「運命の裂け目」
目が覚めたのは、夜が完全に明けきる少し前だった。
カーテンの隙間から淡く差し込む光が、まだ青みを帯びている。
街全体が眠りの余韻を残したまま、ぴんと張りつめた空気のなかに、静けさだけが息づいていた。
優斗はゆっくりと身を起こし、しばらく布団の上でぼんやりとしていた。
どこかで鳥の声が聞こえる。人の気配のない朝は、時間が止まっているように感じられる。
冷えた床に足をつけ、キッチンに向かう。
冷蔵庫を開けると、田舎から持ち帰ったタッパーがぎっしりと並んでいた。
母が「ちゃんと食べなさい」と手渡してくれた、常備菜の数々。
ご飯をよそい、湯を沸かし、味噌汁を用意する。
筑前煮、ひじき、塩鮭。電子レンジの音だけが、小さく部屋の中に響いていた。
食卓につくと、テレビをつけた。
画面では朝のニュース番組が、静かに一日の始まりを告げていた。
「本日、都心の天気は晴れ。午後には少し風が強まりそうです。
花粉の飛散量はやや多め。お出かけの方は、マスクをお忘れなく。
続いて、交通情報です──」
女性キャスターの穏やかな声が、朝の空気に溶け込む。
画面には、早朝の都内のライブ映像。街が目を覚まし始めている。
新聞の見出しには「雇用統計回復」「大学入試シーズン本格化」などが並び、
どこか別世界の話のように感じられた。
味噌汁の湯気が、ゆるやかに立ち上る。
それを見ているだけで、不思議と落ち着いた。
何も特別なことは起きていない。けれど、この静けさには、言葉にならない確かな何かがある。
食器を洗い終えるころ、窓の外がゆっくりと明るみ始めていた。
制服に着替え、鏡の前で襟元を整える。
目の奥に、ほんの少しだけ光が戻ってきている気がした。
部屋を出た瞬間、軽くクラクションの音が響く。
いつもの黒い車。運転席には兄・直樹の姿があった。
「今日はいつもより早いな」
直樹が運転席から振り返る。
優斗は助手席に乗り込みながら、短く答えた。
「目が覚めた。なんとなく」
「目覚ましじゃなくて?」
「自然に」
後部座席では、弟の希空がイヤホンを片耳につけたまま、スマホをいじっていた。
「どうせまた、ゲームで夜更かしして遅刻すると思ったんだけどな〜」と希空が茶化すように言う。
「昨日はちゃんと寝たってば」と優斗が応じる。
「ほどほどにな」と直樹が軽く釘を刺す。
希空がわざとらしくため息をつき、車内にはささやかな笑いが広がった。
エンジン音が静かに響き、車は住宅街を抜けて大通りへと出た。
朝の交通量はまだまばらで、光だけが窓の外をまっすぐに滑っていく。
工事現場に着くと、すでに作業員たちが忙しなく動いていた。
白線で囲まれた道路の一角には、交通規制のパイロンが並べられている。
工事車両が何台も列をなして待機しており、誘導を行う警備員たちが交代で持ち場につく。
優斗はヘルメットのあご紐を締め、ベストの上から反射ベルトを装着する。
インカムからは、淡々とした現場指示の声が流れていた。
「じゃ、今日も事故んなよ。くれぐれも」
直樹がヘルメットのつばを軽く上げて声をかけてくる。
「わかってるよ」
「わかってないやつが一番危ないんだって」
「だろうな……気をつける」
パイロンの間を歩きながら、優斗は自分の立ち位置へ向かう。
道路の中央、少しだけ視界の開けた場所に立ち、手旗を構える。
今日も、変わらない一日が始まる――
けれど、胸の奥には、昨日までとは違う何かが確かに残っていた。
朝の喧騒が一段落し、現場にはわずかに落ち着きが戻ってきていた。
始業直後には忙しなく動き回っていた作業員たちも、今はそれぞれの持ち場で黙々と手を動かしている。
通りを行き交う車の数も、ピーク時に比べればだいぶ少ない。
アスファルトに降り注ぐ陽光が、ほんの少しだけ角度を変え、空気の温度もじわりと上がっている。
そんな穏やかな時間の隙間に、不意に、記憶の断片が胸をかすめた。
静かな時間は、時に残酷だ。
人の波が途切れ、ただ立っているだけのこの仕事は、思考の隙間に過去を滑り込ませてくる。
