「もう一度、はじまりへ」
机の上に置いた懐中時計を、優斗はじっと見つめていた。
逆回転を続ける針は、薄い光の中でかすかに瞬いている。閉じても、何度開けても、その異様な動きを止めることはできなかった。
(……やっぱり、夢なんかじゃない)
兄や弟、母、和樹の声——全部、確かにそこにあった。
この十年、自分の中で色褪せかけていた記憶が、鮮明に蘇ってくる。
電話を切った後の部屋は、静まり返っていた。冷たい春の空気がカーテンの隙間から吹き込み、ページをめくりかけのノートがかすかに揺れている。
優斗はひとつ息をついて、時計の蓋を閉じ、そっとポケットに滑り込ませた。
椅子を引いて立ち上がると、クローゼットを開け、ハンガーからジャケットを取る。
鏡の前に立ち、髪を手ぐしで整える。あまり上手くいかないのはいつものことだ。
ふと、目の奥に見慣れた顔が映り、思わず息をのむ。
——十年前の、自分の顔だ。まだ深い影も、皺も刻まれていない。
ポケットに鍵とスマホを入れ、鞄を肩に掛ける。
扉の前に立ち、靴を履く。
硬いドアノブに手をかけると、ひんやりとした金属の感触が指先に伝わり、気持ちが少し引き締まった。
「……よし」
小さく呟き、ドアを開ける。
玄関の外は、柔らかな光に満ちていた。
街の匂い。朝の澄んだ空気。誰かの笑い声。自転車のベルの音。
全部が懐かしくて、胸の奥が熱くなる。
階段を下り、駅までの道を歩く。
道沿いの桜並木はもう葉桜になりかけていて、花びらが足元に散り積もっていた。
カラスの鳴き声に混じって、遠くで子どもたちの声が聞こえる。
住宅街を抜けると、商店街に出た。パン屋から漂う香ばしい匂いが鼻をくすぐり、思わず振り返りそうになる。
そのすべてが、ただの「風景」ではなく、過去に確かに感じた温度を持って胸に迫ってくる。
駅前のカフェのガラス越しに、和樹の姿が見えた。
携帯をいじりながら、ソファ席で脚を組み、コーヒーをすすっている。
優斗は深呼吸してから、ガラス戸を開けた。
「悪い、待たせた」
「おお、来た来た。待ちくたびれたわ。てかお前顔、青いぞ」
和樹が笑いながらカップを置く。
その軽口が、ずっと聞きたかった声のようで、優斗は不思議と安堵した。
「まあ……ちょっとな」
「おーおー、本当に大丈夫か?」
「大丈夫だよ」
「そうか? ま、いいや。今日ってさ、憲法論の講義だよな?」
名前が出てこない。
優斗は一瞬フリーズし、曖昧に笑う。
「……ああ、たぶん……」
「“たぶん”ってお前、しっかりしろよ。お前がノート取ってくれるから、俺サボれてんのにさ」
苦笑する和樹を見て、優斗は小さく笑い返した。
十年ぶりの親友の無邪気さが、心をほんの少し軽くしてくれる。
カフェを出て、大学までの道を並んで歩く。
和樹はずっと昨日のサッカーの試合の話をしていて、優斗は「そうだな」「そうだったか」と、曖昧に相槌を打った。
必死に頭の中で過去の出来事をなぞりながら、記憶の空白を埋める。
(今はまだ、違和感を悟られないようにするしかない……)
校門をくぐると、胸の奥にじわじわと熱が広がっていった。
芝生の匂い。講義棟のざわめき。坂道を駆け上がる自転車の音。
どれも、確かに自分が生きていた証だった。
「んじゃ、俺先に教室行くわ。腹も満たされたし」
和樹が手をひらひらと振り、階段を駆け上がっていく。
優斗は、少しだけ遅れて歩き出した。
廊下の向こうから、数人の女子が談笑しながら歩いてくるのが見えた。
視線がその一人に吸い寄せられ、足が動かなくなった。
——美咲。
遠目でもわかる、あの柔らかな雰囲気。
白いブラウスに、ベージュのカーディガン。
控えめに揺れる黒髪。
(……本当に……
彼女はこちらに気づかず、友人たちと笑いながら近づいてくる。
すれ違う刹那、ふわりと甘い香りが鼻をかすめた。
オレンジティーの香水。
優斗が、ずっと好きだった香り。
——あのときも、同じだった。
この廊下、このタイミング、この香り——
俺は、この瞬間に彼女に一目惚れしたんだ。
目の奥に、記憶の光景が広がる。
