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狼男は敗けを悟りその場から背を向けて逃げ出した。
男は逃げる。8年間待ちに待ち、暖めに暖めた計画が潰された。
男は走る。体勢を整え次に来るチャンスに備えるべく。
暗い山中をふらつく体だとは考えられない程のスピードでもって、走る、走る、走る……
いつの間にか男は崖にと向かっていた。気付かずに彼は疾走する。
男の人生は迫害といわれのない偏見で覆われていた。自らが宿すこの力のせいだ。
父親と母親は気が付いた時にはいなかった。横丁では神の子として扱われたけれども、人は濁りきっていた。
ある少年が唯一信頼できた。あの少年のみが自分を理解してくれた。
行方不明の少年だけが普通に接してくれた。話してくれた。信じられた。
だけど。彼はやがていなくなる。
そして。何も言わずに親友いなくなってしまったあの日。
少年は一つの大きな存在に会った。
奴は昨日男性を喰らったという 。奴はそれでも消えられなかったから少年を喰らうと言う。
もう、全ての人生に少年は絶望していた。その場所の灰色に呑まれていた。
“それ”のされるがまま深い暗闇にゆっくり、ゆっくりとはまっていった。
死すべき、はてるべき運命だった。
だけれども、少年は
生き残った。
神の悪戯かはたまた運命の悪戯か。少年は更なる力を手に入れた。
神をすら凌駕できるかも知れないその力を。少年は身の周りの人の体を乗っ取る。自分の意のままに動く傀儡にならせた。
傷は、癒えるはずがない。
全てがむなしく馬鹿らしく、憑かれた時に、死ねなかった自らを悔いる。
そんな時に彼女がきた。彼女は少年を癒してくれた。
だから、少年は、親友を、生き返らせようと決意できた。
だが、皮肉なことに少年は気付いてしまう。彼女の存在、いや神の存在に。
そして……
彼女を、励ましてくれた彼女を。おのが目的のために手にかけた。
少し後悔はしている。だけど、進めた歩みを止める訳にはいかない。
専門家の女を一人手にかけたし、彼女の性格を利用して仲間割れを、彼が彼女を、霊を、怨念を恐れるよう一般人にまで手をかけた。
崖は近づく。男は闇雲に疾走る。とにかく逃れるために。
不意に腹が切り裂かれた。男は痛みがままに手を腹にやるが何が起きたかまではわからない。
ただ、濁った鉄の匂い、それのみがした。いつの間にか男の足は止まっていた。いつの間にか男は地面に倒れこんでいた。
朦朧とする意識の中、男の目の前に少女が、かつて男が手をかけた少女が立つ。
大鎌を持つ、死出の神が。
「鵺野、さん」
「四神か……」
鵺野は彼女に宿る存在であることを知り、存在に呼び掛けた。
「後生……だ。亜緒に会わせてくれ」
四神は整った顔を少ししかめる。だが、目を瞑り再び開いた時には柔和な顔に、鵺野のしる四神亜緒になっていた。
鵺野は苦痛にしかめた顔を緩める。
「亜緒か……なんでお前は大きくなっている」
「さあ?私にはわかりません」
「そう……か」
「ただ神様が私の体に宿っているならそのせいではないでしょうか?」
男は笑う。死を覚悟して狂ったように痛むお腹を押さえながら長い間笑い続けた。
そして不意にその哄笑を止める。
だが、長い間男の笑い声は暗い山林に残響した。
その名残が去った後、鵺野は亜緒に告げる。
「亜緒……ずいぶん大きくなったな」
「はい」
「……お前を島田に見せたかったよ」
「……はい」
「また……あっちで会おう。お前のパートナーとも……ども……な」
「…………」
少女は無言だった。その手に持った大鎌を振りかぶる。
そして、かつていなくなってしまった自分の兄のような。そんな感情を背負い続けながら接してきた男の背中にグサリ、と鎌をさす。
とても、嫌な感触がする。そのはずであった。突如大鎌の進行が阻まれる。
刃が人の左手の人差し指と中指で挟まれていた。
「ボンジュール。いや、外国語にかぶれるのは少しよくないかな」
「…………っ!」
「こんばんわ、死出の神」
脱色したように白い髪。血走った、赤い瞳。端整な顔をグニャリ、と歪めるようにして笑んでいる。
線の細い、外見年齢15才に満たない少年が死出の神と狼男との間に立っていた。
「何者だ。名を名乗れ」
「本名は確か柱 大吉、だったかな。個人的には大凶の方があっている気がするから、キョウ、って呼ばせているけれど」
「で、柱。これは何の真似だ?」
「何の真似だって?死出の神、それは人間たる僕達に言っているのかい?」
少年は歪んだ口元を更に醜く歪ませる。
「ここで放っておいたら、失うかもしれないからね。生物学的用語で言うと見通し行動。知能の初歩として考えられている行動さ」
言って一閃。四神の体を鋭い蹴りが襲う。左手から横腹を狙う蹴りに蹴りをぶつけ、鎌を引き戻し距離をとる。鎌を振りかぶり左足を前に右足を後ろにもっていき構える。
「ほう、面白い。世界の仕組みの象徴たる私達に刃向かおうというのか?」
少年に問うも答えはなく、懐に潜り込まれる。鎌の柄をつかい牽制。
左に避けられる。前のめりの体勢になるが、左足を軸にひいていた右足を使う。
その足に地球では考えられないような重力がかかる。
「象徴は象徴であるべきだ。あたかも、日本国で天皇陛下がそうでいらっしゃるように」
跳んでくる蹴りを台にした少年は頭の上を飛んでいた。空振りした足はすぐには引き戻せず、背後をとられる。
振り向き様に鎌を振るう。当たらない。
すでにそこに少年はいない。
「なっ……」
「ここだよ」
背後から声をかけられる。慌てて距離をとりながら構える。
唇を歪めた白髪の少年は狼男の側にいた。
「今日はここまでにしよう」
そう言って少年は狼男を肩に軽々と担ぐ。
「……逃がすと思うか?」
険しい声を出しながら四神は告げる。
少年はやれやれといった感じで首を振ると、左手で空間を薙いだ。
四神の視界が移していた景色が遠ざかっていく。臀部から後ろにあった大樹に磔られる。
「次があるかはわからないけど、覚えておいてね。……昔から僕達は神の力を越えることができるし、現に僕は超越していると言っても過言じゃない」
「……お前らは何をしようとしている」
「また会う機会があったら教えてあげるよ」
凄まじい程の何らかの力を全身に受けて動けない。四神は悔しそうに少年がどこかに立ち去っていくのを見送った。




