本脳寺ヶ変
1582年6月21日未明。明智光秀はふと敵が本脳寺に居ることに気がついた。
「敵は本脳寺にあり」
本脳寺は京都にある。周りをコンクリートで囲まれた、非常に風情に乏しい寺である。有名なお寺なのに期待して見に行くとがっかりする。
だが、本脳寺が有名になるのは今日ここで織田信長が討たれるからである。本脳寺の変がなければ、本脳寺は「そんなお寺もあったね」といつか笑える程度のお寺である可能性が高い。
「敵は二条城にもあり」
織田信長は本脳寺に宿泊しているが、信長の後継者である信忠は近くにある二条城にいる。
二条城はその名の通り二条通りにある城である。いや、城というか館である。なぜか城を名乗っている。周知の通り、京都は碁盤状に道路が並んでいる。東西に伸びる道は、北から順に一条、二条、三条・・・九条と名付けられている。一条には御所がある。そのすぐ南の二条には二条城があり、三条には三条実朝が住み、四条には縄手があり、五条には大橋がかかり、六条には一間があり、七八とんで九条の西側には西九条がある可能性が高い。
本脳寺、寝所のうち。信長はふと自分が敵であることに気づき目覚めた。「畢竟、真の敵は己か」酔っている。
周りがやけに騒がしい。
「ほたえなっ!」
本脳寺に響き渡るほどの大音声だった。寺内は一気に静まった。
信長は女であったという説がある。説といっても大した説でもない、小さなものだ。小説といっていい。竜馬が女であったという小説もある。日本人は有名人を女にして楽しむ感性を持っている。だが女信長はコケたらしい。したがって信長、男である。
光秀はどこかの山の上で、いよいよ軍を本脳寺に転進させようとしていた。日本の運命を大きく転換する命令である。
「敵は本脳寺にあり」
いや、軍全体に意図が漏れるのは賢くない。「中国地方への進軍前に、殿に閲兵いただく」が正しい命令である。
このとき、光秀五十歳。京都の西に領地を持つ国持大名であったが、領地替えを命ぜられ、中国地方に向かう。中国地方では毛利勢が大きな勢力を持ち、対して信長配下の豊臣秀吉が戦っていた。光秀は秀吉の援軍としての征西である。GO WEST。未来を開拓するほんものの西部劇である。
しかし西部劇の主要な登場人物、たとえばワイアット・アープやビリーザキッドが実は女だっという小説は聞かない。西洋人の感性は日本人とは異なるおそれがある。
独自の感性を持つ西洋人が発明した建材がコンクリートである。そのコンクリートが本脳寺の主要な構造体を形作っている。コンクリートの強度は200kg/cm2にも及ぶ。したがって本脳寺は難攻不落である。弓を射ても矢がささらない。刀で切りつけても刃がかける。飛び蹴りして靴跡を残すのが人類の限界である。
しかし本脳寺には風情がなかった。夕日に照らされ、陸に上がった魚の腹のようにテラテラと輝く本脳寺は、更に周りを低層ビルに囲まれ、鉄製の黒い柵越しには本堂部分の一割も見えない。なぜか寺はたいてい自分の土地を駐車場にして小銭をかせぐ。本脳寺の周りにも自動車がたくさんとめられている。
そこに光秀の軍勢が襲い掛かった。是非に及ばなかった。
「ほたえなっ!」
突然信長の怒声が聞こえて、光秀は戦慄した。ビビってブルってチビった。だが光秀も百戦錬磨、これ以上信長を刺激しないよう極力静かに軍を動かす大方針に大転換した。この大戦術が奏功し、やがて本脳寺は静かに墜ちる。
本脳寺近くの二条城では、信長の長男信忠も奮戦している。奮戦していても脇道である。話を本脳寺に戻す。
本脳寺は古来よりの場所に建っていない。本脳寺を移動したのは豊臣秀吉である。おそらくコンクリート造りにしたのは何代目かの坊主であろう。きっと駐車場を作ったのもその前後である。さらに敷地内にあるホテルを作ってホテル本脳寺と名付けたのは誰だ。
その誰かのせいで、今日、本脳寺本堂は周りをビルに囲まれて敷地外からはほとんど見えない。風情のない寺を明智軍が静かに静かに攻めていた。ホテル本脳寺のどんちゃん騒ぎのほうが耳についた。声も音もたてずに戦う兵達の額に汗が流れる。もう、六月もなかばを過ぎていた。