大学に入学して数週間が経った頃だった。
憲法論の講義。人で埋め尽くされた大教室の後ろの席で、優斗はいつものように退屈そうにノートを開いていた。
遅れて入ってきたひとりの女子が、優斗の隣の空席にそっと腰を下ろした。
そのとき、ふわりと香ったのが、オレンジティーの甘い匂いだった。
ちらりと視線を向けると、彼女は黒髪を耳にかけ、ノートを開いて講義を聞く準備をしていた。
白いブラウスに、ベージュのカーディガン。小さな耳元に、揺れる小さなピアス。
その横顔が、やけに綺麗で、思わず息を呑んだ。
(……きれいな人だな……)
ノートに目を落としながらも、胸がざわついていた。
次の週も、またその次の週も、彼女は決まって同じ席に座った。
ノートにきちんとメモを取り、静かに頷きながら講義を聴く姿が印象的だった。
ある日、優斗はプリントを床に落としてしまった。
すぐに、彼女がそれを拾い上げてくれる。
「これ……落ちましたよ」
その声が、意外なほど柔らかくて、優斗は思わず言葉を詰まらせた。
「……あ、ありがとう」
その日の講義の後、勇気を出して声をかけた。
「えっと……ノート、見せてもらってもいい?」
彼女は少し驚いた顔をしたあと、微笑んで差し出してくれた。
「はい、どうぞ」
それが、二人の会話の始まりだった。
講義の後、一緒に学食へ行くようになり、課題を図書館でやるようになった。
いつの間にか、彼女の隣に座るのが当たり前になっていた。
「なんか、君って几帳面だよな。ノートもきれいだし」
そう言うと、彼女は少し頬を赤らめて、
「……そうですか? 自分では気づかなくて」
と笑った。その笑顔に、胸がぎゅっと締め付けられるのを感じた。
夏が終わり、秋が深まった頃。
夕暮れの帰り道、並んで歩きながら、優斗は意を決して立ち止まった。
「高瀬さん……」
彼女が振り返る。
その黒髪が、夕日に透けて赤く染まる。
「……俺……ずっと、好きだった」
言葉にしてしまった瞬間、心臓が飛び出しそうだった。
彼女はしばらく黙ったまま、視線を逸らし、それから小さく頷いた。
「……私も、です」
その言葉が耳に届いたとき、優斗の胸に熱いものが込み上げた。
その日から二人は、自然に手を繋いで歩くようになった。
彼女が笑うたび、幸せだった。
彼女が泣くたび、守りたいと思った。
その全部が、かけがえのない記憶になっていた。
——そして、俺が全部、壊してしまった。
現実の廊下に戻ると、彼女はすでに目の前を通り過ぎ、遠ざかりつつあった。
その髪が揺れるたびに、微かに香りが残る。オレンジティーの甘い香り。
優斗は、ただ俯いて立ち尽くしていた。胸の奥が苦しくて、息が浅くなる。
目を合わせる勇気も、声をかける勇気も出なかった。
手を伸ばせば、またあの思い出が壊れてしまう気がして——。
「……おい、優斗?」
和樹の声がすぐ近くから聞こえた。
気づけば、横に来ていたらしい。腕組みをして、じっとこちらを見ている。
「なんか……お前、さっきから様子おかしいぞ?」
優斗はすぐに答えられなかった。
視線の先では、美咲の後ろ姿が、廊下の向こうに小さくなっていく。
胸の中で、言いようのない想いが渦を巻いていた。
——このまま彼女に近づかなければ、彼女を傷つけずに済む。
俺も、後悔しなくて済む。
けれど、あの幸せな時間も、笑顔も、すべてを失う。
「……お前、どうしたんだよ? さっきから変だぞ」
和樹が少し眉をひそめる。
その声が遠くに聞こえるような気がした。
美咲のことを思うと、胸が熱くなる。
あの笑顔、あの涙、そして最後の「ありがとう」という声。
もう二度と、彼女を泣かせたくない。
だけど、もしまた同じ過ちを繰り返すなら、彼女に近づくべきじゃない。
心の中に、二つの自分がいる。
一度傷つけた人間が、もう一度やり直す資格なんてあるのか。
でも、今なら変えられるかもしれない。
廊下の先で、彼女の後ろ姿が角を曲がって消えた。
香りだけが、まだ胸の中に残っている。
優斗は、深く息を吸い込み、ゆっくり吐いた。
「……和樹」
「お、おう?」
