと音を立て、銀色のナイフの刃は空を向いた。
彼方は虚ろげに、その中を覗き込む。
厚い雲に覆われた空が映っていた。
あれほど沢山あった星達も、いつの間にかずいぶんとその姿を消してしまったようにも見える。
ナイフの刃に映った狭い夜空。
その片隅に、わずかにだけ月の輪郭がその顔を覗かせ始めていた。
その光のせいだろう。
今いる屋上のこの地面を、漏れた月明かりがうっすらと照らし出している。
彼方の正面に、自分の影が長く伸びていた。
這い蹲り、立ち上がることのできない屈する影。
その先からは、灯香が一歩ずつ確実に距離を縮めて……。
縮めているはずだった。
だが、そこには。
「……っ、あ……う……」
「……っ?」
ふと彼方が顔を上げると、中途半端な距離を残したところで灯香が立ち尽くしていた。
だが、明らかに様子がおかしい。
自分の頭を両腕で抱え込み、ものすごく苦しそうに言葉を吐き出している。
「あっ……ぐ、うあ……ああっ……」
「……桐、原……?」
「…………っ、い……一、じょ……君……っ!」
「……桐原、お前……」
その声は確かに桐原のものだった。
話したことも数えるほどしかなく、今となってはどんな言葉を交わしたか、それさえもまともに思い出せはしないけど、それは間違いなく桐原灯香の声だった。
「っ、桐原!」
彼方はその名を叫ぶ。
苦しそうに悶え、息も絶え絶えになりながら必死で叫ぶ彼女の名を。
「……は……早く……っ、今の…………うち、に……ああっ…………!」
「桐原っ!」
「来ちゃダメッ!」
「っ!」
その言葉に、進みかけた彼方の足が止まる。
「……来ないで。来たら、私きっと…………今度こそ、一条君を……殺しちゃう……」
「けど、それじゃあ……」
「あああああっ!」
「っ!」
叫んだ次の瞬間、灯香の姿が消えた。
空間移動。
そしてその気配は、彼方の背後から現れる。
「……っ!」
推進が間に合わない。
今度こそ、その手の中の鉄の鈍器は彼方の体を砕く。
……が、またしてもそれは起こらず。
ゴツンという、三度目のコンクリートを砕く音は、先ほどまで灯香が苦しんでいたその場所から聞こえた。
恐らく、彼方に対して攻撃を仕掛けたその瞬間に、再び空間移動であの場所に移動したのだろう。
そして振りかぶった攻撃は、足元の地面を打ち砕いた。
「っ、お願い……早く、今の……うち、に…………まだ、私が私で……いられる、うちに……っ!」
その手から鉄の鈍器がすり落ちる。
カランカランと音を立て、筒状のそれは転がった。
そして灯香は、叫ぶ。
悲痛なその声で、何よりも大きく叫ぶ。
「――……私を…………っ、殺して…………」
「桐、原…………」
それ以外の言葉が口から出てこなかった。
「……早く……っ、早く……」
「っ、だけど、だけどそれじゃ、お前が……」
「彼女の気持ちに答えてやれ、彼方」
「……テトラ」
「彼女がどんな想いで、お前にこんなことを頼んでいると思うのだ。悟っているのだ、もうこれしか方法がないということを」
「何で……何でだよ? 元に戻す方法はあるんじゃなかったのか?」
「ある。確かに、分離という呪文そのものは存在する。だが、今はもう無理だ」
「っ、どうして?」
「時間が経ちすぎている。初期の段階ならまだしも、すでに同調から数日経っている今では不可能なのだ」
「……そん、な……」
桐原灯香は、確かに目の前にいるというのに。
だけど、もう救うことはできない。
同調とは、単純に波長が近いというだけではない。
一度同調してしまうと、時間の経過と共に体も心も一つになっていくという意味なのだ。
言い換えればそれは、自分が自分ではなくなっていくということに他ならない。
「……お前ができないのなら、私がやろう」
テトラは一歩前に出る。
「……本当に、もう無理なんだな? 他に方法も、ないのか?」
「……ああ、残念だがな」
「……っ!」
彼方はテトラを手で制し、自ら一歩前に出る。
「……俺がやる。せめて、俺にできる最後のことくらいは、俺が……」
「……うむ」
彼方は灯香の正面に立つ。
苦しみ、苛まれ続けるその姿は、見ているだけで痛々しい。
「……一条、君……」
「……ごめんな、桐原。俺は……無力だから、こんなことしか、してやれないけど……」
彼方はズボンの後ろポケットから、一枚のカードを取り出す。
それは呪文カードではない。
そのカードは……。
「――月下星弓……アストラルアロー」
彼方の足元を中心に、魔力の渦が立ち上る。
小型の台風の中心にいるかのように、すさまじい勢いで収束した魔力が発生した。
「っ、彼方! 今のお前に月下星弓を扱うだけの魔力は……」
残っていないと告げる直前、テトラはそれを見た。
彼方は灯香から奪ったドレインダガーで、自分の左手の甲を切りつけていた。
ドレインダガーの効果は、傷つけた対象から、傷の深さに比例して魔力を奪い取るというもの。
自分で自分を傷つけた場合、その魔力が奪われ吸収されるのもまた自分の体なので、総合的な収支はゼロである。
ではなぜ、彼方は自らの体を傷つけたのか。