あの顔が、また浮かぶ。
高瀬美咲――守りたかった人。
けれど、結果的に一番傷つけた人。
人生において「後悔」というものは、選択を重ねるたびに幾度となく訪れる。
分岐点に立ったとき、その壁を乗り越えようとする者もいれば、立ち止まり、動けなくなる者もいる。
なかには、後悔が深すぎて、一生立ち直れないことだってある。
……俺は、たぶん、その後者だ。
振り返れば、いつだってあの“いくつかの選択”が胸に引っかかっていた。
どれも些細なことのようでいて、簡単には消えてくれなかった。
なかでも、彼女のことにまつわる後悔だけは、どんなに時間が経っても、頭のどこかにこびりついたままだ。
美咲と出会い平穏な大学生活を送れていると思っていたあのとき、美咲が階段下で女たちに囲まれていたのを見た。
その時、血が逆流するような怒りを覚えたもののその場では動く事ができなかった。
笑いながら彼女をなじる三人。
美咲は俯いたまま、声ひとつ発さず立ち尽くしていた。
優斗はその晩、怒りのままに彼女たちを呼び出した。
「やめろ」と言った。
「二度と近づくな」と言った。
自分では、冷静に伝えたつもりだった。
でもそれは、ただの一方的な“正しさ”だった。
数日後、優斗はそのことを美咲に話した。
彼女はしばらく黙っていた。そして、静かに微笑んで言った。
「ありがとう。でも……そんな事してほしくなかった。」
その瞬間、優斗の中で何かが止まった。
「私……自分で何とかできるって思ってたの。……もう少しだけ、自分の力で……って」
そう言って、彼女は言葉を継げずに、うつむいた。
頬に、涙が一粒こぼれるのが見えた。
優斗は、何も言えなかった。
(俺……何も考えてなかった)
たとえば、あの女たちが逆上して、いじめがもっと酷くなる可能性。
たとえば、美咲が“守られた”ことで、余計に孤立してしまうこと。
そんなこと、ひとつも想像しなかった。
彼女が自分で立とうとしていたこと。
自分で痛みに耐えていたこと。
その努力を、優斗はまるごと奪ってしまった。
(俺がやったのは、ただの自己満足だった)
正義のつもりだった。
でも実際は、彼女の人生に踏み込んで、足場を崩していた。
そして次に、胸の奥に刺さるのは——大学時代、ある飲み会の夜の記憶だ。
あの場には、恋敵だった男がいた。
黒縁メガネをかけた、整った顔立ちの優等生タイプ。
……イケメンメガネ。あだ名は、自分で勝手につけた。
正直、名前を覚えるのも嫌なくらい、今でも思い出すだけで気分が沈む相手だ。
その彼が、飲み会のあと、美咲に「二人きりで話したいことがある」と言ったらしい。
そして彼女は、何の警戒もなく、あっさりとうなずいたらしい。
その話を聞いた瞬間、胸の奥がざわついた。
頭では理解しようとしても、気持ちが追いつかなかった。
何より、自分の中に芽生えた小さな不安や嫉妬を、どう扱えばいいのかもわからなかった。
“なんで、俺がいるのに”
“どうして、俺を選んでくれないんだ”
そんな思いが、ぐるぐると頭の中をかき回していた。
──あの夜、美咲は迷わず、彼のもとへ行った。
ただ話を聞きに行くだけ。そう、言っていた。
それが彼女なりの誠意だったのかもしれない。
でも、優斗はそれを信じきることができなかった。
自分だけを見ていてほしい。
自分だけを選んでほしい
その感情を押し殺して優斗は言った。
「……終わったら、連絡して」
「心配しないで。ただ話を聞くだけだから」
彼女の言葉を、信じたかった。
でも――夜が更けても、スマホは沈黙したままだった。
LINEも、通話も、何の反応もなかった。
(なにしてるんだ……どうして連絡くれないんだよ)
心配で押しつぶされそうになった。
何度も時計を見て、眠れずにベッドに横たわる。
スマホを握ったまま、朝が来た。
「……一晩中、帰してくれなかった。」
後日、彼女から聞かされたその言葉に、優斗の中で何かが崩れた。
(俺の存在って……なんだったんだ)