「……いや、なんでもない」
「なんだよ、気味悪ぃな。とにかく、早く来いよ。講義始まっちまうぞ」
和樹が軽く笑いながら先に行く。
優斗は一歩、廊下に足を踏み出した。
靴音がやけに大きく響く。
懐中時計がポケットの中で、かすかに冷たく震えた気がした。
(……もう一度だけ、やり直せるのなら)
視線を前に向ける。
その先に、美咲がいる未来があるのなら——
(今度は、守れるだろうか)
胸の奥で、まだ答えは出なかった。
けれど、もう何もせずに見送るのは、あまりにも悔しかった。
その一歩が、少しずつ決意に変わりつつあった。
——もう一度、はじまりへ。
講義室に入ると、和樹が後ろの席を取って手を振っていた。
優斗もその隣に腰を下ろす。
「なんかさ、お前、いつもと雰囲気違うぞ?」
「……そうか?」
「おう、なんかこう……真面目っつーか。いや、変に真剣な顔してんだよな」
「……そうかもな」
教壇の前では、教授が出席を取り始めていた。
周囲のざわめきが落ち着いていく中、優斗はノートを広げた。
(……この未来を、変えられるなら)
ペン先が紙の上を滑る音が、やけに大きく響く。
窓の外では、まだ花びらが風に舞っていた。
その一枚が、いつか彼女の手に届くように。
今度こそ、その手を離さずにいられるように——。
優斗は、ゆっくりと拳を握りしめた。
(もう一度、はじまりへ)
その言葉を胸の奥で繰り返しながら、彼は少しだけ顔を上げた。
その先にある未来を、今度こそ変えるために。
講義が終わると、教室の中は一気にざわめきに包まれた。椅子が引かれる音、友人同士の笑い声、廊下に流れ出る人波の足音。
優斗はゆっくりとノートを閉じ、ペンを筆箱にしまいながら深呼吸をした。
(……落ち着け。まだ焦るな)
視線を上げると、数列前の席で美咲が友人と笑い合っているのが見えた。肩越しに揺れる髪が、光を受けて淡く光っている。
その笑顔に、十年分の感情が一気に押し寄せそうになるのを必死に抑えた。
和樹が「昼どうする?」と声をかけてきたが、優斗は「先に行っててくれ」とだけ答えた。
この胸のざわめきを、少しだけ整理したかった。
教室を出ると、廊下には春の陽光が差し込んでいた。大きな窓から見える中庭では、数人の学生がベンチに腰掛けて談笑している。
遠くからはサークルの勧誘の声や、誰かが弾くギターの音が微かに聞こえる。
階段を下りて正面玄関へ向かう途中、ふいに背後から軽い足音が近づいてきた。
「……あの、すみません」
振り返ると、美咲が立っていた。少し息を切らせ、手に数枚のプリントを持っている。
「これ……さっき机の下に落ちてました。優斗さんのですよね?」
差し出されたのは、さっきの講義で配られた資料だった。
受け取る指先が、かすかに触れる。その瞬間、あの日と同じ温度が指先に蘇った。
「……ありがとう」
それだけ言うのが精一杯だった。
本当はもっと話したかったのに、言葉が喉の奥で絡まって出てこない。
美咲は軽く微笑んで、「それじゃ」とだけ言って友人のもとへ戻っていった。
その後ろ姿を目で追いながら、優斗は唇を噛み締めた。
(——やっぱり、変わらない。俺はまた、あの頃みたいに何もできないままだ)
外に出ると、風が強くなっていた。桜の花びらが舞い上がり、陽射しに溶けて消えていく。
その光景は、なぜか胸の奥をひどく切なくした。
午後の講義は、ほとんど頭に入らなかった。
教室のざわめきも、窓の外の青空も、すべてが遠くにあるように感じる。
ノートを取る手は機械的に動いていたが、意識はずっと別の場所にあった。
(……もし、あの頃の俺がもう少し素直だったら)
(もし、もっと彼女を信じていられたら)
(もし——)
条件のない「もし」が、何度も心をかすめる。
そのたびに、胸の奥の決意が少しずつ固まっていくのを感じた。
放課後、校舎を出ると夕日が低く傾き始めていた。
オレンジ色の光が芝生や建物を染め、影が長く伸びている。
その光景を眺めながら、優斗はポケットに手を入れ、懐中時計をそっと握りしめた。
冷たい金属の感触が、指先に確かな現実を教えてくれる。