その答えは、一つ。
「……彼方、お前はまさか、知っていたのか? 魔術師達が魔力の代わりに代用したものが……自身の血であるということを」
魔力とは、血液のように体の中を循環するものである。
それはまるで血液そのものと言っているのも同じで、魔力の一部は血液の中に溶け込むともされている。
しかし彼方は、そんなことなど知らない。
テトラの口ぶりからも分かるように、そのことをテトラから教えられてもいない。
そして彼方自身も、このことに確証があったわけではなかった。
ただ、ふと思い出した言葉の中に、それらしいものがあったのだ。
「――……足りない。まだ、足りない。もっと、血を。魔力を」
その言葉で、もしかしたらと思ったのだ。
魔術師達にとって、魔力と血は近いものがある、あるいは同等のものなのではないだろうか、と。
そしてそれは、間違いではなかった。
傷口から滴り落ちる血潮は、月下星弓の具現に足りない魔力の分を補ってくれる。
例えそれが、自らの命を削り取る行為だとしても、彼方は惜しまないだろう。
何故なら、目の前の彼女は命よりも大切な心を削りながら叫んでいるのだから。
そして、彼方を取り巻いていた突風がピタリと止む。
渦巻いた魔力の一部が空高く飛散して、月を隠していた厚い雲を吹き飛ばしていた。
そこから、金色の月が顔を覗かせる。
淡い月光が、彼方達の立つ屋上一面を照らし上げた。
彼方の手に握られた月下星弓が、その光を浴びて一際強く輝きを放つ。
月下星弓は、その構成物質にムーンストーンと呼ばれる宝石を大量に使用している。
この宝石は名前の通り、月の石と呼ばれるものだ。
そしてそれは、月光を受けてより強く輝きを増した。
「……桐原」
その名前を呼んで、彼方は静かに右手で矢を添え、弦を引く。
「…………一、じょ……君……」
その声が悲しくて。
その声が哀しくて。
どうしようもなく、辛かったけれど。
絶対に、目は背けない。
ギリギリと、強く弦を引く。
矢羽を持つ指先が震える。
狙いを定める左手が震える。
それでも強く、強く。
彼女の中心に、星の矢を向けて。
最後に小さく、息を吸い込んだ。
「――桐原あああああっ!」
そして、射る。
凛と、鈴の音がなるように、静かに、そして速く。
一閃の軌跡が、瞬く間に彼女の体を貫いた。
その、刹那。
彼女は小さく……本当に小さく、微笑んでくれた気がして……。
「…………っ!」
彼方はその場に、膝を折って崩れた。
彼女を貫いた矢が、空の中へと吸い込まれていく。
地上から天空に向かう、逆の流れ星。
トサリと、軽い音を立てて灯香の体が崩れ落ちた。
地面に置いたままだったドレインダガーが、カードへと姿を変えていく。
それはつまり、灯香に取り付いていた霊が消え、死滅したことを意味する。
彼方の手の中から月下星弓が消え、同じようにカードに戻る。
「桐、原……」
その名を呼びながら、彼方は灯香の元に歩み寄る。
そして、その体をそっと抱き起こす。
体はまだ温かい。
が、その温かさが次第に消えていくのが手に取るように分かった。
「…………う」
微かに灯香が呻く。
閉じていた瞳が、ゆっくりと開き始めた。
「……一条……君?」
「っ、桐原、俺、俺……ゴメン……」
彼方の言葉に、灯香はしかし小さく首を横に振る。
「……謝ら、ないで。一条君は、何も悪くないよ……」
「けど、俺……何も、できなかった……」
「そんなこと、ない。ちゃんと、助けてくれたよ。私は……私を失くさずにすんだもん」
「……違う。違うんだ……そんなんじゃ、ない。俺は……」
「……ありがとう」
「……桐原」
「……私はもう、いなくなっちゃうけど。最後にちょっと、嬉しかった」
「え……?」
「……自分の名前を、あんな風に大声で呼ばれたこと、なかったから」
それは一体、どういう意味の言葉だったのだろうか。
「呼ばれて、分かったんだ。ああ、私はちゃんと……ここに居るんだな、って」
「…………」
「……だから、もう、平気。大丈夫だから」
「……っ」
「……元気でね、一条君。もう、逢えないけど……元気でね」
「桐、原……っ」
「……ちょっぴり、残念……だな。こんなことなら……もっといっぱい、お話して……おけ、ば…………」
わずかに開いていたその瞳が、閉じていく。
ただでさえ軽いその体が、さらに重さを失っていく。
そして、伝わる体温が……冷めていく。
「……っ、桐原あああああっ!」
彼方は叫んだ。
その腕の中で、桐原灯香は優しく微笑んで眠りについた。
特別な感情があったわけじゃない。
接点はただ、同じ学校のクラスメイトだったという、それだけのこと。
……それでも。
胸を刺すその悲しみは、紛れもなく本物だった。
月光に照らされる中、やがて彼女の体は光の中に溶けるように、静かに消えていった。
まるで季節外れの雪のように、光が無数の粒になり、天に還っていく。
冷たささえ感じないその粒の一つを、彼方は手の中で強く握る。
「――…………さようなら」
そんな声が、聞こえた気がして……。
光る雪は、月の中に吸い込まれていった。