彼女を信じたい気持ちと、裏切られたような思いと、嫉妬と。
それらが混ざり合って、もう自分でもどうしたいのか分からなくなっていた。
ついそのイケメンメガネ男子の連絡先を調べて、美咲は俺の彼女で付き合っているから邪魔するなと電話をしてしまった。
それを後日彼女に伝えた。
「なんでそんな勝手なことするの、そんな事しても嬉しくないよ」
まさか自分が責められるなんて思ってもいなかった。
その日から口を開けば、彼女に対して責めるような言葉しか出てこなくなった。
彼女の笑顔がぎこちなくなるたびに、また自分も責めた。
でも止められなかった。
彼女の事を考えると考えるよりも先に動いてしまっていた。
気づけば、美咲は優斗のデートの誘いに、何かと理由をつけて断るようになっていた。
最初はたまたまだと思っていたが、それが何ヶ月も続いた。
この数ヶ月間はチャットのメッセージを送り合うだけで口約束ばかりが増えていった。
画面の奥にいる彼女では何を想ってどのような表情をしているのか見えない。
次第に、彼女が何を考えているのか分からなくなっていった。
その頃、優斗は投資の失敗で借金を抱え、何もかもがうまくいかなくなり始めていた。
すれ違いが増えるたびに、自分の惨めさばかりが浮き彫りになっていく気がして、胸の奥がどうしようもなくざらついた。
彼女の沈黙が、自分の価値を否定しているように感じて――耐えられなかった。
優斗の心は壊れかけていた。
自分を見失いこれ以上進めば自分が自分じゃなくなる気がした。
美咲に会った最後の夜から、数ヶ月がたった頃。
ただ過ぎていくだけの毎日の中で、ほんの一瞬、心の隙間に魔が差した。
「……もう、連絡は取らない」
自分からその言葉を口にしていた。
言った瞬間、心が凍ったような感覚があった。
なのに、そのまま引き返せなかった。
プライドも、意地も、諦めも、全部がごちゃまぜになっていた。
いっそ、彼女への想いごと、すべての感情が消えてしまえばいい──
そんなことを、どこかで神様に祈っていた。
そうでもしなければ、心が砕けてしまいそうだった。
言葉にさえできない苦しみが、叫びとなって心の奥で何度も何度もこだまする。
届かない願いと、止まらない痛み。
そのたびに、自分という存在が少しずつ崩れていく気がした。
彼女は、最後まで責めなかった。
「そっか、今までありがとう」
そのたった一文が、ふたりの関係に静かに終止符を打った。
(なにやってんだよ、俺)
彼女の優しさが、いちばん苦しい。
あのとき、怒ってくれていればよかった。
責めてくれたらよかった。
自分勝手だったと、はっきり言ってくれたら。
けれど、彼女は最後まで優しかった。感情を見せず、静かに距離を取っていった。
その優しさに、甘えてしまった自分が情けない。
何も変えようとせず、ただ絶望に身を任せていた。
あの頃の自分を、今もまだ、許せずにいる。
ぼんやりとした意識のなか、耳元で「ザッ」と無線が鳴った。
「積荷車、誘導ライン逸れてます。確認を——」
咄嗟に、優斗は規制ラインの内側に視線を走らせた。
そこには、片側車線を横切ろうとした大型車が、工事用バリケードを越えて入り込んできていた。赤い警告灯が回る中、まるでこちらの存在に気づいていないかのように、その車両はゆっくりと、だが確実に接近してくる。
「……嘘だろ」
優斗は本能的に走り出した。すぐ脇に見えた作業用資材置き場。そこへ逃げ込めば、衝突は避けられる——そう判断しての行動だった。
しかし、その瞬間。
大型車が急ブレーキをかけ、車体がねじれるようにハンドルを切った。後部に積まれていた鉄パイプの束が、固定の甘さから荷崩れを起こし、なだれのように優斗の方へ滑り落ちた。
「っ、うわっ——!」
優斗は転がるようにして尻もちをついた。
目の前で唸るように落下してくる鉄の束。その圧迫感と轟音が、逃げ場のない現実を突きつける。
反射的に両手を突き出して、顔と胸元をかばった。
次の瞬間、全身が強烈な衝撃で宙に浮いた。
——ガンッ!!