この手の中に、やり直しの時間が確かにある——そう信じたかった。
遠くで笑い声が響く。
振り返ると、美咲が友人と並んで歩いているのが見えた。
その姿は、十年前の記憶と寸分違わなかった。
美咲が友人と並んで歩いていく姿を、優斗は目で追っていた。
その隣にいる三人の女子——見覚えがある。
いや、ただの既視感じゃない。胸の奥にざらりとした嫌な感触が蘇る。
(……あいつら……)
記憶の底で霞んでいた映像が、少しずつ形を取り始める。
美咲が大学で孤立し始めた頃、彼女の周囲にまとわりついていた連中。
笑顔の裏で、静かに彼女を追い詰めていった影。
今の美咲は、まだ何も知らずに笑っている。
その笑顔を壊す未来を、このまま黙って見過ごすわけにはいかなかった。
(……今度は、絶対に同じ轍は踏まない)
優斗はその三人の顔と名前を、改めて頭に刻み込む。
すぐに行動に移すわけにはいかない。下手に動けば、こちらの意図が悟られる。
まずは情報だ。
昼休み、和樹が食堂でカレーをかき込んでいる横で、優斗はさりげなく切り出した。
「なあ……あの、美咲と一緒にいる三人、名前わかるか?」
「三人? ああ、いつもつるんでるあのグループか」
和樹はスプーンをくわえたまま少し考える。
「えっとな……一人は谷口、もう一人は坂井、あと背の高いのが江藤だな」
谷口、坂井、江藤。
その音が、やけに生々しく耳に残った。
午後の講義の後、優斗は廊下で耳を澄ませながら人の噂を拾った。
講義棟の裏で、谷口と坂井が立ち話をしている。
——耳に引っかかったのは「黒縁メガネ」の単語だった。
(……黒縁メガネ……)
間違いない。美咲を奪ったあの男のことだ。
谷口の声が、わずかに弾んでいる。
「この前、図書館で見かけたんだよ、あの人。やっぱカッコいいよな」
「でもさぁ、美咲ちゃんと仲いいって聞いたけど?」
「……だからムカつくんだって」
そのやりとりを聞いた瞬間、胸の奥で何かがはじけた。
嫉妬——それが、未来で美咲を追い詰めた原因。
笑顔の裏に潜んでいた黒い感情が、確かにそこにあった。
(そういうことか……)
未来のいじめの種は、もうこの時点で芽吹いている。
このまま放っておけば、再び同じ悲劇を繰り返すだろう。
——だが、ただ潰すだけじゃ足りない。
根から絶たなければ、また別の形で彼女を傷つけるはずだ。
優斗は、静かに息を整えた。
まずは、この三人の関係性と動きを把握する。
そして、美咲と彼女たちとの距離を、無理のない形で変えていく。
(今度は……守る)
胸の奥で、熱いものが静かに広がっていくのを感じた。
それは、自分の決意が確かに形になった証のようだった。
翌日、優斗は意識的に三人組の行動を観察した。
講義中の席順、昼休みの居場所、休み時間の会話……些細なことでも見逃さない。
谷口は人当たりがよく、周囲にはいつも誰かがいるが、発言には時折棘が混じる。
坂井は控えめに見えるが、谷口に同調するように笑い、同じ調子で言葉を添える。
江藤は長身で、感情の読みにくい顔をしており、必要なときだけ短く口を挟む。
(……表面上は仲良くやってる。けど、谷口が中心だな)
昼休み、和樹と別れたあと、中庭のベンチから彼女たちの様子を見ていた。
谷口が黒縁メガネの彼——未来の恋敵——の話を始めると、坂井がさっと視線を美咲に送った。
美咲は笑って聞き流していたが、その笑みはほんの僅かに固い。
優斗はそれを見逃さなかった。
(まだ表面化してない……でも、もう始まってる)
その日の夕方、図書館で美咲が一人で席に着いているのを見つけた。
谷口たちの姿はない。
優斗は、ためらいながらも近づく。
「……隣、いい?」
美咲は少し驚いたように顔を上げ、笑みを浮かべて頷いた。
「どうぞ」
座ってすぐ、優斗はあえて世間話を振らなかった。
代わりに、さりげなく視線を周囲に巡らせる。
谷口たちがこの場に来ないことを確認しながら、低い声で切り出した。
「最近……あの三人とよく一緒にいるよな」
美咲は少し目を瞬かせた。
「うん……同じ講義が多いから、自然とそうなって」
「……そうか」
声色は変えなかったが、胸の中では警鐘が鳴っていた。
それ以上は何も言わず、優斗は課題のプリントに視線を落とす。
けれど、その横顔の奥では、計画が形を成し始めていた。
——彼女たちの外堀を埋める。
美咲が彼女たちに依存しなくても済む環境を作る。
そのためには、美咲と過ごす時間を増やし、自然に距離を近づけるしかない。
閉館時間が近づき、二人は一緒に図書館を出た。
夕暮れの光が校舎を染める中、優斗はふと空を仰ぐ。
時が一瞬、ゆっくり流れたような気がした。
(……動き出すのは、今だ)
心の中でそう呟いたとき、前方の歩道に谷口たちの姿が見えた。
笑いながらこちらを一瞥し、何事もなかったかのように通り過ぎていく。
その笑顔が、これから先の嵐を告げているようで、背筋が冷たくなった。
翌日の午後、優斗は意図的に講義後の学生の動きを観察していた。
谷口たち三人組は、笑いながら学食へ向かっている。
その先に——見覚えのある背中があった。
黒縁のメガネ、長身、整った輪郭。
未来で美咲を奪い、そして——間接的に彼女を孤立させるきっかけになった男。
佐伯慎司。
彼は図書館の入口で立ち止まり、谷口と軽く言葉を交わしたあと、中へ消えていった。
谷口の目がわずかに輝いたように見えたのは、気のせいではない。
(……やっぱり、あいつか)
すぐに追うのはやめた。
今はまだ、自分が彼らに関心を持っていることを悟らせるべきじゃない。
その夜、優斗は学食で和樹と夕食を取っていた。
他愛のない会話の合間に、さりげなく切り出す。
「そういやさ……あの黒縁の男、名前なんだっけ?」
「黒縁? ああ、佐伯慎司だろ。経済学部の三年。女子からめっちゃ人気あるやつ」
やはり、間違いなかった。
和樹はさらに、どうでもよさそうに付け加える。
「谷口、あの人のファンだぜ。サークルの飲み会で見かけたらしい」
心臓が一瞬強く脈打つ。
未来での出来事が脳裏をよぎる——谷口が、佐伯と美咲が親しげに話す姿を見て表情を曇らせたあの夜。
そこから歯車は狂い始めた。
(……発端はそこか)
翌日、優斗は別のアプローチを試みた。
佐伯と同じゼミに所属しているらしい上級生に、あくまで軽い世間話の体裁で話を聞く。
「佐伯さん? 真面目だし、後輩の面倒見もいいよ。……でも、女関係はわりと噂多いね」
思わず眉をひそめる。
表向きの好青年像とは裏腹に、彼にはいくつかの火種があるらしい。
その中のひとつが——未来で美咲を巻き込んだ。
図書館の窓越しに、佐伯と谷口たち三人組が笑いながら話しているのが見えた。
美咲は少し離れた席で本を読んでいる。
彼女はまだ、この不穏な流れに気づいていない。
(……どうやって、あの輪の外に出すかだ)
谷口たちを直接突くのはまだ早い。
まずは、美咲の側に別の人間関係を築かせる。
それが、彼女を守るための防波堤になる。
その輪の候補は、すでに頭の中にあった。
和樹と、その彼女の結衣——二人は同じサークル仲間で、気さくで裏表がない。
周囲からも信頼されていて、悪意のない冗談と穏やかな空気で人を包み込む。
未来では、美咲と彼らの関わりはほとんどなかった。
講義やサークルで顔を合わせても、軽く挨拶を交わす程度。
それだけの距離感が、彼女を谷口たちの輪に近づけてしまったのかもしれない。
今度は違う。
授業や昼休みに自然に顔を合わせる場を作り、少しずつ会話のきっかけを仕込む。
「……結衣なら、美咲の緊張をきっと解きほぐしてくれる。あの笑顔を、もっと自然に引き出してくれるはずだ。」
「谷口たちの輪に差し伸べられた手よりも温かい、人の繋がりを——美咲の周りに広げていければ。」
優斗は静かに拳を握り、次の一手を思い描いた。
胸の奥で、何かが確かに鳴動する。
それは、自分自身への合図のようだった——動くのは、今だ。
最後までお読み頂きありがとうございます!
感想等是非是非お待ちしてます。
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