鉄に弾き飛ばされ、優斗の身体は地面に叩きつけられた。背中を打ち、空気が肺から漏れ、視界が一気に白くなった。
動けない。声も出せない。
あお向けに倒れたその横で、制服のポケットから何かが滑り落ちた。
それは、あの懐中時計だった。傷だらけの金属の蓋が自然に開き、揺れる振り子が露出したまま止まっている。中に、幼い頃に見た祖父の顔が滲む。優しかったその表情は、なぜか遠く、手が届かない。
その次に浮かんだのは、兄・直樹の険しい顔、弟・希空の笑い声。どれも、ありふれた日常の中にあった、かけがえのない欠片だった。
そして最後に——美咲の横顔が、ふっと浮かび上がった。
(……美咲……)
かすかに唇が動く。誰にも届かない、小さな囁きだった。
それだけで、胸の奥が軋む。
言葉にはならなかったけれど、胸の内には伝えきれなかった想いが溢れていた。
いくつもの「もしも」が、押し寄せる波のように心を打つ。
ただ、もう一度だけ、彼女の瞳を、真正面から見てみたかった。
そんな祈りのような願いを、意識の奥でそっとつぶやく。
彼女を忘れたくない――その思いだけが、最後まで自分を縛っていた。
「——優斗ッ!!」
遠くから走ってくる足音。
希空の声だ。歪んだ耳鳴りの中でも、その叫びだけははっきりと届いた。
「兄貴! 兄貴ぃぃっ!」
重なるように直樹の怒鳴り声。
「救急車! 誰か、すぐ呼べッ!!」
目はもう開けられなかったが、近づいてくる気配、2人の動揺と焦りが伝わってくる。
感覚が、すこしずつ、ひとつずつ、遠のいていく。
痛みも、声も、重さも……全てが静かに、そして確実に消えていった。
意識の最後、閉じていたまぶたの裏で。
懐中時計の振り子が、カチ、カチ、と動き始めた。
ゆっくりと。静かに。
最初はひとつ、ふたつ、時間を巻き戻すように跳ねるだけだったその針は、気づけば目にも留まらぬ速さでクルクルと反時計回りに回転し始めていた。
針の軌道が残像のように尾を引き、光の輪が時計の中に浮かび上がる。
その瞬間、優斗の全身をひんやりとした風が通り抜けた。
まるで何かが空間ごと剥がれ、切り取られていくような奇妙な浮遊感。
痛みも、音も、世界から遠ざかっていく。
ただひとつ、懐中時計だけが――静かに、確かに、“時間を逆に刻んで”いた。
——時間が、動き出す。
耳鳴りのような静けさの中で、ゆっくりとまぶたが開く。
視界の端が霞んでいる。天井が……見慣れない。
いや、どこかで見たことがある気もする。けれど確かじゃない。
白い天井に吊るされた扇風機。くすんだ蛍光灯。窓から差し込む光が、レースのカーテン越しに柔らかく揺れている。
(……ここは……?)
身体を横たえていたソファの感触。
微かに残る合皮の匂い。
懐かしさのようなものが胸に引っかかる。
耳を澄ませば、遠くで鳥のさえずりと、街の喧騒とは違う穏やかな空気が混ざった音が微かに聞こえた。
重たい身体を起こし、部屋をゆっくりと見渡す。
動くたびに関節がぎこちなく、思うように動かない自分に違和感を覚えた。
机の上には、数冊の就職活動のパンフレット。
そして、ペットボトルの午後の紅茶。
薄く結露が浮かんでいる。
カレンダーが壁に掛かっている。ゆらりと風に揺れて、そこには――
**「2021年4月」**の文字。
(……え?)
心臓が、ひとつ跳ねたように脈を打つ。
まるで呼吸がズレたように、世界が妙に薄く感じる。まるで何かの幻影の中にいるような、掴みどころのない感覚。
手元にあるスマホに目をやり、スリープを解除すると、画面には見慣れたホーム画面が表示された。だが、そこに映った日付と時間が、彼をさらに深く混乱させた。
「2021年4月10日(月) 07:56」
(そんな……)
理解が追いつかない。頭の中がぐるぐると回転し、言葉にできない不安が胸の内を支配する。
さっきまで――あの現場で、車が突っ込んできて、鉄パイプが崩れて……。間違いなく、死を覚悟するような一瞬だった。意識が暗闇に引きずり込まれたはずなのに。
けれど、身体には傷一つなく、息も正常にできている。どこも痛くない。夢にしては、あまりに現実的すぎる。
まるで時間が、何かの拍子に戻ってしまったかのような感覚。これが現実だとしても、納得ができなかった。
目線を落とした拍子に、ズボンのポケットに違和感を覚える。
指を差し入れて確かめると、掌にすっぽり収まる冷たい金属の感触。取り出してみると、それは――見覚えのある、古びた懐中時計だった。
確かにこれは、以前おじいちゃんの部屋からこっそり持ち出したものだ。
だが、今の自分には、こんな時計を持っている記憶も、理由もない。
過去の自分が持っているはずがないことだけは、はっきりとしていた。
(……おかしい。絶対に、おかしい……)
喉の奥がひりつき、呼吸が浅くなる。目の前に広がる現実が、急に薄紙のように剥がれそうで、足元が揺れる。
思考が千々に乱れる中、カーテンの隙間から春の光が差し込む。
(……これが現実だというのなら、俺は今――)
戸惑いと恐怖、そして小さな希望が胸の奥でせめぎ合う。
まだ、美咲に出会っていない春――
胸の奥が、じわりと焼けつくようにざわめく。目の前の現実が、ただの現実じゃない気がしてならなかった。
でも、確信はない。
ただ一つだけ、頭の奥にしがみついて離れないのは、鉄パイプに押し潰される寸前に、微かに呼んだ「美咲」の名だった。
ただ一つだけ、頭の奥にしがみついて離れないのは、鉄パイプに押し潰される寸前に、微かに呼んだ「美咲」の名だった。
……でも、あの光景が現実だったとすれば、なぜ今、こうして生きている?
不安が胸を締めつける。目の前にある光景がまるで夢のように浮いて見える。けれど、肌に触れる空気の冷たさも、指先に触れる懐中時計の重みも、すべてがやけに鮮明だった。
――何がどうなってるんだ。
優斗は、深く息を吸い込んで、ゆっくりと立ち上がった。部屋を見渡すと、そこに広がっていたのは確かに見覚えのある「昔の自分の部屋」だった。
大学時代に一人暮らししていたアパート。剥がれかけた壁紙、古びたIHコンロ、プリントが雑に貼られた冷蔵庫。どれも懐かしく、そして遠い記憶の中にあるものだった。
視線を移した先、机の上に置かれたスマホのロック画面には、やはり「2021年4月10日」の文字。
「俺、今……大学生ってことか……?」
呟いた声が、部屋の静けさに吸い込まれていく。確かにその頃、自分は大学の講義にもまともに出ず、就活のパンフレットだけが積み上がる部屋にいた。未来のことに漠然とした不安を抱えながら、それでもまだ、彼女とも出会っていない“何者でもなかった自分”。
優斗は、スマホを手に取り、震える指で連絡帳を開いた。
心臓の鼓動が速まる。番号を押すだけなのに、どうしてこんなに怖いんだろう――そう思いながら、まずは兄・直樹の名前をタップした。
数コールのあと、電話がつながる。
「もしもし、どうした? 珍しいな、朝から……」
懐かしい声が耳に届く。直樹の声だ。今よりも少し若く、どこか軽やかで余裕のある響き。
それを聞いた瞬間、胸の奥が締めつけられた。
(……本当に、戻ってるんだ)
優斗は言葉を失い、一瞬、無言になった。
「もしもーし? 聞こえてるか?」
「……いや、ちょっと確認したいことがあって……」
「確認? なんかあったのか?」
「いや……なんかあったわけじゃなくて……ただ、今ちょっと複雑な状況っていうか……」
「複雑? 朝から悩み相談は聞いてやらんぞ」
冗談交じりの直樹の声が、電話越しに笑う。
その明るさに、少しだけ胸のざわつきが和らいだ……と思ったそのとき、画面にキャッチの表示が入った。
「悪い、後でかけ直す」
「お、おい、なんだよ――」
直樹の言葉を途中で切って、優斗はもう一つの着信に応答する。
画面には「和樹」の名前。大学の友人だ。
「もしもし〜、もう着くか? まさかまだ家とか言わないよな〜」
「……あ、あ〜、悪い。まだ家にいる……」
「ああ? 冗談だろ〜。俺、待つの嫌いだから先に行くぞ? ったく……」
少し笑いながらも呆れた声の和樹に、優斗は咄嗟に声をかけた。
「なあ、和樹。ちょっと聞いてもいいか?」
「ん? 何だよ、今さら何か忘れ物か?」
「……俺ってさ、今……大学生だよな?」
一瞬の沈黙のあと、電話越しに吹き出すような笑いが返ってくる。
「はあ? 何言ってんだお前〜。大学生に決まってるだろ。わけわかんねぇこと言うなよ」
「まさか、今日遅刻した理由に“記憶喪失”とか言い出すつもりじゃねぇよな?」
「……ああ」
「まじかよ、アホか。……いいから早く支度しろ。今日は大学行く前に飯食ってくって約束だっただろ? 俺は腹が減ってるんだよ」
「……ああ、わかった。すぐ行くよ」
通話を切ったあと、優斗はスマホを見つめたまま動けなかった。
心臓の鼓動がまだ早いままだ。けれど、確かに感じていた。これは夢なんかじゃない。現実だ。
“今の自分は、まだ大学生で、美咲に出会う前の時間を生きている。”
動揺は隠しきれないまま、次に弟・希空の番号を確認し、最後に「母さん」の名前を見つけて、そっと画面を閉じた。
これ以上、声を聞いてしまえば、きっと涙がこぼれてしまう気がした。
確認すればするほど、突きつけられる。
すべては現実で、確かに、時間は巻き戻っているのだと
――じゃあ、これから先の未来も、あの破滅も、まだ何も始まっていないってことか?
そんな思いが、心の奥に静かに広がっていく。まるで、濡れた布のように重く、けれどどこかで希望の灯のように。
(……まだ、間に合うのか?)
その答えは、まだわからない。
けれど、確かに時間は動き始めていた。
……いや、“動き始めていた”のではない。
むしろ、“動くべくして動いた”――そんな確かな感覚が、胸の奥でじんわりと膨らんでいく。
ふと、耳に微かな音が届いた――カチッ、カチッと、小さな機械音。
優斗は机の上に置いていた懐中時計に目をやった。
(……まさか……)
おそるおそる手を伸ばし、銀の蓋に指をかける。
カチャッ。
柔らかな金属音とともに、蓋が開いた。
その中では、秒針が静かに、だが確かに――反時計回りに回っていた。
思考が止まる。
この時計は壊れていて、動く気配すらなかったはずだ。
そもそも、この時代の自分が持っていること自体、おかしい。
だが今、その秒針はまるで時を巻き戻すかのように、静かに過去へと針を進めていた。
(……これが、すべての始まりだったのか……?)
まだ、何も確かではない。
けれど――奇跡のような不条理の中に、彼は確かに「意味」を感じ始めていた。
もう一度やり直せるのかもしれない。
あの後悔も、涙も、失ったものすべてを。
最後までご拝読頂きありがとうございます!
不定期の更新ではありますが是非最後までオレンジティーの涙をお楽しみください。
感想、コメント等お待ちしております( ・᷄ ᴗ・᷅ )ゝ